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セピア色のネパール(12): オートテンポからサファテンポへ
ネパールのオートテンポには,その「好い加減さ」に加え,もう一つ,驚かされたことがある。騒音と排気ガスである。
オートテンポは,2~3人乗りタクシーも数人~十数人乗り小型バスもディーゼル・エンジン。混合燃料2サイクル・エンジンも見たような気がするが,未確認。いずれにせよ,これらのエンジンは,ともに騒音と排気ガスがひどい。バタバタ,モクモク・・・・。盆地だから,天候によっては,ひどい排気ガス汚染に悩まされることになる。


これに怒りオートテンポ禁止,電動「サファ(清浄)テンポ」の導入を訴え始めたのが,内外の環境保護派。車の電動化(EV化)はまだ試行段階,欧米でも先行きはほとんど見通せなかった。そこで,例の如く,彼らが目論んだのが,ネパールをEV化モデル国とし,世界にアピールすること。
正確な時系列は確認していないが,無排気ガスで清浄な電動サファテンポは,早くも1993年にはカトマンズで走り始め,数年後には政府の税優遇,電力料金割引など手厚い支援を受け,国内生産も始められた。1998年には110台ほどが運用される一方,オートテンポは翌1999年には禁止されることになった。
ところが,現実には,サファテンポは高コスト。電池はアメリカからの輸入で,2年と持たない。また,それに加え,坂の多いカトマンズではパワー不足。そのため政府の方針もぐらつき,オートテンポを,比較的低公害のガソリン車やLPG(プロパン)車に切り替えることになってしまった。
そのため,旧式オートテンポも最新サファテンポも,低コスト,高性能の日本車に取って代わられた。小型タクシーではマルチスズキ(インド製),小型・中型バスではトヨタ・ハイエースなど,盆地は日本車に瞬く間に席巻されてしまった。
ネパールのEV化は失敗,とその頃,私も見ていた。しかし,電話において,有線を飛び越え,一気に無線スマホ化することに成功したように,また街灯をソーラー蓄電池式LED灯に一気に転換したように,いまネパールは,捲土重来,小型タクシーから大型バスまで,再びEV化に向かって大きく前進し始めた。車においても,一足飛びの前進が,ネパールでーー日本ではなくーー起こるのではないだろうか。期待しつつ注目している。
ローテクの人間臭いオートテンポからハイテクの超先進的EVへーーいかにもネパールらしいアクロバティックな一足飛びの大飛躍。4半世紀前のセピア化した写真を眺めていると,ついそんな感慨に打たれることになる。



【参照1】ネパールEV史に詳しいのは:
・Sushila Maharjan,”Electric Vehicle Technology in Kathmandu, Nepal:Look at its Development,” 2002

【参照2】サファテンポの近年の状況については:
・Atul Bhattarai, When Kathmandu Was “Shangri-La for Electric Vehicles,” 2019
・Benjie de la Pena, Hello, Safa Tempo!, 2021
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(11): ちょっと遠出はオートテンポで
1980年代後半~90年代前半頃のカトマンズ滞在では,オートテンポ(オートリキシャ)とバスも印象深く記憶に残っている。(テンポ[テンプ]=3輪車)
オートテンポは,インド製のエンジン付小型3輪車。2,3人乗りタクシーとして使用され,街中を流していたり,盛り場で客待ちをしているのは,多くがこれであった。私も,少し遠出するときや荷物の多いとき,あるいは2,3人で移動するときは,たいていこのオートテンポを利用した。
オートテンポには何種類かあったのだろうが,私が乗ったのは,たいてい構造がきわめてシンプルな,人力3輪リキシャにエンジンと料金メーターをつけただけ,といった感じの車であった。
このオートテンポは料金メーター付だが,乗車前には,たいてい料金交渉をした。リキシャと同じ。ときにはメーターで行ってくれたが,そうした車の中には異常に速くメーターが上がるように思えるものがあり,ハラハラ,ドキドキ,心配で途中下車してしまったこともあった。


