ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Posts Tagged ‘ガンディー

ゴビンダ医師のハンスト闘争(37)

10 参考資料
(1)マンジート・ミシュラ「希望と恐怖の物語」リパブリカ,2018年8月1日
——————————————————————–
ゴビンダ医師のハンスト闘争を,ガンディーやネルソン・マンデラのサティアグラハを継承するものとして高く評価。著者はラジビラジ在住の講師。リパブリカ紙にコラム等執筆。
Manjeet Mishra, “Tale of hope and fear,” Republica, August 1, 2018
———————————————————————

KC医師が力づくで拉致され,[KAHS] 病院が破壊された。これは,サティアグラハ[真理追求,非暴力抵抗]に対する攻撃に他ならない。

7月18日は,ネルソン・マンデラの生誕記念日。この数年と同様,今年も関心はあまり高くはなかった。トランプ,プーチン,エルドアン[トルコ大統領]のような力を振りかざす権力者たちが見出しを独占するような時代においては,マディバ[マンデラ愛称]のような平和と和解への訴えは,無力・無意味で時代遅れのように見える。世界は,もっと先へと進んでしまったように見える。

彼の訴え方は現在では現実離れしているように見えるかもしれないが,実際にはそれは間違いなくわれわれを勇気づけてくれるのであり,いまこそ,それは思い起こされてしかるべきである。……

マティバは親切で度量が大きく人々の中に入り込む力を持っており,これこそが彼の指導力の特質であった。むろん失敗――主に経済に関して――もあったが,それにもかかわらず彼が彼の国と世界にとって大きな希望となっていることは,紛れもない事実である。

そのマティバに,たとえ形だけであっても,敬意を表すべき時に,断食をしていたゴビンダ医師が,ジュムラの病院から「拉致」された。これ以上あからさまな皮肉な仕打ちはあるまい。サティアグラヒ[真理追求者・非暴力抵抗者]の強制的拉致と病院の破壊が,非暴力を象徴する人の誕生日に行われる――これはサティアグラハそのものに対する攻撃と見ざるをえない。……

私が初めてKC医師を遠くから目にしたのは,彼が2016年洪水のとき,私の故郷であるサプタリ郡ティラティ村の医療キャンプに来た時であった。村は洪水で破壊されてしまっていたが,彼は冷静沈着そのものだった。彼は余計なことをせず仕事そのものに取り組んでいた。その姿を見て私は感激し,すぐ彼を尊敬するようになった。

おそらく彼のそうした資質が,その無私の態度と相まって,彼をして[サティアグラハの]象徴としたのだろう。ハンストをジュムラで始めることにしたのも,見事な決定であった。政府は彼を強制的に「拉致」せざるをえなくなり,それが市民社会やメディアに衝撃を与え,彼らの大きな共感を呼び起こすことになったのだ。

これこそサティアグラハの力である。無私の人物が改革改善を深く確信し,断固とした毅然たる態度をとるとき,権力は暴力的手段に頼らざるをえなくなる。今回の稀有の勝利は,KC医師にして初めて獲得しえたものだ。彼の闘いは,一言でいえば,まさしくマハトマ・ガンディーのいったことに他ならない――「初め彼らはあなたを無視する,次に彼らはあなたのことをあざ笑う,そして次に彼らはあなたを攻撃する,そしてあなたが勝つ」。

■M・ミシュラ「ツイッター」(2018年8月2日)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2019/05/13 at 10:07

ゴビンダ医師のハンスト闘争(1)

1.民主的専制とサティヤグラハ:ネパールから学ぶ(1)
ゴビンダ・KC医師(博士,TU教授)が,ネパール保健医療の抜本的改革を求め,15回目のハンストを行った。ハンストは,6月30日カルナリ州ジュムラで開始され,7月26日強制移送されたカトマンズで終了した。27日間にも及ぶゴビンダ医師最長のハンスト。
 *ハンスト(ハンガーストライキ):要求実現のための絶食による非暴力的闘争。

この生命を賭した壮絶な決死のハンストは,保健医療分野の人々を中心に共感を呼び起こし,ゴビンダ支持運動が拡大,結局,オリ政府をしてゴビンダ医師要求をほぼ全面的に受け入れさせることとなった。約束の実行はまだだが,そしてネパールでは約束実行の反故は珍しくないとはいえ,それでも確固たる信念に基づくハンスト闘争の現代における有効性を,ゴビンダ医師のハンストは十二分に実証したといってもよいであろう。

ゴビンダ医師のハンストは,悪政に対し率先して自ら一人敢然と立ち,正義実現のため公然と敢行される非暴力の政治闘争であった。それは,言い換えるなら,ガンジー(ガンディー)の唱えた「サティヤグラハ(सत्याग्रह, 真理要求,真理把持)」に他ならない。ガンジーはネパールではなぜかあまり人気がないが,今回の劇的勝利により,ゴビンダ医師を「ネパールのガンジー」と呼んだり,そのハンストを「サティヤグラハ」として評価する人も出始めた。ゴビンダ医師のハンストは,国内に限定された地域的政治闘争の一つとしてだけではなく,普遍的意義をも持ちうる「サティヤグラハ」としても注目され始めたのである。

■ゴビンダ医師支持FB

谷川昌幸(C)

ガンジーは「企業お抱えNGO」元祖: アルンダティ・ロイ

アルンダティ・ロイが,またまたガンジー(ガンディー,ガーンディー)を批判し,猛反撃を受けている。

120903 ■ロイ

ロイは,以前からガンジーの非暴力不服従運動には懐疑的であった。ロイによれば,ガンジー主義は,観衆を前提とする劇場型抵抗であり,たとえばチャッティスガルの村でのように,完全に包囲され外部から遮断された状況ではまったく無力だというのだ。

これは,ガンジーに対するロマン・ロランの批判と原理的には同じである。すなわち,たとえ観衆がいても,聞く耳を全く持たないヒトラーのような支配者には,ガンジー主義は無力だ,ということ。

【参照】
ガンディー劇場型抵抗の限界:A.ロイ
Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(1)
2010/04/23 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1) 

また,カースト制についても,ロイは2014年7月17日のケララ大学での講演において,「理想的バンギ(The Ideal Bhangi)」(1936)を引き合いに出し,ガンジーを「カースト主義者」と批判し,ガンジーの名を冠した大学などの機関は改名すべきだと述べ,告訴騒ぎを引き起こしていた(*3-5)。

【参照】Gandhi,”The Ideal Bhangi,” Harijan,28 November,1936
The ideal Bhangi of my conception would be a Brahmin par excellence, possibly even excel him. It is possible to envisage the existence of a Bhangi without a Brahmin. But without the former the latter could not be. It is the Bhangi who enables society to live. A Bhangi does for society what a mother does for her baby. A mother washes her baby of the dirt and insures his health. Even so the Bhangi protects and safeguards the health of the entire community by maintaining sanitation for it. The Brahmin’s duty is to look after the sanitation of the soul, the Bhangi’s that of the body of society. But there is a difference in practice; the Brahmin generally does not live up to his duty, the Bhangi does, willy-nilly no doubt. Society is sustained by several services. The Bhangi constitutes the foundation of all services. [….]

