Archive for the ‘旅行’ Category
セピア色のネパール(15): カトマンズ盆地の本屋さん
カトマンズ盆地には,新旧様々な文化・文明が混在していて,興味深かった。そうしたものの一つが,新たな情報・知識や教育への予想外の関心の高さ。
訪ネ前に読んだガイドブックでは,1980年代頃のネパールの識字率は20%程度であったので,ネパールには本屋さんや学校など,あまりないに違いないと思い込んでいた。(識字率の定義は広狭様々。1980年代ネパールでは,おそらく「自分の名前の読み書き可能以上」であったのだろう。とすれば,実質的な読書可能人口は識字率よりも低いことになる。)
ところが,1985年春,カトマンズに着き,街に出てみると,あちこちに新聞・雑誌・暦などを並べた露店やスタンドがあるばかりか,学校や官庁の近くには教科書や専門書を相当数揃えた本屋さんさえ,いくつか見られた。
もちろん,カトマンズ盆地は観光地であったので,旅行者向けの店が多いのは当然だが,そうした店であっても,絵ハガキやガイドブックだけでなく,多かれ少なかれカタそうな本や教科書も置いているところが少なくなかった。
置いているということは,それなりに売れるということ。正直,これにはいささか驚き,また感心もした。むろん,観光ガイドをパラパラ見ただけで来てしまったのだから,当然といえばそれまでのこと,ではあったのだが・・・・。
*下記写真は1990年代以降のもの。撮影年は多少前後するかもしれません。









谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(14): バクタプルはトロリーバスで
バクタプルへは1985年,トロリーバスで行った。乗車は,たしかマイティガル付近。幸い車内には入れたが,例の如くオンボロ,ギュウギュウ詰め。降りたのは,バクタプル旧市街の小川の向かい側で,たぶんスルヤビナヤク。
トロリーバスを降りると,一面の菜の花畑の向こうに,バクタプルの小じんまりしたレンガ造りの街が一望できた。まるで,おとぎの国。
トロリーバスは,古都そのもののバクタプルはいうまでもなく,まだ古都の面影を色濃く残していたカトマンズにも,よく似合う乗り物であった。
が,残念なことに,中国援助で1975年に導入されたトロリーバスは,適切な維持管理が出来ず,2009年に全廃されてしまった。




もともとカトマンズ盆地は,それほど広くないうえに,歴史的に貴重な文化財や街並みが多く残されており,人びとの移動手段としてはトロリーバスや路面電車の方が適していた。
ところが,盆地の古都・京都が,地形も文化も考慮せず,市街に張り巡らされていた路面電車を全廃してしまったように(私鉄・京福電鉄だけが短区間とはいえ健気に孤高の孤塁を守っている),ネパールもトロリーバスを廃止,道路を新設・拡張し,車社会へと驀進することになった。その結果,盆地はバイクや車であふれかえり,排気ガスがよどむと,氷雪の霊峰ヒマラヤは霞み,街の散策にはマスクさえ必要になってきた。
このような車社会化のカトマンズや京都と対照的なのが,欧州の古都。多くが,路面電車やトロリーバスを,必要な改良・改革は大胆に取り入れつつも,なお運行し続けている。その結果,無機質な「近現代的」車道の拡張・新設は抑制できるので,欧州の古都の多くは今なお伝統的雰囲気を保ち,より文化的にして人間的である。(参照:欧州/ウィーン)




カトマンズ,京都などの古都が,街の非人間化をもたらすバイクや車を規制し,路面電車・トロリーバスなど,より人間的にして文化的な乗り物の導入へと向かうことを願っている。
【参照】(2023/02/25追加)
「このままの形で維持していくことは非常に難しい…. そんな厳しい路線をJRから引き継ぎ、黒字化させた例がある。富山市の富山港線だ。地元主体でLRT化し、利用者数を1.5倍超にまで伸ばした。….改革を主導した森雅志・前富山市長に聞いた。」河合達郎「廃止に向かうローカル線を黒字転換」JBpress,2023.2.25
【参照2】(2023/02/27追加)
Sushila Budathoki, Why is the air in Bhaktapur so bad? Brick kilns, heavy highway traffic and prevailing winds make air quality the dirtiest in Kathmandu Valley, Nepali Times, February 24, 2023
【参照3】(2023/03/07追加) Trolleybus on the Kathmandu-Bhaktapur road
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(13): しがみつき乗車の懐かしさ
ポカラなど,遠くへは乗合バスで行った。これはこれで,また忘れがたい強烈な体験であった。
1985年春,ポカラ行き長距離バスは,スンダラのダルハラ塔横から,早朝に出ていた。チケットは前日にあらかじめ買い,当日は,かなり早めにバス乗場に行った。
ところが,乗場にはすでに多くの客が来ていて,バスが来ると一斉に駆け寄り,われ先にと乗り込み,あっという間に車内はギュウギュウ詰めの超満員となってしまった。あれあれ・・・・,と呆然となって眺めていると,あぶれた客が次々とバスの屋根に登り始めた。これを見て,私も「まぁ,仕方ない」と観念し,バスの屋根によじ登って,荷物止めパイプにしがみつき,ポカラに向かうことにした。
このような屋根に乗客を乗せたバスは,旅行ガイドで見て知っていたし,訪ネ後は実物を直に何台も見ていた。が,見るのと実際に乗るのとは大ちがい。走り出したとたん,いまにも振り落とされそうで恐ろしく,ふるえ上がってしまった。

