ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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青年ネパール,老年日本

国家(state)・国民(nation)は,全体として,一つの身体・生命・精神をもつ人間にたとえられることがある。一人の人間と同様,国家・国民も,生まれ,生長し,老い,そして死んでいく運命にある。

では,日本はどうか? いうまでもあるまい。日本の国家・国民は老い,いまや「後期高齢者」となってしまった。人口構成が高齢化しただけなら,まだしも救いはある。より深刻なのは,精神の老化だ。

たとえば,この4月は統一地方選だが,選挙はいたって低調。知事選は自公民相乗り候補多数,道府県議会は立候補者が定数以下で無投票となった選挙区が33.4%。選挙となっても,実際の競争は激しくなく,大半は微風程度だ。(下記参照)

日本では国政も地方政治も,少子高齢化,過疎化,貧富格差,財政危機,軍国主義化等々,いまや問題だらけなのに,国民の多くは見て見ぬふり,選挙に関心を示さない。街も村も,テレビも新聞も,いたって静か,選挙など,あって無きがごとき。平和そのもの。

150412■形骸化した選挙

日本人は,青年も壮年も老人も,みな精神的に老いたのだ。学生運動も労働運動もいまや死語。首相が集団的自衛権を唱え自衛隊を「わが軍」と呼ぼうが,労働者保護を緩め,社会保障を削減しようが,反対らしい反対はほとんど見られない。自由や権利を「不断の努力によつて」保持する(憲法12条)気力が萎えてしまったのだ。

日本国民も,青年・壮年期には,そうではなかった。学生も労働者も市民も,問題があれば,積極的に立ち上がり,抗議し,闘った。デモ,ストはいたるところで行われ,バスや鉄道も止まった。もちろん学校も休み。国民がまだ若く,未来があったからだ。

それも今や昔。日本国民は老い,そのために闘うべき未来がなくなった。今日,明日さえ平穏であれば,それ以上は望まない。5年後,10年後のことなど,知ったことではない。

これとは対照的に,ネパール国民はまだ若い。まばゆいばかりの未来がある。だから,何かあれば,過剰と思えるほど反応し,未来のために闘う。議会も街や村もキャンパスも闘いに充ち満ち,ストやバンダ(ゼネスト)は日常化している。

選挙も真剣だ。4月10日投票の制憲議会補欠選挙(バグルン1区,定数1)には,13人(10政党と無所属)が立候補し,投票率73%であった。(NC候補CD・カドガ当選)ネパール国民は,まだ憲法にも選挙にも期待しており,政治への希望を失ってはいない。

ストもバンダも,しょっちゅうやられると,たしかに迷惑だ。が,老化日本の無気力ニヒリズムに比べるなら,少なくとも若さが,未来がみてとれ,そこに希望と救いがあるといってよいだろう。

【参照】統一地方選投票率(%,朝日&毎日4月13日朝刊)
福岡県知事選 38.85
広島市長選 42.78
道府県議選:千葉 37.01 埼玉 37.68
名古屋市議選 36.57
無投票当選:道府県議選 33.4(総定数の21.9)
  香川県議選 定数の65.9
  山形県議選 定数の45.5
  宮崎県議選 定数の43.6

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/04/12 at 18:49

カテゴリー: 政治, 人権

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憲法制定期限切れ

中国南方航空便が天候不良欠航となり広州一泊,1日遅れの22日昼過ぎカトマンズについた。22日は憲法制定期限日,もめてバンダ乱闘かなと覚悟していたら,街はいたって平静,デモもなければ,旗もなし。拍子抜けした。

22日夜,国会生中継を見ると,だだっ広い巨大ホールで議員お歴々があちこちで口論,混乱が続いていたが,どうやらこれは議員特権集団内の内輪もめらしい。紛糾し,もめ続け,問題先送りすればするほど,自分たちの既得権益が守られるという構図。23日付各紙にも,ちらほら,そのような趣旨の記事が出ていた。