このように,ロイのガンジー批判は周知のことだったが,今回は,それらに加え,ガンジーを「企業NGO」元祖と断罪したのだ(*1-2)。

3月21日,ロイは「第10回 ゴラクプル映画祭」に出席し,開会スピーチを行った。ロイはこう述べた。インドでは,タタなど大財閥がほとんどすべてを支配し,言論表現も例外ではない。アメリカで,フォード財団やロックフェラー財団が「資本主義プロパガンダ」を支援しているのと同じこと。ところが,この映画祭は企業支援を受けず,人々の寄付で10年間にわたり運営されてきた。これは高く評価される。

そもそもガンジーは,「この国の最初の企業お抱えNGO」である。「彼(ガンジー)は,ダリット,女性,貧者について実にひどいことを書いているのに,この国では彼を崇め礼拝している。これは,この国の最大の誤りの一つだ。」

以上のようなロイの発言に対し,会場からは,偉大な国父ガンジーを「企業の手先」などと呼ぶべきではない,といった激しい反論が出された。これに対しロイは,「私は,彼(ガンジー)についてよく研究し,彼が1909~1946年に書いたものに基づき,こう述べたのだ」と答えた。ロイのガンジー批判は筋金入りだ。

ロイは,おそらく現代の最も過激で行動的な反体制知識人の一人であり,そして何より素晴らしいのは,本質を突く鋭い議論を巧みなレトリックで表現し提供してくれる,その有り余るばかりのサービス精神。こんな面白くて為になる危険な過激派知識人は,現代ではまれといってよいだろう。

*1 Abdul Jadid, “Mahatma Gandhi was first corporate sponsored NGO of the country: Arundhati Roy,” Hindustan Times, Mar 22,2015
*2 Pratishtha Khattar,”Striking Sparks: Arundhati Roy On Gandhi, Again,” 23 Mar,2015 (http://economydecoded.com/2015/03/striking-sparks-arundhati-roy-on-gandhi-again.html)
*3 Viju B,”Mahatma Gandhi was a casteist, Arundhati Roy says,” The Times of India, Jul 18, 2014
*4 Jason Burke,”Arundhati Roy accuses Mahatma Gandhi of discrimination,”The Guardian, 18 July 2014
*5 “Gandhi Looked Down upon Dalits, Says Arundhati Roy,” Express News Service,18th July 2014

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/03/31 at 14:20

民族連邦制と国家の生体解剖

1.連邦制に中国が警告
連邦制原理主義のバイダCPN-M議長が,訪問先の中国で,中国高官らから,連邦制は国家の統合と独立を危うくする,と警告された(Republica, 27 Jul)。

中国は,ネパールが連邦制になると,タライがインドに接近し,いずれシッキム化し,インド支配下に入ることを恐れているのだろう。

この中国の,中国国益に基づく警告について,バイダ議長は,帰国後、こうコメントした。

われらは,アイデンティティに基づく連邦制を主張している。国家統合を害するような連邦制をわれらも望んではいない」(nepalnews.com, 26 Jul)。

このバイダ議長のコメントは,大甘である。中国は,宗教,言語,人種など,要するに民族アイデンティティを唱えることが国家統合にとっていかに危険かを,いやというほど経験してきたからである。むろん,だからといってチベット弾圧が許されるわけではないが,少なくとも,そうした背景をもつ中国のアイデンティティ連邦制への警告が,経験に裏付けられた重い忠告であることはいうまでもあるまい。

2.アイデンティティ政治の知的稚拙さと政治的危険性:A・セン

アイデンティティ政治の危険性は明白であるにもかかわらず,バイダ議長を始めとする多くの優れた指導者たちが,易々とその罠にはまってしまうのは,なぜか? この問いに,アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』(勁草書房,2011)は,次のように答えている。

「人がもつ多様なアイデンティティから一つだけをとりあげて,その観点からのみその人を見ることは,知的な行為としてはたしかにひどく稚拙なものだ。それでも,その効果のほどから判断すると,単一基準というつくりだされた妄想をやすやすと擁護し推進できるのは明らかだ。」(242-3頁)。

知的に稚拙だから簡単に手を出せ,しかもその効果は絶大だから,政治家はついその誘惑に駆られてしまう,というわけだ。

3.ガンディーのアイデンティティ政治批判
アイデンティティ政治批判について,A.センが共感を持って言及するのが,ガンディーである。

「一つの国を共同体の連合として見なし,個人は国に属する以前に,そうした共同体に属すると考えることの基本的な難点は,[インドとイギリスの]どちらの場合にも見られるのだ。ガンディーは,そのような共同体中心の単一的な帰属化を助長し,優先させることを,国民の『生体解剖』と呼んだ。そのような派閥化を政治的に憂慮すべきなのは当然である。」(250頁)

4.「国民」の生体解剖
ガンディーは,イギリスがインド国民をカースト別あるいは宗教別・民族別に区分し、相互対立を煽り、これにより分割統治してきたことを厳しく批判した。

全国民が生体解剖され、バラバラにされるところを想像してください。そこからどうやって一つの国をつくりあげられるでしょうか?」(ガンディー,同書233頁)

センは,このガンジーの立場を,「国を宗教と共同体の連合として見なすことを拒否する慧眼」(234頁)と,高く評価している。

5.アイデンティティの多様性と選択の自由
センは,集団帰属やアイデンティティ意識の重要性は決して否定しない。批判されるべきは,一人の人であってもアイデンティティは本来多様なはずなのに,その中の一つだけにより人や社会を見る見方,あるいは「夜間に航行する船のように,互いにすれ違うだけの文化の多様性が存在する」複数単一文化主義(217頁)である。

われわれが多様多元的なアイデンティティをもつことは明白であり,したがって大切なのは,その多様性を保持しつつ,それらの中の優先順位や比重を自ら決定できる自由である。

「人には多くの異なった帰属関係があり,お互い実に様々な方法で交流しうることを明確に認識しなければならない。われわれには自らの優先事項を決める余地があるのだ。」(5頁)

