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セピア色のネパール(10): 盆地内近距離は徒歩・自転車・リキシャで
カトマンズ盆地内の移動には,1980年代後半~90年代初めの頃は,近くはたいてい徒歩か自転車かリキシャ(人力3輪車),中距離はオート・テンポ[テンプ](エンジン駆動3輪車),そして遠くは乗合バスを利用していた。貧乏旅行のため,タクシーはほとんど利用せず。
当時,車やバイクはまだ少なく,環状道路(リングロード)内,あるいは時にはキルティプルであっても,徒歩や自転車の方が,道々,あれこれ見物できて楽しかった。

自転車は,その頃の常宿,ディリバザール入口の「ペンション・バサナ」で借りた。インド製(ヒーロー自転車?)なのか,いかにもゴツくて武骨,乗り心地は良くなかったが,徒歩よりはるかに速く,便利であった。
が,なぜか自転車は,農産物,雑貨などの物資運搬・行商用を除けば,日本ほど多くは見かけなかったと記憶している。自転車は先に行商用イメージが強くなってしまったので,中流・上流の人びとにとっては,特権的ステータス・シンボルとして所有したり利用したりする魅力がなくなってしまっていたからかもしれない。



人力3輪リキシャは,荷物があったり疲れたとき,利用した。当初は,乗る前の運賃交渉が面倒だったが,だいたいの相場が分かってくると,交渉それ自体が異文化体験であり,興味深く,楽しめた。
が,リキシャはなんせ人力,上り坂ではペダルがいかにも重そう。見るからに羽振りのよい―たいてい体格もよい―地元利用客のように「金は払った」と座席でふんぞり返っている勇気はなく,坂になると,降りて歩くか,ときには上まで押し上げるのを手伝ったりもした。典型的な小心者,日本人!


日本でも,地方では,自転車や人力2輪車・3輪車(リヤカー)での人や物資の移動・輸送・行商が,1960年頃までは,ごく普通に行われていた。私の村でも,たいていの家の人が,それらで未舗装の峠を越え数キロ先の町と行き来していた。行商,通学・通勤,そして遊興のため。
1980年代後半のネパールでは,首都カトマンズ盆地であっても,1世代前の日本の農山村に近い雰囲気が,まだ随所で体感できた。懐かしかった。
谷川昌幸(C)
ゴビンダ医師のハンスト闘争(23)
6.第15回ハンスト
(6)決死のハンスト(v)
④強制摂食:いくつかの事例
A. 西洋近世・近代の奴隷と病人
B. イギリス 収監ハンスト者への強制摂食が本格的に行われ始めたのは,英国においてのようだ。
英国では,19世紀末から20世紀初めにかけて,サフラジェット(Suffragette)が女性参政権を求め勇猛果敢に闘った。彼女らは,投獄されると,ハンストで抵抗した。当初,政府は殉死を恐れ,ハンスト者を釈放したが,1909年多数の収監サフラジェットがハンストを始めると,方針を改め,強制摂食を始めた。
英国内務省の1909年声明によれば,「人為的摂食(artificial feeding)」は人道的であり,理性を失い食べられなくなった収監者が生命を失うことを防止するのに必要な治療である。
しかしながら,実際には,抵抗するハンスト者を拘束し力づくで実施される強制摂食は,出血や嘔吐を伴う,肉体的にも精神的にも耐えがたい苦痛をもたらす「拷問」に他ならなかった。特に女性サフラジェットへの強制摂食は,「口からの強姦」として嫌悪され非難された。
英国政府は,千人以上のサフラジェットに強制摂食をしたとされるが,結局これを継続しえず,1913年に「猫ネズミ法(Cat and Mouse Act)」を制定した。収監者がハンストを始め危険な状態になると釈放し,回復すると再収監するという,まるで猫がネズミをいたぶるような,いかにも皮肉とユーモアの紳士の国,英国らしい法律だ。が,仮釈放したサフラジェットの再逮捕は容易ではなく,実効性は低かった。そうこうするうちに第一次世界大戦(1914-18)が勃発し,対サフラジェット強制摂食問題は終息した。
しかし,英国での強制摂食は,その後も,主にアイルランド民族派のハンスト者に対し継続された。1917~23年,多数のアイルランド民族派が捕らえられ,獄中ハンストは一万人にも及んだという。そうした中,ハンストをしていたトマス・アシュが1917年,強制摂食により死亡,大問題となった。これを機に,アイルランドでは強制摂食は実施されなくなった。
一方,英国では,トマス・アシュ強制摂食死以後も,強制摂食は継続された。英国の刑務所では1913~40年に834人(うちIRA40人)がハンストをし,強制摂食は7734回にも及んだ。(*13)
そして戦後1974年には,IRAのマイケル・ゴーガンと他の4人が英国ワイト島の刑務所でハンストを開始,強制摂食された。そして,64日目,ゴーガンが17回目の強制摂食後,死亡した。この強制摂食死は内外に大きな衝撃を与え,ついに英国政府はハンスト者に対する強制摂食を断念するに至った。
ところが,その代わり,ハンストは放置されることになり,再びハンストを始めたゴーガンの獄中仲間フランク・スタッグは1976年,ハンスト62日で餓死した。その後,1981年には,「鉄の女」サッチャー首相が,ボビー・サンズらIRAメンバー10人のハンストを放置して餓死させ,大問題になったことは周知のとおり。
人権と民主主義の総本家,イギリスでも,ハンストと強制摂食はなおも未解決の難問として残されているのである。
■強制摂食反対ポスター/「猫ネズミ法」反対ポスター/T・アシェ伝記
*13 “Force-feeding in English jails – a hidden history,” The University of Manchester, 5 Nov 2015
谷川昌幸(C)
紹介:三瓶清朝『みんなが知らないネパール―文化人類学者が出会った人びと』(5)
5.低カーストはキリスト教に向かわないか?
