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キルティプールのガート:自然に包まれて
1.仏教ゴンパと援助ロープウェー残骸オブジェ
11月21日、キルティプールの西方へ散策に出かけた。丘の西北端、インドラヤニのすぐ下に、援助ロープウェーの巨大な残骸があり、それにブーゲンビリアの大木がからみつき、巧まずして見事なオブジェとなっている。
その左横奥には、大きな美しい仏教ゴンパがある。誰でも入れ、花々が咲き乱れるヒマラヤ展望の名所である。本堂内ではネパール語・英語使用の法話を聴くこともできる。
■ロープウェー残骸オブジェ/ガート公園と残骸ロープウェー(上方)
2.ガート公園(仮称)
そのゴンパの隣に小学校があり、その横の小道を下りていくと、谷底の小川の側に小さな寺院インドラヤニ・サムサンがあり、その川岸がどうやらこの付近のガート(火葬場)となっているようだ。一昨日近くを通ったとき葬儀参列者が集まっていたし、今日も30人ほど集まり火葬の準備をしていた。かなりの人が、ここで荼毘に付されるのだろう。
この谷は、キルティプールの丘と西向かいの丘の狭間で、垂直に近い角度で切れ込んでいる。上からのぞくと足がすくむほどだ。キルティプール側は、公園として整備されているらしく、斜面には桜が植えられ、小道も造られ、あちこちに鉄製ベンチが置いてある。
このガート公園(仮称)は放牧が認められているらしく、牛や羊があちこちで草をはんだり、寝そべったりしている。ガート側の小川では、女性たちが洗濯し、洗った布を周辺の草地に広げ干している。その側では子供たちが遊び回り、近くの田では刈り取り・脱穀後の稲藁を広げて干したり束ねて運んだりしている。小春日和の、のどかな田園風景である。
このいつもと変わらない自然な風景の中で、この地方の荼毘は執り行われているようだ。
ネパールの火葬場としては、パシュパティナートが有名だ。寺院は立派だし、川岸の火葬施設も整備されている。しかし、その反面、寺院は制度としてのヒンドゥー教の権威の具現であり、良く言えば荘厳、逆に言えばケバケバしいこけおどし。ここでの葬儀は、死者と縁者のためというよりは、権威と見栄のためのよう思えてならない。
2.日本の葬式産業
このことは、日本の葬式について、特に強く感じる。葬式はますます形式化し、寺と業者の商売となり、とんでもない金がかかるようになった。特に悲惨なのが、地方。
いま日本の地方では、高齢化が進み、当然、結婚や誕生は少なく、葬式が多くなる。その結果、驚くべきことに、田舎では、葬儀業者がアンテナを張り巡らせ、誰かが死ぬと、いち早くキャッチし、競って新聞チラシに死亡情報を掲載する。次の顧客――死亡待機者――を獲得するためである。いま田舎の朝は、新聞を広げ、死亡広告チラシを見るのが、日課となっている。
おかげで、田舎の「死の商人」は景気がよい。大きて立派な建物は、有料老人ホームか葬儀催事場と見て、まず間違いない。
私は、こんな葬儀はいやだな。自分の死を寺や僧侶や葬儀社の金儲けの種にされたくない。死は本来自然なものだ。死とともに、自然の中に自然に帰っていくのが理想だ。
3.死して自然に帰る
自然に帰るという点では、このキルティプール・ガートでの荼毘は理想に近い。伝統社会の葬儀は、一般に多くの儀礼に縛られるから、キルティプールでも死後の儀礼は多数あるであろうが、少なくともこの火葬場での荼毘に限れば、ごく自然だといってよい。参列者の多くは平服であったり、ごく質素な喪服だし、ケバケバしい飾り物があるわけではない。
荼毘そのものは見ていないが、ここでの火葬は、花々が咲き、牛や羊が草をはみ、女たちが洗濯し、子供たちが遊び、農民が稲藁集めをする、その自然な風景の中で、自然に執り行われるものであるに違いない。近親者の悲しみは、遠くからでも、よく感じ取れる。それすらも、自然は優しく受け入れ、自然のうちにいやしてくれているようだ。
私の葬儀も、このような自然に抱き包まれるような、自然なものであることを願っている。
谷川昌幸(C)
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