ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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ネパール連邦議会選挙:包摂民主主義の実証実験(3)

3.政党の本音は女性後回し
この表を見れば,各政党が女性候補を後回しにしたことは,一目瞭然。まず最初に投票される代議院小選挙区選挙では,当選165議員のうち,女性は6人だけ。三分の一ではない,たったの3%余なのだ! 各党とも男優先,女性差別丸出し。隠しようもない。隠そうともしない。本音丸出し,正直といえば正直だ。

参議院は,各州に最初から女性議席3が割り当てられているので,女性議員は当選議員の約38%。三分の一より少し多いのは,小選挙区男性優先をある程度考慮した結果でもあろう。(連邦議会各党議員の少なくとも三分の一は女性でなければならない。)

政党ごとに見ても,どの政党が特に男優先というわけではない。全政党が女性後回し。それでもひときわ目立つのが,大勝した「ネパール共産党-統一マルクス・レーニン派(UML)」で,代議院小選挙区では当選80人中,女性は2人(2.5%)だけ。その結果,最後の最後に割り当てられる代議院比例制議席は,割当41議席中の37議席(90%)が女性となった。むろん,UMLが自発的に女性を選んだわけではない。憲法の明文規定により,イヤでもそうせざるを得ないのだ。これが,マルクス・レーニン主義を党是とし,農民・労働者のために闘う人民の党の実態である。

「ネパール共産党―マオイストセンター(CPN-MC)」,「ネパール会議派(NC)」など他党も,男性優先では,UMLと大差ない。包摂民主主義を唱えながら,その第一歩といってよい,最も明確な女性の包摂ですら,現実政治の場では敬遠され,あるいは忌避されている。ネパールの政界がまだまだ男社会であり,男性優先が本音であることは隠しようもない。

といっても,そこは建前第一の形式主義の国ネパール,連邦議会(代議院と参議院)全体の各党別女性議員比率をみると,UML33.8%,MC33.8%,NC34.2%,RJP-N36.8%,FSF-N33.3%となっている。5つの国政政党のすべてが,憲法規定の女性議員三分の一の下限にピッタリ合わせている。お見事!


■UML会場雛壇は男性ばかり(UMLホームページ)

4.女性議席割当制の政治的意義
しかしながら,そうはいっても,いやまさにそうした男優先政界の現実があるからこそ,ネパール連邦議会全体でとにもかくにも女性議員三分の一を実現したことは,大きな前進であり,高く評価できる。

日本と比較してみると,その先進性は歴然。日本は,国会全体で女性議員13.1%,世界191か国中の第142位(2017年1月1日現在)。また,衆議院の女性議員は9.3%で,世界193か国下院中の第164位(2017年6月1日現在)。日本は,女性政治参加では後進国,ネパールの足元にも及ばない。頭を垂れ,先進国ネパールから謙虚に学ぶべきだ。

包摂民主主義は,繰り返し指摘してきたように,たしかに複雑で難しく,コストもかかる。しかしながら,たとえそうであっても,それが現代社会における参加・代表の公平の実現には最も有効な実効的手段の一つであることに間違いはない。

ネパールはいま,その大いなる包摂民主主義の政治的実験に取り組んでいるといってもよい。なによりもネパール自身のために,そしてまた多文化社会化せざるをえない日本のためにも,その成功を願っている。

谷川昌幸(C)

ネパール連邦議会選挙:包摂民主主義の実証実験(1)

ネパール連邦議会選挙の結果が,ほぼ出そろった。参議院(上院)の大統領指名議席など,まだ未確定の部分もあるが,選挙の大勢は,下表のとおりほぼ判明したといってよい。

1.包摂民主主義の実証実験
今回の連邦議会選挙は,憲法ないし国制(संविधान, constitution)の観点から見るならば,2015年憲法の根本理念たる「包摂民主主義(समावेशी लोकतत्र, inclusive democracy)」(憲法前文&4条)を,社会諸集団への議席割当(クォータ)により,まずは制度的に――形式的・強制的に――実現するための初の国政選挙である。いわば,包摂民主主義の実証実験。

この包摂民主主義の実証実験は,ネパール自身はむろんのこと,多文化化・多民族化が進む他の諸国にとっても,あるいは「一民族一文化」にこだわり続ける包摂民主主義後進国の日本にとっては特に,重要な意味をもちうる興味深い政治的試みである。

しかしながら,多種多様な社会諸集団の「比例的包摂(समानुपातिक समावेशी)」(憲法前文)を目標とする包摂民主主義は,諸集団の利害が錯綜し,制度が複雑化し,コストがかかり,運用が難しい。そのような高度な制度を,ネパールは本当に使いこなせるのか? 世界が注目している。

そこで,以下では,「比例的包摂」の基本中の基本たる女性の包摂が,今回の連邦議会選挙において,どのように具体化されたのかを見てみることにする。ネパールにおける包摂民主主義の初の本格的な実証実験が,どこまで成功したのか?