このアイデンティティ選択の自由を保障するのが国家である。したがって、国家は「隔離された部分の寄せ集め」(228頁)ではなく、それ以上の属性と機能をもつものである。

「国家国民(a nation)を隔離された部分の寄せ集めと見なすことは、とてもできない。国民(citizens)は、あらかじめ定められた区分のどこかに位置づけられ固定されているわけではない。」(228頁、ただしこの部分は拙訳)

センはネパールについては述べていないが,こうした議論からすれば,バイダ議長のような連邦制論については,おそらく批判的であろう。

ネパールの現在の連邦制論は,まさしく「複数単一文化主義」であり,「国家を隔離された部分の寄せ集め」とするものに他ならない。

(注)
国民の生体解剖 ”vivisection” of a nation
複数単一文化主義 plural monoculturalism
(国家を離れた)部分の寄せ集め a collection of sequestered segments

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/28 at 14:44

カテゴリー: 民族, 民主主義

Tagged with , ,

震災後日本の無責任と自己犠牲

1.祖国愛と自己犠牲の崇高さ
震災・原発事故で示された日本人の「勇気」と「自己犠牲」は世界中の人々を驚かせ,ハーバードのサンデル教授も,前述のように,それを特別講義で取り上げ,コミュニタリアニズム(共同体主義)のモデルとして賞賛した。

今回の大震災や原発事故のような未曾有の危機に際し,多くの日本人が驚嘆すべき「勇気」と「自己犠牲」を示してきたことは事実である。昨日もテレビが,地震直後,中国人研修生20人を真っ先に高台に避難させ,自分は津波に呑まれ亡くなってしまった女川町の男性の勇敢な行動と,それに対する中国からの感謝と賞賛を紹介していた。東日本大震災では,このような本物の「勇気」や「自己犠牲」が多数みられたという。私は,日本人の一人として,彼らを心から尊敬し誇りに思う。

また,福島原発事故でも,被曝の危険を顧みず,現場に踏みとどまり,あるいは現場に入り,事故拡大防止のため懸命に努力されてきた多くの技術者・作業員の方々の「勇気」と「自己犠牲」にも心から感謝し,日本人として彼らを尊敬し誇りに思う。

人間が自分の家族や地域(近隣),あるいは祖国を愛するのは自然なことである。そして,それらが危機に陥れば,生命を賭しても救いたいと思うのが,人情である。右翼はもちろん,リベラルも左翼も、これは否定しない。家族愛,郷里愛,祖国愛の無い人は,生命を賭してわが子を守ろうとする野の小鳥にすら劣る。人間,いや動物ですらない。キリストやガンディーのように敵まで愛するのは難しいとしても,家族や同胞を愛せないような人は,人間失格である。

2.祖国愛の詐取
しかし,である。人間社会の難しさは,この家族・地域・祖国への自然な愛が,社会では巧妙に詐取されてしまうことが少なくない,という点にある。国家や企業には、危機対処の職責にある人々が選任されている。彼らは,危機の際,自ら決断し,行動し,その結果に対して責任を取らなければならない。ところが,社会で危機対処への無私の「勇気」や「自己犠牲」が賞賛され始めると,彼らはそれに便乗し,あるいは自ら積極的に煽り立て,そうすることによって,決断し行動するという自らの当然の職責をぼかし,責任を回避するようになる。「自己犠牲」は,崇高な無私の自発的行為から,社会的賞賛により陰湿に強制される擬似自発的行為へと成り下がってしまうのだ。

さらに恐ろしいことに,家族・地域・祖国のための「自己犠牲」は自然な愛による自発的行為だという賞賛が繰り返されると,「自己犠牲」を強制されている本人ですら,それを「強制」とは感じなくなり,自分の自発的行為と思い込んでしまう。為政者や企業幹部,あるいは社会多数派にとって,これほど都合のよい状況はない。

これに対し,もし,たとえば原発事故処理への出動を職責に基づき命令し強制すれば,命令権者には明確な責任が生じる。誰が,誰に,どのような条件で,原発事故処理作業をさせるのか? それが危険な作業であれば,命令権者は、当然,合理的で妥当な労働条件を明示し,同意(informed consent)を得た上で,作業を命令しなければならない。命令権者と労働者の権利義務は明確となる。

ところが,実際には,そうではないらしい。原発事故処理への出動を,勇敢な「自己犠牲」と賞賛することにより,命令権者は「命令」ないし「強制」の事実を隠微な形に希薄化していき,危険きわまる劣悪な労働条件での作業を技術者や作業員に「自発的に」引き受けさせることに成功したようだ。隠微・陰湿な命令権者は,たとえ技術者や作業員に被害が出ても,崇高な自発的「自己犠牲」を理由に,たいした補償もせず,責任を免れるにちがいない。

3.「無責任の体系」としての震災後日本
かつて丸山眞男は,天皇制国家を「無責任の体系」と呼んだ。それと,どこが違うのか? 天皇制国家は,家族への自然な愛を国家へと拡大し,国家のために死ぬことを賛美した。そして,国民もそれを信じたとき,為政者はそれを最大限利用し無数の国民を国家のために殺したのである。自発的愛国心により自らお国のために生命を捧げたのだから,為政者には責任はない。一億総懺悔!

福島原発処理では,そしてそれよりも分かりにくくはあるが震災・津波被害処理においても,原理的ないし構造的には同じ「無責任の体系」が出来つつあるのではないか?

4.「死ぬ」倫理と「殺す」論理
しかし,再び「にもかかわらず」といわざるをえない。家族・地域・祖国への愛は,国家や企業,あるいは社会多数派に詐取されがちだが,にもかかわらず,それがわれわれのうちに自然なものとして内在していること,そしてまたそれは決して無用・無価値であるわけではないこと,これは確かである。丸山眞男はこう喝破した。

「『国家のために死ぬ』というのは個人倫理の立場であり,政治は戦争においてそれを『国のために殺す』行為に転換させるのです。そうした『政治』の苛烈な法則,政治次元の独立性が一切容認された上で,なおわれわれはヨリ高次の意味で政治における倫理的契機について語らねばなりません。いかなる万能の政治権力もその前に頭を垂れなければならない客観的な倫理的価値があり,それを全く無視して存続することは不可能です。」(「政治学入門」244-5頁,強調原文)

政治家が市民に国家社会への貢献を要求しうるのは,政治家が責任倫理を自覚し,自らの判断と責任の下に,委ねられた権力を行使する場合のみである。それは「無責任の体系」の下での、隠微・陰湿な「自己犠牲」の強制とは,対極にあるものである。政治的には,それは合理的であり,市民には支配に服従する政治的義務がある。

しかしながら,それでもやはり政治においては「強制」の契機が払拭しきれず,権力による国家貢献命令は倫理的には正当化しきれない。それは,つねに家族・地域・祖国への自然な,純粋に自発的な愛の倫理により,批判されなければならない。

5.理念型としての隣人愛と祖国愛
父母には子への無私の愛がある。生命を賭してわが子を救ったという事例は枚挙にいとまない。近隣や祖国への愛は,それほど直接的ではないであろうが,理念型としては純粋な隣人愛や祖国愛はあり得る。イエスの隣人愛やガンディーの祖国愛はそうしたものであろう。もしそうした愛ですらすべて否定してしまえば,人間は野獣にも劣る悪魔的怪物になりはてる。問題は詐取であって,家族愛・隣人愛・祖国愛そのものではない。

「国のために死ぬ」と「国のために殺す」――この慄然たる深い宿命的葛藤を見ようともしないサンデル教授の震災特別講義は,政治哲学として、どう評価されるべきだろうか?