オートテンポは,よく故障もした。が,そこはよくしたもので,運転手は,たいてい故障個所を素早く見つけ,自分で手際よく修理し,何事もなかったかのように車を出した。
たしかに,車の構造は極めて簡単。そして修理も,そんなことでよいのかと心配になるほど,いいかげん。とにかく「いま動くようになれば,それでよい」といった感じの,その場しのぎの応急修理。
当初,そんな「いいかげんな場当たり主義」ではダメだ,と憤慨していたが,しばらくすると,「いいかげん」は「好い加減」であり,このやり方,ひいては生き方の方がよいのではないか,と思われるようになった。そして,私自身も,かつては同じようなことをしていたことを思い出した。
以前は,原動機付自転車には14歳から乗れたので,私も中学3年の頃から乗り始めた。オートテンポ以上に構造は簡単ちゃちだったので,よく故障したが,その都度,自分であれこれ工夫して直し,乗っていた。
悪ガキ仲間で秘境・丹後半島に出掛けたときも,山あり谷ありの未舗装悪路で幾度か故障したが,何とか直さねば遭難してしまうので,あれこれ工夫し,ともかくも走るようにして帰り着いたことがあった。
が,これは,思い起こして懐かしい,というだけの話ではなかった。高度成長が始まると,世を挙げて最大限あらゆることを細分化・専門分化し,効率を上げ,利潤を追求していくことになったが,これはとりもなおさず,人間を分解し,バラバラに解体することを意味した。ほんらい統合的総体としてあるはずの人間の分解であり,人間としての幸福の解体・喪失であった。
カトマンズでオートテンポをその都度自分でやりくり修理して走らせていた運転手は,原付自転車をあれこれ自分で工夫して直し乗り回していたかつての私自身と同種の,「好い加減」な生き方をしていたのだ。
このことに気づき,私はいたく感動,ネパール式の方が幸せになれるのではと思い,それへと方向転換しようとしてきたが,これは時流に逆らうことで難しく,今もって望み通りには実現していない。残念。

谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(10): 盆地内近距離は徒歩・自転車・リキシャで
カトマンズ盆地内の移動には,1980年代後半~90年代初めの頃は,近くはたいてい徒歩か自転車かリキシャ(人力3輪車),中距離はオート・テンポ[テンプ](エンジン駆動3輪車),そして遠くは乗合バスを利用していた。貧乏旅行のため,タクシーはほとんど利用せず。
当時,車やバイクはまだ少なく,環状道路(リングロード)内,あるいは時にはキルティプルであっても,徒歩や自転車の方が,道々,あれこれ見物できて楽しかった。

自転車は,その頃の常宿,ディリバザール入口の「ペンション・バサナ」で借りた。インド製(ヒーロー自転車?)なのか,いかにもゴツくて武骨,乗り心地は良くなかったが,徒歩よりはるかに速く,便利であった。
が,なぜか自転車は,農産物,雑貨などの物資運搬・行商用を除けば,日本ほど多くは見かけなかったと記憶している。自転車は先に行商用イメージが強くなってしまったので,中流・上流の人びとにとっては,特権的ステータス・シンボルとして所有したり利用したりする魅力がなくなってしまっていたからかもしれない。



人力3輪リキシャは,荷物があったり疲れたとき,利用した。当初は,乗る前の運賃交渉が面倒だったが,だいたいの相場が分かってくると,交渉それ自体が異文化体験であり,興味深く,楽しめた。
が,リキシャはなんせ人力,上り坂ではペダルがいかにも重そう。見るからに羽振りのよい―たいてい体格もよい―地元利用客のように「金は払った」と座席でふんぞり返っている勇気はなく,坂になると,降りて歩くか,ときには上まで押し上げるのを手伝ったりもした。典型的な小心者,日本人!