 ■民族/カースト分布地図(トリブバン大学社会人類学部, 2014)。社会諸集団包摂のため,この種の集団同定資料が,多くの場合国際機関や先進諸国の支援を得て,多数出版されてきた。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/02/14 at 17:56

ガンジーは「企業お抱えNGO」元祖: アルンダティ・ロイ

アルンダティ・ロイが,またまたガンジー(ガンディー,ガーンディー)を批判し,猛反撃を受けている。

120903 ■ロイ

ロイは,以前からガンジーの非暴力不服従運動には懐疑的であった。ロイによれば,ガンジー主義は,観衆を前提とする劇場型抵抗であり,たとえばチャッティスガルの村でのように,完全に包囲され外部から遮断された状況ではまったく無力だというのだ。

これは,ガンジーに対するロマン・ロランの批判と原理的には同じである。すなわち,たとえ観衆がいても,聞く耳を全く持たないヒトラーのような支配者には,ガンジー主義は無力だ,ということ。

【参照】
ガンディー劇場型抵抗の限界:A.ロイ
Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(1)
2010/04/23 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1) 

また,カースト制についても,ロイは2014年7月17日のケララ大学での講演において,「理想的バンギ(The Ideal Bhangi)」(1936)を引き合いに出し,ガンジーを「カースト主義者」と批判し,ガンジーの名を冠した大学などの機関は改名すべきだと述べ,告訴騒ぎを引き起こしていた(*3-5)。

【参照】Gandhi,”The Ideal Bhangi,” Harijan,28 November,1936
The ideal Bhangi of my conception would be a Brahmin par excellence, possibly even excel him. It is possible to envisage the existence of a Bhangi without a Brahmin. But without the former the latter could not be. It is the Bhangi who enables society to live. A Bhangi does for society what a mother does for her baby. A mother washes her baby of the dirt and insures his health. Even so the Bhangi protects and safeguards the health of the entire community by maintaining sanitation for it. The Brahmin’s duty is to look after the sanitation of the soul, the Bhangi’s that of the body of society. But there is a difference in practice; the Brahmin generally does not live up to his duty, the Bhangi does, willy-nilly no doubt. Society is sustained by several services. The Bhangi constitutes the foundation of all services. [….]

このように,ロイのガンジー批判は周知のことだったが,今回は,それらに加え,ガンジーを「企業NGO」元祖と断罪したのだ(*1-2)。

3月21日,ロイは「第10回 ゴラクプル映画祭」に出席し,開会スピーチを行った。ロイはこう述べた。インドでは,タタなど大財閥がほとんどすべてを支配し,言論表現も例外ではない。アメリカで,フォード財団やロックフェラー財団が「資本主義プロパガンダ」を支援しているのと同じこと。ところが,この映画祭は企業支援を受けず,人々の寄付で10年間にわたり運営されてきた。これは高く評価される。

そもそもガンジーは,「この国の最初の企業お抱えNGO」である。「彼(ガンジー)は,ダリット,女性,貧者について実にひどいことを書いているのに,この国では彼を崇め礼拝している。これは,この国の最大の誤りの一つだ。」

以上のようなロイの発言に対し,会場からは,偉大な国父ガンジーを「企業の手先」などと呼ぶべきではない,といった激しい反論が出された。これに対しロイは,「私は,彼(ガンジー)についてよく研究し,彼が1909~1946年に書いたものに基づき,こう述べたのだ」と答えた。ロイのガンジー批判は筋金入りだ。

ロイは,おそらく現代の最も過激で行動的な反体制知識人の一人であり,そして何より素晴らしいのは,本質を突く鋭い議論を巧みなレトリックで表現し提供してくれる,その有り余るばかりのサービス精神。こんな面白くて為になる危険な過激派知識人は,現代ではまれといってよいだろう。

*1 Abdul Jadid, “Mahatma Gandhi was first corporate sponsored NGO of the country: Arundhati Roy,” Hindustan Times, Mar 22,2015
*2 Pratishtha Khattar,”Striking Sparks: Arundhati Roy On Gandhi, Again,” 23 Mar,2015 (http://economydecoded.com/2015/03/striking-sparks-arundhati-roy-on-gandhi-again.html)
*3 Viju B,”Mahatma Gandhi was a casteist, Arundhati Roy says,” The Times of India, Jul 18, 2014
*4 Jason Burke,”Arundhati Roy accuses Mahatma Gandhi of discrimination,”The Guardian, 18 July 2014
*5 “Gandhi Looked Down upon Dalits, Says Arundhati Roy,” Express News Service,18th July 2014

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/03/31 at 14:20

ガディマイ祭:動物供犠と人間の業(5)

4.ガディマイ祭反対運動
世界最大の動物供犠,ガディマイ祭に対しては,前回2009年頃から,ネパール内外で激しい反対運動が繰り広げられるようになった。

反対の論拠は,大別すると三つ。第一の論拠は,この祭がダリット差別を助長してきたというもの。第二の論拠は,動物を殺すことは,ヒンドゥー教の教えに反するというもの。そして第三の論拠は,供犠名目の動物殺戮は非人道的というもの。第二と第三の反対論には重複する部分が多いが,ここでは一応区別して議論することにする。