常識で考えれば,多数決以外での決着は難しい。包摂民主主義は,要するに少数決(少数派拒否権)。こんな判り切ったことを無視して,包摂民主主義原理主義をネパールに押しつけてきた西洋先進諸国の「民主主義産業」の責任は重大だ。自分たちですら満足に実行できもしないことを,ネパールに押しつけてはいけない。ネパールは,西洋政治のモルモットではない。ただし,包摂民主主義が少数派諸集団の解放,権利獲得に果たした役割は甚大で,そのことを無視するものではない。念のため。

今後の選択肢は,いくつかある:
 (1)1990年憲法への復古
 (2)現行暫定憲法の継続
 (3)暫定憲法から「暫定」を削除し,正式憲法とする
 (4)全党合意可能な骨格憲法の制定
 (5)新憲法の速やかな合意採択を目指すが,困難な場合は,票決方法に合意したうえで,票決により新憲法採択

蛮勇をふるってズバリ結論をいうならば,これらのいずれでもかまわない。憲法といっても,成文規定は,広義の憲法の一部に過ぎない。どの国でも,成文憲法は,様々な解釈や慣行によって肉付けされている。憲法は運用により良くも悪くもなる。成文憲法が重要なことは言うまでもないが,いくら重要であっても,不磨の大典ではない。各勢力がこれからつくる成文憲法を過度に絶対視し,自分たちの要求をすべて最初から新憲法に書き込ませようとすれば,新憲法の制定はいつまでたっても無理だ。そこそこのところで妥協して新憲法をつくり,あとは議会内外の政治闘争により民主的に要求を実現していく戦略をとるべきだろう。ネパールでは,これまでにも成文憲法は比較的容易に何回も改正されてきたのだから。

ネパール庶民は,すでに憲法問題にしらけ始めている。23日付各紙も熱気なし。退却的・消極的ニヒリズムの広がりが感じられる。もう少し様子を見ないとはっきりしないが,このままだと,ある意味では独裁よりも危険な権威崩壊としてのニヒリズムに陥りかねない。

▼過激派男子の拠点,トリチャンドラ校(後方)。閑散としている。対照的に,並びのモスク(前方)は人があふれていた。信者がまた増えたようだ。
1501223c

▼過激派女子の拠点,パドマカンヤ校。立看もビラもなし。代わりに業者が韓国語学校のビラを校門横に張っていた。憲法より個人実益。
150123a1501223b

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/24 at 13:48

カテゴリー: 議会, 憲法

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邦なき連邦国の正統性なき議会:ニヒリズムの危機

法や制度と現実との乖離はどの国にもあるが,いまのネパールは国家存在そのものが違憲状態であり,乖離は極端といわざるをえない。

1.邦なき連邦国家
最も深刻なのは,連邦国家(संघीय राज्य, 憲法第4条)であるにもかかわらず,いまだに邦(州)がないこと。誇大表示ですらなく,虚偽表示であり,看板に偽りありだ。

140613a ■ネパール連邦民主共和国(大使館HP)

2.民族州の無理無体
そもそも125の民族/カーストが混在するネパールを民族ごとの邦(州)に分割し,連邦国家に再編するというのが,無理無体,無茶苦茶だ。繰り返し批判してきたように,ネパールを実験台として利用してきた先進諸国の連邦制原理主義者や,その煽動に乗った(ふりをしてきた)ネパール知識人の責任は,重大といわざるをえない。連邦制原理主義こそが,第一次制憲議会を無様に崩壊させた最大の原因である。

連邦制は,この1月成立の第二次制憲議会でも最大の難題となっている。コングレス(NC)と統一共産党(UML)が大勝したので,単一民族(単一アイデンティティ)による州区分は少数派となり,地理や経済を重視した多民族(多アイデンティティ)州区分が多数意見となりつつある。

しかし,この多民族州の提案に対しては,プラチャンダ派マオイスト(UCPN-M)も,バイダ派マオイスト(CPN-M)やマデシ系諸派も反対しており,歩み寄りは見られない。