ネパールは宗教が生活に深く根付いた社会であり,人々がどの宗教を,どのように信仰するかは,ネパールの動向を知る最も重要な指標の一つである。この点について,本書では次のように述べられている。
「ヒンズー教的カースト制度を嫌う低い階層のカースト(民族)は,マルクス主義か仏教かに向かうだろう,逃げるだろうことは簡単に想像できる。現在のところ,なぜかキリスト教には向かっていない。」(181)
ここで著者が挙げている選択肢のうち,ネパールの低カーストや少数民族の人々がマルクス主義,とりわけ毛沢東主義に向かうことは,ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が1990年民主化後しばらくすると彼らの支持を得て急成長し,人民戦争(1996-2006年)を戦い,優勢裡に和平に持ち込み,戦後新体制に参画するに至ったことを見れば,すでに疑いようのない事実である。ただし,ネパールのマルクス主義や毛沢東主義はネパール独特のものであって,日本で一般に理解されているそれらの主義とは大きく異なるが,この点については別の機会に議論することにしたい。(仏教改宗については,いまのところ私には不明。)
では,キリスト教はどうか? 本書のもとになる現地調査は2001年8~9月であり,原稿完成は2016年3月下旬のことである。この時点での,低カーストの人々は「キリスト教には向かっていない」という分析は,どこまで妥当であろうか?
キリスト教は,1990年民主化を転機に,ネパールで低カーストや少数民族の人々を中心に信者を増やし始めた。2011年国勢調査によれば,キリスト教徒は全人口の1.14%となっており,すでに日本の1%(2012年)を上回っている。低カーストではサルキの4.3%,サンタル/サタルの6.1%がキリスト教徒だし,少数民族ではタマンの3.6%,ライの5.3%,チェパンの25.6%がキリスト教徒になっている。
しかも,2011年国勢調査のキリスト教徒数は過少報告とされており,実際にはキリスト教徒はすでに3~7%,あるいは2~3百万人にのぼるとさえいわれている。いまやキリスト教系メディアでは,「キリスト教徒急増国」がネパールに言及する際の格好の枕詞にさえなっている。教会は全国に約1万2千あるといわれているし,キリスト教系政党も先の国政選挙に立候補者を出した政党を含め数政党ある。これをどう見るか? 相対的にはキリスト教はなお弱小勢力なので,評価は難しい。
ネパールにおけるキリスト教の動向については,これまでに幾度か紹介したので,ご参照いただきたい。
・キリスト教とネパール政治(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
・改宗勧誘・宗教感情棄損を禁止する改正刑法,成立
・「宗教の自由」とキリスト教:ネパール憲法の改宗勧誘禁止規定について
・キリスト教政党の台頭
・タルーのキリスト教改宗も急増
・キリスト教絵本配布事件,無罪判決
・改宗勧奨: 英国大使のクリスマス・プレゼント
・国家世俗化とキリスト教墓地問題
■ネパール:成長世界最速の教会(Nepal Church Com)
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(10)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
(A)調査地:ティムリン村[以上,前述]
5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
(B)村民ドルジェの改宗
フリックが聞き取り調査したのは,ティムリン村の初の改宗者ドルジェ・ガーレ。娘の病気をきっかけに1990年,彼が36歳のとき,妻とともにキリスト教に改宗した。
キリスト教は,ドルジェ改宗(1990年)以前の1980年代には,すでに近くのジャーラン(Jhalang)村やラブドゥン(Labdung)村には布教されており,信者がいた。ジャーラン村にはドルジェの友人がいたし,ラブドゥン村には妻の実家があった。
1990年改宗以前のある日(年月日不明),ドルジェの娘マヤワティが病気になった。父ドルジェは,慣習に従い,ヤギや羊などを犠牲にささげ,ボンボやラマに繰り返し祈祷してもらった。しかし,伝統的方法をいくら続けても,娘はよくならなかった。
困り果てていると,ラブドゥン村の義父(妻の父)が,自分の村にはクリスチャンがいるので,呼んできて回復を祈ってもらおうと提案した。
義父がラブドゥン村のS・タパのところに頼みに行くと,彼をはじめ約30人の信者がやってきて,娘の回復を祈ってくれた。すると,すぐ娘はよくなりはじめ,やがて全快した。費用のかかる犠牲や儀式は不要だった。
これをきっかけに,ドルジェは古いダルマを捨て,新しいダルマ,キリスト教を信じるようになった。
では,このドルジェのキリスト教改宗をどう解釈すべきか?