141118a ■ガディマイ祭反対FB

(1)ダリット差別の助長
最下層の被差別民であったダリットは,ガディマイ祭がダリット差別を助長してきたとして,この祭に反対している。

Ekantipur記事(2014-10-28)によれば,かつて供犠後の水牛は放置され,これをダリットは持ち帰ってもよいことになっていた。地域のダリット指導者マハント・ラムはこう語っている。「一般にチャマール[下注参照]は5年に一度だけ水牛の肉を食べてよいと考えられており,これが差別を助長してきた。」

このことは,前述のように,前々回(2004年度)までは,供犠後の動物は,連れてきた参拝者だけでなく他の誰でも自由に持ち帰ることができたという証言(f)もあるから,地域の長年の慣行であったと見てよいであろう。供犠動物は女神へのお供えであり,また供犠・分配後の残り物は不可触民として差別されてきた最下層ダリットへの5年に一度の施しでもあったのだ。

これに対し,供犠後の不衛生な残り物を施されるのは「差別」だと憤り,バラ郡やパルサ郡のダリット共同体は,供犠後動物拒否運動を始めた。「チャマルも社会の変化に気付き始めた」とマハント・ラムは述べている(o)。

ガディマイ祭反対運動として最も説得力があるのは,このダリット共同体の反対運動である。供犠・分配後の残り物を施すなどといった,文字通り「非人間的」で「反人権的」な差別的慣習の温存は許されるはずがない。

しかし,その一方,こうしたダリット共同体の供犠後動物拒否運動が,ガディマイ祭商業化の要因の一つともなっているのではないか,とも思われる。ダリットにタダで恵むよりも売却した方が得ということ。

もしそうであるなら,皮肉なことに,ダリットのガディマイ祭反対運動が成功すればするほど,それだけ祭が商業化・資本主義化し盛大となるのを助長する結果になってしまう。

そして,商業化すれば,今度は,巧みな宣伝に煽られ,数ヶ月分もの収入を購入費に充てるなど,無理してヤギや水牛を買い,供犠のために連れてくる多くの信心深い人々が,祭を牛耳る有力者らの食い物にされてしまうことになる(h)。たとえば,こんな話もある。

「ネパール政府はガディマイ祭に450万ルピーを援助しているが,その援助に見合うだけの効果はあるのか? 私の見る限り,利益を得ているのは,祭実行委員会と商売人だけだ。われわれの調査中,ある人がうっかり口を滑らせ,自分は祭司家族とコネがあるので駐車場入札でうまくいった,ともらした」(f)。

このように,商業化すればするほど,宗教を利用した民衆搾取は大規模となる。しかし,これは伝統的なカースト差別ではないから許される,ということにはなるまい。これは新しい形の半資本主義的な不正・腐敗であり,この観点からの批判も,ダリット差別の観点からの批判と同様,十分な根拠があり正当であるといってよいであろう。

(注)
チャマール  Chamar, widespread caste in northern India whose hereditary occupation is tanning leather; the name is derived from the Sanskrit word charmakara (“skin worker”).[….] Members of the caste are included in the officially designated Scheduled Castes (also called Dalits); because their hereditary work obliged them to handle dead animals, the Chamars were among those formerly called “untouchables.”(Encyclopadia Britannica)

ネパールのチャマール人口
141118 (Shyam Sundar Sah, AN ETHNOGRAPHY STUDY OF CHAMAR COMMUNITY: A CASE STUDY OF SIRAHA DISTRICT, March, 2008)

[参照資料]
 [f]Dilip D Souza,”The Goddess Beckons,” December 2009,Himal
 [h]”Gadhimai Festival(Animal Sacrifice) In Nepal.” http://omoewi.blogspot.jp/2013/02/gadhimai-festival-animal-sacrifice-in.html
 [o]”Dalits to boycott animal carcass,” ekantipur,2014-10-28

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/11/18 at 13:25

既成政党からのジャナジャーティ離脱

ジャナジャーティ(少数派民族,先住民族)の既成政党からの離脱が始まった。

ネパールは文字通りの「多民族」国家であり,圧倒的多数派のカーストや民族は存在しない。「バフン」と「チェトリ」を相対的多数派の上位支配カーストとすれば,他は全部,少数派カースト/民族,つまりジャナジャーティということになってしまう。

しかも,最近では,バフンやチェトリの中からも,自分たちはネパールの諸民族の一つであり,割当制度などにおいて,他のカースト/民族と同等の扱いを受けるべきだという主張が出始めている。

というわけで,「ジャナジャーティ」といっても必ずしも概念的にはっきりしないが,以下では,一応,伝統的支配カースト/民族以外の様々な社会諸集団と考えることにする。

ネパールのカースト/民族(2001)
   チェトリ(15.8%)
  バフン(12.7%)
  マガール(7.1%)
  タルー(6.8%)
  タマン(5.6%)
  ネワール(5.5%)
  ムスリム(4.3%)
  カミ(3.9%)
  ヤダブ(3.9%)
  ライ(2.8%)
  グルン(2.4%)
  他はすべて2%未満

1.三大政党からの離脱
(1)統一共産党-Mからの離脱
統一共産党-M(UCPN-M)からのバイダ派離党については,すでに紹介した。
 ▼マオイスト分裂へ  マオイスト新党CPN-M,発足  