3.仏陀の手にも余る包摂民主主義
そうした中,制憲議会本会議で連邦制審議が始まったが,これは空前絶後,お釈迦様に手が何本あっても足りない有様だ。

報道によれば,制憲議会本会議で議員300名が連邦制についてそれぞれ意見を述べることになった(ekantipur, 5 Jun)。試みに計算してみると・・・・
 【議員発言総時間】
   5分×300議員=1500分(25時間)
  10分×300議員=3000分(50時間)
  30分×300議員=9000分(150時間)
演説準備・交代時間を考え合わせると,途方もない時間。が,まぁ,長話には慣れているだろうからよいとして,問題は,記憶力。10人くらい前までならまだしも,200人も300人も前の演説など,誰も覚えてはいまい。そもそも,300議員が演説するのは,300通りの連邦制案があるということだから,これではいかなお釈迦様でも手に余るにちがいない。

お釈迦様でも無理だとすれば,煩悩にとりつかれた人間どもに300通りの連邦制案の集約など,どだい無理である。というわけで,このままでは,第二次制憲議会もお流れということになりそうだ。

4.現実的な代案
しかし,再び制憲議会を崩壊させるのは,いかにもまずい。そこで,NC,UMLを中心とする体制主流派は,上述のように,地理・経済重視の多民族・多アイデンティティ州を少数つくり,多少強引でも,これをもって連邦制の体裁を整える方向に向かいつつあるわけだ。

私も,この案であれば実現可能だと思うが,もしこれで行くのなら,それは従来の14開発区(Development Region)を少々手直しし,「州( प्रदेश, प्रान्त: state, province)」と改名したにすぎないことになる。あるいは,どうしても自分に近い「州」が欲しいというのであれば,現在の75郡(जिल्ला, district)をすべて「州」と呼び換え,ネパールを75州からなる連邦国家とすればよい。

「民族」にせよ何らかの「集団アイデンティティ」にせよ,人為的・歴史的に形成されたものだから,この程度のユルイ対応にした方が現実的であり安全であって,政治的に賢明である。

140613b ■14州案:国家再構築委(Republica,2014-1-1)

5.正統性なき議会
この連邦制の議論もそうだが,それ以上に悲喜劇的なのが,現在の制憲議会にはそもそも正統性がないこと。

暫定憲法第63条は,制憲議会を小選挙区制240,比例制335,内閣指名26の計601議員から構成されると明記している。ところが,選挙後半年を経過したのに,まだ内閣指名26議員が選出されない。制憲議会は,正式にはまだ成立していないのだ。

その理由は,ここでもまた包摂民主主義だ。どの集団から議員を出すかを,その理念に忠実に,諸勢力のコンセンサスで決めるべきだという。そんなことは,お釈迦様にだってできはしない。

それに加えて,現実の生臭い要求もある。選挙で落選した政党有力者を指名せよというトンデモ要求が,あちこちから出されている。

さらにまた,選挙不参加の反体制33党連合に指名26議席を割り当て,口を封じようという動きもある。憲法の議員指名規定など,棚上げ。もう無茶苦茶だ。

6.ニヒリズムの危機:ネパールでも日本でも
法や制度と現実とのこのような甚だしい乖離が続くと,政治そのものへの信認が失われ,国家は瓦解する。ネパールの政治的英知がいま試されている。

しかし,これはなにもネパールだけの話しではない。日本はネパールよりもっとヒドイかもしれない。調査なき「調査捕鯨」,研修・技能実習なき「外国人技能実習制度」,そして,いうまでもなく戦争放棄憲法の下での軍隊(自衛隊)保持と交戦権行使。安倍政権が閣議決定で憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を容認することになれば,日本は全くの非立憲国家に転落してしまう。

