ネパール評論 Nepal Review

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老老介護,事始め(8):そして哲学者の如く

認知症の母との会話は,哲学問答のようであり,常識による説得は不可能である。

会話の大半は,最大関心事の食に関すること。前述のように,食品は目につくとこに置いておくと無茶をするので,食べてよいおやつを除き,すべて隠してある。食事は,朝,昼,夕にその都度準備し,食卓に出す。生活と健康を守るため,これ以外に方法はない。

しかし,母としては,目の前に食べ物,とくにコメとご飯がないことは,一刻の猶予もならない非常事態である。朝起きると,ご飯がないと騒ぐので,すぐ朝食を出す。食べると忘れるが,しばらくすると思い出し,コメがない,ご飯が炊けない,母屋に行きコメを取ってくると言い始める。おやつを出したり,なだめたりして昼になり,昼食を出すと,しばらくは落ち着く。が,そう長くは続かない。また,コメがない,コメがないと言い始める。朝食後と同じようなことを繰り返し,夕食となる。そして,夕食後もまたまた,コメがない。ダミーとして出してある炊飯器を開けては閉め,コメがない! これが深夜まで続くこともある。

認知症の母にとっては,確かに存在するのは,そのとき,そのとき目の前にある現物だけである。目の前にコメがなければ,一大事,いくら要求してもコメが出てこなければ,その緊急事態を解決するための物語が創られ,語られることもある。

もっともリアルで整合性があるのは,うどん屋の話。昔からうどんが大好きなので,村にいたころは,近くの町にうどんを食べに連れて行っていた。これが強烈な印象として記憶されているらしい。

お話は,こうである。いまいるアパートの前の公園の坂を下ると,そこに,いつも行くうどん屋がある。コメがないので,その店に行き,うどんを食べよう。あるいは,うどん屋が商店に入れ替わることもある。坂の下に〇〇商店(いつも買い物をしていた村の商店)があるので,そこに行き,うどんを買ってきて,食べよう。

アパートが公園に囲まれ,小さな坂があり,その下にコンビニがあることは事実である。が,そこには,うどん屋もなければ〇〇商店もない。いまの住居付近のリアルな描写と,過去の記憶の断片とが見事に結び付けられ,首尾一貫したお話となっている。それが,コメがないという眼前の危機を突破するため,いとも易々と,何の苦も無くスラスラ語られる。信じられないほどの創造的想像力!

が,お話はお話なので,日々の生活のためには,コメと炊けたご飯は別室にしまってあるなどと説明し,納得させなければならない。ところが,いくら説明しても,絶対に納得しない。自分で現物を直接,何回も見て,その都度確認しなければ,不安なのだ。ウルトラ・リアリスト!

もちろん,現実には,コメやご飯を自由に見せ触らせることはできない。そんなことをすれば,無茶苦茶,どうにもならない。そこで,「毎日,毎日,3回ご飯を出し,食べさせているではないか」,だから「次のご飯の心配もしなくてよい」と説明し,納得させようとする。が,いくら繰り返しても,たとえご飯を食べている最中や,食べ終わった直後に言って聞かせても,絶対にダメ。

その論理が,スゴイ。「これまでご飯を食べ,いま食べていても,次に炊くコメが見当たらない。次のご飯が食べられない。」つまり,これまでご飯を食べてきたから,次も食べられるとは言えない,という理屈。論理明快!

これを聞くたびに,これまで毎日,太陽が昇るのを見たからと言って,明日も太陽が昇るとは言えない,と喝破したD・ヒュームのことが頭に思い浮かぶ。母は,僻地の村の小さな小学校しか出ていない。ヒュームのことなど,知る由もない。それなのに,ヒューム張りの議論を堂々と展開する。

哲学者の如き論法。恐るべし,認知症!

