ネパール評論 Nepal Review

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表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

フランスのムハンマド風刺画掲載紙(シャルリー・エブド)襲撃事件(2015年1月7日)は,現代民主主義社会の根幹に関わる難しい問題である。「表現の自由は無限定だ」とか「言論には言論で」といった形式論理の「正論」で応えても,それは空論というよりはむしろ,より根源的な問題の隠蔽に他ならず,決して問題の真の解決にはならないであろう。
150117 ■仏政府HPより

現代社会においても,言論や表現は無制限どころか,実際には法的あるいは社会的規制が無数にある。名誉毀損,プライバシー侵害,危険行為煽動など,言論・表現の自由の乱用は許されない。これは常識だ。またヘイトスピーチやナチス賛美のような言論・表現も,多かれ少なかれ禁止している国が少なくない。では,もしそうであるなら,なぜ信者に耐えがたい苦痛を与えるようなムハンマド風刺は,許されなければならないのか?

言論・表現の自由は,本来,弱者や少数派が強者や多数派に対して抵抗するための武器である。力は強者・多数派のものであり,弱者・少数派は力では勝ち目はない。だから,弱者や少数派には,言論・表現をもって強者や多数派に抵抗する自由や権利が認められているのである。他方,強者や多数派には,言論・表現の自由をことさら保障するに及ばない。彼らは,事実として,自分たちの考えや意見を押し通す優越した力をもっているからである。

このように,本来,主張され守られなければならないのは弱者・少数派の言論・表現の自由であるが,しかし,この自由は民主化とともにますます保障が困難になってきている。なぜなら,民主社会では,多数派が権力を握り,多数意見が「正義」「正論」とみなされているからである。

いや,そればかりか,「言論・表現の自由」という場合の「自由」の概念それ自体からして,現代社会では強者・多数派によって形づくられてしまっており,彼らはその自分たちの「自由」概念を使って弱者・少数派を抑圧支配するのである。

そのことは,強者・多数派には意見を形成し宣伝普及させるための様々な前提条件(教育・資金・メディア等々)が十分に整っているのに,弱者・少数派にとってはそうではない,という事実をみれば,一目瞭然である。

現代社会の強者・多数派が「言論・表現の自由」を大上段に振りかざし,「自由を守れ!」と叫ぶとき,それはたいてい社会の弱者・少数派を抑圧し黙らせるためである。トクヴィルやJ・S・ミルが警告した「世論の専制」「社会的専制」である。

もっとも,強者/弱者,多数派/少数派といっても,それはあくまでも相対的な区別である。社会や人間関係は多元的・複層的であり,ある人が同時に社会関係Aでは強者・多数派,社会関係Bでは弱者・少数派ということも少なくない。言論・表現の自由が守られなければならないのは,この相対的弱者・少数派に対してである。

では,今回のムハンマド風刺画事件は,どう見るべきであろうか? 問題は単純ではない。現代の世界社会全体から見ても,ヨーロッパ社会から見ても,掲載週刊紙は強者・多数派の側に立っているか,あるいはそちらに近いように思われる。しかし,もしイスラム教原理主義により抑圧されている人々の側に立っているといえるとするならば,掲載週刊紙は弱者・少数派を代弁しているということにもなる。

掲載週刊紙は,実際には,おそらくこれら両側面を併せ持っているのであろうが,これまでの報道を見ると,その限りでは,この週刊紙は現代世界の強者・多数派の側からムハンマド風刺画を掲載したという印象は否めない。先進国・日本の一市民たる私ですらそう感じるのだから,ましてや途上国や周縁化された地域のイスラム教徒たちがそう感じたとしても,それはやむをえないであろう。

言論を暴力で封じることは,もちろん許されない。が,その「暴力」とはなにか? 現代平和学の権威,ガルトゥング博士は,暴力には「直接的暴力」と「構造的暴力(間接的暴力)」があるといっている。暴力は許されない,という場合の「暴力」は,これら二つの暴力のいずれも許されないということである。そして,「平和」とは,この直接的暴力と構造的暴力のいずれもがない状態のことに他ならない。この平和概念,暴力概念は,いまでは国連でも西洋でも広く認められている。

もしそうだとするなら,言論・表現を「直接的暴力」で封じるのが許されないのと同様,それを「構造的暴力」で間接的に封じることもまた許されないはずである。ところが,先進諸国の「表現の自由」大合唱は,彼ら自身も認めている「構造的暴力」の問題にご都合主義的に目をふさぎ,もっぱら「直接的暴力」のみを非難攻撃しているように見えて仕方ない。直接的暴力は残虐だが,構造的暴力はそうではない,とでも強弁するつもりだろうか? 