これでは,とてもポカラまで持ちそうにない,と途中下車も覚悟したが,タンコットあたりから客が次々と下車していき,峠に差し掛かる前には,どうにか車内に入ることが出来た。
やれやれこれで一安心とホッとしたが,それもつかの間,つづら折りの険しい山道から谷底が見え始めると,そこには何台か車が落下し,ひっくり返ったままになっていた。あぁ~,車内に入れても安心というわけにはいかないなぁ・・・・と,また心配になってきた。
それでも,夕方前には何とか無事にポカラに着き,そこで一泊,翌朝,「ダンプス~ガンドルン」トレッキングに出かけることになった。

ポカラからダンプス登り口までは,乗合小型車の便が出ていた。早朝,ポカラの北外れの広場で待っていると,ジープがやってきた。すると,ここでも客が,どっとなだれ込み,すし詰め状態。が,このジープ,乗客の重さに耐えかねたのか,あっけなくパンク。仕方なく,エンジン故障修理したての別のジープに乗り換えたが,ここでも私は車内に入れず,今度は前ドア下のステップに足を置き,外から窓枠に手でしがみつき,出発することになった。
ダンプス登り口への道は川沿いのガタガタ,クネクネ悪路。谷底に振り落とされないよう必死でジープにしがみついていたが,橋のないところで川を横切るときは,ハネ水でびしょぬれになってしまった。こうして難行苦行,1時間ほどでダンプス登り口の小さな集落にたどり着いた。



このように,ネパールでの乗車体験は,四半世紀以上も前のことながら,いまでもよく覚えている。それだけ強烈な体験だったからだろう。
しかしながら,たしかに強烈ではあったが,全くの未体験というわけでもなかった。むしろ逆に,「あぁ,あれと同じようなことなんだなぁ」と,昔を懐かしく思い出しさえもした。
わが村近辺でも,1960年頃までは未舗装クネクネ・ガタガタ悪路が多く,超満員の客を乗せたバスがヨタヨタ走っていることも珍しくはなかった。ときには,車内に入りきれず,入口ドアを開けたまま,ステップに乗り,手すりにしがみついている客もいた。
また大阪でも,バスや列車に客がわれ先にと,なだれ込むのが常態だった。整列乗車など夢のまた夢。1980年ころ,イギリスに行き,どこでもバスや列車にきちんと整列乗車しているのを見て,「これが異文化なのだなぁ」と驚き,いたく感心したことを覚えている。
ネパールでの乗車口無秩序突進,屋根上乗車,車体しがみつき乗車――いずれも強烈な体験ではあったが,少なくとも私としては,西洋式整列乗車に覚えたような異質・異文化感はなく,むしろ逆に「あぁ,たしかにそんなことをしてきたなぁ」といった,懐かしさを覚えさせてくれるような体験であった。
【追補】(2023/02/12)
人間集団の行動様式は,文化であって不変のように思えるが,ときとして短期的に大きく変わることがあるのかもしれない。たとえば,ネパールの乗車マナー。
ネパール大震災(2015)の翌年,久しぶりにカトマンズに行き,バスで郊外と行き来して驚いた。乗車マナーが一変,老人,女性,身障者などの優先乗車・着席が行われており,日本よりもむしろ徹底していると思われるほどであった。
他の路線も同様か,また,その後も継続・徹底されているのかは,最近,訪ネしていないので分からない。もし乗車マナーが変化・定着しているのなら,文化的にも興味深い。
谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(12): オートテンポからサファテンポへ
ネパールのオートテンポには,その「好い加減さ」に加え,もう一つ,驚かされたことがある。騒音と排気ガスである。
オートテンポは,2~3人乗りタクシーも数人~十数人乗り小型バスもディーゼル・エンジン。混合燃料2サイクル・エンジンも見たような気がするが,未確認。いずれにせよ,これらのエンジンは,ともに騒音と排気ガスがひどい。バタバタ,モクモク・・・・。盆地だから,天候によっては,ひどい排気ガス汚染に悩まされることになる。