参照1:サンデル教授と震災後日本の「秩序と礼節」
参照2:「時代も事情も異なるが、東電本社と、未経験の危機と闘う現場に、「大本営と前線」の落差が重なる。きびしい使命にもかかわらず、伝え聞く作業従事者の処遇はずいぶん酷だ。・・・・現場と国民に対して欺瞞の大本営であるなかれ。東電だけではない。菅政権への気がかりは、より大である。」(天声人語,2011-4-22)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/23 at 12:53

マオイストの憲法案(10)

4(3)自由権(6)

[6]個人に対する著しい不正,暴行および搾取に対する最後の手段としての反逆の自由(23条(2)g)

これは,個人の抵抗権の規定。「但し書き」による制限はない。このような抵抗権の保障は,1962年憲法にはむろんのこと,1990年憲法にも2007年暫定憲法にもない。マオイスト憲法案の目玉の一つといってよい。

1)抵抗権の実定法化としての憲法
近代国家は,もともと旧体制に対する革命ないし抵抗の結果,生み出されたものである。たとえば,「アメリカ独立宣言」や「フランス人権宣言(1789)」にそのような宣言がある。

アメリカ独立宣言(1776)
「われわれは,自明の真理として,すべての人は平等に造られ,造物主によって,一定の奪いがたい天賦の権利を付与され,そのなかに生命,自由および幸福の含まれることを信ずる。また,これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと,そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども,もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には,人民はそれを改廃し,彼らの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし,また権限の機構をもつ,新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。・・・・

連続せる暴虐と簒奪の事実が明らかに一貫した目的のもとに,人民を絶対的暴政のもとに圧倒せんとする企図を表示するにいたるとき,そのような政府を廃棄し,自らの将来の保安のために,新たなる保障の組織を創設することは,彼らの権利であり,また義務である。」(斉藤真訳,岩波文庫,114-115頁)

フランス人権宣言(人および市民の権利の宣言)(1789)
「あらゆる政治社会形成の目的は,人の自然的で時効消滅することのない権利の保全である。その権利とは,自由,所有権,安全,圧政への抵抗である。」(高橋和之訳,岩波文庫,316頁)

近代国家の憲法の規定する自由や権利は,こうした革命や抵抗の成果を憲法条文に実定法化したものだといえる。換言するなら,近代憲法の保障するどの自由や権利にも,憲法をつくり出した人民の革命権や抵抗権が堅固な基盤として埋め込まれているといってよいだろう。

しかし,その一方,革命ないし抵抗が成功し,その成果が憲法の中に書き込まれてしまうと,自由や権利は憲法が保障する実定法上の自由や権利となり,憲法の定める方法で主張され守られるべきものとなってしまう。

2)法実証主義による抵抗権の否定
この考え方を徹底させたのが法実証主義(legal positivism)である。この立場に立つと,実定法に優位する自然法のようなものの法的効力は認められない。悪法も法である。したがって,現に有効(valid)な実定法への抵抗を権利として認める抵抗権は,憲法においても規定することはできない。悪政や悪法への抵抗はあり得ても,それは事実としての抵抗であり,実定法としての憲法の規定する権利ではありえない,という考え方だ。

この実定法の考え方は明快ではあるが,その反面,形式的に合憲的な権力による自由や権利の実質的な侵害に対し,憲法を根拠として抵抗することが困難になるという問題がある。悪法も法であり,改正されるまでは,国民には遵守義務がある。たとえ悪法と思われても,法を破る抵抗行為を法的権利として主張する余地はない。

これは、自由や権利にとっては危険な考え方であり、事実、たとえばナチスはこれを巧妙に利用し、残虐非道な全体主義支配を行うことに成功した。

3)抵抗権の憲法規定
こうした行き過ぎた法実証主義への反省から、自然法や抵抗権が再評価され、憲法の中にも抵抗権が書き込まれるようになった。代表的なものとしては、ドイツ基本法がある。

■ドイツ基本法第20条
「すべてドイツ人は、この秩序(合憲的秩序)を排除することを企図する何人に対しても、その他の救済手段を用いることが不可能な場合には、抵抗する権利を有する。」(『世界憲法集』岩波文庫)

アジアでは、タイ王国憲法(1997)に抵抗権の規定がある。

■タイ王国憲法65条
「何人も、本憲法が規定していない方法により、国家統治権の収奪につながる行為に、平和的に抵抗する権利を有する。」(『アジア憲法集』明石書店)

4)日本国憲法の抵抗権
日本国憲法には「抵抗権」の文言はないが、内容的に抵抗権と考えられる規定はある。

■日本国憲法第12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

ここには「抵抗」の文言はないが、自由と権利の保持義務が定められており、そこからは当然、それらの侵害に対する抵抗の義務、つまり抵抗権が導き出される。

しかし、この自由や権利の保持努力は、先述のように、憲法秩序のあるところでは、合法的手段によるものに限定されるという見方もある。実定法としての憲法は、有効な実定法に違反する行為を法的権利として正当化することはできないという論理である。

もちろん、自由や権利が侵害され、実定法による救済が全く期待できないような場合はあり得る。そうしたときの抵抗は、自然法を認める立場に立てば、自然法上の権利(自然権)となり、自然法を認めない立場に立てば、事実としての抵抗となる。しかし、いずれにせよ、それは実定法としての憲法上の権利ではない、という考え方である。

この問題、すなわち抵抗権は憲法上の権利か否かは、難しい問題であるが、結局、それは憲法の究極的解釈権が誰にあるかによって決まると考えられる。憲法は、制定後は、もっぱら憲法の定める手続きによって立法・行政・司法を通して解釈・適用されると考えるなら、その国家統治に反する抵抗行為を法的権利として正当化することは、憲法それ自体にはできない。

