ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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セピア色のネパール(8):ポカラ~ダンプス~ガンドルン

ネパールに初めて行ったのは1986年3月,アンナプルナ・トレッキングが目的だった。記憶は写真以上にセピア化しているが,それでも強烈な印象は変色しつつも残っている。

カトマンズからポカラへは,バスで行った。片道39ルピー(約400円),約7時間。大型バスに乗客殺到,車内に入れない人は屋根によじ登った。私も,もたもたしていて車内に入れなかったので屋根に登ったが,外国人と見て地元民乗客が車内に移してくれた。親切に痛く感謝! 山羊やニワトリも乗車していたが料金不明。

■ガードレールなし。崖下には転落車も。

バスは,デコボコ,クネクネ道をハラハラ,ヒヤヒヤさせながら走り,ところどころ,茶店があるところ(いまでいうドライブイン)に停まり,小休止をとった。トイレ休憩でもあるのだが,困ったことに茶店付近には,まずトイレは見当たらない。仕方なく近くの物陰や畑に行って用を足した。女性も同じ。強烈な「無トイレ文化」の洗礼だった!

■少し大きなバス停で小休止(町名失念)

夕方,ポカラにつき,ロッジに宿泊。ツイン30ルピー(300円位)。その頃のポカラは,カトマンズよりもはるかにのどかな,田園の中の小さな町であった。いまは50万人近い大都市だが,当時は6万人ほど。車も少なく,自然にあふれていた。ブーゲンビリアなど花々が咲き乱れ,ペワ湖は水清く,山からは飾りをつけた馬やラバの隊商が町に降りてきた。まるで,おとぎの国!

■ペワ湖岸で放牧
■ペワ湖で食器洗い

■ポカラに入ってくる隊商

ポカラからダンプス~ランドルン~ガンドルンと,トレッキングを楽しんだ。マチャプチャレやアンナプルナに感動したことはいうまでもないが,それ以上に印象的だったのは,村の風景や生活。まるで昔の日本の村を追体験しているようだった。

村のロッジ(宿屋)はごく質素であったが,それだけになおのこと懐旧の念に駆られた。ツイン,1泊4~6ルピー(40~60円位)。申し訳ないので,収穫したてのエンドウを買い求め,茹でて食べた。うまかった!

■ダンプス付近

■ダンプスのロッジ
■ガンドルンのロッジ前から望むアンナプルナ

体験は,時のふるいにかけられ,忘れがたいものだけが変形し変色しつつ残っていく。それに加え,外国人の体験は,もともと余所者の身勝手な,自分本位のものであることを免れない。そうしたことは重々承知しながらも,「後期」高齢者ともなると,古き良き昔の懐旧には,往々にして抗いがたいのである。

【参照2022/09/28】郷里とネパール:失って得るものは?

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/09/19 at 16:45

紹介:安倍泰夫『ネパールで木を植える』(5)

5 大震災と森林による生活安全保障
ネパールでは,10年に及ぶ人民戦争が2006年に終結,2008年に連邦民主共和制となり,2014年には制憲議会と政党内閣が成立した。ネパールが,この民主的新体制の下で生活の安定・開発促進へと向かい始めた矢先の2015年4月,ゴルカ地方を震源とする大地震が発生した。

この地震の被害は,死者8964人,被災者500万人余など,甚大であった。建物も,民家だけでなく寺院,学校,ビルなど,多くが全壊・半壊の大被害を受けた。

著者の植林事業地域でも,震源地が近かったため,甚大な被害が出た。トリスリ・バザールの町は崩壊,「植林センター」をはじめ村々の家屋の多くも倒壊した。が,植林した森は無事であった。

村人たちは,備蓄食料が失われてしまったので,森に植えたマンゴーやパパイヤの木の実を食べてしのいだ。森にはまた,水や再建用資材もあった。

大地震で家が壊れても,森は不死身だった。根はしっかり土をつかまえ,水を保持する。泉が湧く。・・・・生長した木を使って被災者用の仮設も作られた。植林の効果は着実に現れている。」(300頁)

日本でも,森林は,つい数十年前までは,村の生活基盤の一つであった。私の村でも,炊事用・暖房用のマキ,家屋新築・改築用木材,キノコ用ホダ木,売却・収益用木材など,ほとんどすべて自分たちが植林し育てた私有林や共有林から取ってきていた。そして水も田畑には山からの流水を,また自宅用には井戸水か,裏山の湧水をパイプで引き込むかして,使用していた。