(C)改宗の西洋的解釈の不十分さ
ネパールにおけるキリスト教改宗の理由ないし動機については,西洋的な観点から,政治,経済,教育,病気治療など様々な実利と結び付け,あるいは布教活動の成果として,外在的に解釈される場合が多いが,いずれもそれらだけでは改宗理由の説明としては十分とは言えない。
ティムリン村の生活が,1980年代後半から大きく変わり始めたことは,事実である。賃労働が増え,職場も当初は近くの道路工事や鉱山だったが,やがてカトマンズや湾岸諸国への出稼ぎとなった。
1990年にはじまるティムリン村の改宗は,そうした生活環境の変化の下で行われた。しかし,この変化を改宗理由とすることは無理である。村人のうち新しい仕事に関係していた人々は改宗に消極的であり,改宗したのはむしろ伝統的な仕事をしている人々だったからである。
一方,ティムリン村の改宗と,1990年以降の民主化,開発,布教とは,かなり密接な関係がある。
「ティムリンの改宗は1990年以降の動きの一部である。それ以前に,おそらく1980年頃,南側のジャーランで多くのタマンが改宗した。そこの政治権力者や警察は彼らを殴りつけ投獄した。こうした『地下』生活にもかかわらず,1990年以前に,ジャーランのクリスチャンが何人かティムリンを訪れていた。布教に来たのだが,まったくの門前払いだった。改宗は違法,これが要するに布教活動への対応であった。このような態度は,1990年以降,民主化運動が始まり,キリスト教がそれと関係づけられ始めると,変化した。
この政治と改宗との結びつきは,1990年以後の初の選挙に見て取れる。旧秩序を代表するのはティムリンのラマたちと緊密な関係にある人物であり,これに対抗するのがいまや合法となったコングレス党の党員であった。そのコングレス党の政治家は,自らクリスチャンであると実際に明言することは決してなかったが,そのような噂の流布は容認していた。というのも,そのような噂が彼と新秩序との結びつきを様々なレベルで強化してくれたからである――[旧秩序と闘う]野党の一員であり,西洋的『近代』を代表する者であり,そして,キリスト教諸教会との結びつきにより得られると多くの人々が考え期待した多くの金や物との仲介者である,と。さらに,[改宗と]開発との結びつきが,ティムリンで周知の呼び方で広まりさえした。たいていの人が,キリスト教のダルマを農民のダルマ(kisan dharma)と呼び変えた。そして,この農業と西洋との結び付けが,開発(bikas)との結び付けを容易とした。というのも,新しい農業技術を持ち込む来訪者たちが開発をもっぱら目的にしていることを,つねに見聞きしていたからである。」(p.2-3)
「ティムリンの人々は,カトマンズに出て俗人牧師教育を受け始めると,クリスチャンとの付き合いが深まり,彼らが獲得した新たなダルマには異なった宗派的な解釈があることを知った。さらに彼らは,1990年以降のネパールにおける激しい布教競争の下で,外国の教会が新しい布教地でその教会を代表する人々に仕事,教育,金など様々なものをくれることにも気づかされた。」(p.3-4)
しかしながら,それでもなお,これらは外部要因による改宗の外在的解釈であり,ティムリン村のような改宗の説明としては十分ではない。そう著者は考えるのである。
(D)自発的動機による改宗
タマンの人々は,古来,交換と分かち合いを基軸とするダルマ(徳,宗教)を大切にして暮らしてきた。そして,不幸にして強欲がはびこり悪政に陥りダルマを維持できなくなると,そのつど彼ら自身で新しい王やラマを探して迎え,ダルマを回復した。ティムリン村のキリスト教改宗も,以前と同様,村人自身が失われたダルマを回復するために行われた。
「ティムリンの改宗は,布教ミッションによることなく,村人自身の意思により行われた。タマンの人々は,自分たちに新しいダルマを教えてくれるネパール人のクリスチャンを探し出した。」(p.2)
