Archive for the ‘経済’ Category
生成AIで世論操作?
生成AIは,一般向けBingとChatGPTを一昨日,初めて,ほんのちょっと使ってみただけ。全くの素人だ。が,それにもかかわらず,生成AIのあまりの有能さにビックリ仰天,これは大変なことになった,と寒気を覚えた。

このような革命的な新技術が現れたとき,人がまず思いつくのは,金儲けと世論操作。実業家であれば,革命的経費削減(とりわけ人件費)・事業拡大で大儲けができるとほくそ笑むにちがいない。また政治家なら,生成AIにひそかに細工し,都合の良い方向に世論を誘導しようと考えるはずだ。これは自然な人情,止めようがない。

いずれも心配だが,いまの私にとって,より気がかりなのは,生成AIの政治利用の方。BingやChatGPTは親米の,「文心一言」は親中の,世論形成のために利用されるのではないか? たとえば,「文心一言」の「契約特記事項」では,こう明記されている(Google自動翻訳)。
3. 利用規則
1.・・・・以下の行為を含むがこれらに限定されない違法または不適切な活動を行わないことに同意するものとします。・・・・
2)国家安全保障を危険にさらし、国家機密を漏らし、国家権力を転覆させ、国家の統一を損なう。
3)国家の名誉と利益を害する。・・・・
11)国家主権および領土保全の侵害、地図の作成および公開に関する関連する国内規制の違反を伴う可能性のあるコンテンツ。・・・・
6)風説を流布し、社会秩序を乱し、社会の安定を損なうもの。・・・・
5. ・・・・以下のインターネットの収益を遵守します。1)法規制のボトムライン 2)社会主義システムのボトムライン 3)国益のボトムライン ・・・・
自動翻訳からの一部抜粋で少々分かりにくいが,この警告だけを見ても,AIの政治利用が決して単なる杞憂でないことは明白だ。むろん,BingやChatGPTにしても,「文心一言」ほどあからさまではないとしても,政治的に操作しようと思えば出来ないわけがない,と見るべきだろう。

といっても,今の私は生成AI超初心者,このような大問題は,取り組むには荷があまりにも重すぎる。そこで,とりあえず「ネパール」について,いくつか生成AIに質問し,どのような回答が得られるか,検討してい行くことにしたい。
なお,「文心一言」は最も興味深くはあるが,まだ試用が始まったばかりなので,今回は割愛する。
谷川昌幸(C)
生成AI:21世紀の文化大革命
今朝,遅まきながら生成AI(チャットAI)を使ってみた。ビックリ仰天! 「21世紀の産業革命」と呼ばれるのも,もっともだ。というよりもむしろ,これまでの人間文化を根底から覆す「21世紀の文化大革命」となる可能性ー危険性ーが大だ。人工知能(AI)が,人間の知能より高性能となり,人間にとって代わって考え,働くようになる。人間文化からAI文化へ!
*生成(生成的)AI=Generative Artificial Intelligence。今朝使用はマイクロソフトBing。OpenAI社の製品名は「チャットGPT」

このような危惧に対し,たいてい「AIはいくら高効率でも創造性はないから,使い方さえ誤らなければ,それはあくまでも人間の道具であり,人間にとって危険なものではない」との反論がなされる。
が,これは単なる申し訳であり,気休めにすぎない。チャットAIを数分でも使ってみれば,それが自分よりもはるかに博識で,想像力≒創造力に富んでいることを認めざるをえなくなる。
AI革命は,「技術」革命・「産業」革命にとどまるものではなく,事実上,「文化」革命。これから先,思いもよらぬことが次々と起こり始めることは,まず間違いない。

日本にいて,すぐ思い当たるのは,何といっても教育。たいていの先生は,すでにチャットAIにかなわない。当然,生徒・学生は,先生よりもAIに質問し,学ぶようになる。先生も学校も不要。しかも,その上,AIからいくら学んでも,人は誰もAIより賢くはなれない。AI支配のデストピア!
ーーと,こんな風に見るのは,ちょっと悲観的すぎかな? なんせチャットAIは,今朝,初めて使ってみたにすぎないから。
これから先,チャットAIを質問攻めにし,答えてもらって,その知識や性格や振る舞い方を最大限理解し,その上で,それとの健全な交際の仕方を見つけ出していくことにしたい。

谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(14): バクタプルはトロリーバスで
バクタプルへは1985年,トロリーバスで行った。乗車は,たしかマイティガル付近。幸い車内には入れたが,例の如くオンボロ,ギュウギュウ詰め。降りたのは,バクタプル旧市街の小川の向かい側で,たぶんスルヤビナヤク。
トロリーバスを降りると,一面の菜の花畑の向こうに,バクタプルの小じんまりしたレンガ造りの街が一望できた。まるで,おとぎの国。
トロリーバスは,古都そのもののバクタプルはいうまでもなく,まだ古都の面影を色濃く残していたカトマンズにも,よく似合う乗り物であった。
が,残念なことに,中国援助で1975年に導入されたトロリーバスは,適切な維持管理が出来ず,2009年に全廃されてしまった。




もともとカトマンズ盆地は,それほど広くないうえに,歴史的に貴重な文化財や街並みが多く残されており,人びとの移動手段としてはトロリーバスや路面電車の方が適していた。
ところが,盆地の古都・京都が,地形も文化も考慮せず,市街に張り巡らされていた路面電車を全廃してしまったように(私鉄・京福電鉄だけが短区間とはいえ健気に孤高の孤塁を守っている),ネパールもトロリーバスを廃止,道路を新設・拡張し,車社会へと驀進することになった。その結果,盆地はバイクや車であふれかえり,排気ガスがよどむと,氷雪の霊峰ヒマラヤは霞み,街の散策にはマスクさえ必要になってきた。
このような車社会化のカトマンズや京都と対照的なのが,欧州の古都。多くが,路面電車やトロリーバスを,必要な改良・改革は大胆に取り入れつつも,なお運行し続けている。その結果,無機質な「近現代的」車道の拡張・新設は抑制できるので,欧州の古都の多くは今なお伝統的雰囲気を保ち,より文化的にして人間的である。(参照:欧州/ウィーン)




カトマンズ,京都などの古都が,街の非人間化をもたらすバイクや車を規制し,路面電車・トロリーバスなど,より人間的にして文化的な乗り物の導入へと向かうことを願っている。
【参照】(2023/02/25追加)
「このままの形で維持していくことは非常に難しい…. そんな厳しい路線をJRから引き継ぎ、黒字化させた例がある。富山市の富山港線だ。地元主体でLRT化し、利用者数を1.5倍超にまで伸ばした。….改革を主導した森雅志・前富山市長に聞いた。」河合達郎「廃止に向かうローカル線を黒字転換」JBpress,2023.2.25
【参照2】(2023/02/27追加)
Sushila Budathoki, Why is the air in Bhaktapur so bad? Brick kilns, heavy highway traffic and prevailing winds make air quality the dirtiest in Kathmandu Valley, Nepali Times, February 24, 2023
【参照3】(2023/03/07追加) Trolleybus on the Kathmandu-Bhaktapur road
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(12): オートテンポからサファテンポへ
ネパールのオートテンポには,その「好い加減さ」に加え,もう一つ,驚かされたことがある。騒音と排気ガスである。
オートテンポは,2~3人乗りタクシーも数人~十数人乗り小型バスもディーゼル・エンジン。混合燃料2サイクル・エンジンも見たような気がするが,未確認。いずれにせよ,これらのエンジンは,ともに騒音と排気ガスがひどい。バタバタ,モクモク・・・・。盆地だから,天候によっては,ひどい排気ガス汚染に悩まされることになる。