もしあの頃,日本の山々がネパールのようであったなら,村の生活はネパールのそれと大差なかったであろう。水不足のため農業は過酷であり,子供であった私も,遠くの川まで毎日,灌漑用や飲用の水を汲みに行かされていたに違いない。

『ネパールで木を植える』を読むと,「外材」を無尽蔵であるかのごとく輸入し使い捨てにしている今の日本人の暮らし方が,自然に反し,「持続可能(sustainable)」ではないことがよくわかる。

日本の山々は緑豊かなように見えるが,現実には,山林の多くは手入れされることなく放置され,荒れるがままである。日本の山林も危機にある。本書は,私たち自身の日本の山々のことを考えるためにも,読まれるべきである。

200206e ■イラム(谷川2015/01/28)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/02/10 at 18:37

カテゴリー: ネパール, 自然, 農業, 国際協力,

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紹介:安倍泰夫『ネパールで木を植える』(3)

3 植林事業の大切さ
著者は,ネパールの山々の乱伐による荒廃と,それに起因する水不足・下痢蔓延を目にし,植林による森林再生事業に取り組んでこられた。30年にも及ぶ事業で,100万本もの苗木が植えられ,55万本が活着,森林が広がっていった。地域住民の生活・健康はむろんのこと,大きくは地球温暖化防止の観点からも,その業績は高く評価される。

私がネパール山地の荒廃を目にしたのは,1980年代半ばのこと。何の予備知識もないまま,初めてネパールを訪れた私にとって,ネパールはまるで神秘の国,驚きは想像をはるかに超えていた。

その一つが,山地の風景。文字通り「耕して天に至る」。日本の比ではない。丘や山は極限まで開墾され,田や畑になっていた。しかもなお,いたるところで伐採,開墾が行われている。

その結果,たとえば,どこに行っても急峻な山腹にはたいてい山崩れが見られたし,村々では女性たち―少女から老婆まで―が真鍮製の大きな水瓶を抱え,遠くの水場から休み休み水を運び上げているのに出会った。ヒマラヤをバックに絵にはなるが,見るに忍びない村の生活の現実であった。

こうした山地の開墾・荒廃はいたるところで見られたが,強く印象に残っている地域の一つが,著者の植林事業地トゥプチェ(トリスリバザール北方)の手前の「カカニの丘」周辺。

カカニは標高2030m,カトマンズから北へ25km位。そこへ出かけたのは四半世紀前。道はまだ狭くデコボコ,車はオンボロだったが,それでも首都から遠くはない。そのカカニに向けカトマンズから出て目にした丘や山は,下からほぼ頂上まで見事に開墾され,田畑や住居地になっていた。しかも,わずかに残った森林でさえ,あちこちで伐採され開墾が進められていた。いまいけば,丸裸になっているに違いない。

カカニ~トゥプチェ地域の現状は,グーグル映像―乾季撮影であろうが―を見ると,おおよそ見当がつく。茶色の山地が大きく広がっている。

200206d

■カカニ~トゥプチェ地域。山地も開墾(グーグル地図2022/02/06)

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2022/02/08 at 10:42

紹介:安倍泰夫『ネパールで木を植える』(2)

1 運命的な「声」の導き:雪崩からの生還・少女との出会い・植林事業へ
著者を植林事業へと導いたのは,運命的な「声」であった。

1974年10月,著者はラムジュン・ヒマール登山隊に医師として参加,6984mの山頂への登頂にも成功した。が,下山途中,雪崩に巻き込まれ,意識を失った。やがて意識は戻ったものの,高山病と降雪ホワイトアウトで先に進めず,極寒の雪原に横たわったまま身動きできなくなってしまった。

遭難死寸前。と,そのとき,「イェタ(こっち)」という声が聞こえ,起き上がると,前方にトンネルがあり,出口の先には登山隊テントが見えた。そのトンネルを通り,著者はテントにたどり着いた。そして,振り返ると雪が降りしきるだけ,そこにはトンネルはなかった。

幻聴,幻視だったのか? が,たとえそうだったにせよ,まさにそれらにより著者は救われ奇跡的に生還できたのだ。

首都カトマンズに戻った著者は,帰国せず,現地小児科病院のボランティア医師として働き始めた。そして1974年暮れ,休暇中に出かけたランタン・ヒマラヤ偵察からの帰途,トリスリ河畔でテント場を探しているとき,チェットリの少女を見かけ尋ねると,「イェタ(こっち)」と言って案内してくれた。