日本でも,法や制度,あるいは言葉そのものが信用されなくなりつつある。安倍首相の”under control(五輪招致プレゼン)”や「日本が戦争をする国になる・・・・ことは断じてあり得ない(記者会見5/15)」をみよ。放射性物質じゃじゃ漏れの福島,集団的自衛権行使(戦争)容認政策。言葉と事実との甚だしい乖離は自明だが,日本社会では放任されている。

これはニヒリズムだ。一方に安倍首相の積極的攻撃的ニヒリズム,他方に国民多数の消極的退行的ニヒリズム。このままでは勝利は前者だろうが,しかし,それはほんの一時,すぐニヒリズムの蔓延により日本全体が蝕まれ,根底から崩壊するであろう。

ネパールも日本も,難しい局面に立たされているといってよいだろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/06/13 at 10:48

朝日社説の小沢論文批判は自己矛盾

谷川昌幸(C)
朝日新聞は高級紙といわれているのに,社説の中には信じられないほどヒドイものがある。今日10月6日付の「アフガン支援,小沢論文への疑問符」もその一例だ。自社社説に矛盾しており,下品な表現だが,「天に唾する」がごとき無反省作文といってよい。
 
1.小沢論文の前宣伝
この社説は,『世界』11月号掲載予定の小沢論文の要旨を紹介し,それにコメントしたもの。発売以前だから,その筋からブリーフィングを受け,あるいはゲラを見せられ,その意に添って書かれたものに違いない。一応「疑問符」をつけたことになっているが,後述のように,「疑問符」には全くなっておらず,小沢論文の格好の前宣伝になっている。『世界』のような小難しく面白くもない雑誌は,朝日の宣伝でもなければ,私はまず買い求めたりしない。朝日は小沢民主党の隠れ応援団なのだ。
 
2.手強い小沢平和貢献論
小沢氏は小泉,安倍両氏と同じく新自由主義者ないしは新保守主義者だが,個性は大きく異なる。(小泉,安倍両氏の政治家像については「安倍首相の怪著『美しい国へ』」2006.10.29,参照)
 
小泉氏は,権力行使に自己陶酔する耽美的ニヒリストで危険ではあるが,格好悪くなる前にやめてしまうので,それなりの安全装置が働く。安倍氏は,複雑な政治の現実を直視せず,「美しい国」幻想を自ら本気で信じ,実現しようとした情緒的右派観念論者だった。小泉氏のような自己をも対象化する権力行使の美学を持たないので,安倍氏の方がはるかに危険であったが,暴走が止まらなくなる前に自滅してしまった。善良な安倍氏には申し訳ないが,国民にとっては幸運であった。
 
小沢氏は,耽美的権力ニヒリストでもなければ,善良な夢見る右派観念論者でもない。彼は本質的に権力リアリストであり,国家理性に従うマキャベリストである。
 
小沢氏は,合理的リアリストとして,政治における権力の機能をよく知っており,国際政治においては,当然,軍事力を重視する。といっても,リアリストだから,安倍氏のように情緒的・観念的に突っ走るような愚かなことはしない。合法性を重視し,国連決議や憲法解釈ないし改正により正当化した上で,自衛隊の海外展開を図ろうとしている。
 
小沢氏は,グローバル化した世界を見据え,そこで日本国益を確保するため,国連の承認の下に自衛隊を積極的に海外に出し,活動させようとしている。ただし,日本の国益ないし国家理性があくまでも小沢氏の指針だから,その場合でも冷徹な国益計算はするであろうし,事実,彼は現にアメリカに対してですら,一定の距離を取ろうとしている。それは,自らの権力ニヒリスト的快楽のためにアメリカを利用した小泉氏とも,夢想のおとぎ話のためにアメリカにこびた安倍氏とも,小説的ロマンのために反アメリカを気取る石原都知事とも,異なる態度だ。彼は,現実主義的国家理性主義者なのだ。
 