日本でも,地方では,自転車や人力2輪車・3輪車(リヤカー)での人や物資の移動・輸送・行商が,1960年頃までは,ごく普通に行われていた。私の村でも,たいていの家の人が,それらで未舗装の峠を越え数キロ先の町と行き来していた。行商,通学・通勤,そして遊興のため。
1980年代後半のネパールでは,首都カトマンズ盆地であっても,1世代前の日本の農山村に近い雰囲気が,まだ随所で体感できた。懐かしかった。
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(9): 死の日常性
ネパールに初めて行って最も驚き,衝撃を受けたのは,死そのものや死に関することが日常生活の中で不断に見られること。死の意義づけは様々かもしれないが,死それ自体は,ネパールでは,ほとんど隠されてはいなかった。
近現代人は,死を忌み嫌い,出来るだけ隠そうとする。毎日のように食べる魚や動物たちも,消費者の目に触れない,どこか別のところで機械的に効率よく殺され,捌かれ,美しくパック詰めにされ,商品として売り場に並べられている。われわれ消費者としての現代人は,他の生物の死を見ることなく,喜々として,その死骸を食べ,生きているのだ。
人の死も,現代社会では日常生活から切り離され,隠され,見えにくくなってきている。今では,たいていの人が病院や介護施設内で亡くなる。死に立ち会うのは,少数の親族・縁者か施設職員。夜間であれば,誰に見られることもなく,独り死んでいく人も少なくない。
葬儀も簡素化された。遺体は,専門業者の手で「まるで生きているかのように」美しく化粧され,葬祭場での「小さな」葬式のあと,出来るだけ「目立たない」普通の車で火葬場に運ばれ,電気炉で効率よく焼かれ,きれいな灰となる。あるいは,「小さな」葬式ですら忌避され,葬儀なしの「直葬」も多くなってきた。死は,非日常的な死(著名人や事件などの場合)を除けば,今日では日常生活の場では可能な限り遠ざけられ隠されている。われわれは,通常は,人や動物の死を身近に感じることなく日々,平穏に暮らしているのだ。
ところが,ネパールでは,人であれ動物であれ,その死は,日常的に,そこかしこで目にするものであった。
カトマンズでは,遺体を担架(のようなもの)に乗せて担ぎ街中を行く葬列をよく目にしたし,バグマティやビシュヌマティの河岸の火葬場では,毎日のように火葬が行われていた。
その火葬の状況は,おびただしい目撃談にあるように,実に衝撃的なものであった。河岸で遺体が次々と焼かれ,遺灰が川に流されているのに,そのすぐそばで沐浴や遊泳,あるいは洗濯さえする人がいた。あるいはまた,火葬をながめながら立ち話や行商をする人たちもいた。むろん,死を嘆き悲しむ縁者らもいたが,そこでは,そうした人々も含め,その場全体が総体としての日常の場となっているように思われた。死は,そこでは決して日常から切り離され,遠ざけられ,隠されてはいなかった。
日本でも,かつては,人の死が今ほど隠されてはいなかった。私の子供の頃の村では,たいていの人が,自宅で,家族らに見守られながら亡くなった。遺体を清め,死に装束を着せ,葬式を執り行い,遺体を棺桶に入れ,担いで墓場まで運び,自分たちで掘った墓穴に埋めて葬るのは,全部自分たち自身。人の死は,日本でも以前は,リアルなものとして具体的な生活の場で体験されていた。


動物ともなると,ネパールでは,その死は,文字通り日常的に,いつどこでも目にするものであった。
外国人観光客にとって最も衝撃的なのは,寺院での動物供儀。たとえば,ダクシンカリ寺院に行くと,参拝者が連れてきた山羊,鶏などが,神に捧げるため次々と首を切り落とされる。一面は血の海。参拝者は,供儀後の動物を捌き,近くの小川で洗い清め,袋に入れ自宅に持ち帰る。この動物供儀は,供儀動物を持ってこなくても,誰でも,間近で,その一部始終を見守ることが出来た。
こうした動物供儀は,ネパールの他の多くの寺院でも行われていた。ネパールの人々は,尊い動物たちの生命を神に捧げ,その亡骸を神に感謝しつつ食しているのだ。商品としてのパック詰め食肉を買って食べるわれわれよりも,はるかに敬虔であり,人間的に誠実ではないか。