これに怒りオートテンポ禁止,電動「サファ(清浄)テンポ」の導入を訴え始めたのが,内外の環境保護派。車の電動化(EV化)はまだ試行段階,欧米でも先行きはほとんど見通せなかった。そこで,例の如く,彼らが目論んだのが,ネパールをEV化モデル国とし,世界にアピールすること。
正確な時系列は確認していないが,無排気ガスで清浄な電動サファテンポは,早くも1993年にはカトマンズで走り始め,数年後には政府の税優遇,電力料金割引など手厚い支援を受け,国内生産も始められた。1998年には110台ほどが運用される一方,オートテンポは翌1999年には禁止されることになった。
ところが,現実には,サファテンポは高コスト。電池はアメリカからの輸入で,2年と持たない。また,それに加え,坂の多いカトマンズではパワー不足。そのため政府の方針もぐらつき,オートテンポを,比較的低公害のガソリン車やLPG(プロパン)車に切り替えることになってしまった。
そのため,旧式オートテンポも最新サファテンポも,低コスト,高性能の日本車に取って代わられた。小型タクシーではマルチスズキ(インド製),小型・中型バスではトヨタ・ハイエースなど,盆地は日本車に瞬く間に席巻されてしまった。
ネパールのEV化は失敗,とその頃,私も見ていた。しかし,電話において,有線を飛び越え,一気に無線スマホ化することに成功したように,また街灯をソーラー蓄電池式LED灯に一気に転換したように,いまネパールは,捲土重来,小型タクシーから大型バスまで,再びEV化に向かって大きく前進し始めた。車においても,一足飛びの前進が,ネパールでーー日本ではなくーー起こるのではないだろうか。期待しつつ注目している。
ローテクの人間臭いオートテンポからハイテクの超先進的EVへーーいかにもネパールらしいアクロバティックな一足飛びの大飛躍。4半世紀前のセピア化した写真を眺めていると,ついそんな感慨に打たれることになる。



【参照1】ネパールEV史に詳しいのは:
・Sushila Maharjan,”Electric Vehicle Technology in Kathmandu, Nepal:Look at its Development,” 2002

【参照2】サファテンポの近年の状況については:
・Atul Bhattarai, When Kathmandu Was “Shangri-La for Electric Vehicles,” 2019
・Benjie de la Pena, Hello, Safa Tempo!, 2021
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(11): ちょっと遠出はオートテンポで
1980年代後半~90年代前半頃のカトマンズ滞在では,オートテンポ(オートリキシャ)とバスも印象深く記憶に残っている。(テンポ[テンプ]=3輪車)
オートテンポは,インド製のエンジン付小型3輪車。2,3人乗りタクシーとして使用され,街中を流していたり,盛り場で客待ちをしているのは,多くがこれであった。私も,少し遠出するときや荷物の多いとき,あるいは2,3人で移動するときは,たいていこのオートテンポを利用した。
オートテンポには何種類かあったのだろうが,私が乗ったのは,たいてい構造がきわめてシンプルな,人力3輪リキシャにエンジンと料金メーターをつけただけ,といった感じの車であった。
このオートテンポは料金メーター付だが,乗車前には,たいてい料金交渉をした。リキシャと同じ。ときにはメーターで行ってくれたが,そうした車の中には異常に速くメーターが上がるように思えるものがあり,ハラハラ,ドキドキ,心配で途中下車してしまったこともあった。


オートテンポは,よく故障もした。が,そこはよくしたもので,運転手は,たいてい故障個所を素早く見つけ,自分で手際よく修理し,何事もなかったかのように車を出した。
たしかに,車の構造は極めて簡単。そして修理も,そんなことでよいのかと心配になるほど,いいかげん。とにかく「いま動くようになれば,それでよい」といった感じの,その場しのぎの応急修理。
当初,そんな「いいかげんな場当たり主義」ではダメだ,と憤慨していたが,しばらくすると,「いいかげん」は「好い加減」であり,このやり方,ひいては生き方の方がよいのではないか,と思われるようになった。そして,私自身も,かつては同じようなことをしていたことを思い出した。
以前は,原動機付自転車には14歳から乗れたので,私も中学3年の頃から乗り始めた。オートテンポ以上に構造は簡単ちゃちだったので,よく故障したが,その都度,自分であれこれ工夫して直し,乗っていた。
悪ガキ仲間で秘境・丹後半島に出掛けたときも,山あり谷ありの未舗装悪路で幾度か故障したが,何とか直さねば遭難してしまうので,あれこれ工夫し,ともかくも走るようにして帰り着いたことがあった。
が,これは,思い起こして懐かしい,というだけの話ではなかった。高度成長が始まると,世を挙げて最大限あらゆることを細分化・専門分化し,効率を上げ,利潤を追求していくことになったが,これはとりもなおさず,人間を分解し,バラバラに解体することを意味した。ほんらい統合的総体としてあるはずの人間の分解であり,人間としての幸福の解体・喪失であった。
カトマンズでオートテンポをその都度自分でやりくり修理して走らせていた運転手は,原付自転車をあれこれ自分で工夫して直し乗り回していたかつての私自身と同種の,「好い加減」な生き方をしていたのだ。
このことに気づき,私はいたく感動,ネパール式の方が幸せになれるのではと思い,それへと方向転換しようとしてきたが,これは時流に逆らうことで難しく,今もって望み通りには実現していない。残念。

谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(8):ポカラ~ダンプス~ガンドルン
ネパールに初めて行ったのは1985年3月,アンナプルナ・トレッキングが目的だった。記憶は写真以上にセピア化しているが,それでも強烈な印象は変色しつつも残っている。
カトマンズからポカラへは,バスで行った。片道39ルピー(約400円),約7時間。大型バスに乗客殺到,車内に入れない人は屋根によじ登った。私も,もたもたしていて車内に入れなかったので屋根に登ったが,外国人と見て地元民乗客が車内に移してくれた。親切に痛く感謝! 山羊やニワトリも乗車していたが料金不明。

バスは,デコボコ,クネクネ道をハラハラ,ヒヤヒヤさせながら走り,ところどころ,茶店があるところ(いまでいうドライブイン)に停まり,小休止をとった。トイレ休憩でもあるのだが,困ったことに茶店付近には,まずトイレは見当たらない。仕方なく近くの物陰や畑に行って用を足した。女性も同じ。強烈な「無トイレ文化」の洗礼だった!

夕方,ポカラにつき,ロッジに宿泊。ツイン30ルピー(300円位)。その頃のポカラは,カトマンズよりもはるかにのどかな,田園の中の小さな町であった。いまは50万人近い大都市だが,当時は6万人ほど。車も少なく,自然にあふれていた。ブーゲンビリアなど花々が咲き乱れ,ペワ湖は水清く,山からは飾りをつけた馬やラバの隊商が町に降りてきた。まるで,おとぎの国!



ポカラからダンプス~ランドルン~ガンドルンと,トレッキングを楽しんだ。マチャプチャレやアンナプルナに感動したことはいうまでもないが,それ以上に印象的だったのは,村の風景や生活。まるで昔の日本の村を追体験しているようだった。
村のロッジ(宿屋)はごく質素であったが,それだけになおのこと懐旧の念に駆られた。ツイン,1泊4~6ルピー(40~60円位)。申し訳ないので,収穫したてのエンドウを買い求め,茹でて食べた。うまかった!



体験は,時のふるいにかけられ,忘れがたいものだけが変形し変色しつつ残っていく。それに加え,外国人の体験は,もともと余所者の身勝手な,自分本位のものであることを免れない。そうしたことは重々承知しながらも,「後期」高齢者ともなると,古き良き昔の懐旧には,往々にして抗いがたいのである。
【参照2022/09/28】郷里とネパール:失って得るものは?
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(5):神仏と祭りのカトマンズ盆地
ネパールに行って何よりも驚いたのは,神仏と祭りの多さ。いたるところに神や仏がいるし,毎日のように,どこかで大小さまざまな祭りが行われていた。人びとの生活は神仏とともにあった。
日本のわが村でも,1950年代末頃まで,高度成長・生活近現代化の波が及び始めるまでは,ネパールのそのような生活に近い暮らしであった。
神仏は,村の寺や神社にだけでなく,山や森や川や田や畑など,いたるところにいた。村人は,古来の習わしに従い,それぞれの神仏へのお参りを欠かさなかった。神仏は無数にいて,村人と共に暮らしていた。
いまでは信じられないことだが,小さなわが村でも秋の収穫後には,それぞれの家が親戚や友人を招き,盛大に祭りを祝った。獅子舞など様々な歌舞も催され,出店さえ軒を連ね,繁盛していた。近隣の村々でも,競って,同じように祭りを催していた。
今は昔,野の神仏は大半,忘れられ,雑木・雑草に埋もれるか,行方不明になってしまっている。村の生活は近現代化・合理化され,経済化され,もはや人びとには神仏にかかわる余裕はなくなってしまった。
近現代化,合理化,経済化が普遍的な現象だとすると,ネパールもわが村と同じような経過をたどるのではないか?
ネパールには大地震(2015年5月)翌年に行ったきりだが,そのときの印象では,震災もあってか,カトマンズ盆地の街や村は劇的に近現代化し始めていた。道端の神仏は無くなるか排ガスまみれ。小さな社寺の中には,見捨てらたかのように見えるものが少なくなかった。
ネパールでも,日本ほどではないだろうが,国家社会全体の資本主義化が進み,それとともに人びとの生活の世俗化・脱伝統宗教化も進行していくのではないだろうか。




谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(4):水の都カトマンズ
1990年代初期は,カトマンズやパタン,バクタプルはまだ,それぞれ水の豊かな盆地の小さな古都であったと記憶している。
共同水場の多くでは,水場がそこにつくられたのだから当然とはいえ,吐水口から水が出ていて,水汲み,水浴,洗濯などが日常的に行われていた。
バグマティ川やビシュヌマティ川も,汚れ始めていたとはいえ,水浴や魚取をするなど,まだ人びとの生活で日常的に利用されていた。
そのカトマンズで水場の水が枯渇し,河川がドブ川のように汚染されてしまったのは,いつの頃からであろうか?
それは,おそらく1990年代半頃からのカトマンズ盆地の急激な人口増,都市化の結果であろう。それまでは田園に囲まれた小さな,雰囲気的には半農村的な古都であったカトマンズ,パタン,バクタプルが,民主化運動(1990年)成功後の自由資本主義化とマオイスト人民戦争(1996~2006年)による地方からの大量人口流入とにより,一つの巨大な近現代的大消費都市圏となってしまった。
水が大量に汲み上げられ,使用され,枯渇してしまい,また河川が無処理廃棄物でドブ川となってしまったのは当然と言わざるをえない。




【参照】(1)The Bagmati at Thapathali as recently as the 1970s was still flowing along a broad , sandy floodplain.
(2)ゴミのネパール
(3)1965年のバグマティ川はきれいだった。(भीष्म)Bhisma@Bhismak1962
(4)渇水バイスダーラ https://www.himalkhabar.com/news/133500
谷川昌幸
セピア色のネパール(2):エリート校の先進性
1993年撮影の秘書的事務職専門学校の授業風景。良家子女のための学校だが,当時としては最新で高度。
授業はもちろん英語。英語で教え,学ぶ。実務的な教科に加え,地歴や数学など関連分野の授業もやっていた。
実技は,機械式の英文タイプだけでなく,パソコンも教えていた。民族衣装でのタイプライターやパソコンの練習は,日本人にとっては異国情緒にあふれ,絵になる。
それにしても,1993年にはすでに最新のパソコン教育が行われていた。意欲的にして先駆的!
さらに女性対象の秘書的事務職専門学校だと思われるのに,少数ながら男性も一緒に学んでいた。その限りでは,当時の日本よりはるかに先進的!




谷川昌幸(C)
ネパール不動産バブル,日本人もビックリ!(5)
5.不動産価格に日本人もビックリ
ネパールの不動産価格高騰は,ネパリタイムズ記事が批判するように異様であり,これには地価上昇に慣れているはずの日本人も驚いている。たとえば,こんな記事がある――
▼miyachika「ネパールに移住するなら知っておきたい,年々高騰し続けるネパールの土地事情」miyachikaのネパール暮らし,2016/11/23日
▼ネパール民宿 Katunje Diary「だから言ったじゃないの♪♪」2018/01/31
▼ネパール民宿 Katunje Diary「カトマンズで家を探す義弟」2018/01/23
▼ネパール民宿 Katunje Diary「カトマンズの土地転がし」2018/03/26
▼宮本ちか子「地価が異常な上昇をし続けるヒマラヤの見える都市で、家を持つために大家になる」R.E.port, 2020/2/1
たしかに,このところのネパール不動産価格の高騰は異様であり,私自身,驚きを禁じ得ないが,その一方,振り返ってみると,すでに前世紀末頃には,カトマンズ盆地の不動産はかなり割高となっていた。その頃,これは不動産バブルであり,いずれ破裂するに違いないと危惧した記憶がある。
ところが,それから早や四半世紀たつというのに,不動産バブルは膨らみ続け,一向に破裂しそうにない。
これでは,たとえ不動産ローン金利が12%,あるいはそれ以上であっても,借金して不動産を買ったものが勝ちと多くの人々が考え,不動産投資に走るのも分からないではない。
不動産バブルはいつかは破裂するだろうが自分はその前に売り逃げられる――ネパールの不動産投機家たちも,かつての日本の同業者と同様,そう楽観視しているにちがいない。
■建設中の「カトマンズ・ビュータワー」。29階建高層ビルとなる予定だが,反対も多い(Rising Nepal,2020/12/02)
谷川昌幸(c)
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