(2)コングレス党からの離脱
10月3日,クマール・ライら約30人が,コングレス党(NC)からの離脱を宣言した。彼らによると,スシル・コイララ党首は,民主的・立憲的な方法で被抑圧諸集団の権利を実現すると約束したが,実際には,口先だけで,彼らの権利を保障するはずの新憲法の制定にも失敗した。

NCでは,連邦制に関するタマン委員会も,「民族」による州区分や州命名は民族紛争を引き起こすので,単一アイデンティティ州は認められない,という答申を出している。

このように,NCは彼らジャナジャーティへの理解がなく,したがって,もはやNCにとどまることはできない――これが,クマール・ライらの離党理由である(Republica, 4 Oct)。

(3)共産党-UMLからの離党
クマール・ライらのNC離党宣言の翌日(10月4日),アショカ・ライ副党首ら約550人が,共産党-UML(CPN-UML)からの離党宣言を出した。ライはこう言っている。「私のアイデンティティや私の帰属集団を認めないような党に留まりたいとは思わない」(nepalnews.com, 4 Oct)。

また,ラジェンドラ・シュレスタによれば,「UML中央委員115人のうち66人がブラーマン」であり,「党指導部は一握りのブラーマンにより独占されている」(Republica,5 Oct)。

そこで,彼らジャナジャーティは,離党し新党を作る予定だが,その新党は,A.ライによれば「すべての民族集団・宗教集団・言語集団の平等」を認めるものであり,またラジェンドラ・シュレスタによれば「各集団には人口比に応じた集団代表を保障する」ものである(Republica, 5 Oct)。連邦制については,彼らは,単一アイデンティティ州を要求している。

2.既成政党vsジャナジャーティ
このような三大既成政党からのジャナジャーティ離党は,ネパール政治が新しい段階に入り始めたことの明らかな兆候の一つである。

NC,UMLは言うに及ばず,UCPN-M(旧マオイスト)も,プラチャンダ(プスパカマル・ダハール)党首とバブラム・バッタライ副党首(首相)がともにブラーマンであるように,上位カースト支配である。彼らは,1990年体制下で,下位カースト/ジャナジャーティの権利要求を利用して勢力を拡大し,ついには王制を打倒した。

しかし,こうして勝利した彼らにとって,もはや下位カーストやジャナジャーティは不要であり,したがって彼らの権利要求は聞き置くだけで,実際にはその実現には真剣に取り組むことをせず,包摂参加を実現するはずの新憲法の制定も先送りしてしまった。

こうした既成政党の在り方に対し真っ先に異議を唱えたのは,皮肉なことに,あるいは当然ながら,党幹部に最大限利用されてきたUCPN-M内のジャナジャーティである。彼らはUCPN-M(旧マオイスト)を離脱し,CPN-M(新マオイスト)を設立,単一民族アイデンティティ州による連邦制の樹立を旗印に,合法的あるいは非合法的手段をもちいて既成三大政党の打倒を目指すことを宣言したのである。

次に離党宣言をしたのは,NC内のジャナジャーティである。NCは「国家」主権ないし「国民」主権の立場をとり,単一アイデンティティ州はいうまでもなく,連邦制そのものについても消極的であった。NC内のジャナジャーティが不満を募らせ,離党へ動いたのは,当然といえよう。

最後に離党したのは,UML内のジャナジャーティである。UMLは,NCとUCPN-Mの中間に位置し,連邦制に賛成するものの,単一アイデンティティ州については揺れ動いていた。日和見政党といってよい。

そのため,UML内ジャナジャーティも党幹部への期待と失望の間を揺れていたが,バイダ派マオイストやNC内ジャナジャーティの離党を見て,結局は,UML離党を決めたのである。

今後の展開はまだ分からないが,このまま進行するなら,NC,UML,UCPN-Mが新たな体制派となり,これにジャナジャーティ諸派が対立,合法・非合法の反体制運動を展開する,ということになりそうである。

3.国家主権争奪から国家主権否定へ
この数十年のネパール政治は,正統な国家主権の争奪闘争であったといってもよい。王党派は,ヒンドゥー教により国家を聖別し,神の化身としての国王による国家統治を正統化した。国王は国家であり人民であった。

1990年革命成功により,王政の正統性は否定され,選挙が議会に正統性を付与した。議会は実際には上位カースト寡占であったが,選挙の洗礼により議会多数派政党が国民を代表するものとして国家を統治することができた。

このように,これまでは,国王にせよNC,UML,UCPN-Mにせよ,立場は異なっても,正統な国家主権の存在は認め,その掌握をめぐって激しく争ってきたといってよい。

ところが,いま新たな対抗勢力となりつつあるジャナジャーティは,すくなくともその核心的主張においては,そのような普遍的国家主権の正統性は認めない。

各民族,各ジャーティは,アイデンティティ集団としてそれぞれ主権を持ち,たとえ国家の枠を認めるにせよ,それは便宜的なものであり,主権的アイデンティティ集団の単なる集合体にすぎない。

