ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件

1.信仰と「表現の自由」
世界ヒンドゥー協会(WHF)のネパール急進派・ヘムバハドール・カルキ(Hem Bahadur Karki)派が,9月11日カトマンズ市内の画廊に押しかけ,ヒンドゥーの神々を冒涜したとして,画家マニシュ・ハリジャン(Manish Harijan)を殺すと脅迫した。

「表現の自由」は世界的に確立された権利であり,ネパール暫定憲法第15条でも明確に保障されている。カルキ派によるハリジャン脅迫は,「表現の自由」への暴力による攻撃であり,それ自体,許されるべきものではないが,一方,「表現の自由」も無制限ではなく,他の自由や権利を侵害しないための規制ないし権利間の調整が避けては通れないこともまた事実である。

これは,今回のような宗教との関係においては,特に難しい,やっかいな問題となる。人が熱心に,誠実に信仰すればするほど,信仰対象は神聖なものとなり,みだりに論評してはならないもの,タブーとなる。一方,表現は,様々な形で隠れているもの,隠されているものを顕わにすることをもって,その本質とする。したがって,宗教についても,信仰により信仰対象が神聖化されればされるほど,表現はそこに関心を持ち,秘密の暴露ないし顕在化への意欲をそそられることになる。

これは,本質的な対立である。不可知なもの,あるいは知るべきではないものへの心情的な「不合理な」信仰と,タブーをタブーであるからこそ暴こうとせざるをえない世俗的な「合理的な」表現の自由とは,結局は,両立しないと考えざるをえない。

2.イスラム教と「表現の自由」
現在,信仰と「表現の自由」が最も激しく対立しているのが,イスラム教に関してである。『悪魔の詩』(1988)事件では,著者ラシュディはホメイニ師により死刑宣告を下され,いまでも330万ドルの報奨金がかけられている。日本語版訳者の五十嵐筑波大学助教授は1991年,大学内で何者かに殺害されてしまった。

2005年には,デンマーク紙掲載のムハンマド風刺画がイスラム教冒涜とされ,デンマーク大使館などが襲撃された。

そして,この9月には,アメリカで制作されたムハンマド風刺映像がネットに掲載され,世界中で大問題になっている。中東,東南アジアを中心に世界各地で反米デモが拡大,リビアのベンガジでは米領事館が襲撃され,米大使が殺害された。戦争にすらなりかねない深刻な事態である。

そのさなか,フランスでもムハンマド風刺画が雑誌に掲載され,激しい反フランス・デモが世界各地で勃発,フランス政府は,在外公館や仏人学校の閉鎖に追い込まれている。

信仰と理性,聖なるものへの服従とタブーなき批判の自由――これら二者は,いずれも人間存在にとって不可欠のものであり,いずれがより根源的,より重要ともいえない。比重の置き方は人それぞれ,生き方の問題というしかない。イスラム教と「表現の自由」の対立は,その人間性の根源にある問題の現代における最もラジカルな顕在化であり,解決は容易ではないと覚悟せざるをえない。

3.ヒンドゥー教と「表現の自由」
この問題がやっかいなのは,火をつけやすいこと。すぐ火がつき,飛び火し,類焼する。ヒンドゥー教も例外ではなく,ネパールでは先述のハリジャン脅迫事件が起こった。きっかけは,彼の絵画展:

■マニシュ・ハリジャン「コラテラルの出現」 シッダルタ絵画ギャラリー(カトマンズ)8月22日~9月20日

(Siddhartha art gallery HP)

「コラテラル」とは難しい表現だが,何かに何かが加わり何かになる,何かが起こる,という意味だろう。展示作品のうち11作品が,ヒンドゥーの神々を西洋風に戯画化したもの。猿神ハヌマンが酒を持っている作品もある。

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(The Radiant Star HP)

これらの作品は,たしかに,あまり上品とはいえないが,それほど過激ではない。正直,私には,これらの作品の良さがよく分からない。が,それは趣味の問題。ハリジャン自身は,これらの作品は「グローバル化の諸相を通して,東洋と西洋の文化を融合させること」を意図したものだと説明している。

ところが,WHFカルキ派は,これらの絵画をヒンドゥー教冒涜だと激しく非難し,ギャラリーに押しかけ,ハリジャンを殺すと脅し,展示責任者のサンギータ・タパ学芸員に対しても,絵画を焼却しあらゆるメディアを通して謝罪をせよと脅した。