[参照]
宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件
文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動
前田朗,「私はシャルリではない。テロの挑発をやめよ」-2015年をどう闘うか(『関西共同行動』ニュース67号2015年1月31日)

谷川昌幸(C)

民族紛争、宗教紛争へ転化か?

トリチャンドラ校の向かいのイスラム教礼拝所を見てきた。この礼拝所は、年々大きく美しくなり、いまや堂々たる巨大礼拝所だ。

外から見物しただけだが、信者が次々と訪れ、礼拝している。ものすごい数だ。みな礼儀正しく、嫌がられるわけでも叱られるわけでもない。

この付近、バグバザールでは、ムスリムが目立つようになった。ムスリム人口が増えていることは知っていたが、これほどとは思わなかった。


  ■トリチャンドラ校向かいのイスラム教礼拝所

イスラム教は、本来、寛容な宗教だが、弾圧されれば、やむなく抵抗せざるをえない。この礼拝所の前でも、2011年、ムスリム協会書記長が白昼、暗殺された。襲撃犯捜査要求デモが繰り返し行われたが、結局、うやむや。どこまで真剣に捜査したのか疑わしい。
  ■イスラム協会書記長,暗殺される
  ■イスラム教

襲撃がどの勢力によるものにせよ、このような行為は宗教対立を激化させるだけであり、どの宗教の利益にもならない。そのようなことは理性ではわかっていても、いざ信仰となると、後先考えずに、このような短絡的行為に走ってしまう。情念に深く関わる宗教の難しい所以である。

人民戦争後の体制変革は、宗教間の寛容を拡大するどころか、逆に、ヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教の間の緊張を高めることになってしまった。信徒急増のキリスト教とヒンドゥー教の関係も危うくなってきている。一触即発といっても言い過ぎではない。

人民戦争により激化した民族/ジャーティ対立が、泥沼の宗教対立に転化することのないよう切に願っている。

  ■ キルティプールの丘の下のメソジスト教会

[追加1]キルティプールの丘の上のキリスト教協会(2012-11-10)
上掲のメソジスト教会は、丘の下の新興住宅地にあるが、この協会(2000年設立)は丘の上、村の中にある。教会そのものではなく、「協会」のようだが、それでも看板と屋上に十字架を掲げ、キリスト教関連施設であることは、明白だ。共同体意識の強いはずのキルティプールで、どのように見られ、どのような活動をしているのだろうか? 気になるところだ。

 

[追加2]「エベレスト子供の家」事件(2012-11-10)
リパブリカ(11月10日)が大きく報道したところによると、先週、ポカラの郡子供福祉委員会が、「エベレスト子供の家(Everest Children’s Home)」を調査し、8人の子供を救出した。両親が健在なのに、子供を収容し、キリスト教に改宗させていたという。

このような事例は、このところ無数にある。難しいのは、経済格差があるところでの救貧活動や慈善事業。宗教団体が運営すれば、布教目的と取られるし、世俗団体であっても、たとえば派遣スタッフが英語を使っておれば、母語を奪い英語化することが目的(英語帝国主義)ととられる。

特に宗教に関しては、キリスト教が危険視されている。たとえば、大統領や首相がキリスト教に改宗したら、どうなるか? あるいは、プラチャンダ議長がキリスト教徒だったら、マオイストはどうするか?