「最初の改宗以降の展開は,むろん複雑であり,完全には思い通りにはならないであろう。・・・・[とはいえ]ティムリンの人々は,キリスト教への改宗の当初は祖先に極めて近い行動の仕方をしたと私は考えるのである。」(p.18-19)
――以上のように,この論文の結論は,いかにも人類学者らしく,キリスト教改宗の自発性・内発性を強調するものとなっている。
たいへん面白いが,その一方,タマン社会において伝統的なダルマがなぜ維持できなくなったのか,そしてまた,彼らがどこまで自覚的にタマン社会の伝統的な交換と分かち合いのエートスないし徳の回復・維持を目的としてキリスト教を取り入れたのかを考えると,改宗の自発性・内発性を強調する著者の結論にはやや無理があるようにも思われる。娘の病気を治してくれたのでキリスト教を信じるようになったというのは,政治,経済,教育など他の実利のための改宗と構造的には異ならないように見えるのだが。
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(9)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析[以上,前述]
5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
タマンの改宗を扱った文献としては,他にも,たとえばトム・フリック「タマンの改宗:文化・政治とキリスト教改宗の語り」(2008, *1)がある。著者はミシガン大学人類学教授で,この論文もネット掲載。タマン改宗者からの聞き取り調査をもとに,キリスト教改宗の動機や過程が実証的に記述・分析されており,改宗の内発性を強調する結論部分はやや難解だが,改宗過程の具体的記述はたいへん分かりやすく,読んで面白い。以下,概要を紹介する。なお,被調査タマンの人々は仮名とされている。
(A)調査地:ティムリン村
著者のトム・クリックはタマン調査に1981年に着手し,10年後の1990年頃から研究成果を次々に発表した。「タマン家族調査プロジェクト(報告)」(1990,*2),「ネパール・ヒマラヤにおける基礎構造:ガーレ‐タマン婚姻の相互性と上下関係政治」(1990, *3),『ヒマラヤの世帯:タマン人口動態と世帯の変化』(1994,*4),そしてここで紹介する「タマンの改宗」(2008, *1)など。
「タマンの改宗」の調査地は,ダディン郡のティムリン村。フリックは「Timling」と表記しているが,著者らの報告「タマン家族調査プロジェクト」の表紙や地図では「Tipling」となっており,現在の地図でも「Tipling」とされている,他にも「Tibling」の表記もある。同じ村と考え,以後,ティムリンと記す。
ティムリン村は,ダディン郡の北部,アンク川(アンクコーラ川)上流域にあり,近くにセルトゥン(Sertung)やジャーラン(Jhalang)がある。村(VDC全体ではなくティムリン村だけ)の人口は,1980年代で約650人。タマンとガーレがほぼ半分ずつで,農耕と牧畜を生業とし,タマン語が話されている。キリスト教改宗以前は,伝統的なチベット仏教やシャーマン信仰であった。
このティムリンの村民が,1990年民主化前後にキリスト教に改宗しはじめ,遅くとも2008年(調査発表の頃)までにはラマ2家族と村長家族を除き,ほぼ全村民がクリスチャンになったのである。
*1 Tom Fricke, “Tamang Conversions: Culture, Politics, and the Christian Conversion Narative in Nepal,” Contributions to Nepalese Studies, Tribhuvan Univ. 2008.
*2 Tom Fricke et al., “Tamang Family Research Project,” Report to the Center for Nepal and Asian Studies, TU, May 1990.