これは,私自身が目撃したことではないが,ネパールの地方の学校では,野外学習や遠足に鶏や山羊を連れていき,昼になると,それらを捌き,調理して食べることがよくあったそうだ。似たようなことは,子供の頃,私の村でも近隣の集会などで,ときどき行われていた。

食の近代化以前は,どこでも,他の生命の犠牲によって生かされていることが,日々の食事の際,多かれ少なかれ具体的な形で意識されていた。ネパールにおける人や動物の生死の有様は,そのことを改めて思い起こさせてくれた。
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(8):ポカラ~ダンプス~ガンドルン
ネパールに初めて行ったのは1985年3月,アンナプルナ・トレッキングが目的だった。記憶は写真以上にセピア化しているが,それでも強烈な印象は変色しつつも残っている。
カトマンズからポカラへは,バスで行った。片道39ルピー(約400円),約7時間。大型バスに乗客殺到,車内に入れない人は屋根によじ登った。私も,もたもたしていて車内に入れなかったので屋根に登ったが,外国人と見て地元民乗客が車内に移してくれた。親切に痛く感謝! 山羊やニワトリも乗車していたが料金不明。

バスは,デコボコ,クネクネ道をハラハラ,ヒヤヒヤさせながら走り,ところどころ,茶店があるところ(いまでいうドライブイン)に停まり,小休止をとった。トイレ休憩でもあるのだが,困ったことに茶店付近には,まずトイレは見当たらない。仕方なく近くの物陰や畑に行って用を足した。女性も同じ。強烈な「無トイレ文化」の洗礼だった!

夕方,ポカラにつき,ロッジに宿泊。ツイン30ルピー(300円位)。その頃のポカラは,カトマンズよりもはるかにのどかな,田園の中の小さな町であった。いまは50万人近い大都市だが,当時は6万人ほど。車も少なく,自然にあふれていた。ブーゲンビリアなど花々が咲き乱れ,ペワ湖は水清く,山からは飾りをつけた馬やラバの隊商が町に降りてきた。まるで,おとぎの国!



ポカラからダンプス~ランドルン~ガンドルンと,トレッキングを楽しんだ。マチャプチャレやアンナプルナに感動したことはいうまでもないが,それ以上に印象的だったのは,村の風景や生活。まるで昔の日本の村を追体験しているようだった。
村のロッジ(宿屋)はごく質素であったが,それだけになおのこと懐旧の念に駆られた。ツイン,1泊4~6ルピー(40~60円位)。申し訳ないので,収穫したてのエンドウを買い求め,茹でて食べた。うまかった!



体験は,時のふるいにかけられ,忘れがたいものだけが変形し変色しつつ残っていく。それに加え,外国人の体験は,もともと余所者の身勝手な,自分本位のものであることを免れない。そうしたことは重々承知しながらも,「後期」高齢者ともなると,古き良き昔の懐旧には,往々にして抗いがたいのである。
【参照2022/09/28】郷里とネパール:失って得るものは?
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(7):懐かしき暖色の古都
初めてネパールに行った1980年代後半の頃のカトマンズは,「暖色の古都」であった。
日本では蛍光灯や水銀灯が普及し,街も村も青白い光に照らされ,明るくはあるが無機質の冷たい感じは否めなかった。
ところが,ネパールでは,1990年代後半頃までは,照明はほとんどが暖色系のナトリウム灯か白熱灯,あるいは灯火であった。飛行機が日没後,カトマンズ盆地上空に近づくと,暖色に柔らかく包まれた街や村が下方に小さく見え始め,旋回,下降につれ大きくなり,ほどなくして,その暖色の街の中へと機は着陸する。
はじめてこの暖色の夜景を目にしたとき,カトマンズは,まるで不思議のおとぎの国の古都のように思われた。2回,3回と訪れると,その思いに,そこはかとない懐かしさの念が積み重なっていった。わが村や町も,戦後しばらくは,これに近い夜景だったからだ。
しかも,カトマンズ盆地の暖色系の暖かさは,夜景だけではなかった。盆地の街や村では,建物にも道路や広場にもレンガが多用されており,昼間も,暖色系の優しい雰囲気を醸し出していた。まだ車が少なかったので,レンガ敷きの道路も広場も美しく維持されていた。
レンガといえば,もう一つ忘れがたいのが,郊外のレンガ工場。一面レンガ色にくすむ広い敷地と大きなレンガ窯,そして,そこにそそり立つ異様に高い煙突。日本では目にしたことのない不思議な光景であり,訪ネのたびにキルティプルやバクタプル付近のレンガ工場を見に出かけていた。
こうしたカトマンズ盆地の暖色の優しい光景は,1990年代後半以降,急速に失われて行き,いまでは多くの地域で,日本と大差ない合理的で冷たい感じの街や村へと変貌してしまっている。