騒ぎが大きくなったので,カトマンズ警察が派遣され,郡長官の命令によりギャラリーを閉鎖させ,ハリジャンとタパを呼びだし,事情聴取した。警察は,逮捕せよというカルキ派の要求までは容れなかったが,ハリジャンとギャラリーの「表現の自由」を守るという明確な態度もとらなかった。

その結果,ハリジャンとタパは,展示2作品(どれかは不明)を撤去し,今後はそのようなヒンドゥー教冒涜絵画は展示しないという文書に署名してしまった。彼らは,ヒンドゥー右派とその意をくむ行政当局の圧力に屈服せざるをえなかったのである。

4.形式的「表現の自由」擁護論の限界
このハリジャン脅迫事件が起こると,ユネスコ・カトマンズ所長のアクセル・プラテ氏が「表現の自由」を尊重せよ,との声明を出した。芸術作品が,たとえ宗教や倫理の価値観に反することがあろうとも,それを理由に暴力をもって反撃することは絶対に許されない。解決は,「自由な議論」によるべきだ,というのだ。

ネパリタイムズ社説(#623, Sep21-27)も同じ立場をとる。表現の自由は,他の自由や権利を侵害してはならないが,その限界は文化ごとに異なる。考慮すべきは,国家の安全,社会の調和,名誉毀損,ポルノ規制などだが,いずれにせよ暴力による脅迫や検閲は認められない。

「マニシュ・ハリジャンに描く自由を認める一方,それにより感情を害されたと感じる人びとには非暴力で抗議する自由を認めなければならない。民主主義では,感情を害されたからといって,殺すと脅すことは許されない。国家は,暗殺脅迫者ではなく,芸術家をこそ守るべきである。」(Nepali Times,#623)

これよりもさらにハト派に徹しているのが,今日の朝日社説「宗教と暴動・扇動者を喜ばせない」(9月26日付)。社説は,「言論の自由があるといっても,特定の宗教に悪意をこめ,はやして喜ぶ商業主義は,品のいいものではない」といいつつも,「他者による批判を自らの尊厳への攻撃と受けとめ,宗教をたてに暴力に訴える。狭量な信徒が陥りがちな短絡が,今回の暴徒たちにもうかがえる」と述べ,言論の自由・表現の自由を寛容に認めている。

こうした「表現の自由」を守れという主張は至極もっともであり,非の打ち所のない正論である。特に,強者の側が弱者の「表現の自由」を力により制限しようとする場合には。しかし,問題は,こうした正論が現代においては多くの場合,形式論ないし高尚なお説教あるいは精神論にとどまり,ムハンマド冒涜の場合と同様,ヒンドゥー教冒涜の場合にも,それだけでは対立の解決にはあまり役立たないという点にある。

そもそも「表現の自由」を定めた世界人権規約第19条にも,ネパール暫定憲法第15条にも,多くの留保がつけられており,それらを利用すれば,「表現の自由」は必要な場合にはいつでも制限できる。ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に抗議している人びとは,彼らの重要な自由や権利が侵害されているのに,国家や国際社会は,形式論理のきれい事を言うだけで,そうした留保条項を使って彼らの権利や自由を本気で守ろうとはしていないと考えて怒り,やむなく実力行使に出ている,といえなくもない。自由や権利の形式的な保障は,つねに社会的強者の側に有利である。

朝日社説は,この問題を脳天気に棚上げしている。社説は,表現者側に「品」や「心得」を求めるだけで,「表現」による被害の具体的な救済については何も語っていない。

しかし,「言論の暴力」というように,「表現」も暴力であり,また暴力には直接的暴力だけでなく間接的な構造的暴力も含まれることは,いまや常識である。構造的暴力としての「表現」暴力の規制を自主的な「品」や「心得」に丸投げしておきながら,一方的に,直接的暴力による自力救済を上から目線で声高に断罪してみても,説得力はない。

5.天皇冒涜に堪えられるか
日本人の多くは,朝日社説もそうだが,ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に激昂し激怒する人びとを狂信的とか原理主義とかいって冷笑するが,それは事件が今のところ余所事,他人事だからにすぎない。

しかし,近時の情勢からして,天皇が風刺の対象とされるのもそう遠いことではあるまい。天皇・皇后や他の皇族が,不道徳に,エロチックに,あるいは下劣にカリカチュア化され,メディアで弄ばれるようになったら,日本人はどうするか? あくまでも冷静に表現には表現で,言論には言論で,などと高尚なことをいっていられるだろうか?