著者は,「ハッとした」。「雪原でのあの声」とそっくりだ。

この少女,14歳のドゥルガを,著者は養女とした。そして,それをきっかけとして,親族,知人,地域住民へと人間関係が広がっていった。

一方,著者は小児病院勤務を通して,子供の死の多くが汚染された川水に起因することを知り,清潔な飲料水を確保することの必要性を確信するに至った。そのためには,乱伐で砂漠化した山地に木を植え,湧水を回復しなければならない。

こうして著者は,運命的な「声」に導かれて生還し,少女ドゥルガと出会い,そして今日にまでも継続されることになる植林の大事業の開始へと向かうことになったのである。

200206b ■おび(表側)

2 運命的な出来事と人生
『ネパールで木を植える』を読んでいると,合理的には説明しきれない運命的な出来事がその後の人生に大きな影響を及ぼすこともあることが,よくわかる。人生はドラマチックでもありうる。

私も早や「後期高齢者」。75年の人生を振り返ってみると,著者ほどではないが,それでも「運命的」と思えるような出来事がいくつかあった。たとえば,穂高での遭難危機もその一つ。

数十年前の秋,上高地に行った。河童橋~明神池付近の散策が目的だったが,雲一つない晴天。そこで,つい魔が差して,軽装にもかかわらず穂高に登ることにした。ルートは岳沢小屋⇒奥穂高岳⇒穂高岳山荘。絶景にルンルン気分だったが,秋の空は急変,奥穂頂上まであとわずかのところで猛吹雪,身動きできなくなってしまった。極寒の中,じっとうずくまり,もうだめかと観念しかけたとき,突如,目の前に人が現れた。屈強な山男で,吹雪・積雪だがルートは熟知とのこと。お願いして,あとをたどらせていただき,無事,奥穂山頂にたどり着いた。山荘までは稜線沿いに少し下るだけ。文字通り危機一髪,九死に一生を得た。助けてくれた山男は,何事もなかったかのごとく,山頂から一人,歩き去った。

この穂高での山男との出会いは,植林事業に結実した著者ほどではないが,それでも私の人生において折に触れ思い起こされる運命的な出来事の一つとなった。

『ネパールで木を植える』は,それを読む人に,誰にでも多かれ少なかれ運命的な出会いや出来事があること,そして,それを忘れることなく自らに引き受け,それぞれの仕方で人生を誠実に生きる努力をすること,そのことの大切さを改めて思い起こさせてくれるのである。

200206c ■おび(裏側)

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2022/02/07 at 14:01

カテゴリー: ネパール, 自然, 健康, 国際協力,

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紹介:安倍泰夫『ネパールで木を植える』(1)

安倍泰夫『ネパールで木を植える ドクトルサーブと命の水の物語』(信濃毎日新聞社,2022年)が出版された。著者は医師で登山家。他に『ネパールの山よ緑になれ」(春秋社,2002年)などがある。

この本では,1974年ラムジュン・ヒマール登山のときの遭難死寸前からの奇跡的生還,カトマンズの小児病院ボランティア勤務,トリスリ河畔での少女ドゥルガとの運命的出会い,その出会いに導かれての地域住民との関係拡大・深化,そしてその機縁から始められたその地域での植林の事業的展開へと記述がすすめられていく。

本書のメインテーマは植林事業であり,筆致も全体的に抑制的だが,著者のネパールでの実体験そのものが日本では想像もできないほど緊迫し予見しがたいことの連続のため,植林事業の経過報告とは思えないほどハラハラ,ドキドキさせられる。もし仮に自分がこのとき著者であったなら・・・・と,感情移入すればするほど考えさせられ,興味深く読み進むことが出来る本である。

以下,いささか読書感想文的になるが,私自身の見聞も参考に供しつつ,本書を紹介していくことにしたい。

200206a ■表紙カバー

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/02/06 at 15:53

山に展望台,街に人造動植物:ネパールの景観破壊

ネパールでは,山や丘の上に展望台をつくったり,道路わきや広場に人造動植物モニュメントを設置するのが流行っているという。観光客や買い物客を呼び寄せ,村おこしや街活性化を図るのが目的だろうが,自然・文化景観の観点からの反対も少なくない。