こうしたジャナジャーティの主張は,従来の正統的国家主権の掌握をめぐる闘争とは本質的に異なる。その意味で,ジャナジャーティの闘争は極めてラディカルであり,もしこの闘争がこのまま拡大し本格的な民族紛争となれば,外国の介入も不可避であり,ネパールにとっては10年間のマオイスト紛争よりもはるかに深刻な事態となるかもしれない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/10/11 at 23:34

僧と貴族と武士が「民族自決」要求バンダ

5月10日,ネパール各地で,ブラーマン(僧族),タクリ(王族),チェットリ(武士)らが「民族自決」要求バンダ(ゼネスト)を実施した。お坊様,宮廷貴族,武士といった高貴な身分の方々が,ゲバ棒や石ころを手に街頭に出られ,お役所,学校,商店,工場を閉鎖し,スト破りの車には天誅を加えボコボコにされたそうだ。

ブラーマン,タクリ,チェットリといえば,もちろん特権身分。ところが,制憲議会選挙法では乱暴にも「その他」に放り込まれ,固有の身分としてすら認められなかった。革命直後であったため隠忍自重,屈辱に耐えてきたが,もはや堪忍袋の緒が切れた。ダリットが「民族」なら,おれたち僧や貴族や武士も当然それぞれ固有の「民族」であり,新憲法で「民族」としての諸権利が認められるべきだ,というわけである。

むろん,これは天にツバするようなもので,以前なら,このような自己否定となるようなはしたない要求はしなかったはずだ。たとえば,国王は公式には自分のことを「われわれ(we)」と呼んでいた(royal “we”)。国王は,その一身において国家=国民全体を代表していたわけだ。僧族や武士にしても,多かれ少なかれ,自分たちが国家=国民を代表する身分であることを前提に,諸特権を享受してきたのだ。

ところが,マオイストが,西洋多文化主義宣教団の応援を受け,「民族」により革命を闘い勝利したため,それまで「普遍(国家=国民)」を代表してきたブラーマン,タクリ,チェットリらは,難しい状況に追い込まれてしまった。彼らが茫然自失に近かったことは,制憲議会選挙法以降,自分たちが「その他」に分類されても,陰でブツブツ言うくらいで,表だっては抵抗らしい抵抗はほとんどできなかったことを見れば,明らかである。国家=国民を代表する俺たちが,なんで自ら特殊身分の一つに身を落とし個別「民族」としての権利要求をしなければならないのか?

しかし,ことここにいたっては,もはやそんな悠長なことを言ってはいられない。俺たちは「その他」ではない! というわけで,僧侶と王族と武士が,なぜかダリットと一緒に,バンダ(ゼネスト)に打って出たわけだ。

しかし,それだけではない。西洋多文化主義宣教団の努力のかいあって,「民族州」「民族自治」「民族自決」のために立ち上がったのは,ブラーマン,タクリ,チェットリ,ダリットだけではない。本家ジャナジャーティはむろんのこと,何と,伝統的カースト制の下で区別されてきた諸集団(ヴァルナ/ジャーティ)が,それぞれ自己のアイデンティティを言い立て,「民族」としての承認や,「集団」としての権利を要求し始めたのだ。

これって,カースト制のポストモダン的再編ではないのかな? プレモダンとポストモダンは,いったいどこがどう違い,実際には,どちらがより安全(よりまし)なのかな?

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/05/11 at 12:05

ダリット結婚祝儀,10万ルピー

小さいが興味深い記事が,nepalnews.com(Feb8)に掲載されている。政府が,ダリットと他カーストとの結婚に10万ルピーを支給するという政策の継続を決定したのだ。

10万ルピーは大金だ。それほどの大金を結婚祝いとして国家が支給する。目的は,ダリットと他カーストとの結婚の促進。これは革命的政策だと感心する一方,そうせざるをえないほど厳しい差別の下に,いまなお置かれているダリットの境遇が思いやられる。

たとえば,革命後の2010年6月,サプタリのダリット家族が,他カーストとの結婚を理由に,村から追放された。ダリット家族の男性が,チョーダリの娘と結婚したところ,娘の家族から殺すと脅迫され,上位カーストの人々からは暴行を受け,村を追い出され,マオイスト事務所に保護されたという。

もっとも,この件では,いささか引っかかる点もある。結婚相手のチョーダリさんが,ダリット男性の第二夫人だということ。ダリット男性には第一夫人がありながら,若いチョーダリさんを第二夫人とし,しかも郡裁判所がそれを正式に認めた。2010年のことだ。ネパールでは,革命後も,第二夫人が実際には合法なのだ! (ネパール男性との結婚を考えている女性の皆さんは,その辺の事情をよく考え,行動していただきたい。)

しかし,それはそれ。ダリットと他カーストとの結婚が上位カーストから忌み嫌われ,迫害されていることは事実である。だからこそ,ダリットとの結婚には奨励祝い金が支給されているのだ。

こうした革命的な積極的格差是正措置には,もちろん他カーストからの嫉妬が絶えない。たとえば,バフン(ブラーマン)やチェットリ(クシャトリア)は,政府の逆差別により今では自分たちがダリットないし不可触民のような境遇に貶められている,といって不満を募らせている。

たしかに,革命後政府の少数民族・被差別カースト優遇策を見ると,彼らが非難するような側面が一部あることはたしかだ。しかし,長年の過酷な差別を解消して行くには,想像を絶するエネルギーが必要である。どの革命も,「行き過ぎ」なしには達成されなかった。

それが歴史だとすれば,ダリットと他カーストとの結婚祝い金10万ルピーは,歴史の必要としての「行き過ぎ」といってよいだろう。ダリットとの結婚祝い金10万ルピーは,支給されてしかるべきである。

* nepalnews.com, 8 Feb 2012;27 Jan 2010.