*3 Tom Fricke, “Elementary Structures in the Nepal Himalaya: Reciprocity and the Politics of Hierarchy in Ghale-Tamang Marriage,” Ethnology, 1990
*4 Tom Fricke, Himalayan Households: Tamang Demography and Domestic Processes, 2nd. ed., Columbia Univ. Press, 1994
*5 Tom Fricke, “Marriage Change as Moral Change,” G.W. Jones et al ed.. The Continuing Demographic Transition, Oxford Univ. Press, 1997
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(8)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率[以上,前述]
5.タマンのキリスト教改宗
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
タマンの人々のキリスト教への改宗については,専門的なものから時事的なものまで,多くの言及がある。たとえば,ネット掲載のものとしては,マーク・ジョンソン「恩寵と貪欲:タマンのキリストへの動きとそれを損なうもの」(*1)。
ただ,この文献については,著者のことも掲載誌のことも,いまのところよくわからない。掲載誌『Voice of Bhakti』は,ネパールないしヒンドゥー社会においてキリスト教布教を目指す「バクティバニ」のウェッブサイトに掲載されており,著者のマーク・ジョンソンはそのウェッブサイト編集者のペンネームだということだけ。この点がいささか気がかりだが,記述自体は比較的わかりやすいので,以下,要点を紹介する。
(A)タマン村民の改宗(「恩寵と貪欲」要旨)
「この20年のネパール教会史において最も意義深いのは,疑いもなく,タマン社会集団[コミュニティ]に属する多くの人々がキリストのもとに集うようになったことである。」
タマンのキリスト受容において重要であったのは,1960年代の二つの出来事である。一つは,1960年代半ばに,二人の聖書伝道者[おそらく西洋人]がヌワコットにやってきて,一人のタマンを助手として雇ったこと。やがて彼はキリスト教に改宗し,その彼を通して彼の村や近隣の村々の人々も改宗,彼ら自身の教会をつくっていった。
もう一つは,同じころ,一人の指導的牧師[国籍不明]に導かれ,ダディン郡の二人のタマンがキリスト教に改宗したこと。数年前,そのうちの一人の家に行き,話を聞くことができた。
「私は,ダディン山地の村のラマだった。たいへん尊敬されていた。ある日,妻が病気になった。治すため出来ることはすべて試みたが,妻はよくならなかった。そうしたとき,ヨハネ福音書を目にし,読み,感動した。その直後,近くの村からキリスト教徒が何人か私のところにやってきた。迫害されているので,私の村に避難させてほしいとのこと。その彼らから福音について聞き,すぐ私自身もキリストを信じるようになった。彼らは,イエスの名をもって妻のために祈ってくれ,これにより妻は癒された。ところが,彼ら信者への迫害はなおも続いたので,彼らはラモゴダ[位置不明]に移住した。しばらくして,私もラモゴダに移り,そこに教会をつくった。
二人のうちのもう一人は,ナワルパラシ郡に移住し,そこで何千人ものタマンの牧師となった。
このような形のキリスト教への改宗が,何年か続いた。ところが,1980年代末になると,状況は大きく変化した。ダディン郡北部,アンク・コーラ谷地域において,キリスト教改宗への大きな動きが始まったのだ(外部からの訪問者の報告によると,1985年にはその動きは始まっていた)。1990年5月にラモゴダの指導者から聞いたところによると,2万人ものタマンがキリストを信じるようになった(リパートの推計も同じ)。この改宗は,部外者の意図的働きかけによるというよりは,むしろ自発的な動きによるところが大きいと思われる。この指導者はラモゴダを拠点としていたが,そこから自分の聖書と傘だけをもち,徒歩数日の[アンク・コーラ谷の]これらの村々を定期的に訪れていたという。」
(B)タマンの改宗理由
タマンのこのようなキリスト教改宗への動機ないし理由について,マーク・ジョンソンは,B・リパート(*2)やD.H. ホームバーグ(*3)を援用しつつ,次のように説明している。
第一に,グローバル化と経済,政治の変化。1980年代頃からネパール農業は伝統的共同体的農作業から農業労働者使用へと変化し始め,生産性も向上した。
出稼ぎも変わった。以前は主にインドやブータンに出稼ぎに行き,得た金はたいてい食料等の生活必需品の購入に充てた。一方,少数の金持ちは威信維持に必要な儀式などに金を使っていた。ところが90年代以降になると,出稼ぎ先は湾岸諸国や東南アジアになり,得た金は電化製品などの新しい生活用品の購入に回されるようになった。
さらに政治も民主化され,政党政治となり,特に選挙では個々人が選択を迫られ,伝統的共同体的な結びつきが揺らぎ始めた。
こうした政治・経済の変化の結果,タマンの伝統的宗教も現代世界の多くの宗教の一つと見られるようになった。
第二に,教育の普及。若い世代の人々は,教育を通して新しい諸価値や科学的思考に触れ,伝統的タマン文化をしばしば拒否するようになった。そして,識字能力を身につけた人々は,聖書の読み聞かせなど,キリスト教普及の中心ともなってきた。
第三に,病院や診療所――多くはミッション系――による西洋医薬品による治療。それらの方が治療効果と経費の点で勝ることを知り,祈祷や供儀など伝統的病気治療への疑問が広がった。ラマ,シャーマンらの権威の失墜。
こうして,タマン社会は特に1990年代以降,大きく変化した。M・ジョンソンはこう述べている。
「タマンの世界は,もはやかつてのように地域内に閉ざされた狭い社会ではない。今日では,カトマンズ大都市圏に行ったことがないタマンは,ほとんどいない。ソハクッティからタメル北部付近は,タマンのお隣さんといってもよい。カトマンズに出たいタマンには,たいてい従兄弟やおじがいて,そこに滞在することもできる。さらにカトマンズでは外国人に出会ったり,テレビを見たりして,両親は夢にも見なかったような大きな世界にむけ心を開くことになるのである。」
(C)なぜプロテスタントか?