このリアリスト小沢氏は,小泉氏と同じく,憲法解釈でも自衛隊海外派兵は可能としつつも,元来は改憲論者であり,9条を改正し自衛隊を合法化した上で,国連の承認の下に自衛隊を積極的に海外に派兵し,世界平和に貢献させるべきだという信念をもっている。
 
したがって,この自衛隊平和貢献論からすれば,近刊『世界』論文で小沢氏が「国連の活動に積極的に参加することは,たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」とし「私が政権を取って外交・安保政策を決定する立場になれば,ISAF(アフガン国際治安支援部隊)への(自衛隊)参加を実現したい」と述べているのは,当然といえる。このような考え方は小沢氏のかねてよりの持論であり,断固対決すべきはいうまでもないが,朝日のように雑誌発売前に特権的にブリーフィングを受け,したり顔で大騒ぎしなければならないようなものではない。
 
3.朝日「日本の新戦略」の危険性
特に朝日の場合,このような形で大騒ぎすべきでないのは,5月3日付朝日社説「日本の新戦略」が,小沢氏の議論と事実上同じ立場をはっきりと宣言しているからだ。日本の目標を「世界のための世話役」「地球貢献国家」と定め,こう述べている。(参照:「海外派兵を煽る朝日社説」2007.5.4)
—————————————-
15 自衛隊の海外派遣
●自衛隊が参加できる国連PKO任務の幅を広げる
●平和構築のための国際的部隊にも限定的に参加する
●多国籍軍については,安保理決議があっても戦闘中は不参加が原則
 ・・・・01年に同法(PKO協力法)は改正され,凍結されていた本体業務への参加が解除された。停戦や武装解除の監視,緩衝地帯での駐留,巡回などが本体業務にあたる。まだこの分野での参加例はないが,今後は協力していくのが適切だろう。・・・・
 ・・・・将来的には現在のPKO法では認めていない,国連や公的施設の警護などにも範囲を広げる道も探る。・・・・
 ・・・・(戦闘中の多国籍軍への参加は)①誰の目にも明らかな国際法違反(領土の侵略など)があり,②明確な国連安保理決議に基づいて,国際社会が一致する形で集団安全保障(軍事的制裁)が実行され,③事案の性格上,日本の国益のためにも最低限の責任を果たす必要がある,といった要件をすべて満たす,極めてまれな場合でしかない。
                                     (朝日新聞,2007.5.3)
—————————————-
この提言社説は,「極めてまれな場合」と限定しつつも,戦闘中の多国籍軍への参加までも認めている。こと軍事に関しては,「極めてまれな場合」といった類の限定が何の歯止めにもならなかったことは歴史が幾度も実証しているとおりだし,戦時と平時,戦闘員と非戦闘員が判然と区別できない21世紀の「新しい戦争」の実態を見れば,朝日の議論が非現実的なものであり,実際には小沢氏の自衛隊平和貢献論と同じであることは明白である。小沢氏が論理的に明確に述べていることを,朝日は不誠実にぼかし,ごまかしているだけの違いだ。
 
4.何が「疑問符」なのか?
朝日の自衛隊平和貢献論は,小沢氏のそれと実質的には同じものだ。だから,いつものように進歩派ぶって「論文にはいくつか基本的な疑問がある」と大見得を切ってみても,どこが疑問なのやら,さっぱり分からない。支離滅裂,みっともない社説になっている。
 
社説によれば,疑問は「まず,国連のお墨付きがあれば武力行使に参加できると読める点だ」そうだ。まだ小沢論文そのものを読んでいないので確言は出来ないが,合理的リアリストの小沢氏がそんな浅薄な議論をするわけがない。そう「読める」とすれば,朝日の文章読解力は小学生以下だということになる。朝日記事を入試問題に使うのは金輪際やめた方が良さそうだ。
 
国連決議については,「それぞれの背景にある国際社会の合意の実態を踏まえて,判断しなければならない」と,小沢氏も当然考えているはずのことを得意げに指摘している。そして,何と,次のように続ける。
 