憲法によれば、国家元首や首相や政党党首がどのような宗教であれ、何ら問題はない。しかし、現実には、そうはいかない。

プラチャンダ党首は、早い段階から、ヒンドゥー教儀式には出席していない。政教分離の原則に従っているからだろうが、一部には、プラチャンダ議長はキリスト教に改宗したからだという声もある。まさかとは思うが、豪傑プラチャンダ氏なら、そのくらいのことはやってのけるかもしれない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/04 at 13:09

宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件

1.信仰と「表現の自由」
世界ヒンドゥー協会(WHF)のネパール急進派・ヘムバハドール・カルキ(Hem Bahadur Karki)派が,9月11日カトマンズ市内の画廊に押しかけ,ヒンドゥーの神々を冒涜したとして,画家マニシュ・ハリジャン(Manish Harijan)を殺すと脅迫した。

「表現の自由」は世界的に確立された権利であり,ネパール暫定憲法第15条でも明確に保障されている。カルキ派によるハリジャン脅迫は,「表現の自由」への暴力による攻撃であり,それ自体,許されるべきものではないが,一方,「表現の自由」も無制限ではなく,他の自由や権利を侵害しないための規制ないし権利間の調整が避けては通れないこともまた事実である。

これは,今回のような宗教との関係においては,特に難しい,やっかいな問題となる。人が熱心に,誠実に信仰すればするほど,信仰対象は神聖なものとなり,みだりに論評してはならないもの,タブーとなる。一方,表現は,様々な形で隠れているもの,隠されているものを顕わにすることをもって,その本質とする。したがって,宗教についても,信仰により信仰対象が神聖化されればされるほど,表現はそこに関心を持ち,秘密の暴露ないし顕在化への意欲をそそられることになる。

これは,本質的な対立である。不可知なもの,あるいは知るべきではないものへの心情的な「不合理な」信仰と,タブーをタブーであるからこそ暴こうとせざるをえない世俗的な「合理的な」表現の自由とは,結局は,両立しないと考えざるをえない。

2.イスラム教と「表現の自由」
現在,信仰と「表現の自由」が最も激しく対立しているのが,イスラム教に関してである。『悪魔の詩』(1988)事件では,著者ラシュディはホメイニ師により死刑宣告を下され,いまでも330万ドルの報奨金がかけられている。日本語版訳者の五十嵐筑波大学助教授は1991年,大学内で何者かに殺害されてしまった。

2005年には,デンマーク紙掲載のムハンマド風刺画がイスラム教冒涜とされ,デンマーク大使館などが襲撃された。

そして,この9月には,アメリカで制作されたムハンマド風刺映像がネットに掲載され,世界中で大問題になっている。中東,東南アジアを中心に世界各地で反米デモが拡大,リビアのベンガジでは米領事館が襲撃され,米大使が殺害された。戦争にすらなりかねない深刻な事態である。

そのさなか,フランスでもムハンマド風刺画が雑誌に掲載され,激しい反フランス・デモが世界各地で勃発,フランス政府は,在外公館や仏人学校の閉鎖に追い込まれている。

信仰と理性,聖なるものへの服従とタブーなき批判の自由――これら二者は,いずれも人間存在にとって不可欠のものであり,いずれがより根源的,より重要ともいえない。比重の置き方は人それぞれ,生き方の問題というしかない。イスラム教と「表現の自由」の対立は,その人間性の根源にある問題の現代における最もラジカルな顕在化であり,解決は容易ではないと覚悟せざるをえない。

3.ヒンドゥー教と「表現の自由」
この問題がやっかいなのは,火をつけやすいこと。すぐ火がつき,飛び火し,類焼する。ヒンドゥー教も例外ではなく,ネパールでは先述のハリジャン脅迫事件が起こった。きっかけは,彼の絵画展:

■マニシュ・ハリジャン「コラテラルの出現」 シッダルタ絵画ギャラリー(カトマンズ)8月22日~9月20日

(Siddhartha art gallery HP)

「コラテラル」とは難しい表現だが,何かに何かが加わり何かになる,何かが起こる,という意味だろう。展示作品のうち11作品が,ヒンドゥーの神々を西洋風に戯画化したもの。猿神ハヌマンが酒を持っている作品もある。

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(The Radiant Star HP)

これらの作品は,たしかに,あまり上品とはいえないが,それほど過激ではない。正直,私には,これらの作品の良さがよく分からない。が,それは趣味の問題。ハリジャン自身は,これらの作品は「グローバル化の諸相を通して,東洋と西洋の文化を融合させること」を意図したものだと説明している。