最後にもう一つ,タマンの人々が主として受け入れたのはプロテスタントだったが,それはなぜかという疑問。この点について,M・ジョンソンは次のように説明している。
ヌワコット~カンチャンプルの地域にはタマン教会が140あり,5万人の信者がいるが,大半は福音派プロテスタント。
キリスト教は,神を直接礼拝できるので仲介者はいらないし,伝統的儀式や動物供儀も不要であり,費用がかからない。「タマンが万人司祭の宗教改革原理を歓迎していることは明らかだ。」
プロテスタント伝道師は,伝統的な宗教や文化との明確な断絶を求める。これに対し,カトリック宣教師は,それらとの結びつきを出来るだけ保とうとする。これが,村人たちには,ラマやシャーマンへの妥協と見えた。そのため,タマンはプロテスタントの方にひかれ,プロテスタント教会の信者となった。
「タマンは,たしかにプロテスタント伝道師たちの訴えをよく受け入れた。それは,彼らの訴えがタマン社会の今の変化に沿うものと思われたからである。タマンは,プロテスタンティズムの方が,彼らにとっては今の新しい経済,政治,社会の在り方によりよく適合する,と考えているのである。」
以上の説明は,たしかに明快だが,少々強引なような気もする。タマンの人々は,どこまで教義を理解し比較したうえで,プロテスタントを選んできたのか? タマン居住地域ではプロテスタントの布教活動の方が活発だったので,結果的にプロテスタント教会が選ばれたのではないのか? 有力なカトリック教会のあるカトマンズ盆地では,タマンにもカトリック信者が多いのではないか? これは興味深い論点ではあるが,検討は今後の課題としたい。
*1 Mark Johnson, “Grace and Greed: The Making and Marring of the Tamang Movement to Christ,” Voice of Bhakti, Vol. 3, No,1, Feb. 2004.
*2 B. Ripart, “Innovations among the Poor: Conversions to Christianity in Central Nepal,” in Anand Amaladass ed., Profiles of Poverty and Networks of Power, 2001.
*3 David H. Holmberg, Order in Paradox: Myth, Ritual, and Exchange among Nepal’s Tamang, 1996.
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(7)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由[以上,前出]
5.タマンのキリスト教改宗
ネパールにおけるキリスト教への改宗は,それでは具体的にどのように行われてきたのであろうか? これもケースバイケース,様々な形があろうが,ここでは統計上最も改宗者の多いタマンの人々の改宗について紹介したい。(民族/カーストごとの改宗率が一番高いのは先述のチェパン。)
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
ネパールの宗教別信者数は,ネパール政府中央統計局(CBS)が人口調査の一項目として調査し定期的に発表している。
ただ,宗教は複雑で微妙な問題。日本でも,正月は神社,盆はお寺,結婚式は教会といった慣行が珍しくないように,ネパールでも個々人の宗教をいずれか一つに特定することは難しい場合が少なくない。また,ヒンドゥー教が国教だったころは無論のこと,世俗国家になってからも,他宗教,特にキリスト教は警戒され,信者数が過少カウントされているといわれている。いわば,ネパール版かくれキリシタン!
とはいえ,いまのところCBS統計以上に便利な人口統計は見当たらないので,以下に,CBS統計の宗教に関する部分,あるいはそれに基づいた統計をいくつか紹介する。(教徒数最多のタマンと教徒比率最高のチェパンの部分は赤字表示。)
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(6)
4.改宗の理由
キリスト教会がネパールで布教し信者を増やしたいと考えるのは当然だが,それではネパールの人々はどうしてキリスト教を受け入れ信者となるのだろうか?