【参照】煉瓦と桜のキルティプール 田園に降り立つ神
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(5):神仏と祭りのカトマンズ盆地
ネパールに行って何よりも驚いたのは,神仏と祭りの多さ。いたるところに神や仏がいるし,毎日のように,どこかで大小さまざまな祭りが行われていた。人びとの生活は神仏とともにあった。
日本のわが村でも,1950年代末頃まで,高度成長・生活近現代化の波が及び始めるまでは,ネパールのそのような生活に近い暮らしであった。
神仏は,村の寺や神社にだけでなく,山や森や川や田や畑など,いたるところにいた。村人は,古来の習わしに従い,それぞれの神仏へのお参りを欠かさなかった。神仏は無数にいて,村人と共に暮らしていた。
いまでは信じられないことだが,小さなわが村でも秋の収穫後には,それぞれの家が親戚や友人を招き,盛大に祭りを祝った。獅子舞など様々な歌舞も催され,出店さえ軒を連ね,繁盛していた。近隣の村々でも,競って,同じように祭りを催していた。
今は昔,野の神仏は大半,忘れられ,雑木・雑草に埋もれるか,行方不明になってしまっている。村の生活は近現代化・合理化され,経済化され,もはや人びとには神仏にかかわる余裕はなくなってしまった。
近現代化,合理化,経済化が普遍的な現象だとすると,ネパールもわが村と同じような経過をたどるのではないか?
ネパールには大地震(2015年5月)翌年に行ったきりだが,そのときの印象では,震災もあってか,カトマンズ盆地の街や村は劇的に近現代化し始めていた。道端の神仏は無くなるか排ガスまみれ。小さな社寺の中には,見捨てらたかのように見えるものが少なくなかった。
ネパールでも,日本ほどではないだろうが,国家社会全体の資本主義化が進み,それとともに人びとの生活の世俗化・脱伝統宗教化も進行していくのではないだろうか。




谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(4):水の都カトマンズ
1990年代初期は,カトマンズやパタン,バクタプルはまだ,それぞれ水の豊かな盆地の小さな古都であったと記憶している。
共同水場の多くでは,水場がそこにつくられたのだから当然とはいえ,吐水口から水が出ていて,水汲み,水浴,洗濯などが日常的に行われていた。
バグマティ川やビシュヌマティ川も,汚れ始めていたとはいえ,水浴や魚取をするなど,まだ人びとの生活で日常的に利用されていた。
そのカトマンズで水場の水が枯渇し,河川がドブ川のように汚染されてしまったのは,いつの頃からであろうか?
それは,おそらく1990年代半頃からのカトマンズ盆地の急激な人口増,都市化の結果であろう。それまでは田園に囲まれた小さな,雰囲気的には半農村的な古都であったカトマンズ,パタン,バクタプルが,民主化運動(1990年)成功後の自由資本主義化とマオイスト人民戦争(1996~2006年)による地方からの大量人口流入とにより,一つの巨大な近現代的大消費都市圏となってしまった。
水が大量に汲み上げられ,使用され,枯渇してしまい,また河川が無処理廃棄物でドブ川となってしまったのは当然と言わざるをえない。