ところが,WHFカルキ派は,これらの絵画をヒンドゥー教冒涜だと激しく非難し,ギャラリーに押しかけ,ハリジャンを殺すと脅し,展示責任者のサンギータ・タパ学芸員に対しても,絵画を焼却しあらゆるメディアを通して謝罪をせよと脅した。

騒ぎが大きくなったので,カトマンズ警察が派遣され,郡長官の命令によりギャラリーを閉鎖させ,ハリジャンとタパを呼びだし,事情聴取した。警察は,逮捕せよというカルキ派の要求までは容れなかったが,ハリジャンとギャラリーの「表現の自由」を守るという明確な態度もとらなかった。

その結果,ハリジャンとタパは,展示2作品(どれかは不明)を撤去し,今後はそのようなヒンドゥー教冒涜絵画は展示しないという文書に署名してしまった。彼らは,ヒンドゥー右派とその意をくむ行政当局の圧力に屈服せざるをえなかったのである。

4.形式的「表現の自由」擁護論の限界
このハリジャン脅迫事件が起こると,ユネスコ・カトマンズ所長のアクセル・プラテ氏が「表現の自由」を尊重せよ,との声明を出した。芸術作品が,たとえ宗教や倫理の価値観に反することがあろうとも,それを理由に暴力をもって反撃することは絶対に許されない。解決は,「自由な議論」によるべきだ,というのだ。

ネパリタイムズ社説(#623, Sep21-27)も同じ立場をとる。表現の自由は,他の自由や権利を侵害してはならないが,その限界は文化ごとに異なる。考慮すべきは,国家の安全,社会の調和,名誉毀損,ポルノ規制などだが,いずれにせよ暴力による脅迫や検閲は認められない。

「マニシュ・ハリジャンに描く自由を認める一方,それにより感情を害されたと感じる人びとには非暴力で抗議する自由を認めなければならない。民主主義では,感情を害されたからといって,殺すと脅すことは許されない。国家は,暗殺脅迫者ではなく,芸術家をこそ守るべきである。」(Nepali Times,#623)

これよりもさらにハト派に徹しているのが,今日の朝日社説「宗教と暴動・扇動者を喜ばせない」(9月26日付)。社説は,「言論の自由があるといっても,特定の宗教に悪意をこめ,はやして喜ぶ商業主義は,品のいいものではない」といいつつも,「他者による批判を自らの尊厳への攻撃と受けとめ,宗教をたてに暴力に訴える。狭量な信徒が陥りがちな短絡が,今回の暴徒たちにもうかがえる」と述べ,言論の自由・表現の自由を寛容に認めている。

こうした「表現の自由」を守れという主張は至極もっともであり,非の打ち所のない正論である。特に,強者の側が弱者の「表現の自由」を力により制限しようとする場合には。しかし,問題は,こうした正論が現代においては多くの場合,形式論ないし高尚なお説教あるいは精神論にとどまり,ムハンマド冒涜の場合と同様,ヒンドゥー教冒涜の場合にも,それだけでは対立の解決にはあまり役立たないという点にある。

そもそも「表現の自由」を定めた世界人権規約第19条にも,ネパール暫定憲法第15条にも,多くの留保がつけられており,それらを利用すれば,「表現の自由」は必要な場合にはいつでも制限できる。ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に抗議している人びとは,彼らの重要な自由や権利が侵害されているのに,国家や国際社会は,形式論理のきれい事を言うだけで,そうした留保条項を使って彼らの権利や自由を本気で守ろうとはしていないと考えて怒り,やむなく実力行使に出ている,といえなくもない。自由や権利の形式的な保障は,つねに社会的強者の側に有利である。

朝日社説は,この問題を脳天気に棚上げしている。社説は,表現者側に「品」や「心得」を求めるだけで,「表現」による被害の具体的な救済については何も語っていない。

しかし,「言論の暴力」というように,「表現」も暴力であり,また暴力には直接的暴力だけでなく間接的な構造的暴力も含まれることは,いまや常識である。構造的暴力としての「表現」暴力の規制を自主的な「品」や「心得」に丸投げしておきながら,一方的に,直接的暴力による自力救済を上から目線で声高に断罪してみても,説得力はない。