これに怒りオートテンポ禁止,電動「サファ(清浄)テンポ」の導入を訴え始めたのが,内外の環境保護派。車の電動化(EV化)はまだ試行段階,欧米でも先行きはほとんど見通せなかった。そこで,例の如く,彼らが目論んだのが,ネパールをEV化モデル国とし,世界にアピールすること。
正確な時系列は確認していないが,無排気ガスで清浄な電動サファテンポは,早くも1993年にはカトマンズで走り始め,数年後には政府の税優遇,電力料金割引など手厚い支援を受け,国内生産も始められた。1998年には110台ほどが運用される一方,オートテンポは翌1999年には禁止されることになった。
ところが,現実には,サファテンポは高コスト。電池はアメリカからの輸入で,2年と持たない。また,それに加え,坂の多いカトマンズではパワー不足。そのため政府の方針もぐらつき,オートテンポを,比較的低公害のガソリン車やLPG(プロパン)車に切り替えることになってしまった。
そのため,旧式オートテンポも最新サファテンポも,低コスト,高性能の日本車に取って代わられた。小型タクシーではマルチスズキ(インド製),小型・中型バスではトヨタ・ハイエースなど,盆地は日本車に瞬く間に席巻されてしまった。
ネパールのEV化は失敗,とその頃,私も見ていた。しかし,電話において,有線を飛び越え,一気に無線スマホ化することに成功したように,また街灯をソーラー蓄電池式LED灯に一気に転換したように,いまネパールは,捲土重来,小型タクシーから大型バスまで,再びEV化に向かって大きく前進し始めた。車においても,一足飛びの前進が,ネパールでーー日本ではなくーー起こるのではないだろうか。期待しつつ注目している。
ローテクの人間臭いオートテンポからハイテクの超先進的EVへーーいかにもネパールらしいアクロバティックな一足飛びの大飛躍。4半世紀前のセピア化した写真を眺めていると,ついそんな感慨に打たれることになる。



【参照1】ネパールEV史に詳しいのは:
・Sushila Maharjan,”Electric Vehicle Technology in Kathmandu, Nepal:Look at its Development,” 2002

【参照2】サファテンポの近年の状況については:
・Atul Bhattarai, When Kathmandu Was “Shangri-La for Electric Vehicles,” 2019
・Benjie de la Pena, Hello, Safa Tempo!, 2021
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(11): ちょっと遠出はオートテンポで
1980年代後半~90年代前半頃のカトマンズ滞在では,オートテンポ(オートリキシャ)とバスも印象深く記憶に残っている。(テンポ[テンプ]=3輪車)
オートテンポは,インド製のエンジン付小型3輪車。2,3人乗りタクシーとして使用され,街中を流していたり,盛り場で客待ちをしているのは,多くがこれであった。私も,少し遠出するときや荷物の多いとき,あるいは2,3人で移動するときは,たいていこのオートテンポを利用した。
オートテンポには何種類かあったのだろうが,私が乗ったのは,たいてい構造がきわめてシンプルな,人力3輪リキシャにエンジンと料金メーターをつけただけ,といった感じの車であった。
このオートテンポは料金メーター付だが,乗車前には,たいてい料金交渉をした。リキシャと同じ。ときにはメーターで行ってくれたが,そうした車の中には異常に速くメーターが上がるように思えるものがあり,ハラハラ,ドキドキ,心配で途中下車してしまったこともあった。


オートテンポは,よく故障もした。が,そこはよくしたもので,運転手は,たいてい故障個所を素早く見つけ,自分で手際よく修理し,何事もなかったかのように車を出した。
たしかに,車の構造は極めて簡単。そして修理も,そんなことでよいのかと心配になるほど,いいかげん。とにかく「いま動くようになれば,それでよい」といった感じの,その場しのぎの応急修理。
当初,そんな「いいかげんな場当たり主義」ではダメだ,と憤慨していたが,しばらくすると,「いいかげん」は「好い加減」であり,このやり方,ひいては生き方の方がよいのではないか,と思われるようになった。そして,私自身も,かつては同じようなことをしていたことを思い出した。
以前は,原動機付自転車には14歳から乗れたので,私も中学3年の頃から乗り始めた。オートテンポ以上に構造は簡単ちゃちだったので,よく故障したが,その都度,自分であれこれ工夫して直し,乗っていた。
悪ガキ仲間で秘境・丹後半島に出掛けたときも,山あり谷ありの未舗装悪路で幾度か故障したが,何とか直さねば遭難してしまうので,あれこれ工夫し,ともかくも走るようにして帰り着いたことがあった。
が,これは,思い起こして懐かしい,というだけの話ではなかった。高度成長が始まると,世を挙げて最大限あらゆることを細分化・専門分化し,効率を上げ,利潤を追求していくことになったが,これはとりもなおさず,人間を分解し,バラバラに解体することを意味した。ほんらい統合的総体としてあるはずの人間の分解であり,人間としての幸福の解体・喪失であった。
カトマンズでオートテンポをその都度自分でやりくり修理して走らせていた運転手は,原付自転車をあれこれ自分で工夫して直し乗り回していたかつての私自身と同種の,「好い加減」な生き方をしていたのだ。
このことに気づき,私はいたく感動,ネパール式の方が幸せになれるのではと思い,それへと方向転換しようとしてきたが,これは時流に逆らうことで難しく,今もって望み通りには実現していない。残念。

谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(10): 盆地内近距離は徒歩・自転車・リキシャで
カトマンズ盆地内の移動には,1980年代後半~90年代初めの頃は,近くはたいてい徒歩か自転車かリキシャ(人力3輪車),中距離はオート・テンポ[テンプ](エンジン駆動3輪車),そして遠くは乗合バスを利用していた。貧乏旅行のため,タクシーはほとんど利用せず。
当時,車やバイクはまだ少なく,環状道路(リングロード)内,あるいは時にはキルティプルであっても,徒歩や自転車の方が,道々,あれこれ見物できて楽しかった。

自転車は,その頃の常宿,ディリバザール入口の「ペンション・バサナ」で借りた。インド製(ヒーロー自転車?)なのか,いかにもゴツくて武骨,乗り心地は良くなかったが,徒歩よりはるかに速く,便利であった。
が,なぜか自転車は,農産物,雑貨などの物資運搬・行商用を除けば,日本ほど多くは見かけなかったと記憶している。自転車は先に行商用イメージが強くなってしまったので,中流・上流の人びとにとっては,特権的ステータス・シンボルとして所有したり利用したりする魅力がなくなってしまっていたからかもしれない。



人力3輪リキシャは,荷物があったり疲れたとき,利用した。当初は,乗る前の運賃交渉が面倒だったが,だいたいの相場が分かってくると,交渉それ自体が異文化体験であり,興味深く,楽しめた。
が,リキシャはなんせ人力,上り坂ではペダルがいかにも重そう。見るからに羽振りのよい―たいてい体格もよい―地元利用客のように「金は払った」と座席でふんぞり返っている勇気はなく,坂になると,降りて歩くか,ときには上まで押し上げるのを手伝ったりもした。典型的な小心者,日本人!


日本でも,地方では,自転車や人力2輪車・3輪車(リヤカー)での人や物資の移動・輸送・行商が,1960年頃までは,ごく普通に行われていた。私の村でも,たいていの家の人が,それらで未舗装の峠を越え数キロ先の町と行き来していた。行商,通学・通勤,そして遊興のため。
1980年代後半のネパールでは,首都カトマンズ盆地であっても,1世代前の日本の農山村に近い雰囲気が,まだ随所で体感できた。懐かしかった。
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(8):ポカラ~ダンプス~ガンドルン
ネパールに初めて行ったのは1985年3月,アンナプルナ・トレッキングが目的だった。記憶は写真以上にセピア化しているが,それでも強烈な印象は変色しつつも残っている。
カトマンズからポカラへは,バスで行った。片道39ルピー(約400円),約7時間。大型バスに乗客殺到,車内に入れない人は屋根によじ登った。私も,もたもたしていて車内に入れなかったので屋根に登ったが,外国人と見て地元民乗客が車内に移してくれた。親切に痛く感謝! 山羊やニワトリも乗車していたが料金不明。

バスは,デコボコ,クネクネ道をハラハラ,ヒヤヒヤさせながら走り,ところどころ,茶店があるところ(いまでいうドライブイン)に停まり,小休止をとった。トイレ休憩でもあるのだが,困ったことに茶店付近には,まずトイレは見当たらない。仕方なく近くの物陰や畑に行って用を足した。女性も同じ。強烈な「無トイレ文化」の洗礼だった!

夕方,ポカラにつき,ロッジに宿泊。ツイン30ルピー(300円位)。その頃のポカラは,カトマンズよりもはるかにのどかな,田園の中の小さな町であった。いまは50万人近い大都市だが,当時は6万人ほど。車も少なく,自然にあふれていた。ブーゲンビリアなど花々が咲き乱れ,ペワ湖は水清く,山からは飾りをつけた馬やラバの隊商が町に降りてきた。まるで,おとぎの国!