1.いくつかの事例
(1)山上の展望台
▼第1州:イラムの山の上に,予算8千万ルピーで展望台建設予定。
▼第3州:12の山の頂上に,予算1億8千万ルピーで展望台建設予定。
▼ポカラ:「サランコット開発5カ年計画(予算2億9千万ルピー)」で市近郊にケーブルカー,展望台,公園,ヘリポート,博物館,ホテルなどを設置予定。

[批判]
「連邦,州,地方自治体の権力亡者たちが,われわれの苦労して働き納めた税金を,あちこちの山の上に無用な展望台を建てるのに浪費している。彼らのスローガンは,『1つの丘に1つの展望台』。・・・・惨めなカネの浪費というべきか,バカらしい嘲笑のタネというべきか。」(*1)

「サランコットからの景観は比類なきものなのに,1千万ルピーもかけて,そこに展望台をつくるとは,まったく信じがたいことだ。」(*2)

「ネパールの山々は,もともと世界で最も高い山々だ。頂上からの景色は自然の絶景だ。それなのに,そこを20メートルばかり嵩上げすることに何の意味があるのか。そんなものではなく,これらの山々には,公衆トイレ,快適な宿,ゴミ処理施設など,もっと適切なものをつくるべきではないか。」(*1)

211122aKathmandu P, 2021/9/3

(2)コンクリやプラスチックの人造動植物
▼各地の道路わきや広場:コンクリ(コンクリート)やプラスチックで,コブシや沙羅の木,蓮の花,ニンニク,タマネギなどが造られ,設置されている。
▼ウダイプル:コンクリ製のブタ(予算600万ルピー)。
▼モラン郡:世界最大のコンクリ製牝牛

[批判]
「中央政府や地方自治体の役人たちは,『観光振興』を名目に巨額の予算をつけ,交差点や公園にコンクリやプラスチックのレプリカを設置している。」(*3)

「村でも町でも新しいことが流行り始めた。交差点や公園などにコンクリやプラスチックの造形物を設置することだ。」(*3)

211122bonlinekhabar.com, 2021/4/21
(3)万里の長城
カトマンズ北方のヘランブでは,観光振興のため,60kmにも及ぶ巨大な人造壁の建設が計画されている。

[批判]
「コンクリ製の塔や神話上の人物,あるいは石造りの壁などを見に,わざわざ訪ネする観光客がいるとは思われない。」(*1)

2.欧米や日本でも
山上の展望台や広場の人造モニュメントは,ネパールではいま急増し始めたばかりだが,欧米や日本では,はるか以前から設置されてきた。

たとえば,ヨーロッパ・アルプス。幾度かトレッキングに行き,急峻な山岳の迫力や山麓の絵のように美しい光景に魅了されたが,その一方,いたるところにケーブルカー,展望台など人造物が設置され,しかも景観とはそぐわない奇抜なデザインや色も少なくなく,いたく失望させられた。

たとえばモンブラン(モンテビアンコ)には,仏伊両国側から頂上近くまでケーブルカーで登り,そこの展望台から周囲を見回すことが出来る。が,それで何が得られるのか?

ケーブル終点の展望台は標高3777mもの高所! 観光客はすぐ高山病の症状に襲われ,寒さで震え上がる。見えるのは,相対的に――3777mも――低くなってしまった山々。氷河はあっても,山々の風景そのものは平凡。観光客は暖房の利いた軽食店や土産物屋に駆け込み,金を巻き上げられ,早々に,ケーブルカーに駆け戻り,下山することになる。

211122dモンブラン・ロープウェイ

日本にも,そんな高山観光施設が,いくつもある。

が,山にしても地域にしても,有名なところは,まだましだ。悲惨なのが,そうでないところ。大金をかけ観光施設を設置しても,赤字垂れ流しで維持するか,さもなければ放置・荒廃,あるいは撤去だ。残るは,自然・文化景観の無残な破壊と赤字だけ。

そんなところが,日本中,いたるところにある。

211217a 211217b

 ■天橋立ビューランド / 三峯山展望台(長野県観光機構)

3.先進国の景観破壊から学ぶべきこと
先進諸国の環境保護派・景観保護派は,自分たちの,これまでのすさまじい環境・景観破壊には頬かむりして途上国にお説教するきらいがあるが,彼らの主張そのものには耳を傾けるべきところも少なくない。