5.天皇冒涜に堪えられるか
日本人の多くは,朝日社説もそうだが,ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に激昂し激怒する人びとを狂信的とか原理主義とかいって冷笑するが,それは事件が今のところ余所事,他人事だからにすぎない。

しかし,近時の情勢からして,天皇が風刺の対象とされるのもそう遠いことではあるまい。天皇・皇后や他の皇族が,不道徳に,エロチックに,あるいは下劣にカリカチュア化され,メディアで弄ばれるようになったら,日本人はどうするか? あくまでも冷静に表現には表現で,言論には言論で,などと高尚なことをいっていられるだろうか?

たぶんダメだろう。日本人の多くが激昂し,天誅を下せなどと,わめき始めるに違いない。

ムハンマド冒涜事件もヒンドゥー教冒涜事件も,決して他人事ではない。言論には言論で,などといったわかりきった形式論理のオウム返しではなく,「表現の自由」が他の自由や権利と対立した場合,具体的にどうするかを,自分の問題としてもっと真剣に考え,取り組むべきであろう。

【参照資料】
Nepali Times, Sep.12 and Sep.21-27,2012
ekantipur, Sep.12, 2012
UCA News, Sep.13, 2012
The Radiant Star, Sep.15, 2012
Kathmandu Contemporary Arts Centre, http://www.kathmanduarts.org/Kathmandu_Arts/KCAC12-mann.html
Siddhartha art gallery, http://www.siddharthaartgallery.com/cms/index.php

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/26 at 20:47

イスラム固有の権利

西洋の無責任な包摂参加原理主義・連邦制原理主義のせいで,アイデンティティ政治の危険性がますます高まってきた。

短い記事だが,リパブリカ(2012-3-22)によると,ネパール・マドラサ連合は,イスラム固有のアイデンティティを認め,新憲法にムスリムとしての権利を書き込むよう要求している。

彼らによれば,ムスリムは「マデシ」ではない。新憲法は,ムスリムをムスリムとして認め,政府諸機関等にすべて人口比に応じたムスリム枠を設定すべきだという。

マドラサ連合は,もしこのムスリムの要求が認められなければ,街頭に出て抗議活動を始めると警告している。

これは,警戒すべき動きだ。そもそも宗教は神々のものであり,歴代のネパール統治者は最大限の慎重さをもって扱ってきた。それは,たしかに差別抑圧の構造化・内面化の側面をもつ。しかし,だからといってパンドラの箱を不用意に開けてよいということにはならない。

にもかかわらず,パンドラの箱は,包摂参加原理主義・連邦制原理主義によって開けられてしまった。まず飛び出したのが仏陀。仏教は,王政打倒のシンボルとしてさんざん利用され,いまや準国教の特権を享受している(「ルンビニ観光年2012」をみよ)。が,そんな仏教革命共和国がいつまでも続くわけがない。ヒンドゥーの勇敢な神々が反撃を始めるだろうし,キリスト教の神も勢力を急拡大している。

そして,いまイスラムの神も,声を上げ始めた。彼ら,ムスリムの要求は,包摂参加民主主義の原理からすれば100%正当であり,認められて当然である。とすれば,クリスチャンは,ヒンドゥーは,・・・・どうなるのだろうか?

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/03/23 at 09:37

UNMIN撤退の悲喜劇

UNMINは,何とか形だけ整え,1月15日をもって任務を終了した。いつものことだが,土壇場で三党合意が成立,UNMIN受け皿として「軍統合特別委員会局」が設立されたのだ。(また役所がひとつ増えたが。)

本当に,ネパールの政治家たちは交渉ごとに熟達している。散々けなし悪口を言いたい放題いったあとで,もっとも効果的な最後の最後で,相手の顔を立て,恩を売る。見事だ。

こうして恩を売りつつ,さらにすごいのが,カネのむしり取り。ekantipur(16 Jan)によれば,UNMINはラジャ空港(ネパールガンジ付近?)やポカラ空港の使用料をまだ払っていない。出て行くなら,使用料2千万ルピーを航空局に払えと要求されている。これをみても,UNMINが金蔓であったことがよくわかる。