しかし、憲法が、立法・行政・司法による、あるいは国家の実定法による救済が不可能と国民が判断する場合は、自由や権利を保持するためそれらに抵抗する権利がある、と規定しているのであれば、抵抗権は憲法上の権利と言うことになるであろう。

たしかに、憲法設置の立法・行政・司法が形式的には合憲でも実質的には憲法実序を著しく侵害し、しかも合法的手段ではそれを阻止できない場合は、ありうる。そうした場合、憲法自体が抵抗権を認めておれば、違憲的統治への抵抗は憲法上の権利ないし義務となり、抵抗は合憲化・正当化され抵抗が容易となる。

しかし、具体的に、誰が、いつ、どのような形で抵抗権を行使できるかとなると、これは難しい。抵抗権行使の条件を緩くすると、憲法の定める合法的手続きが空洞化し、統治が不安定化する。悪法は法ではないから服従義務はないということになれば、恣意的解釈による法律無視が横行し、アナーキーになりかねない。逆に、要件を厳しくすると、結局、抵抗権を発動できなくなり、憲法に規定する意味が無くなってしまう。これは、近代的抵抗権理論の始祖ジョン・ロック以来、つねに問われ続けてきた難問である。

抵抗権発動の要件は難問であるが、それでもやはり憲法あるいは自由や権利が根底から破壊されそうなとき、人民には抵抗権がある、と憲法に規定することの意義は大きい。それは、そのような規定がない場合と比較してみれば、自明である。

5)市民的抵抗
それともう一つ、悪政や悪法に対する抵抗には、HD・ソローやガンディー、ML・キングらが唱え実践した市民的抵抗(civil disobedience)がある。これは、悪政や悪法への服従を拒否して抵抗するが、服従拒否に対する処罰は甘受するというところに特徴がある。

悪法を破り、有罪判決を受けたら、その判決に従い投獄される。その服従拒否・裁判・投獄の過程を通して、悪政や悪法の実態を暴き、これを世間に広く知らしめ、統治者に反省を迫り、悪政を改めさせる、という考え方である。

非力なユートピア思想のように見えるが、強い信念と適切な戦略・戦術があれば、これもきわめて有効な抵抗方法である。ガンディーのインド独立運動やキング牧師の黒人公民権闘争がそれを如実に実証している。

この市民的抵抗も、抵抗権の一種といってよい。市民的抵抗は憲法に抵抗権の規定がなければ、一種の自然権として行使される。もし抵抗権の規定が憲法にあれば、それは憲法上の抵抗権行使の一つとして正当に行使されるであろう。たとえば、ドイツ基本法は抵抗方法を限定していないので、実力による抵抗も可能であろう。これに対し、タイ王国憲法は「平和的に抵抗する権利」と限定しているので、これは市民的抵抗の規定といってよいであろう。

6)マオイスト憲法案の「反逆の自由」
では、マオイスト憲法案の「反逆の自由(freedom to revolt)」については、どのように考えたらよいのか? 

マオイスト憲法案の「反逆の自由」は、抵抗権ではあるが、他の憲法のそれとはかなり異なる。ドイツ基本法は、憲法秩序の破壊に対して抵抗する権利をすべてのドイツ人に認めている。抵抗方法の限定がないので、必要なあらゆる手段で抵抗する権利と見てよいであろう。

タイ王国憲法は、違憲な方法による国家統治権奪取(簒奪)に対し平和的に抵抗する権利を、すべての人に認めている。先述のように、「平和的」と限定しているので、非暴力的な抵抗に限定される。市民的抵抗のような抵抗権行使である。

日本国憲法は「国民の不断の努力」と規定するだけなので、自由や権利を守るため、どのような抵抗方法をとることができるか、ここからだけでは明確ではない。しかし、日本国憲法の根本原理の一つは平和主義であり、非戦非武装を前文と9条で規定しているので、自由や権利を守るためのギリギリの抵抗も非暴力的抵抗と考えなければならない。市民的抵抗である。

これに対し、マオイスト憲法案は、「個人に対する著しい不正、暴行および搾取」に対する「最後の手段としての反逆の自由」を規定している。抵抗権発動の目的が、ドイツ基本法とタイ王国憲法では憲法秩序の破壊から憲法を守ることであるのに対し、マオイスト憲法案では実質的には個人の権利を守ることであり、これは日本国憲法第12条とほぼ同じである。しかし、抵抗の手段の限定がないので、ドイツ基本法と同じく、必要なあらゆる手段を執りうると見てよいであろう。

しかも、注目すべきことに、この「反逆の自由」には「但し書き」による限定がない。したがって、他に手段がないと判断したら、誰でも「最後の手段」としてこの「反逆の自由」を行使できるのだ。これは、アナーキーの容認といってよいほどの驚くべき規定である。マオイストは、どうしてこのような「革命的」な規定を憲法案に入れたのであろうか?

ここでもやはり、マオイストは憲法を攻撃の道具として使うことばかり考え、自分たちが権力に就いたときのことには考えが及んでいないと断じざるをえない。コングレス党や統一共産党(UML)が権力にあるとき、この「反逆の自由」は強力無比の政府攻撃の武器となる。しかし、もしマオイスト政権となれば、今度は、マオイストがこの「反逆の自由」により攻撃されることになる。そこのところに、マオイストの考えは及んでいないらしい。制憲議会で大勝利し、議会第1党になっているにもかかわらず。

マオイスト憲法案の「反逆の自由」は、ドイツ、タイ、日本の抵抗権規定に比べ、はるかにずさんといわざるをえない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/03/27 at 17:25

Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(2)

2.安全圏から非暴力を説くなかれ
人を殺さざるをえないギリギリの状況にない者,あるいはその状況を想像すらできない者に,殺人の悪を語る資格はない。同じく,自らは暴力の矢面に立たず,安全圏にいる者に,暴力の悪を説き,非暴力を唱える資格はない。ゲルニカとロイとの迫真の議論はこう展開する。

「ロイ: 私自身に武器を取る決意がなければ,暴力を説くのは不道徳でしょう。同様に,攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのも不道徳です。

ゲルニカ: かつて,あなたはこう書いています。『絶滅の危機には反撃の権利がある,と人々は信じている。いかなる手段によっても。』これに対し,お定まりの非難がなされてきました。そら,ご覧,ロイは暴力を説いているよ,と。