キリスト教改宗の理由ないし動機は,むろん人それぞれだし,また1つだけとは限らない。英国ジャーナリストのピート・パティソンは,その記事「多くのネパール人がキリスト教に改宗するのはなぜか」(2017年8月30日)において,主な改宗理由を4つあげ,次のように説明している(*1)。(*2参照)
<以下,引用>
「これほど多くのネパール人がキリスト教徒になろうと決心するのはなぜなのか? その理由は少なくとも4つある。
第一に,ダリットの人々が,キリスト教を,カースト制から逃れさせてくれるものとみていること。ネパール全国クリスチャン連盟(FNCN)によれば,クリスチャンの65%はダリットである。[マクワンプル郡]マナハリの近くの村のダリット牧師によれば,『村の高位カーストの人々は,われわれダリットを犬以下として扱ってきたし,・・・・いまでもなお,たいていはそう扱っている。・・・・これに対し,クリスチャンの間では差別はない。・・・・われわれはみな平等だ』。
しかしながら,そうはいっても,キリスト教が社会諸集団の垣根を取り払いつつあるわけではない。たとえば,マナハリやその近辺の教会は,チェパンの教会,タマンの教会,ダリットの教会といったように,カーストや民族ごとにそれぞれ別に組織されているとみられるからだ。
第二に,多くの改宗者が,長患いや原因不明の病気が治った後で,クリスチャンになっていること。彼らは,この治癒を奇跡と語る一方,薬(折々教会が配布)も効くと考えている。まだ十分な社会保険制度がないので,シャーマンのところや病院に行くお金がない人々にとって,これは大きな動機である。似非科学的な似非医者が地方だけでなく都市部にもはびこっている現状では,これは驚くべきことではない。
[第三に]お金もまた,大きな動機である。多くの人にとって,キリスト教はヒンドゥー教よりも,要するに安上がりで済む。ある女性によれば,ヒンドゥー僧やシャーマンは,『ヤギとニワトリで太る』といわれるほど多くの贈り物を儀式のために要求する。教会も十分の一税――収入の十分の一を教会に納める――をキリスト教徒に期待してはいるが,私が話を聞いた信者たちによれば,これは強制ではないし,また献金の代わりに食料品を献上することもできる。
といっても,それだけではなく,キリスト教がビッグビジネスともなっている地域もある。ある牧師によれば,『金のためにクリスチャンになっている人が何人かいることは確かだ』。その資金の多くは,海外から,特にアメリカと韓国から持ち込まれる。マナハリのあるシャーマンが私にこう語った――『(キリスト教牧師たちは)強欲だ。・・・・彼らは,四六時中,外国にメールを送り,お金を無心している』。震災後,マナハリのクリスチャン住民や外国人クリスチャンは,物資支援に特に熱心であった。人々の中には,こうした活動を露骨なご都合主義と見る人もいる。たとえば,ある地元ヒンドゥー僧は,こう述べている――『震災後,・・・・聖書が米袋に入れ持ち込まれた。・・・・聖書は,あらゆるものと組み合わせ,持ち込まれた。・・・・彼らは,金を使ってキリスト教を宣伝している』(*1)。
[第四に]重要だが,しばしば見過ごされる理由もある――信仰だ。たしかに,キリスト教改宗ネパール人の多くは,健康,お金,被差別など極めて実用的な理由で改宗するが,一方,そのような改宗が純真な宗教信仰に人々を導くことも少なくない。さらに別の人々にとっては,クリスチャンになることは,それ自体,信仰上の事柄である。あるキリスト教牧師が私にこう語った――『ありとあらゆる宗教の本を読んだが,私の疑問に対する答えが見つかったのは,聖書を読んだ時である』」。
<以上,引用>
さすが,アムネスティ・メディア賞などを受賞したP・パティソン,バランスの取れた改宗理由のリアルな分析だ。
その一方,改宗の歴史的・文化的分析は少し弱いように思われる。キリスト教は,日本では西洋近代文明とともにやってきた。幕末・維新以降,近代化を急ぐ日本の人々は,キリスト教の中に近代化の諸原理や資本主義の精神を求め,学び,そして,そのうちの何人かはキリスト教に改宗した。
これと同じようなことが,今のネパールでも起きているとみて,まず間違いはあるまい。ネパールにおけるキリスト教改宗は,パティソンの改宗4理由をこのような歴史的・文化的理由でもって補足すれば,いっそう理解しやすくなるであろう。
*1 Pete Pattisson, “Why many Nepalis are converting to Christianity,” The Wire, 30 Aug 2017
*2 Pete Pattisson, “They use money to promote Christianity’: Nepal’s battle for souls,” The Guardian, 15 Aug 2017
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(3)
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
ネパールは,前述のように「クリスチャン急増の国」であり,政治へのキリスト教勢力の進出も積極化し始めた。多少重複するが,たとえば――
・キリスト教会は,信者数3百万人以上と推計している。(*1)
・「ネパールでは,法による厳しい改宗禁止にもかかわらず,この20年ほどの間にキリスト教徒が急増した。」(*1)
・キリスト教会は現在,全国に1万2千あり,なお増加中(ネパール全国クリスチャン連盟[FNCN])。布教に熱心なのは,カトリックよりもプロテスタント諸教会。(*2)