これも滑稽だが,それ以上に滑稽というか悲喜劇といってよいのが,ランドグレンUNMIN代表のマダブクマール・ネパール首相訪問。代表はおそらくキリスト教徒であろうが,UNMIN離任挨拶に行ったネパール首相から,平和貢献へのお礼として,なんと仏像を贈られたのだ(Rising Nepal, 16 Jan)。

 平和の象徴・仏像の贈呈(Rising Nepal, 16 Jan)

私は仏教徒であり,仏様をイエス・キリストと並ぶ偉大な平和の使徒と信じ,尊敬している。しかし,それとこれは話が違う。先進国と国連は,ネパールに世俗化を押しつけ,それを暫定憲法に書かせた。それなのに,このざまなのだ。

ネパール首相は一私人ではなく,世俗ネパール国家の最高権力者だ。ランドグレン氏もUNMIN代表として首相を訪問している。これは国連とネパール国家との間の公式行事なのだ。それなのに,首相が仏像を贈り,それをランドグレン代表が受け取る。これを悲喜劇といわずして何という。

想像力の欠如,人権無視も甚だしい。国家最高権力者が公式行事で仏像を贈る――それをキリスト教徒,イスラム教徒,共産主義者,無神論者らはどう思うか? いや,ヒンドゥー教徒であっても不快に思う人は少なくあるまい。信仰の自由の明白な侵害ではないか?

結局,先進国や国連がやってきたことは,たとえば国家世俗化についてはこの程度のことなのだ。他の多くの問題についても同じではないか? ネパールは,根本的には何も変わっていない。ネパールにはネパールの強固な文化的伝統があるのだ。 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/01/16 at 21:27

仏教の政治的利用:ガルトゥング批判

谷川昌幸(C)

このところネパールでは,仏教の政治的利用が目に余る。私も仏教徒であり,仏教は偉大な宗教の一つだと思うが,だからといってそれを政治目的で利用することは許されない。たとえば,このHPを見よ。

81106peacem1

81106peacem3

81106peacem2

これは,平和復興省(Ministry of Peace and Reconstruction)のホームページの一部だ。れっきとした国家機関が,仏陀をあちこちに掲げ,平和を訴えている。ヒンドゥー教もイスラム教も道教も出てこない。 「仏陀の国に平和を,流血なき国を」「ネパールとネパール人の皆の誓い,平和」 

これまでヒンドゥー教王政により仏教が差別され,冷遇されてきたことは事実だ。仏教徒の村で,ヒンドゥー教徒優遇への激しい怒りをよく聞いたことがある。しかし,だからといって,仕返しに,仏教を政治目的で利用してよいということにはならない。

この愚行にお墨付きを与えている――そう誤解されるような議論をしている――のは,平和学の権威ガルトゥング氏だ。手元にある著作をぱらぱら見ても,こんな記述が至るところにある。

    米国   アフガニスタン

D(2分法) キリスト教原理主義 イスラム原理主義

M(価値2元論) キリスト教以外は悪 アラーの教え以外は悪

A(最終戦争) タリバン,アルカイダの壊滅 米国への徹底的なテロ攻撃
                       (『平和を創る発想術』p.23)

「仏教は,個人の心や『集団的無意識』についてばかりでなく,あらゆる生命について説き明かしている深遠な心理学です。そこでは,どんな『超越者』の意思にも従う必要がありません。こうした『超越者』というものは,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の場合に明らかなように,それらを生み出した側の人間の特性をどうしても帯びているものです。/仏教は,その非暴力への強い主張,自然界を利己的に利用してはならないとする態度,巧妙な詭弁など全く含まない慈悲の精神など,世界的なエートスを生み出すための豊富な素材を備えており,しかもこれらはすべて,深い混迷にある今日の世界が切実に必要としているものです。」(池田大作/ヨハン・ガルトゥング『平和への選択』pp.229-230)