【参照】(1)The Bagmati at Thapathali as recently as the 1970s was still flowing along a broad , sandy floodplain.
(2)ゴミのネパール
(3)1965年のバグマティ川はきれいだった。(भीष्म)Bhisma@Bhismak1962
(4)渇水バイスダーラ https://www.himalkhabar.com/news/133500
谷川昌幸
セピア色のネパール(3):マルクス・レーニン・毛沢東と古来の神仏たち
ネパールに初めて行った頃,街でも村でも,共産主義の様々なシンボルやプロパガンダがヒンドゥー教や仏教の神仏たちと,いたるところで並存・混在しているのを見て驚いた。まるで共産主義が神仏と共闘しているかのようだ。
日本でも,かつて革新勢力の牙城だった京都が,これに似た状況にあった。京都には古い寺院が多く,確固とした伝統と地域社会への影響力を保持していた。また一方,京都には大学も多くあり,庶民に京都の誇りとして一目置かれ,大切にされていた。その京都の大学では当時,社会主義や共産主義を支持し活動する教職員や学生が多数いたが,庶民は「大学さんやから」とこれを黙認し,あるいは支持さえしていた。京都では,本来異質な伝統的宗教と革新的社会主義・共産主義が平和共存していたのである。
その京都を目の敵にし,京都への強権的介入を始めたのが,自民党政権。が,この中央からの介入は,誇り高き京都の逆鱗に触れた。京都の寺院勢力と社共革新勢力は,自民党中央政府への抵抗・反対で利害が一致し,従来の消極的平和共存の枠から一歩外に出て,陰に陽に「共闘」することになった。他地域から見れば,これは無節操な「野合」かもしれないが,政治的には実利があり,その限りでは十分に合理的な選択であった。
この京都の状況を見ていたので,ネパールにおける共産主義と神仏の並存・混在それ自体には驚かなかったが,ネパールにおけるそれは京都の比ではなかった。いたるところで,仏陀とその弟子やヒンドゥーの神々たちが,マルクス・レーニン・毛沢東・ゲバラらと相並び,庶民を見守っていたのだ。
政治的打算や実利は,むろん双方にあっただろう。が,実際にはそんな表面的なものではないことが,すぐに判った。多くの人々が,伝統的なヒンドゥーや仏教の生活様式ーーカースト制などーーを堅持しつつ,同時に他方ではマルクス,レーニン,毛沢東,チェ・ゲバラらのスローガンや肖像をかかげ,行進したり集会を開いたりしていた。たとえば,当時の「共産党‐統一マルクスレーニン派」も,正統的中道の会議派(コングレス党)以上に,ヒンドゥー王国の守護者たる王族と近い関係にあった。左手に共産党宣言,右手に古来の経典!
ネパールは,政治的にも「神秘の国」だったのだ。

谷川昌幸
セピア色のネパール(1):写真のデジタル化保存
ネパールに初めて行ってから早や四半世紀。撮りためた写真も,その時々の記憶も鮮明さを失い,セピア色に退色しつつある。自然の摂理とはいえ,淋しさを禁じ得ない。
そこで,身辺整理も兼ね,写真をデジタル化し,保存することにした。
といっても,もともと記録・整理が不得手なうえに転勤・転居が重なり,写真はあちこちに散乱,撮影日時・場所の特定もできないものが多い。そのため史料的価値のない写真が大半であろうが,デジタル化すれば,少なくとも重くて嵩張る紙焼き写真は処分できる。
そう自分を納得させ,小型スキャナーを買い求め,デジタル化に着手した。以下,いくつかご紹介する。(掲載写真はスキャナー付属ソフトで自動補正済。)


【参照】ネパール写真史料
*民族学博物館 ネパール写真データベース
*Internet Archive: Nepal Bhasa Historic Images
谷川昌幸(C)
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