・シンドパルチョーク郡の教会は,30年前は1つだけだったが,現在は175あり,その半数は2008年世俗国家移行後に開設された。(*2)
・マクワンプル郡の教会は,10年前は200だったが,現在は1000となっている。(*3)
・マクワンプル郡では「20年ほど前にキリスト教の普及活動があり,・・・・先住民族であるチェパン民族の大部分はキリスト教徒になっている。」(*4)
・コイノニア・ミッションは1978年にパタンに初の教会を開設,現在は90教会となった。2020年までに,さらに400教会を開設する予定。(*2)
・「君主制の200年間はネパールのクリスチャンにとって暗黒時代だったが,いまは攻撃されることはあるにせよ,黄金時代だ。」キラン・クマール・ダス(アヌグラハ教会,ラリトプル)(*2)
・パンチャヤト王政期には投獄されたが,いまは活動の余地があり,参会者も増えてきた。(カナンプレーヤーハウス牧師トリ・ラトナ・アダム・トゥラダール)(*2)
▼Churches Network Nepal登録教会数(2018年4月3日現在) ( *5)
*1 “Despite conversion ban, Christianity spreads in Nepal,” AFP, 23 December 2017
*2 Om Astha Rai, “The golden age of the gospel: A secular Nepal sees a surge in conversions to Christianity by evangelical groups,” Nepali Times, #873, 25-31 August 2017
*3 Pete Pattisson, “Why many Nepalis are converting to Christianity,” the Record, August 30, 2017
*4 紅谷昇平ほか「2015 年ネパール地震における国際支援と組織間ネットワークの実態」,『神戸大学都市安全研究センター研究報告』第21号,平成29年 3 月
*5 Churches Network Nepal(http://www.churchesnetwork.com/directory)
谷川昌幸(C)
ネパール連邦議会選挙:包摂民主主義の実証実験(3)
3.政党の本音は女性後回し
この表を見れば,各政党が女性候補を後回しにしたことは,一目瞭然。まず最初に投票される代議院小選挙区選挙では,当選165議員のうち,女性は6人だけ。三分の一ではない,たったの3%余なのだ! 各党とも男優先,女性差別丸出し。隠しようもない。隠そうともしない。本音丸出し,正直といえば正直だ。
参議院は,各州に最初から女性議席3が割り当てられているので,女性議員は当選議員の約38%。三分の一より少し多いのは,小選挙区男性優先をある程度考慮した結果でもあろう。(連邦議会各党議員の少なくとも三分の一は女性でなければならない。)
政党ごとに見ても,どの政党が特に男優先というわけではない。全政党が女性後回し。それでもひときわ目立つのが,大勝した「ネパール共産党-統一マルクス・レーニン派(UML)」で,代議院小選挙区では当選80人中,女性は2人(2.5%)だけ。その結果,最後の最後に割り当てられる代議院比例制議席は,割当41議席中の37議席(90%)が女性となった。むろん,UMLが自発的に女性を選んだわけではない。憲法の明文規定により,イヤでもそうせざるを得ないのだ。これが,マルクス・レーニン主義を党是とし,農民・労働者のために闘う人民の党の実態である。
「ネパール共産党―マオイストセンター(CPN-MC)」,「ネパール会議派(NC)」など他党も,男性優先では,UMLと大差ない。包摂民主主義を唱えながら,その第一歩といってよい,最も明確な女性の包摂ですら,現実政治の場では敬遠され,あるいは忌避されている。ネパールの政界がまだまだ男社会であり,男性優先が本音であることは隠しようもない。
といっても,そこは建前第一の形式主義の国ネパール,連邦議会(代議院と参議院)全体の各党別女性議員比率をみると,UML33.8%,MC33.8%,NC34.2%,RJP-N36.8%,FSF-N33.3%となっている。5つの国政政党のすべてが,憲法規定の女性議員三分の一の下限にピッタリ合わせている。お見事!
4.女性議席割当制の政治的意義
しかしながら,そうはいっても,いやまさにそうした男優先政界の現実があるからこそ,ネパール連邦議会全体でとにもかくにも女性議員三分の一を実現したことは,大きな前進であり,高く評価できる。
日本と比較してみると,その先進性は歴然。日本は,国会全体で女性議員13.1%,世界191か国中の第142位(2017年1月1日現在)。また,衆議院の女性議員は9.3%で,世界193か国下院中の第164位(2017年6月1日現在)。日本は,女性政治参加では後進国,ネパールの足元にも及ばない。頭を垂れ,先進国ネパールから謙虚に学ぶべきだ。
包摂民主主義は,繰り返し指摘してきたように,たしかに複雑で難しく,コストもかかる。しかしながら,たとえそうであっても,それが現代社会における参加・代表の公平の実現には最も有効な実効的手段の一つであることに間違いはない。
ネパールはいま,その大いなる包摂民主主義の政治的実験に取り組んでいるといってもよい。なによりもネパール自身のために,そしてまた多文化社会化せざるをえない日本のためにも,その成功を願っている。
谷川昌幸(C)
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