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/02/09 at 14:57

マオイストの憲法案(15)

4(9) 不可触民差別および人種差別に対する権利
マオイスト憲法案第30条は,不可触民差別や人種差別を禁止している。カースト差別,人種差別は,1962年憲法第10条でも禁止されており,その規定がその通り適用されておれば,それらの差別はなくなっていたはずである。しかし,他の多くの規定同様,62年憲法第10条も実際には無視され,非道なカースト差別が続いてきた。

1990年民主化運動成功により成立した90年憲法では,第11条で「不可触民」差別禁止が明記され,具体的に「公共の場所への立ち入り拒否」や「公共施設の利用拒否」を明文で禁止した。

2007年暫定憲法では,14条(1)~(5)により,不可触民差別と人種差別を,憲法にそぐわないほど詳細かつ具体的に規定し禁止している。マオイスト案は,それを受けているが,一部マオイストらしさを出したところもある。

暫定憲法第14条
(1) カースト,出自,共同体または職業を理由とした人種差別または不可触民差別の禁止。差別者は処罰され,被害者は賠償される。
(2) カーストまたは部族を理由に,公共的な施設利用もしくはサービスを拒否すること,公共的な場所もしくは宗教的な場所への立ち入りを拒否すること,または,宗教的行為を拒否すること,の禁止。
(3) カーストまたは部族を理由に,商品やサービスの生産や提供を拒否することの禁止。
(4) カースト,部族もしくは出自を理由として,優劣を述べること,社会的差別を正当化すること,カーストの優劣もしくは憎悪の思想を広めること,または,他の形でのカースト差別を助長すること,の禁止。
(5) (2)~(4)に抵触する行為の処罰。

マオイスト憲法案第30条
(1) 上記(1)に対応。差別理由に「身体的条件」を追加。賠償規定なし。
(2) 上記(3)と同じ。
(3) 上記(4)に対応。差別理由に「不可触民」追加。
(4) 不可触民カーストを理由として,本人の意思に反する行為や仕事をさせ,差別することの禁止。
(5) あらゆる形の不可触民差別や他の差別の処罰と,差別被害者への賠償。

カースト差別禁止という点ではマオイスト憲法案と暫定憲法は同じだが,ニュアンスは微妙に異なる。全体的にマオイスト案では,不可触民差別禁止が前面に出ている。また,暫定憲法14条(2)が公共的な場所立ち入りやサービスの拒否を禁止しているのに対し,マオイスト案は職業の強制を禁止している。

カースト差別については,憲法にここまで細々と記述する必要は無いと思うが,62年憲法のような差別禁止の原則規定だけでは実効性がなかったことを考えると,可能な限り詳細かつ具体的に憲法に記述せざるを得なかったのだろう。

マオイスト人民戦争は問題も多いが,少なくともカースト差別や性差別をラディカルに批判し,差別撤廃へ向けて大きく前進させたことは,高く評価できる。

マオイストの「蛮勇」なくして,カースト差別や性差別撤廃へ向けてのこれだけの前進はあり得なかったと断言してもよい。ピューリタン革命の「首切り斧」,フランス革命の「ギロチン」,社会主義革命の「人民裁判」――歴史は残酷なものだ。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/16 at 10:38

ゴミと聖牛

谷川昌幸(C)
このテーマについては、昨年も書いたが、状況はさらに悪化し、聖牛たちのあまりの哀れさに不覚にも涙を禁じえなかった。牛を食う罰当たりなキリスト教国でさえ、牛の権利はもっと尊重されている。(少し前、アメリカで、へたり牛をフォークリフトで突付き屠殺場へ追いやろうとした従業員が、牛権侵害で囂々たる世間の非難を浴びた。かの国では、牛を殺すにも、「牛道的」に殺すことになっているのだ。人道的殺人を規定する国際人道法と同じ論理だ。)
 
1.ケガレとしてのゴミ
この国では、ゴミはケガレであり、忌避の対象。伝統的カースト社会では、ケガレを下送りし、最下層の人々にゴミ処理を押し付けていた。このケガレ下送りシステムが、宗教的に聖化され正当化されていたときは、町も村も清潔であった。
 
ところが、民主化とともに、そのケガレ下送りシステムが機能しなくなる一方、政治的混乱の長期化で新しい近代的民主的ゴミ処理システムの構築が出来ないため、カトマンズはいまやゴミだらけ。不潔・不快きわまりない。
 