たぶんダメだろう。日本人の多くが激昂し,天誅を下せなどと,わめき始めるに違いない。

ムハンマド冒涜事件もヒンドゥー教冒涜事件も,決して他人事ではない。言論には言論で,などといったわかりきった形式論理のオウム返しではなく,「表現の自由」が他の自由や権利と対立した場合,具体的にどうするかを,自分の問題としてもっと真剣に考え,取り組むべきであろう。

【参照資料】
Nepali Times, Sep.12 and Sep.21-27,2012
ekantipur, Sep.12, 2012
UCA News, Sep.13, 2012
The Radiant Star, Sep.15, 2012
Kathmandu Contemporary Arts Centre, http://www.kathmanduarts.org/Kathmandu_Arts/KCAC12-mann.html
Siddhartha art gallery, http://www.siddharthaartgallery.com/cms/index.php

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/26 at 20:47

性器と貨幣の目的外使用禁止タブー

谷川昌幸(C)

これまた民俗学の常識であろうが,素人の蛇足を2,3本。

ネパールや日本の寺社などに性器や性交図が祭られているのは,いうまでもなく子孫繁栄祈願のために他ならない。性器は正当目的のため使用されており,それゆえ神聖なものとして祭られる。

ネパールのP寺院では,白昼堂々と女性たちが石造りの男性器を撫で礼拝する。かつては日本でも各地に同様の習俗があった。見方によれば,ずいぶん卑猥な光景だが,誰もこれを猥褻とはいわない。性器の目的外使用禁止タブーが利いているからだ。

では,なぜタブーで目的外使用を禁止しなければならないほどの快楽を性行為に与えたのか? それは神のみぞ知るだが,下司の勘ぐりでは,ときには生命を失うほどの苦痛に耐え子供を産ませるには,それ以上の快楽が必要だと神が考えたからだろう。

同じく貨幣(蓄積)が快楽なのも,それがなければ人間は働かないからにちがいない。したがって,働いた対価として貨幣を受け取り,それを他の必要な物品と交換しても,誰もそれを強欲とはいわない。貨幣は本来の目的のために使用されているからだ。

聖書もいうように,出産と労働は原罪に対する神罰であり,死に次ぐ人間の二大苦だ。そんな苦痛の対価だから,性の快楽も貨幣の快楽も尋常なものではない。とてもじゃないが,人智,人力で制御できはしない。そこで神のタブーとなったのだろう。

ところが人間は,神の目を盗んでこのタブーを破り,性を生殖から,貨幣を労働から切り離し,快楽のための目的それ自体として追求し始めた。当初は破戒を恥じ,性器を恥部,陰部などと呼び,性行為も隠れて行っていたし(祭事としての性行為は別),また金儲け,特に金(快楽)が金(快楽)を生む金貸しは賤しい行為とされていた(ここにも問題はあるが別の事柄)が,科学信仰が広まるにつて,性と貨幣のタブーは非科学的として否定され,性や貨幣の快楽を目的そのものとしてよいということになり,ついにはグローバルネット社会における性欲,金銭欲丸出しの,恥も外聞もないバーチャル・セックス,バーチャル・マネーとなってしまったのである。こんな不毛なセックス・バブル,マネー・バブルがいつまでも続くはずがない。

この末世の狂宴は,不思議なことに,原罪以前の性の楽園に似ている。アダムもイブも原罪以前はスッポンポンの丸裸だった。性行為があったかどうか分からないが,少なくとも彼らの性器は恥部でも陰部でもなかった。この堕落以前と末世の現在,理念化すればネパールと今の日本は,性器や性行為が公然と陳列されているという点では,同じだ。違いはただ一つ,性タブーの有無。ただそれだけだが,両者には天地の差がある。どちらがまとも(正気)か,幸福かといえば,それはいうまでもなくネパールの方だ。

日本は,少なくとも堕罪を自らにとどめ,ネパールに性タブーを犯させるようなことだけは,すべきではないだろう。

(多面的な性風俗やネパール文化をかなり強引に理念化しています。仮説に近いものなので,機会があれば,出来るだけ実証していきたいと思っています。)

Written by Tanigawa

2007/03/16 at 18:55

カテゴリー: 文化

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日本ポルノとネパール性タブー

谷川昌幸(C)

性風俗には興味津々とはいうものの,全くの門外漢,その方面の専門家には常識かもしれないが,最近,疑問に感じたことについて述べてみたい。

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性は,人間関係の根幹,文化の最下層の土台であり,どの社会にも性規範はある。異文化との出会いで最大の驚きの一つは,性風俗,性規範の違いである。

ネパールに初めていったときの驚きも,まさにこれだった。カトマンズのあちこちに男女交合図がある。日本のスミ塗りポルノなど足元にも及ばぬリアルさ,まさに男女の性行為そのものの彫像や絵画が白昼堂々と町中で鑑賞できる。これはいったいなんだ!