ロイ:私は,こう問いかけたい。もしあなたがチャティスガルの深い森の奥に住む「先住民(adhivasi)」であり,その村が800人の中央予備警察隊に包囲され,次々と家を焼かれ,女性を強姦され始めたとしたら,そのとき,人々はどうすると思いますか? ハンガーストライキをするのか? それはできない。人々はすでに飢え,餓死しつつあるから。商品ボイコットをするか? できない。なぜなら,人々には商品を買うお金がないから。たとえ,それでももし人々があえて断食やダルナ(dharna)をするとしても,いったい誰がそれを見てくれるのか? 誰が関心を示してくれるのか? だから,私にはこう考えるしかないのです――私自身が武器を取る決意がなければ,他の誰かに向かって暴力を説くことは不道徳である,と。そして同じく,自ら攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのは不道徳である,と。」

これは,すさまじい議論である。世のほとんどの非暴力主義は,安全圏の中からのお説教にすぎないということになろう。

3.立ち上がれ,非暴力のために
しかし,ロイは暴力は不可避と考えているわけではない。もしわれわれが不正義に苦しめられている人々に目を向け,共に闘うために立ち上がるなら,彼らは暴力に訴える必要はなくなる。

「ロイ: 先住民(adhivasi)の強制移住や窮乏化に対する闘いを誰も支援しないのであれば,彼らにガンディー主義を期待することはできないということ,これは事実です。しかしながら,森の外にいる人々,メディアが関心を示す裕福な中流階級の人々が,その抵抗運動を支援することはできます。もし彼らが支援に立ち上がっておれば,森の中の人々もおそらく武器を取る必要はなかったでしょう。もし森の外の人々が支援に立ち上がらないのであれば,戦いの犠牲者のことを考えよといった道徳を説いてみても,あまり意味はありません。」

4.哀れみを請う犠牲者たるなかれ
ロイが一貫して唱えているのは,イエーリングのいう「権利のための闘争」である。哀れみを請うのではなく,自ら権利を闘いとれ,とロイは訴える。

「特権階級の人々をいらだたせているのは,私が単なる犠牲者ではないこと,私が単なる犠牲者の振りをしないことです。彼らは哀れな犠牲者を愛し,犠牲者救済を愛しています。私の著作は貧しい人々への援助のお願いでもなければ,哀れみ深い慈善のお願いでもありません。NGOや慈善活動や援助基金を求めているのではありません。そんなものは,金持ちが自分のエゴをくすぐり,端金で自分の良心を満足させるためのものにすぎません。」

インドには,たしかに慈善があふれている。企業は競って社会貢献事業を宣伝している。しかし,ロイは,そんなものは偽善であり,自己満足にすぎない,と一蹴してしまう。過激派ロイの面目躍如といったところだ。

5.公的なものが私的に,私的なものが公的に
ロイは,このようなラディカルな立場をとってきたため,「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまったという。

「私は,たいへん不安定な,しかし,静かでないこともない生活を送っています。が,ときどき,皮膚が,つまり私と,私の住む世界とを区別する或るものが,無いのではないかと感じることがあります。この皮膚の欠如は危険です。私の生活のあらゆるところに,それはトラブルを招いています。それは公的なものを私的に,私的なものを公的にします。それはときどき大きな心的負担をもたらします――私だけでなく,私の近くにいる人々にとっても。」

文学的な表現だが,これは,マオイスト・シンパと激しく攻撃され,またカシミール自決支持発言で反国家扇動罪で告発されるなど,まさしく「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまった,ロイの偽らざる心境であろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/02/24 at 16:12

Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(1)

「銃をもつガンディー」――あまりにも挑発的で神をも恐れぬ不遜な言葉だ。2009年12月、オバマ大統領がノーベル平和賞受賞演説でこれに近いことを述べた。彼は誠実で偉大な大統領ではあるが、アフガンなど世界各地で無防備な人民を多数殺しているアメリカの大統領であり、この呼称の域にはまだはるかに及ばない。
 (参照)ガンジーを虚仮にしたオバマ大統領 広島・長崎「平和宣言」批判 オバマ大統領の新軍国主義と朝日の海自派遣扇動 オバマ核廃絶発言と長崎の平和運動 オバマ大統領と国益と南アジア オバマ大統領の新軍国主義と朝日の海自派遣扇動 無節操なオバマあやかりイベント

「銃をもつガンディー」――あるいは、ひょっとしてこの呼称で呼ばれてもよいかもしれないと思わせるギリギリの域にいるのが、われらがアルンダティ・ロイだ。鋭利な言葉を縦横無尽に駆使して不正義と果敢に戦う作家、インド体制派にとってもっとも危険な知識人。そのロイが、『ゲルニカ』のインタビューにおいて、ガンディーを尊敬するにもかかわらず、なぜ銃を取らざるをえないか、このギリギリの問いに真正面から向き合い、誠実に答えようとしている。
 ■Arundhati Roy, “The Un-Victim,” Guernica, Feb. 2011

1.愚劣な質問
『ゲルニカ』のインタビュアー(Amitava Kumar)は、まず多くのインタビューを受けてきたロイに対し、愚劣な質問(stupid questions)と思ったのはどのような質問か、と問いかける。

「ロイ: かつて私はチャーリーローズ・ショー(Charlie Rose Show)に招かれ出演したことがある。彼はこう質問した。『アルンダティ・ロイさん、インドは核兵器を持つべきだと考えますか?』 そこで私はこう答えた。『インドは核兵器を持つべきだとは思いません。イスラエルも核兵器を持つべきだとは思いません。アメリカも核兵器を持つべきだとは思いません。』 『いいえ、そうではなく、インドは核兵器を持つべきだと思いますか、と質問したのです。』 私は全く同じように答えた。4回ほども・・・・。ところが、それは全く放送されなかった!」

あらかじめ想定していた回答を引き出すための質問、これはたしかに愚劣だ。次に、前後関係を棚上げにし、想定した回答を引き出そうとする質問。

「ロイ: 『マオイストは学校を破壊し、子供たちを殺している。こんなことが許されますか? 子供たちを殺すのは正しいことですか?』」

マオイストだろうが誰だろうが、子供を殺すのが悪であることは自明だ。その自明なことを答えさせることによって、質問者は、子供を殺すことは悪→子供を殺すマオイストは悪→ロイのマオイスト支持は誤り、という三段論法でロイをやりこめようとしているのだ。

これも愚劣な質問だ。人殺しは悪か、と問われたら、誰だって「人殺しは悪だ」と答えるに決まっている。しかし、現実にわれわれが直面する真の問題は、状況により人を殺さざるをえないときがあるのではないのか、という問いである。これなら本物の質問だ。ところが、腹に一物ある質問者は、状況も前後関係も棚上げして人を殺すのは悪かと質問し、悪だと答えさせ、それをもって人を殺さざるをえなかった人々を一方的に断罪しようとするのである。これも愚劣な質問である。