ネパールの人造構造物による山岳観光開発や地域振興も,いくつかは成功するかもしれないが,他の大部分は失敗し,無残な残骸と負債を残すだけとなるだろう。

先進諸国の失敗から学ぶべきことは,少なくない。

*1 “EDIFICE COMPLEX, We need more health posts, affordable medical care and quality schools. Not more statues of mythical figures, and view towers,” Editorial,Nepali Times,July 26, 2019
*2 “The decline in Nepali public aesthetics; Why are we spending millions on view towers on hilltops, where the view is already worthwhile?,” Kathmandu Post, September 3, 2021
*3 Rabindra Ghimire, “‘More trees’for less greenery: The ‘concrete’ irony in Nepal’s cities,” english.onlinekhabar, April 21, 2021
*4 “Five-year master plan mooted for extensive development of Sarangkot,” Himalayan, Dec 16, 2017
*5 Umesh Pun, “Nepal’s tallest Shiva statue being built in Pokhara, expected to boost religious tourism,” Republica, November 9, 2020
*6 日々のネパール情報
 ▼ ネパール各地で見られる、その土地の名産を模した像
 ▼ネパールの巨大猫|新宿3D猫にネコに負けてないかも!
 ▼ハッティチョウク、ガイダチョウク(象の交差点とサイの交差点)/チトワン・ソウラハ
*7 Ramesh Kumar, The land of the watchtower!, Himalkhabar, July 22, 2076
*8 Still Rising Nepal, Nepali Times, 2022/04/01
*9 Ramesh Kumar, Nepal’s shortsighted view-tower craze, Nepali Times,2022/04/03
*10 “How myopic they are: People in far-flung areas lack basic necessities, and they are building view towers,” Editorial, Kathmandu Post, 2022/04/04

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/11/23 at 11:47

紹介:「ヒマラヤに呼ばれて」

児童文学作家による「ネパール人との深い交流」の体験を描いた長編ノンフィクション。
 ▼さとう・まきこ「ヒマラヤに呼ばれてーこの世に偶然はないー」ヒカルランド,2018

著者は1991年,43歳のとき,「な~んとなく」ネパールへトレッキングに出かけ,その自然と文化と,そしてとりわけ人に魅了されてしまう。

「ネパールの貧しい少年を母として見守ることになった筆者。マン[上記少年」をはじめとするネパール人との深い交流の中,筆者の生活や価値観は大きく変わっていく」(表紙キャプション)

このようなネパールとの関わり方は,ネパールに出かけたことのある日本人の多くにとって,著者ほど深くはないにせよ,多かれ少なかれ自ら身をもって体験したことであり,したがって本書を読むと,そのことが懐かしく,また時には自責の念に駆られつつ,思い起こされるにちがいない。

私の場合,初めてネパールに行ったのは著者のほんの数年前,ルートも,著者のその後の訪ネの際のものと合わせると重なる部分が多い。

ロイヤルネパール航空(RNA)ーーカトマンズーーポカラーーフェディーーダンプスーーランドルンーーガンドルン

本書を読んでいると,私自身の初の訪ネの際の途方もない当惑と驚きと感動の日々を追体験しているようであった。

(C)谷川昌幸

Written by Tanigawa

2021/06/26 at 17:29

コロナ禍からの漠たる未来不安

昨夕,新型コロナ(COVID 19)ワクチンを接種してもらった。1回目。しばらくすると,左腕の接種部分付近がしびれ始め,夜になると,鈍痛が左腕全体に広がってきた。

左腕の鈍痛だけではない。身体が注入された異物(ワクチン)を攻撃し始めたのか,ほてった感じで,いつまでも眠くならない。とうとう,一睡もしないまま,朝になってしまった。

ワクチンを接種してもらった左腕の鈍痛は,今日の午後になって,さらにひどくなった。このへんがピークだとは思うが,さていつまで続くやら・・・・。

それにしても,このような自然界にはない人造ワクチンを世界中の80億もの人々の相当数――理想的には全員――に接種しなければ,コロナ流行が止められないとは,なんたる恐ろしい,SFが現実化したような時代になってしまったものか。

世界のコロナ感染者累計(人)

むろん,新型コロナのような感染症の大流行そのものについては,公衆衛生をはじめ様々な分野で研究がすすめられ,効果的な予防法や治療法が見つけられ,そのつど制圧されるであろう。