ネパールの認知症患者,2030年までに2倍に。ネパール人はもっと知るべきだーープラミラ・B・タパ
* Kathmandu Post, 22 Sep 2017

<補足>(5月9日)
認知症(Dementia)は,”Neurocognitive Disorder”とも呼ぶらしい。これは分かりやすい。認識・認知の秩序・順序が乱れる,ということだから。

認知症には様々な形があるのだろうが,このような認識の秩序の乱れが主な場合,秩序だった認識としての常識では思いもよらないような面白い認識が示され,驚かされるのも当然であろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/08 at 15:10

カテゴリー: 社会, 健康

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老老介護,事始め(7):科学者の如く

斑状の記憶喪失の母は,残存の記憶や何らかの拍子に蘇った記憶をつなぎ合わせ,いまの物事を理解し行動しようとしている。常識外れの,奇想天外な話や行動が,次から次へと繰り出されるのは,そのためであろう。世間の常識にこだわらず,思いもよらないようなことを試みるのは,科学者であり哲学者。その意味で,母は科学者であり哲学者である。

たとえば,最近のシャワー事件。風呂のシャワーには,取手に湯を出したり止めたりする手元押しボタンがある。シャワーを持つと,手のすぐ上に位置するかなり大きなボタン。これまでは,このボタンを押して湯を出したり止めたりし,シャワーを使ってきた。何の問題もなし。

ところが,先日,風呂から出たので片付けに入ってみると,シャワーのホースが根元から外され,湯が給湯配管の口から噴出するようにされていた。びっくり仰天。何だ,これは!

常識に囚われていては,毎日使っていた一番近くの目につきやすい,一番簡単な手元ボタンをなぜ押してみないのか,まったく理解できないはずだ。が,その常識をいったんカッコに入れ,科学の目で見るならば,それは合理的な行為であることがわかる。湯が出ない原因を次々と確かめていき,その結果,ホースを根元から外すことにより,湯を出すという目的を達成することが出来たのだ。

同様のことが,ほかにもたくさんある。もう一つだけ紹介すると,たとえばポット事件。村の家でも転居後のアパートでも,居間の,ほとんど一日中使っている机の上に電気ポットを置いてきた。高齢になると喉が渇くので,しょっちゅうポットから湯を出し,お茶を飲む。操作は2つ。「ロック解除」ボタンを押し,「給湯」ボタンを押すだけ。長年,十数年以上,毎日,この操作を幾度となく繰り返し,お茶を飲んできた。

ところが,昨年暮れ,ボタンを二つ押す操作が出来なくなった。見ていると,すべての操作ボタンをあれこれ押すが,「ロック解除」⇒「給湯」の組み合わせはできない。もちろん,何回も,この操作方法を教えやらせてみたが,一人ではできなくなってしまった。仕方なく,旧式の魔法ビンを出してきて,使わせていた。

数日後,居間に行くと,びっくり仰天! 電気ポットの上蓋を開けて傾け,熱湯を急須に注ごうとしているのだ。魔法ビンの湯が無くなっていたのだろう。

この行為も,ボタン二つを押すという操作をカッコに入れるなら,危険ではあるが,目的合理的である。科学は,与えられた条件の下で,可能な限り単純明快たろうとする。電気ポットからの直そそぎは,科学の精神に合致している。(世間でも,このところ電気ポットは,機能過剰型から沸かして傾け注ぐだけの単機能型に移行しつつある。)

母のこの「科学的」な電気ポット使用法は,幸か不幸か,その後,記憶がよみがえったため取りやめとなり,以前の「ロック解除」⇒「給湯」の方法に戻ってしまった。ほっとしたような,ちょっと残念なような。

このように見てくると,母の他の行為の多くも,困り危なくはあるが,理解できないものではないことがわかる。認知症の母は,常識をカッコに入れた上で,他のあらゆる可能性を試そうとする科学者の如き存在である。

▼アルツハイマー病による死亡,ネパールは日本より深刻(死因判定方法の相違不明)
 
 *ネパール=2番目に高い緑色,日本=最も低い灰色(World Health Rankings)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/07 at 14:12

カテゴリー: 社会, 健康

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