ポカラからダンプス~ランドルン~ガンドルンと,トレッキングを楽しんだ。マチャプチャレやアンナプルナに感動したことはいうまでもないが,それ以上に印象的だったのは,村の風景や生活。まるで昔の日本の村を追体験しているようだった。
村のロッジ(宿屋)はごく質素であったが,それだけになおのこと懐旧の念に駆られた。ツイン,1泊4~6ルピー(40~60円位)。申し訳ないので,収穫したてのエンドウを買い求め,茹でて食べた。うまかった!



体験は,時のふるいにかけられ,忘れがたいものだけが変形し変色しつつ残っていく。それに加え,外国人の体験は,もともと余所者の身勝手な,自分本位のものであることを免れない。そうしたことは重々承知しながらも,「後期」高齢者ともなると,古き良き昔の懐旧には,往々にして抗いがたいのである。
【参照2022/09/28】郷里とネパール:失って得るものは?
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(1):写真のデジタル化保存
ネパールに初めて行ってから早や四半世紀。撮りためた写真も,その時々の記憶も鮮明さを失い,セピア色に退色しつつある。自然の摂理とはいえ,淋しさを禁じ得ない。
そこで,身辺整理も兼ね,写真をデジタル化し,保存することにした。
といっても,もともと記録・整理が不得手なうえに転勤・転居が重なり,写真はあちこちに散乱,撮影日時・場所の特定もできないものが多い。そのため史料的価値のない写真が大半であろうが,デジタル化すれば,少なくとも重くて嵩張る紙焼き写真は処分できる。
そう自分を納得させ,小型スキャナーを買い求め,デジタル化に着手した。以下,いくつかご紹介する。(掲載写真はスキャナー付属ソフトで自動補正済。)