ゴミは路上に捨てられる。いたるところで道幅の半分以上を生ゴミ、不燃ごみが占拠し、交通渋滞となる。強烈な腐敗臭の中、すし詰めバス乗客や通行人はひたすら我慢を強いられる。ケガレ観念を残したまま、それを処理する伝統的社会制度を破壊したつけが、これだ。
 
さらにグロテスクなのは、悪臭・汚物まみれの道路に面して、ハイカラ高級ブランド店や超豪華マンション等が続々と建設されていることだ。生ゴミ腐敗臭にまみれつつ、ブランド店で優雅にお買い物。
 
これは、むろん伝統的清掃人の責任ではない。これまでケガレを下送りされ、ゴミ処理を押し付けられてきた人々が、議会に代表を送り、自分たちの権利を主張し始めたのは、当然なことだ。彼らには、冷房の利いた快適なオフィスで働く特権社員と同等以上の給与が支払われて当然だ。責任は、自分たちの利己的都合で伝統的社会制度を破壊しながら、それに代わる新制度を作ろうとしない為政者たちにある。
 
2.階級と民族のすり替え
ここで警戒すべきは、2006年4月政変で権力を得た人々が、階級問題を民族問題にすり替える動きが見られることだ。科学的調査などしなくても、カトマンズで貧富格差が急拡大していることは明々白々だ。特権階級による搾取は激化している。
 
これを放置すると、困窮者の暴動、革命になるおそれがあるので、権力者たちは問題をたくみに民族問題にすり替え、不満を人為的に創られた「民族」に解消しようとしている。ネパールの被抑圧人民は、「民族」で分断されてはならない。マルクス、毛沢東は、むしろこれから彼らの導きの星となるのだ。
 
3.聖牛から野良牛へ
しかし、これは人間界のこと、聖牛たちはまだ、祖国が世俗国家になったこと、そして自分たちがただの家畜になったことを知らない。
 
あわれ聖牛たちは、過去の威厳そのままに、今日も悪臭ただよう路上ゴミの真っ只中に座り、腐敗ゴミやビニール袋を食べている。泥沼の睡蓮。人間のケガレを一身に引き受け、わが身を犠牲にして、人間を救おうとしている。神々しい、聖牛の最後の姿だ。
 
しかし、こんなことはいつまでも続かない。聖牛たちの訴えはいつかは罪深い人間の心にも届き、ゴミはケガレから開放され、価値中立的な廃棄物となり、近代的に処理されるようになるだろう。清掃人は、清掃局の従業員となる。
 
そのとき、聖牛の人間救済は完成する。聖牛はケガレたゴミを食い、人間に罪を自覚させ、ゴミ処理を近代化させる。清掃人は根深い差別から救われる。しかし、そのとき、聖牛は世俗化され、ただの野良牛となり、飼い主に引き取られ、近代的管理の下で飼育されることになるだろう。聖牛は、自らの聖性を犠牲にすることのより、人間を救済するのだ。
 
しかし、聖牛のこの崇高な自己犠牲により実現される世俗的近代的社会が、人間と牛たちにとって本当に生きるに値するような、意味に満ちた社会となるかどうかは、まだ分からない….。

【参照】
ゴミのネパール
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ

Written by Tanigawa

2008/06/19 at 23:59

カテゴリー: 宗教, 文化

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売春カーストと性産業セックスワーカー

谷川昌幸(C)

1.売春カースト
8月下旬,売春職業カースト,Badiが他のダリット団体と共同で,国会周辺で生活改善要求運動を続け,逮捕者,負傷者が多数出ている。

2.バディの裸デモ
The Himalayan Times社説によれば,バディ・カーストは次のような現状にある。

いま国会デモをしているのは,西タライのバディ。国会周辺で「半裸デモ」を行い,もし要求が通らなければ「全裸デモ」をすると予告している。

主な要求は,売春をやめるための耕地の分配と子供の無償教育。売春職業のため,父不明の子供がたくさんいる。

法律は,売春を合法とも違法とも決めていない。ネパールでは,売春職業カーストが罪の報いとして古くから代々継承されてきた。社説は,法律で明確な規制を定め,女性搾取を禁止した上で,自由売春を認めるのが現実的という結論のようだ。

3.恥ずかしいのは社会
売春を家業とせざるをえないというのはいまの人権基準では明らかに正義に反する。生活に必要な「耕地を分配せよ」,「子供に無償教育を受けさせよ」というバディの要求は謙虚なものであり,文句なしに正しい。

「半裸デモ」はすでに新聞が報道した。人々の不幸をメシのタネにするのはケシカランが,しかし半裸バディ写真を掲載することで,彼女らの現状が世界中に知られた。マスコミは因果な商売だが,これは業,頑張って欲しい。

バディは次は「全裸デモ」をするという。服を脱いで全裸で100人,1000人がデモすれば,もはや誰もとめられない。これも,ぜひ一面トップで掲載し,世界中にネパール文化の深遠を知らしめて欲しい。

恥ずかしいのは,売春家業でも半裸デモでもない。それはネパール社会が彼女らに強制してきたことだ。ありのままを人々に見せる。恥ずかしいのは,見ている社会の側だ。世界への恥さらしと見るなら,即刻バディの謙虚な要求を受け入れ,全裸デモをやめてもらうべきだ。