性=罪=悪とするクリスチャンはいうに及ばず,儒教にキリスト教を接ぎ木した日本人にとっても,これはみだらな不道徳,良く言えば理解を超えた神秘だった。

だから十数年前,女子学生十数名を連れてネパールに行くことになったときも,ネパールにはとんでもない「○○○○」がある,見たくない人,ショックに耐えられない人は行かないように,と何回も警告した。そして,行ってからも,たとえばバクタプル博物館の「危険ゾーン」に近づいたときは,「ここから先には○○○○がある。足元だけ見て先に進むように」と注意したものだ。

いまなら,これだけ注意しておいても,帰国後,セクハラ委員会に訴えられ,懲戒処分にされるかもしれない。(セクハラ委員会は特高よりこわい。訴えられたら,おしまい。周防監督,つぎは「セクハラ委員会」を映画にしてください。)

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しかし,町のあちこちに,男女性器丸出しの露わな性交像,性交図があるにもかかわらず(そばで子どもたちが遊んでいる),ネパールに性規範がないわけではない。キリスト教や儒教とは規範の形が異なるだけで,性への規制は極めて厳しい。

これは近代化以前の日本でも同じことだった。明日香などの古い文化をもつところでは,いまでも性行為の仕草を見物人の前で演じる祭事が残っているし,かつては日本のあちこちにリアルな男性器,女性器が祭られていた。しかし,だからといって,近代化以前の日本人がみだらだったわけでも,性規範をもたなかったわけでもない。性は日常的な生殖行為であると同時に,神秘的な恐れるべきものであり,だからこそそれは神の領域にあるタブーであった。

現代のネパールやかつての日本で,性器や性交の像や図があちこちにあるのに,性がタブーだったというのは,現代人には理解しがたいことだが,性は生死と同じく身近なものであると同時に,理性ではコントロールできない人智を越えた神秘なもの,安易に触れてはならないもの,隠し遠ざけておくべきもの,つまりタブーであったのだろう。

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しかし,日本ではすでに生も死も神秘ではなくなり,したがって性もタブーではなくなった。タブーの消滅は,日常と非日常の区別の消滅である。テレビでは,四六時中,寝室内の性行為があからさまに語られ,商品化された性が市中で自由に売買されている。

これは,性のグローバル市場化といってもよい。グローバル化は,あらゆる隔壁,あらゆるタブーの否定を目指している。わが安倍首相が軍と民の区別を止め,軍民共同活動を唱えているのも,グローバル化のバスに乗り遅れないためだ。グローバル化により,昼と夜,日常と非日常,公と私の区別が曖昧になり,性も夜の秘められた私生活や非日常的祭事に閉じこめておくべきものから,商品化し大っぴらに開陳し,取り引きしてよいものとなった。現代人は,昼夜なく,商品化された性で発情させられている。

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その先兵がインターネットだ。ネット世界には,性タブーはおろか,なんの規制もない。目先の利く連中が金儲けのために性を商品化し,ネットに流し,おかげで世界中の大人も子供も昼夜の区別なく,他人の性行為のリアルな姿を見聞きできるようになった。節度がないというか,品がないというか,これが「美しい国」の現実だ。「美しい」は,日本国首相の大嫌いな反資本主義的タブーがあり規範(規制)があるからこそ,成立する。日本は他の先進資本主義国と同様,性的に「醜い国」に成り下がってしまっている。

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ところが,ネパールにはまだ強力な性規範,性タブーが残っている。ヒンズー教のカースト的性規制は別格として(問題はあるがそれは別の事柄),素人の私が見ても厳格な性規範,性タブーの健在はよく感じ取られる。

だから,少なくとも数年前まではネパールには,外人向けカーマスートラは氾濫していても,住民向けの近代資本主義的ポルノや性産業はなかった。(むろん伝統的性職業はあり,これはこれで問題だが,このことについては別の文脈で論じた方がよい。)

しかし,最近のグローバル資本主義化の波はネパールにも容赦なく押し寄せ,ネパールの古き良き性規範,性タブーを破壊し始めたようだ。この数年訪ネしていないが,ウワサではタメル近辺では近代的性風俗店が激増し,性ビジネスを始めているらしい。タメルが,非日常の外人租界であれば,外人向け近代的性サービス業が出現しても仕方ないと言えなくもないが,タメル地区と他の地区との融合が進み,日常と非日常の区別はもはやほとんどなくなっているそうだ。性をタブーとし,非日常の特定の時間,場所,人々に囲い込んで何とか制御しようとしてきたネパールの(そして他の多くの伝統的社会の)歴史的叡智が,「欲望の体系」の究極形態たるグローバル資本主義により,破壊され始めたのだ。