【参照】ネパール写真史料
*民族学博物館 ネパール写真データベース
*Internet Archive: Nepal Bhasa Historic Images
谷川昌幸(C)
山に展望台,街に人造動植物:ネパールの景観破壊
ネパールでは,山や丘の上に展望台をつくったり,道路わきや広場に人造動植物モニュメントを設置するのが流行っているという。観光客や買い物客を呼び寄せ,村おこしや街活性化を図るのが目的だろうが,自然・文化景観の観点からの反対も少なくない。
1.いくつかの事例
(1)山上の展望台
▼第1州:イラムの山の上に,予算8千万ルピーで展望台建設予定。
▼第3州:12の山の頂上に,予算1億8千万ルピーで展望台建設予定。
▼ポカラ:「サランコット開発5カ年計画(予算2億9千万ルピー)」で市近郊にケーブルカー,展望台,公園,ヘリポート,博物館,ホテルなどを設置予定。
[批判]
「連邦,州,地方自治体の権力亡者たちが,われわれの苦労して働き納めた税金を,あちこちの山の上に無用な展望台を建てるのに浪費している。彼らのスローガンは,『1つの丘に1つの展望台』。・・・・惨めなカネの浪費というべきか,バカらしい嘲笑のタネというべきか。」(*1)
「サランコットからの景観は比類なきものなのに,1千万ルピーもかけて,そこに展望台をつくるとは,まったく信じがたいことだ。」(*2)
「ネパールの山々は,もともと世界で最も高い山々だ。頂上からの景色は自然の絶景だ。それなのに,そこを20メートルばかり嵩上げすることに何の意味があるのか。そんなものではなく,これらの山々には,公衆トイレ,快適な宿,ゴミ処理施設など,もっと適切なものをつくるべきではないか。」(*1)
(2)コンクリやプラスチックの人造動植物
▼各地の道路わきや広場:コンクリ(コンクリート)やプラスチックで,コブシや沙羅の木,蓮の花,ニンニク,タマネギなどが造られ,設置されている。
▼ウダイプル:コンクリ製のブタ(予算600万ルピー)。
▼モラン郡:世界最大のコンクリ製牝牛
[批判]
「中央政府や地方自治体の役人たちは,『観光振興』を名目に巨額の予算をつけ,交差点や公園にコンクリやプラスチックのレプリカを設置している。」(*3)
「村でも町でも新しいことが流行り始めた。交差点や公園などにコンクリやプラスチックの造形物を設置することだ。」(*3)
■onlinekhabar.com, 2021/4/21
(3)万里の長城
カトマンズ北方のヘランブでは,観光振興のため,60kmにも及ぶ巨大な人造壁の建設が計画されている。
[批判]
「コンクリ製の塔や神話上の人物,あるいは石造りの壁などを見に,わざわざ訪ネする観光客がいるとは思われない。」(*1)
2.欧米や日本でも
山上の展望台や広場の人造モニュメントは,ネパールではいま急増し始めたばかりだが,欧米や日本では,はるか以前から設置されてきた。
たとえば,ヨーロッパ・アルプス。幾度かトレッキングに行き,急峻な山岳の迫力や山麓の絵のように美しい光景に魅了されたが,その一方,いたるところにケーブルカー,展望台など人造物が設置され,しかも景観とはそぐわない奇抜なデザインや色も少なくなく,いたく失望させられた。
たとえばモンブラン(モンテビアンコ)には,仏伊両国側から頂上近くまでケーブルカーで登り,そこの展望台から周囲を見回すことが出来る。が,それで何が得られるのか?
ケーブル終点の展望台は標高3777mもの高所! 観光客はすぐ高山病の症状に襲われ,寒さで震え上がる。見えるのは,相対的に――3777mも――低くなってしまった山々。氷河はあっても,山々の風景そのものは平凡。観光客は暖房の利いた軽食店や土産物屋に駆け込み,金を巻き上げられ,早々に,ケーブルカーに駆け戻り,下山することになる。
日本にも,そんな高山観光施設が,いくつもある。
が,山にしても地域にしても,有名なところは,まだましだ。悲惨なのが,そうでないところ。大金をかけ観光施設を設置しても,赤字垂れ流しで維持するか,さもなければ放置・荒廃,あるいは撤去だ。残るは,自然・文化景観の無残な破壊と赤字だけ。
そんなところが,日本中,いたるところにある。
3.先進国の景観破壊から学ぶべきこと
先進諸国の環境保護派・景観保護派は,自分たちの,これまでのすさまじい環境・景観破壊には頬かむりして途上国にお説教するきらいがあるが,彼らの主張そのものには耳を傾けるべきところも少なくない。
ネパールの人造構造物による山岳観光開発や地域振興も,いくつかは成功するかもしれないが,他の大部分は失敗し,無残な残骸と負債を残すだけとなるだろう。
先進諸国の失敗から学ぶべきことは,少なくない。
【参照1】ポカラのレジャーランド(2022/12/26)
【参照2】アンナプルナ山麓ケーブルカー建設計画 Sikles in the Annapurna region will soon boast a cable car. What will be its impacts?, English Onlinekhabar, 2022/12/07
【参照3】
*1 “EDIFICE COMPLEX, We need more health posts, affordable medical care and quality schools. Not more statues of mythical figures, and view towers,” Editorial,Nepali Times,July 26, 2019
*2 “The decline in Nepali public aesthetics; Why are we spending millions on view towers on hilltops, where the view is already worthwhile?,” Kathmandu Post, September 3, 2021