もちろんガルトゥング氏は,池田大作氏との対談においてですら(対談の政治的意味は別として),宗教の政治的利用を厳に戒めている。

「政治権力者が仏教を私物化して,宗教上の事柄に支配力を発揮し始め,それに仏教が従うとき,仏教はあまりにもたやすく六つの短所に陥ってしまいます。・・・・国教としての仏教,といった考え方そのものがすでに“名辞矛盾”に陥っています。」(同上,pp.198-199)

ガルトゥング氏自身は用心深く仏教の政治的利用を戒めているものの,氏のユダヤ教,キリスト教,イスラム教批判は強烈であり,読者の多くは,平和のためには仏教思想が必要だと受け取り,仏陀を掲げて政治活動をすることになる。

ネパールを見よ。いまや政府機関,NGOなど,いたるところで仏教が政治的に利用されている。平和復興省がその典型だ。ヒンドゥー教は平和の宗教ではなかったのか? キリストは絶対平和を訴えたのではなかったのか? イスラム教は他民族への寛容の宗教ではなかったのか? このような仏教の政治的利用が,平和に貢献するはずがない。

追加(2008.11.12)

ネットを見ていたら,不思議な抗議声明が出ていた。これはいったいどう解釈してよいのか? ガルトゥング氏自身が,池田大作氏との対談者として,批判するなり抗議声明を出すなりすべきではないだろうか?

-----以下転載-----

ガルトゥング発言の曲解引用への謝罪および名誉回復の請求
(2004/02/16)

神崎武法 公明党代表

浜四津敏子 公明党代表代行

 2004年1月23日、貴党の浜四津敏子代表代行は参議院において党を代表し、小泉首相 の 施政方針演説についての質問を行いました。その代表質問において、浜四津氏はガル トゥング博士の言葉を文脈を無視した形で引用を行ったと私たちは確信します。した がって 浜四津氏、および公明党に引用部分を撤回し、ガルトゥング博士に公式に謝罪を行う ことを求めます。

 浜四津氏の代表質問においては以下の発言が含まれています。

 このたびの自衛隊派遣の目的は、平和憲法に合致した人道復興支援であり、戦争や戦 闘を目的とするものでないことは論を待ちません。

 行動する平和学者として世界的に著名なガルトゥング博士は次のように言っていま す。「頭は徹して現実主義であれ、胸には理想主義の炎を燃やし続けよ」と。わが党 は、これからも「行動する平和の党」として、胸には平和・人道・人権の時代をつく る理想を燃やしつつ、すべての課題に徹して現場に立ち、現場の目線から現実の解決 策に挑戦してまいる決意です。

 ここで二点、注意を促さなければならない点があります。まず、第一にガルトゥング 博士は一貫してアメリカのイラク侵略および日本のイラクへの自衛隊派遣に反対で あったということです。したがって、アメリカ政府および日本政府の現在行っている 戦争行為を正当化する目的のための演説に用いるのはまったく妥当性を欠きます。第 二に、浜四津氏が引用した部分に続きガルトゥング博士は「現実に目を閉ざしても、 何の役にも立ちません。同様に、現実主義を超えて、理想主義を人間的に展開してい くことができない人達は、人類の進歩には貢献しないものです。」と前の発言を敷衍 しています。ガルトゥング氏の発言の全体を引用してみると、アメリカの対イラク政策をその初期の段階より支持してきた公明党は「現実主義を超える」ことに失敗し、 「人類の発展に 貢献する」ことに失敗したことは明白です。また、現在の公明党の アメリカ追随の外交政策が立党精神からかけ離れてしまっていることを深く憂慮しま す。

 この代表質問は国会という公の場での発言であるため、浜四津氏の発言は歴史に残る ことになります。ガルトゥング博士が現在および将来にわたって誤解を受ける可能性 を排除するため、私たちは上記のガルトゥング博士の引用部分を議事録より公式に削 除するとともに、貴党および浜四津氏が公式にガルトゥング博士に対し謝罪文を送 り、それを機関紙に掲載することを要求します。また、ガルトゥング氏に現在のイラ ク紛争に関する同博士の立場を公式に表明する場を機関紙上に提供する事を要求しま す。

敬具

                         行動する平和憲法のネットワーク
                           World Citizens Renouncing War

http://wcrw.org/html/galtung-quote.html

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Written by Tanigawa

2008/11/06 at 11:22