Posts Tagged ‘キリシタン’
枯松神社: 神仏共生はなお可能か?
[1]
「文化の日」の11月3日,憲法第20条「信教の自由」を思いつつ,黒崎の枯松神社祭に参列した。この神社には,キリシタン宣教師のサンジワン(聖ジワン)が神として祭られており,秋の祭では「カクレ(旧)キリシタン」,カトリック教会,仏教の3宗教が合同して祭礼を行う。神道は直接は参加していないが,枯松神社はれっきとした神社だから,その神域内の神社での祭礼には古来の日本の神も当然参加していると見るべきであろう。つまり,枯松神社祭は,カクレキリシタンの神,カトリックの神,仏教の仏,日本神道の神を合同して祭る,おそらく世界唯一の特異なお祭りなのである。(カクレキリシタンは「旧キリシタン」」「潜伏キリシタン」「隠れキリシタン」などとも呼ばれる。)
この祭には,キリシタン弾圧への深い反省がある。幕府は,禁教令によりキリシタンを徹底的に弾圧した。その結果,キリシタンは根絶されてしまったと思われていたが,当時は不便な僻地であった黒崎付近にはキリシタンが潜伏し,密かにキリシタン信仰を守り続けていた。そのとき,この地方のいくつかの寺,たとえば樫山の天福時はキリシタンと知りつつも彼らを受け入れ,弾圧から守り続けた。
また,神社も,サンジワンを御神体として祭らせることによって,結果的にキリシタンの信仰を守った。もちろん,神社はカクレキリシタンの隠れ蓑として利用されただけかもしれないが,それでも鎮守の森の神は利用されることを許したのだから,キリシタンを守ったといってよいであろう。
枯松神社祭は,キリシタン弾圧への深い反省と,諸宗教の相互理解・共存を促進するため,開催されているのである。
●プログラム(2010.11.3)
感謝祭・慰霊ミサ 小島師(カトリック長崎大司教区)
オラショ奉納 村上師(旧キリシタン代表)
講 演 野下師(カトリック中町教会)
▼参考
侵略と弾圧から共生へ:長崎キリシタン神社
[2」
この枯松神社祭には,2007年11月にも参加した。そのときは,曇天ということもあったかもしれないが,神社境内は,キリシタン弾圧時代をしのばせるような,鬼気迫る雰囲気に包まれていた。その厳粛さには誰しも粛然たらざるをえないほどであった。
ところが,今日は,そのような霊気のようなものは,ほとんど感じられなかった。晴天ということもあろうが,どうもそれだけではなさそうである。
一つは,この3年で,神社周辺が整備され「近代化」されたこと。立派な道路ができ,神社近くのグラウンド・駐車場も完成していた。観光バスも来ていた。「近代化」は暗闇を「光で照らすことであり,「魔術からの解放」である。カクレキリシタンの神を隠す神域が,光に照らされ,神は隠れることも魔術を使うことも難しくなった。これが一つ。
もう一つは,それと関連するが,傍若無人のカメラ中高年。最近は,中高年男女の間で写真が流行っているらしく,バカでかい一眼レフをもったアマチュア中高年男女が,ところかまわず動き回り,ミサ中にもかかわらず,パシャパシャ写真を撮りまくる。神父様がアーメンといえば,思い切り接近し,すかさずパシャパシャ。昔,写真は魂を抜くと恐れられた。いかな全能の神といえども,こんな自己中素人写真屋にパシャパシャやられては,子羊を救う前に退散してしまうのは当たり前だ。こんな罰当たりの写真屋どもは,来年から入域禁止とすべきだ。
[3]
しかし,これは実際には難しい。地域の人々は,この世界的にも珍しい枯松神社祭を村おこしに利用しようとしている。観光化だ。観光化すれば,神は見せ物となり,逃げ出す。神は隠れてあることをもって本質とするからだ。あとには,外見と私利のみのマモン神が控えている。
[4]
それと,今年不思議だったのは,お寺さんの参加がなく,祭礼は仏教抜きで行われたこと。また本来祭の中心のはずのカクレキリシタンも,オラショ奉納はあったものの,祭礼での扱いは小さく,影が薄かった。今年の祭礼は,カトリック教会が全体をほぼ仕切っており,カトリックのミサといってよいくらいであった。(主催は「枯松神社祭実行委員会)
もともとカトリックは,その名の通り普遍的であり,非常に柔軟だ。布教に役立つと思えば,土地の慣習であれ神々であれ,何でも取り込んでしまう。プロテスタントなど,足元にも及ばない。しかし,もし枯松神社祭がカトリック布教に傾斜していくなら,その本来の意義を失ってしまうだろう。
とはいえ,カクレキリシタンの人々は高齢化し,先祖伝来の信仰の継承が難しくなっているし,世は隠すことをもって悪とし,何でもかんでもあからさまに平気で見せてしまうようになった。地域の人々の生活の改善も当然必要だ。
それやこれやで,枯松神社祭の秘教的厳粛さは,結局,失われざるをえないだろう。残念なことだが。
(C)谷川昌幸
侵略と弾圧から共生へ:長崎キリシタン神社
外海は,遠藤周作『沈黙』の舞台であり,作中では「トモギ村」となっている。いまは道路がつき,長崎市内から40分程だが,以前は交通不便な半島の貧しい寒村だった。
禁教令(1614)以後のキリシタンの隠れ方には様々あるが,最も有名な事例の一つが樫山曹洞宗天福寺。この寺の檀家は潜伏キリシタンであり,寺も彼らを密かに守ってきた。禁教令廃止後,樫山や他の地区の潜伏キリシタンは,カトリック復帰,寺(仏教)を再選択,カクレキリシタンのまま,の3通りに分かれた。しかし,樫山では,カトリックに復帰した人々も庇護してくれた寺への恩を忘れず,いまも感謝し続けている。樫山は佐賀鍋島領。
樫山のように寺に密かに庇護されたところもあったとはいえ,潜伏キリシタンの生活は厳しいものだった。捕まれば,拷問,虐殺。
徳川幕府は,なぜこれほどまでにキリシタンを警戒し,弾圧したのだろうか? そしてまた,過酷な弾圧にもかかわらずキリシタンたちはどうして信仰を維持し続けたのだろうか?
それはともあれ,外海のキリシタンたちが,奉行所の摘発を警戒し,密かに集まりオラショ(祈り)を唱え親から子へと伝承してきた場所の一つが,海岸から切り立った険しい山腹の岩陰であった。見張りを立て,このような「祈りの岩」の陰で,オラショを唱えていた。
今日(11月3日),この枯松神社でキリスト教徒,カクレキリシタン,仏教徒が集い,サンジワン神父と村の先祖を慰霊する祭礼が行われた。
ネパールの多文化,多宗教にも,おそらくそのような厳しい争いの歴史があったのだろう。もう人々は忘れていて,ネパールには本来厳しい宗教対立はなかったとか,ネパールはもともと異文化に寛容だなどと思いがちだ。
コメントを投稿するにはログインしてください。