*3 Rabindra Ghimire, “‘More trees’for less greenery: The ‘concrete’ irony in Nepal’s cities,” english.onlinekhabar, April 21, 2021
*4 “Five-year master plan mooted for extensive development of Sarangkot,” Himalayan, Dec 16, 2017
*5 Umesh Pun, “Nepal’s tallest Shiva statue being built in Pokhara, expected to boost religious tourism,” Republica, November 9, 2020
*6 日々のネパール情報
▼ ネパール各地で見られる、その土地の名産を模した像
▼ネパールの巨大猫|新宿3D猫にネコに負けてないかも!
▼ハッティチョウク、ガイダチョウク(象の交差点とサイの交差点)/チトワン・ソウラハ
*7 Ramesh Kumar, The land of the watchtower!, Himalkhabar, July 22, 2076
*8 Still Rising Nepal, Nepali Times, 2022/04/01
*9 Ramesh Kumar, Nepal’s shortsighted view-tower craze, Nepali Times,2022/04/03
*10 “How myopic they are: People in far-flung areas lack basic necessities, and they are building view towers,” Editorial, Kathmandu Post, 2022/04/04
谷川昌幸(C)
紹介:「ネパールのビール」
図書館で『ネパールのビール』というタイトルの本を見かけたので,借りてきて読んでみた。といっても,「ネパールのビール」は,338ページもの大著に収められた多数のエッセイの一つで,ほんの4ページ余にすぎない短編であった。
いささか,あっけにとられたが,「ネパールのビール」そのものは,大著タイトルとして選んで冠されるのももっとな,感動的なーー文芸春秋特集の意を酌むなら「泣かせる」ーーエッセイであった。
▼日本エッセイスト・クラブ編『ベスト・エッセイ集 ネパールのビール』文芸春秋,1991
*初出:吉田直哉「ネパールのビール」,『文芸春秋』1990年1月号(特集・私がいちばん泣いた話)
*ネット掲載「ネパールのビール」全文
■91年版『ネパールのビール』
1.「ネパールのビール」梗概
著者は,1985(昭60)年夏,テレビ番組撮影(*1)のためドラカ村(*2)に行き,10日ほど滞在した。ドラカ村は海抜1500mで,斜面に家々が散在,人口は4500人。電気,水道,ガスなし。車道もなく,人びとは荷を背負って移動。
そのため,著者らは,車道終点のチャリコットからポーターを雇い,約1時間半かけ機材や食料をドラカ村まで運んでもらった。ビール(瓶ビール)は重いので,諦めた。
*1 NHK衛星第1「NHK特集・ヒマラヤ・ドラカ村でいま」1986年1月15日10:15~11:00
*2 ドラカ村はチャリコットから約4㎞,いまは道路が付き,バス停もある。
■チャリコット~ドラカ村(Google)
撮影で大汗をかいたあと,著者が,ビールを冷やして飲みたいなと口にしたのを,村の少年チェトリが聞き,自分がチャリコットから買ってきてあげると申し出た。
チェトリ少年は遠くの小さな村出身で,ドラカ村に下宿して通学。下宿の薄暗い土間で自炊し,そこで勉強もよくしている。
そのチェトリ少年に,著者は夕方お金を渡し,チャリコットまでビールを買いに行ってもらった。少年は,夜の8時ころ,ビール5瓶を背負い戻ってきた。
翌日も,ビールを飲みたくなった著者は,ビール1ダースぶん以上のお金を渡し,買い出しを頼んだ。
ところが,出掛けた少年は,いつになっても帰ってこない。村人や学校の先生に相談すると,そんな大金をあずけたのなら事故ではなく逃げたのだ,といわれた。これを聞き,著者は,大金で子どもの一生を狂わせてしまった,と深く後悔した。
いたたまれない気持ちで過ごした3日目の深夜,少年がヨレヨレ泥まみれで帰ってきた。チャリコットには3本しかなかったので,山を4つ越えたところで7本買い足したが,帰りに,ころんで3本割ってしまったと,べそをかきながら3本の破片を見せ,釣銭を差し出した。
そんなチェトリ少年を抱きしめ,著者は泣き,そして深く反省した。
2.「泣かせる」が特異ではない話
以上が,「ネパールのビール」の概要。たしかに感動的な「泣かせる」話だ。少年が,著者のために買ったのは瓶ビール10本。3本は割れてしまったとはいえ,重い。それらを背負い,山を4つも越え,持ち帰った。3日目の深夜まで,山道を何時間歩いたのか。お駄賃がもらえるとしても,たかがしれている。想像を絶する忍苦!
著者は,あろうことか,そんな少年を疑ってしまった。それだけに,帰ってきた少年を見て,著者が感動して泣き,深く反省したのは,もっともといえよう。
このように,「ネパールのビール」は感動的な泣かせるエッセイだが,そこで描かれているような出来事は,決して特異なものではない。ネパールを訪れたことのある日本人なら,多かれ少なかれ,幾度も同種の体験をしているはずだ。
3.泣くに泣けない話
私自身も,「ネパールのビール」とほぼ同じころ,初めて訪ネしアンナプルナ・トレッキングをしたとき,同じようなことを体験した。
ポカラから乗客鈴生りジープで川沿いをさかのぼり,ダンプス登り口で下車。さあ出発と前を見ると,絶壁のような急登。恐れをなし躊躇していると,たむろしていた地元の人々が次々と声をかけてきたので,人のよさそうな少年の一人にダンプスまでの荷揚げを頼んだ。年齢ははっきりしないが,日本の中学生くらい。小柄だが,重い荷物の大部分を背負ってくれた。日当は驚くほど安く,たしか2,3百円くらい。それでも荷物を担ぎ,断崖のような山道をどんどん登って行った。