「ロイ: 愚劣な質問に答えるのは難しい。とてもとても難しい。愚劣は特有の方法で人を打ち負かす。とくに時間がなく、時間が貴重なときは。」

たしかに、そうだ。愚劣な質問は、本物の問題に対峙する勇敢な人々の誠意を踏みにじるものである。

(C)谷川昌幸

Written by Tanigawa

2011/02/23 at 08:18

ガンジーを虚仮にしたオバマ大統領

谷川昌幸(C)
オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説(12月10日)を読んで,こんなはずではなかった,と落胆している人も少なくあるまい。「オバマ感謝祭」を開催し,「オバマ法被」を着て「オバマみこし」を担ぎ練り歩いた長崎においても,失望の声が聞かれ始めた。
 
オバマ大統領は,ガンジーやキング牧師を引用し称賛しながらも,「正しい戦争」,つまり防衛戦争と人道介入戦争を認め,ガンジーの非暴力・不服従による抵抗の教えを否定してしまった。
 
オバマ大統領は,演説において戦争を必要悪としてはっきりと認めており,したがって彼の核廃絶宣言も従来の核軍縮の枠を越えるものではない。
 
彼は正戦を認めるのだから,当然,核抑止力も認めている。核が大国によりきちんと管理されている限り,アメリカの核は世界最大の抑止力を持つから,アメリカにこれを廃絶する理由はない。
 
しかし,核拡散が続き,核がテロリストの手に渡ると,アメリカの核兵器はそれに対し何の抑止力もない。むしろ,核攻撃へのテロリストの意欲を掻き立てるだけだ。
 
オバマ大統領は,この状況に危機感を抱き,核拡散を防止するため核廃絶を唱えているにすぎない。だから,核の大国管理が回復すれば,核廃絶を唱える理由はなくなり,オバマ大統領,あるいは後継米大統領は,核廃絶をいわなくなるであろう。
 
オバマ大統領は,あえていうなら,ガンジーを虚仮にした。ガンジーは一切の正戦を否定したのであり,正戦を認めるオバマ大統領はガンジーを引き合いに出すべきではなかったのだ。
 
しかし,それにもかかわらず,私はオバマ大統領を高く評価する。彼は,やはりブッシュ前大統領とは格が違う。オバマ大統領は,ガンジーやキング牧師の非暴力・不服従による抵抗の立場を十分に理解した上で,そしておそらく彼らを虚仮にすることになることがわかっていても,それでも彼らを引き合いに出さざるをえなかったのだ。オバマ大統領のノーベル賞受賞演説には,彼の誠実さと,それゆえにこそ生じる内面の苦悩が,滲み出ている。
 
オバマ大統領は傑出した政治家である。長崎・広島は,手放しのオバマ礼賛ではなく,彼の正戦論を徹底的に批判することによって,彼が核抑止論も力の均衡論も放棄し非暴力・非戦平和の立場に向かうよう,彼を激励し支援すべきであろう。
 

Written by Tanigawa

2009/12/13 at 21:01

ロールズの正義と核保有

谷川昌幸(C)

John Rawls(1921-2002)は,現代アメリカの代表的哲学者であり,主著『正義論』(1971)は国家や社会について考える時の必読文献である。また『政治的リベラリズム』(1993)は,異なる価値観のあいだの「公共的理性」による合意の可能性を説いたものであり,いまのネパールの政治状況を考える時の参考にもなる。

そのロールズの3番目の著書『万民の法』(1999)の翻訳が出たので,読んでみた。

ジョン・ロールズ『万民の法』岩波書店,2006
John Rawls, The Law of Peoples, Harvard UP, 1999

書名が興味をそそったので大いに期待したが,これにはがっかり,こんな議論はダメだ。むしろ,ロールズともあろう人がなぜこんな議論をするようになったか,そちらの方がはるかに知りたいところだ。

1.国家民衆の5分類
ロールズは,国の民衆(people)を次の5つに分類する(p.4)。
(1)道理をわきまえたリベラルな諸国の民衆(reasonable liberal peoples)
(2)良識ある諸国の民衆(decent peoples)
(3)無法国家(outlaw state)
(4)不利な条件の重荷に苦しむ社会
(5)仁愛的絶対主義(benevolent absolutism)の社会

これらのうち(1)と(2)は「秩序だった諸国の民衆」とされ,「万民法」はこの2つの国の民衆に妥当する。単純化して言い換えるなら――
(1)理想的なリベラルな民衆
(2)リベラルではないが,許容される民衆(後述)
(3)outlawの許容され得ない国
(4)困窮下にあり援助されるべき民衆
(5)いくつかの人権は守られているが,政治参加は認められていない民衆

ロールズ自身は,回りくどく否定しているが,これは実際には,西側リベラル民主主義が最高であり,これをお手本にしなさいということに他ならない。

2.カザニスタンは侮蔑では?
たとえば,ロールズは(2)の民衆を説明するのに,カザニスタン(Kasanistan)という架空のイスラム国を設定している。この国は,リベラルには劣るが,「良識のある」国であり,万民法を守ることができ,したがって許容される。

ロールズに悪意はないであろうが,カザニスタンの国名は中央アジア風であり,カザフスタン,アフガニスタン,パキスタンなどを当然連想させる。

ロールズは,このカザニスタンを「良識ある階層社会のイスラム教徒の民衆」と呼んでいる。しかし,ムスリムからすれば,堕落したリベラルごときに「良識ある」などとバカにされたくはないだろう。彼らにとっては,イスラム社会こそが最善であり,二流扱いされるいわれは全くないはずだ。この本がもしイスラム圏で読まれたならば,焚書にされてもおかしくはない。

ロールズのような一流の学者でも,「正義」を掲げると,他の価値観への想像力が失われ,西洋中心主義に傾いてしまうようだ。

3.民主主義の平和
この「正義」論から出てくるのが,民主主義平和論(democratic peace)だ。これは,もう,どうしようもない。ブッシュ氏が大喜びしそうな議論だ。