4.マオイストのリキシャ攻撃,大使猟官運動
マオイストは何をしているのか? 人権団体はいくつか連帯を表明しているが,腰が引けている。マオイストはよく分からない。こんなときこそ,バディを全面支援し,解放を勝ち取るべきだ。

それなのに,マオイストは先日のバンダで,何とリキシャ(人力車)を攻撃して回った。リキシャの運ぶ人や物などたかがしれている。かつてのバンダでは,リキシャだけは例外で,「人民のためのバンダ」をアピールした。そんなことも出来ないマオイスト。リキシャなど攻撃せず,一泊数万円もする某高級ホテルでも攻撃してみよ。

その一方,マオイストは,一番おいしい官職である大使に4候補を出した。デンマーク,オーストラリア,フランス,マレーシアだという(8月28日4大使閣議決定)。リキシャ攻撃と大使猟官運動。それらと,バディの「全裸デモ」のどちらが恥ずかしいことなのか?

5.バディとセックスワーカー
バディ問題が難しいのは,文明社会でもセックスは「産業」として成立しているからだ。「売春職業カースト」と「性産業セックスワーカー」は,どこが違うのか? 日本でも欧米でも,性産業は認められており,売春そのものを堂々と公認している先進国もある。

あるいは,「バディの半裸や全裸」と,先進諸国の半裸夏ファッションやネット性無法状態は,どこがどう違うのか? 29日午後,ネパール文部省正門前で,ヘソだし半裸ファッションの日本女性を見た。ビーチと勘違いしているらしい。ギョッとし,猥褻罪で逮捕されないかと心配になった。

ネパールでも,伝統的性交像満載のヒンズー寺院の周辺には,近代的性産業が続々進出してきている。数日前,寺院の向かいの飲食店に迷い込んだら,これはイカン,性的退廃ムード瀰漫。イカン,ケシカランが,道の反対側のヒンズー教寺院と,このケシカラン飲食店,あるいは全裸で踊らせているあまたの酒場(先週ヌードダンサー80人が逮捕された)と,どこがどう違うか?

裸や性を見せている点では,両者は何ら変わらない。違いは,宗教性の有無,あるいは経済外的強制の有無だけだ。現代性産業は,世俗化され,民主化され,共和制化されている。そこが違う。

バディなど前近代的売春職業は,宗教や親など他者により売春を強制された。これに対し,近代民主主義社会では,本人の自由意思で,売春する。自由・独立の個人が,自分の自由意思により,新しい服が欲しいといった理由により,自分の財産(property)である身体の一部である性器を貸し,使用料を取る。資本主義の原理からいって,自分固有の財産(性器)をどう使用しようが,他人の同等の自由を侵害しない限り,それは自己責任であり,何ら問題はない。だから,ヒマラヤンタイムズも,世俗的民主的共和制的な法律により規制した上で,自由意思による売春を認めるという現実的な提案をしたわけだ。(性器の使用契約とは卑猥な表現だが,くそまじめな哲学者カント大先生の表現を拝借しただけ。抗議はカント先生にしてください。)

6.拝金教による強制
しかし,その近現代セックス・ワーカーの自由意思は,本当に自分の意志か? もし資本主義文化により巧妙に創り出されたものなら,売春強制者がヒンズー教などの宗教から資本主義(拝金教)に替わったにすぎない。

先進文明国の教養ある人々は,バディ売春職業カーストを野蛮な未開国の因習と見下すが,見方によれば,自己責任で性産業に従事させられている先進国のセックス・ワーカーの方がはるかに悲惨な状況にある。バディの売春は強制されたもので,性器を貸すだけだが,先進国の性産業セックス・ワーカーは自分の自由意思で性を売り金品を得ている(と社会から見られている)からだ。バディにはまだ魂の救いがあるが,先進諸国のセックス・ワーカーには救いはない。性を売ったことの責任を全部引き受けて死んで行かねばならない。

いまのネパールは,過渡期だ。売春職業カーストが残っている一方で,資本主義型性産業が急成長している。バディはカースト差別でケシカランが,では,民主化され万人に開かれた近代的性産業はどうなのか?

7.民主主義の偽善は許されない
カースト規制から解放されたバディが,餓死の自由を得,自らの自由意思で資本主義的性産業にセックス・ワーカーとして就職するといった民主主義の偽善は,絶対に許されてはならないだろう。

* ネパールの性問題の現状については、アイウエオサークル 「セックス産業花盛り」(8月28日)http://aiueo.blog.ocn.ne.jp/nepal/2007/08/post_3887.html

* The Himalayan Times, 28 Aug. 2007.

写真(上):文部省玄関。国民道徳総本山への入り口。
写真(中上):筋向かいのヒンズー教寺院と敷地内の銀行。宗教と資本主義先兵の結託(この寺は観光収入目的で建設されたというウワサもある)。
写真(中中):ヒンズー教寺院の性交像。この種のものが無数にある。
写真(中下):同上
写真(下):寺院反対側(文部省の並び)の繁華街。近代性産業もこうした繁華街内に増殖中という。  

Written by Tanigawa

2007/09/01 at 14:54