身軽になった私は,おとぎの国のような風景をながめ,写真を撮ったりしながら,休み休み登って行った。そんな私を,大きな荷を背負った地元の人たちが次々と追い抜いていく。女性の方が多く,背負っている荷の中にはコーラやビールのビンが何本も見られる。いかにも重そう。上方の村々に運び上げているのだ。
そうこうするうちに,荷物をもち先に行った少年のことが気になりだした。ダンプスの村で約束通り待っていてくれるだろうか? まさか持ち逃げなどしていないだろうな,などと。わずかの手当てしか払っていないのに,こんな心配。われながら情けなかったが,ダンプスに着くと,そこで少年がちゃんと待っていてくれた。「ネパールのビール」の著者のように泣きはしなかったが,私も,大いに反省させられた。
ダンプスで1泊し,さらにランドルンで1泊,そして最終目的地のガンドルンまで登った。この間,道端の茶店やロッジでビン入りのコーラやビールが売られているのを目にしたが,それらを運び上げる地元女性の姿が目に浮かび,どうしても買って飲むことは出来なかった。
ところが,ガンドルンで歩き回り疲れ果てて,夕方,ロッジに戻ると,無性にビールが飲みたくなり,とうとう一本買って飲んでしまった。うまかった! が,それだけに自分のあまりの意思の弱さが情けなく,やりきれない罪の意識にさいなまれることになった。
はるか下方の登り口から,いやひょっとしたらポカラの町から,女性や少年を含む荷揚げの人々が,何時間も,いや時には何日もかけて,背負い運び上げてきた重い瓶ビールや瓶コーラを,町よりは少し高いとはいえ当時の日本人にとっては全く気にならないほど安い値段で買い,一気に飲んでしまってよいものか? 私の一瞬の,のど越しの快は,ネパールの荷揚げの人々の労苦に見合うものなのか? それは,事実上,彼らの人間としての尊厳を無視した傲慢な搾取を意味するのではないのか?
日本人とネパール地方住民との間には,1980年代中頃にはまだ,想像を絶するほどの生活格差があった。当時,ネパールの地方に行くと,日本人は多かれ少なかれ優越感に捉われるのを禁じえず,と同時に,そうした優越感から行動しているのではないかという自己猜疑に取り憑かれ,不安になる。たとえば,日本であれば,15歳の少年に徒歩往復3時間もかかる遠方に夕方ビールを買いに行かせようとは思いもしなかったであろうし,また,小柄な少年にわずか2,3百円のはした金で重い荷物を背負わせ急峻な山道を登らせようともしなかったはずだ。
ここには,ビールを買ってきてくれた少年や荷揚げをしてくれた少年を疑ったことへの反省だけでなく,それらよりも根源的な自己の優越的地位そのものへのどうしようもない罪悪感があるように思われる。泣くに泣けない自責の念。
1980年代中頃のネパールは,訪ネ日本人の多くにとって,他者との関係において自己を改めて見直す試練の場でもあったのである。
■ダンプス~ガンドルン(Google)
4.道徳教育教材としての「ネパールのビール」
「ネパールのビール」は,一見,起承転結の明確なエッセイなので,道徳教育の課題文として多くの学校で使用されてきた。対象は主に2年生。たとえば,次のような報告がある。
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埼玉県立総合教育センター 第2学年○組 道徳学習指導案
1 主題名: 誠実な生き方
2 資料名: 「ネパールのビール」 出典( 自分を考える」あかつき)
4 ねらい: 自分で考え、決めたことは誠実に実行し、その結果に責任をもとうとする心情を養う。
安芸高田市立向原中学校 道徳科指導案 第2学年指導者:上田 仁
主題名:人間のすばらしさ(よりよく生きる喜び)
教材名:「ネパールのビール」
筆者とチェトリくんの生き方の違いを対比させることを通して,人間の醜さに気づくと共に,人間の持つ強さや気高さを信じ,人間として誇りある生き方を見いだそうとする道徳的心情を育てる。
岩手県立総合教育センター 第2学年 道徳学習指導案 指導者:伊藤千寿
主題名:信頼感
内容項目:人間の強さと気高さ、生きる喜び
資料名:「ネパールのビール」
人間は信頼に値すると思う相手に対してであっても、状況によっては疑いの気持ちをもってしまうことがある。それは気持ちの弱さとも言えるが、よほど相手を知り尽くしているのでない限りは仕方がないことでもある。しかし、それを超える誠実さに触れることによって、疑ってしまったことを悔いたり、相手が信頼に値する人間であることを再認識したりすることもある。そのような経験を繰り返す中で、自分も弱さをもっていることを認めたうえでそれを乗り越えることのできる可能性を信じられるようになり、そのことがやがて喜びをもって生きていくことにつながると考える。
【参照】西部中学校「道徳の授業~ネパールのビール~」2018年2月28日
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中学2年道徳科の課題文としてであれば,「ネパールのビール」がこのような読み方をされるのも,もっともかもしれない。
5.もう一つの読み方
しかしながら,その一方,人それぞれの考え方や行動は,その人の生まれ育ってきた環境に大きく規定され(存在被拘束性),それが原因で解消の容易ではない誤解や対立が生じることにも目を向けるようにすることが必要であるように思われる。
異文化,異社会,異国家等の間の相互理解や和解は,そう容易ではない。「ネパールのビール」も,よく読めば,それを暗示しているように思われる。これは,永遠の課題と覚悟せざるをえない。
道徳教育では,学習レベルに応じた形で,相互理解の困難さ,その場合の対応の仕方ーー単純明快な解答のない場合の問題への対処の仕方ーーについても議論し,考えを深めていくべきではないだろうか。
谷川昌幸(C)
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