私も,何よりも死を恐れる人間の一人として,それを願ってやまないが,その一方,まったくの素人ながら,コロナ大流行のような現象の繰り返しは,要するに,人類が増えすぎたからではないか,という素朴な疑問を禁じ得ない。

他の動物や植物であれば,増加しても,自然の許容量を超えそうになれば,必ず何らかの自然的規制が働き,許容範囲内に戻る。非情だが,それが自然の摂理。

ところが,人間は,他の動植物の有しない知恵により,自然を科学的に観察し,人為的にそれを制御したり改変したりできるようになった。これにより,人間増殖の自然的な限界は,次々と取り払われてきたのである。

その結果,いまやどこに行っても,たいてい人間がいる。逆に,以前はそこにいた様々な動植物たちは次々と姿を消している。人間は,その知恵により自然を征服しつつある。

新型コロナの流行も,多数説のウィルス自然由来説(コウモリ等からの感染)をとるなら,とめどもなく増殖する人間に対する自然界からの自然な規制である。ところが,これに対し人間は,身体に人造ワクチンを入れることにより,その自然の人口増殖規制を人為的に無効化しようとしている。この人為による自然の克服は,以前の他の感染症流行の場合と同様,今回のコロナ・パンデミックに対しても,すでに大きな効果を発揮し始めている。

しかしながら,たとえ今回の新型コロナが予防ワクチンにより制圧できたとしても,自然の側は,おそらく次のウィルスか他の何らかのものにより増えすぎた人類に立ち向かわせるであろう。これに対し,人間の側もまた別の新たな人造ワクチンか何かで迎え撃つ・・・・。こうして人間の自然な身体と生活は,一歩一歩,確実に自然から離れ,人造化されていく。サイボウーグ化だ。

また,人類の一部は,許容量を超えた地球を離れ,月や火星など,他の天体に移住し始めることにさえなるだろう。

以上は,もちろん全くの素人の極論である。また,人口論は,古来,もっとも危険な取り扱い要注意の議論である。が,それはそうだとしても,コロナ・パンデミックに脅え,予防ワクチンの副作用(副反応)に現に苦しめられていると,ついそんな暗い未来を思い浮かべてしまう。

杞憂にすぎないとよいのだが。

地球は何人の人間を維持できるか? すでに限界超過なら,何が起きるか?

(C)谷川昌幸

Written by Tanigawa

2021/06/07 at 19:36

「陽春」の丹後:天橋立とネパール料理店

新年早々,所用で丹後の村に行ってきた。以前だと,この時期,厳寒で積雪も多かったが,地球温暖化のせいか,最近は,そのようなことはほとんどなくなった。この正月も暖かく,村の田畑に積雪なし。驚いたことに,民家の石垣に生えたユリらしき植物が満開の花をつけていた。
■石垣のユリ(?)

陽気に誘われ村の名所「大内峠」に行き,「股のぞき」をすると,日本三景の一つ「天橋立」が,まるで春霞に包まれたかのように,ぼんやりと中空に浮かんでいるのが望まれた。右手の高峰,鬼の住む大江山(832m)にさえ積雪なし。

5日には,近くの町のインド・ネパール料理店に行ってきた。小さな町だが,メニューを工夫し頑張っている。丹後の文化も,大きく変わりつつあるようだ。

■天橋立

■ネパール料理店

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2020/01/08 at 17:31

ガディマイ祭:動物供儀をめぐる論争(8)

5.動物供儀の根源的意味
ガディマイ祭では,毎回,水牛だけでも数千~1万頭も供儀されてきた。見世物化・商業化し,衛生上も問題が多いといわれている。おそらく,そうであろう。

しかしながら,動物供儀には,「かわいそう」といって一方的に非難し拒絶して済ますことのできないような,歴史的・文化的・倫理的・宗教的な意味もあるのではないだろうか? 

たとえば,動物にも「人権」ないし権利を認め,「人道的」な扱いを求める動物愛護の主張の背後には,動物を食用や衣料用などに利用して生きているという厳粛な事実を直視したくないという人々の願望が隠されているのではないだろうか? あるいは,生物を理性の有無により峻別し,理性ある人間は,理性ある動物の「人権」を尊重し「人道的」に扱うべきだが,他の理性なき生物についてはそのような配慮は必要ないといった差別的生命観が,その主張の根源にはあるのではないだろうか?