「戦争の問題にかんする決定的な事実は,立憲民主制社会同士が互いに戦争を始めるようなことはないということである。これは,そうした社会の市民がとりわけ正義を尊重するよき人々だからというわけではなく,ただ単に,彼らにはお互いに戦争をする理由がないということである。諸々の民主的社会と近代初期ヨーロッパの国民国家群とを比較して見よ。イングランド,フランス,スペイン,ハプスブルク朝オーストリア,スウェーデン,その他の国々は,領土や宗教的正統性,権力と名誉,列強間での優越的地位を手に入れるために,王朝間戦争を繰り広げた。これらは君主や王族たちの戦争だったのである。こうした社会は,その内的な制度構造からして,生来,他の国家に対して侵略的で敵対的な形に築かれていた。民主的社会間の平和という決定的な事実は,民主的社会のその内的な構造に理由を持っている。というのも,こうした社会は自衛のためであったり,諸々の人権を守るための不正な社会への介入などの危機的ケースを除けば,あえて自ら進んで戦争を開始したりしないからである。立憲民主制社会はお互いに安全が保障されており,それらのあいだでは,平和があまねく行き渡るのである。」(p.9-10)

これは,明白なウソだ。近代以降についてみると,ほとんどの戦争に民主主義国が関与している。特に第2次大戦以降のおびただしい地域紛争には,たいてい民主主義国が直接または間接的に関与している。これは常識だ。

またロールズは,民主主義国には「戦争をする理由がない」などと,とぼけたことを言っている。先進民主主義国は,周縁諸国からの搾取構造を作り上げ,これにより経済的繁栄と政治的民主主義を享受してきた。民主主義諸国の平和は,途上国にとっては構造的暴力である。もし途上国がこの構造を変えようとすれば,先進諸国は防衛行動を取るのであり,事実,世界各地で戦争をしてきた。先進民主主義国は相互に攻撃はしていなくても,構造的暴力という戦争の渦中にあるのであり,しかもその構造を守るための「戦争をする理由」は山ほどあるのである。

4.正戦論
ロールズ自身,リベラルな国の民衆には「戦争をする理由がない」と言っておきながら,平気で,次のようにいう。

「民主的平和の観念は,次のことをも含意する。リベラルな諸国の民衆が戦争をするとすれば,それは,満足していない社会,つまり(私のことばで言えば)無法国家との戦争以外にはあり得ないということだ。そのような国家の政策がリベラルな諸国の安全や安定を脅かすとき,リベラルな民衆は戦争を行うが,それは,自分たちのリベラルな文化の自由と独立を守り,自分たちを従属させ,支配しようとする国家に真っ向から対抗しなければならないからである。」(p.66-67)

5.無法国家への非寛容
ロールズの正戦論は,自衛戦争の域を超え,無法国家への非寛容,攻撃へと突き進む。

「われわれは,リベラルな諸国や良識ある諸国の民衆のための万民の法を彫琢してきたが,これにしたがえば,それらの諸国の民衆は,断じて,無法国家を寛容に受け入れることはない。このように,無法国家に対する寛容を拒絶することは,リベラリズム,ならびに,良識あるということの当然の帰結である。・・・・リベラルな諸国と良識ある諸国の民衆は,万民の法の下,無法国家に寛容な態度で望まない権利を有しているはずである。リベラルな諸国と良識ある諸国の民衆には,このような姿勢を示すことにかんし,極めて正当な理由がある。無法国家は好戦的で,危険な存在である。このような国家群がそうしたやり方を改めれば――ないしは,無理矢理にでも改めさせられれば――あらゆる国の民衆はますます安全に,かつ安心して暮らせるようになるだろう。」(p.117)

自由は,自由を否定する自由は認めない,という周知の議論であるが,ロールズのこの部分の主張は,そうした本来は防衛的な議論がいかにたやすく自衛の範囲を超え,積極的な正義実現のための正戦論に転化するかを如実に物語っている。

6.都市爆撃,核保有の容認
ロールズにおいては,無法国家が相手となると,都市爆撃も核兵器保有も認められてしまう。

「第二次世界大戦中,イギリスは適切にも,民間人の厳格な地位を一時停止とし,そして,これにより,ハンブルクやベルリンに爆撃を加えることができた。・・・・それは,こうした爆撃により何かとても大きな成果が得られる場合に限っての話しである。・・・・イギリスが孤立した状態にあり,ドイツの圧倒的な力をうち負かすためにそれ以外の手立てが見当たらなかったような段階なら,ドイツ諸都市への爆撃も,おそらくは正当化可能であったと言えるだろう。」(p.144)

「無法国家が存在する限り,無法国家を寄せつけず,無法国家が核兵器を手に入れて,リベラルな民衆の諸国や良識ある民衆の諸国を相手にすることがないよう,ある程度の核兵器は保持する必要がある。」(p.12)

正戦論を認めたら,結局は,核保有を認め,核保有を認めたら,核使用を認めることになる(使用を前提としない核保有は形容矛盾だから)。現代最大のアメリカ哲学者ロールズも,原理的にはネオコンのブッシュ氏と何ら変わらなくなってしまった。

むろん,ここで公平のために,ロールズが都市爆撃や原爆使用に厳格な制限を付していたことは,明記しておかなければならない。戦争の帰趨がほぼ決まった後のドレスデン爆撃や対日焼夷弾爆撃は許されないし,広島・長崎への原爆投下もむろん許されない。

しかし,無法国家に対する正戦を認めてしまえば,都市爆撃にも原爆使用にも歯止めはかからなくなる。ドイツ軍が圧倒的に攻勢だった頃,もしアメリカかイギリスが原爆を完成させていたなら,ロールズの理論からすれば,原爆は使用されてもよいことになる。しかし,本当にそれでよいのだろうか? このギリギリの選択に迫られたとき,最も観念的と思われていたガンジーの非暴力的抵抗が実際には非常に現実的な選択肢として浮かび上がってくるのである。

7.正戦論の危うさ
ロールズの正義論は,神はむろんのこと,人民の意思などを引証して絶対的正義を唱えるような類の正義論ではない。もともとそれは,社会契約論の伝統に立ち,個々人の権利を公平に調整するための権利調整原理に他ならなかった。

しかし,そのリベラルなロールズでさえも,「正義」「公共的理性」などを口にすると,民衆を「良識ある民衆」とそうでない民衆に分け,正戦論をとり,ついには都市爆撃や核保有まで認めることになってしまう。学者らしく周到な限定が随所に付されているが,それらを外し議論の大筋を追うと,現代アメリカの対テロ戦争のイデオロギーに近いものになってしまう。

いまネパールでは,「人民」「人民権力」「民主主義」などの抽象的政治観念が政治の場でさかんに唱えられている。そうした観念は,民衆動員力が大きいく,使いたくはなるだろうが,本質的に危険であり,取り扱い要注意である。幹部たちが「人民」といったら,「それは誰」とつねに問いただすくらいの気構えが必要であろう。

Written by Tanigawa

2006/09/02 at 15:06

カテゴリー: 平和, 民主主義

Tagged with , , , ,

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。