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資本主義は,欲望の無限の増大により維持される。資本主義は,常に成長を求め,インフレを維持拡大し,カネにカネを生ませ,いまではバーチャル投機経済となってしまった。資本主義は麻薬のようなものであり,インフレの快楽(冨)を拡大し続けなければ,崩壊する。

これと同じく,資本主義化された社会の性も自然なものではなく,人々は人為的に性的欲望を刺激され,つねにより多くの性的快楽を求め続けるようにさせられてしまっている。資本主義化された性は,快楽を不断に拡大させねばならず,近代以前のように性をタブー視し,非日常世界に閉じこめることを許さない。性の拡大再生産のため,性を日常生活にまで拡大し,日常生活をあまねくポルノ化し,大人だけでなく子供も性産業の中に取り込み,性的欲望を無限に増大させていこうとする。無際限に世界をポルノ化しなければ,資本主義的性は存続し得ない。そして,その極限が,ネット社会のバーチャル・セックスだ。四六時中,子供から老人まで性的欲望をバーチャル・セックスで増大させようと焦燥感に駆られ足掻いている。狂気寸前だ。

元来,金と性は人間にとって制御困難な危険物であり,西洋でも東洋でも近代以前は,タブーとされていた。あからさまに語ってはならない恥ずかしいもの,みだらに触れてはならないものだった。金も性も,神ないし悪魔の領域だった。ところが,脱魔術化した近代人は,その二大タブーを破ってしまった。そしていま,グローバルに肥大化したバーチャル経済は破綻寸前,そして同じくバーチャル・セックスも破綻が見え始めた。

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そうした性誇大妄想近代世界からの脱出を願う人々にとって,ネパールは,まだまだ希望の地だ。近代性産業が出現し始めたとはいえ,まだごく限定された地域だ。そして,何よりも性タブーの健在をよく示すのが,インターネットだ。

ネット・ポルノは,性風俗店よりもはるかに容易に開業できるし,創業者利益も莫大だ。世界中の性産業家がそう考え,ネットをポルノだらけにしている。同じ文化圏のインドもネット・ポルノの中心地の一つだ。

それなのに,普通に見る限り,ネパール(人)発のネット・ポルノは無い。金と性は不可分の関係にあり,ビデオもインターネットもポルノ先導で発達してきた。グローバル資本主義化で世界中が欲ボケ,色ボケになってしまったのに,ネパールは敢然と性タブーを守り続けている。この性タブーは,紛争下でも外国人襲撃がないことと合わせて,「現代ネパールの二大奇跡」と呼んでもよいだろう。かなり弱体化したとはいえまだ残存する金銭タブーと,そしてこの強固な性タブーが,ネパール社会の健康をかろうじて維持してきたのだ。

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しかし,ネパールが性タブーを維持し続けることは,非常に難しい。金ボケ,色ボケの欲望亡者・先進諸国が,そのみだらで不道徳な金銭欲+性欲を「近代的」「民主的」と美化し,伝統的性タブーを「封建的」「中世的」と非難攻撃してくるからだ。

一番よい金儲けの種は,従来タブーとされてきたこと,生死(=医者,僧侶)と性だ。生と死はすでに十分開発された。次は性の開発だ。誰がネパールの性タブーに挑戦し,金を儲けるか?

私としては,ネパールには,欲ボケ性亡者の先進諸国の甘言など断固拒否し,性タブーを守り通してほしい。日本や欧米を見れば分かるように,性の産業化は決して人々を幸福にはしない。

しかし,これはすでに性タブーを破ってしまった先進国の勝手な願望であり,ネパールの人々が自らタブーに挑戦するのなら,それは彼らの事柄であり,致し方ない。自分たちは性産業でさんざん儲けていながら,ネパールの人々に同じことをするな,とは言えないからだ。

しかし,性タブーがまだまだ健在のネパールに欲ボケ外人が性ビジネスを持ち込むことは許せない。ましてや,ネットでネパールがらみのポルノを流すなど,もってのほかだ。たしかに儲かるであろう。しかし,そんなネパール文化の尊厳を冒涜し,その根を無惨に断ち切るような野蛮なことは絶対にやってはならない。

Written by Tanigawa

2007/03/14 at 18:23

カテゴリー: 文化

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