穀物や動物の供儀は,日本を含め世界各地に古くからある。その挙行方法は多種多様だが,人々にとって最も大切な生命を神に捧げ,神に感謝し,その加護を願うという最も基本的な点では,みな共通しているように思う。あるいは,供儀後の穀物や肉を食べるのであれば,聖別された穀物や肉を神の前で―神から恵まれたものとして―食べ,他の生物の生命の犠牲により生きざるをえない人間の業―原罪―の許しを願う。さらには,そうした罪意識があまりないところでも,食物を神に捧げたあと,それを神の前で,神と共に食べる―神人共食―ことにより,人は神や食を共にする他の人々と親密に結びつき,神の加護の下で豊穣や子孫繁栄などを願う。このように,食物を神に捧げる慣習は,方法は異なれ,世界各地に古くからみられる。

さてそこで問題は,動物供儀が「反人道的」,「反人権的」で許されないか,ということ。動物供儀擁護派は,以上に見た限りでは,この問いに正面から答えてはいない。人々が供儀を望むから,供儀せざるをえない。あるいは,求められた供儀に応ずるのは,ヒンドゥー司祭の義務だなどと答えるのみ。逃げのよう見えてならない。

この問いにつき,私見を一言でいえば,たしかに「かわいそう」ではあるが,決して「反人道的」,「反人権的」ではないということに尽きる。

われわれ人間は,毎日,大量の動植物の生命を殺し食べて生きている。が,それら動植物の生命が奪われ食品へと加工される現場の人々以外は,生命が奪われる現場は見てはいない。動物も魚も野菜も穀物も,殺され,切り刻まれ,加工され,ビニールパックや小袋に入れられ,商品として美しく店頭に並べられ,売られ,買われていく。われわれ大多数の人間は,動植物の死骸を買い,調理して食べ,生きているにすぎない。その根源的な事実を,われわれは忌避し,見ようとはしない。

人間に食われる動植物の側からすれば,自分たちの唯一無二の生命が奪われるその峻厳な事実を見られ知られることもなく,自分たちの身体が切り刻まれ「おいしそうな」商品食品へと加工され,売買され消費されるのは,耐えがたく許しがたいことであろう。

動植物を殺して食べている事実をしかと見つめ自覚しつつ食べる人と,そこから目を背け,目の前の「おいしそうな」加工食品を食べる人。いずれが動植物の生命の「尊厳」を尊重しているのか?

むろん,そうはいっても,動物に無用な苦痛を与えてよいということにはならない。「熊いじめ」など,見世物化した「流血スポーツ(blood sports)」は,生命の弄びであり,許されることではない。また,逆に,動物の行き過ぎたペット化,愛玩化も,動物の本性・自然(nature)を否定しその尊厳を奪うものであり,決して許されてはならない。

では,ガディマイ祭はどうか? たしかにガディマイ祭にも,反対派が非難するように,見世物化した流血スポーツの要素が多々あるし,衛生面でも問題はある。そうした点は,今後,改めていかなければならない。

しかしながら,だからといって動物供儀そのものを「反人道的」とか「反人権的」とかいって禁止するのは,倫理的に道理が通らない。

ガディマイ祭反対派は,動物の代わりに「花」や「ココナッツ」を供えよ,と主張しているが,供えられる「花」や「ココナッツ」も大地に根を下ろす母体から切り離され「生命」を奪われているのだ。植物や微生物や昆虫や小動物らは,「自己意識」や「理性」をもたない(とされている)ので,人間の都合で殺してもよいということか?

不殺生(アヒンサー)は,徹底すると,生命あるものは何も食べられなくなる。人は生きるために何かを殺して食べざるをえない。あるいは,直接殺さなくても,食糧生産のため「害獣」,「害虫」,「雑草」,「病原菌」など無数の生物を「駆除」し殺している。人は他の生命の犠牲により生きている。だからこそ,その業ないし原罪の許しを請うため,いかに苦しく辛かろうが,死を直視する努力をし,神や仏や大自然など,自らの信じるもの,信じたいと願っているものに,祈るのだ。

ガディマイ寺院やダクシンカーリ寺院などにおいて敬虔に動物供儀を行うこと――それ自体は,決して禁じられるべきことではない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2020/01/04 at 15:41

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