「米国のアフガン作戦は国連そのものの枠組みではないにせよ,国際社会の広い共感はあった。『あれは米国の戦争』と切り捨ててしまうには違和感がある。」
 
馬脚を現したというか,あまりにもお粗末というべきだろうか。アフガン戦争は「米国の戦争」ではなく国際社会の戦争だから,テロ特措法を延長せよ,自衛隊をアフガンに派兵せよ,と朝日はいいたいのか? きっとそうにちがいない。朝日は現代紛争についてあまりにも無知であり,あるいは知っていても知らない振りをしており,現代紛争への派兵の危険性を真面目に考えようとはしていない。合法性を派兵の歯止めとしようとする小沢氏よりも,むしろ朝日の議論の方が危険だ。「疑問符」も何もあったものではない。朝日社説の方こそ滅茶苦茶な疑問符だらけの議論だ。
 
なぜ朝日社説が,こんな惨めな支離滅裂に陥ってしまったのか? それは,朝日が小沢氏の自衛隊平和貢献論を認めているにもかかわらず,進歩派ぶって無理に「疑問符」をつけようとしたからに他ならない。「天に唾する」ようなみっともない議論をしなくてもよいように,朝日は5月3日の提言社説を撤回し,憲法9条の原点に戻るべきではないのか?
 

安倍首相の怪著「美しい国へ」

谷川昌幸(C)

安倍晋三『美しい国へ』文春新書,2006年,730円

安倍首相の『美しい国へ』を100円電車の中で読んだ。あぁ,なんたる怪著! 幼稚,軽薄,愚劣,無節操。とても日出ずる国の偉大な首相の書いた本とは思えない。

これは絶対にゴーストライターの作だ。安倍氏は大国日本の首相なのだから,経費をケチらず,もう少しマシなゴーストライターを雇うべきだった。わが敬愛する安倍首相が自ら書かれたものではないと確信しているが,ゴーストライターを使用したとどこにも書いてないし,著者紹介には「本書が本格的な初の単著となる」と明記されているので,一応,あくまでも仮にだが,安倍首相が書かれた本として,以下に感想を少々述べさせていただく。

いつもネパールの政治家について論評しているので,たまには日本の政治家についても紹介し,比較してみるのもよいだろう。

1.ニヒリスト小泉前首相の利己的美学
安倍首相に政権を(事実上)禅譲した小泉前首相は,ネオリベラルであり,ケシカラン政治家だったが,確信的利己的ニヒリスト特有の悪の魅力をもっていた。

彼にとって,国家権力は自己陶酔のための手段であり,これはたとえば趣味のオペラと同じことであった。権力行使によって何かを実現しようとしたわけではない。権力行使それ自体の甘美な陶酔それ自体が目的であり,成功しようが失敗しようが,彼にとって,それはどうでもよいことであった。いまだけを生きる積極的ニヒリスト

歴史に名を残すなどといった甘い幻想は,これっぽっちも無かったにちがいない。国民は,小泉前首相のその悪魔的・悪女的魅力に魅せられ,すんでのところで地獄に突き落とされるところだった。(イラク参戦を見よ。)

2.ネオコン少年の安倍首相
安倍首相には,ニヒリスト小泉前首相のような悪の魅力もスゴさも全くない。安倍首相はネオコン(neo-conservative)になりきれていない未熟ネオコン少年である。

しかし,見方によっては,ネオコン少年の方が,審美的権力ニヒリストよりも何倍も危険である。ニヒリスト小泉前首相は,自分に快楽をもたらす権力やオペラの本質を見抜いており,分かった上で快楽にふけっていた。しかも徹底的に利己的だから,面倒なことになる前に,さっさと権力を放棄してしまった。ヒトラーのような粘着質の権力ニヒリストとは,そこが根本的に違う。

ところが,安倍首相は,未熟ネオコン少年だから,権力の本質が全く分かっていない。小泉前首相が権力悪を楽しんだのに対し,安倍首相は権力を使って善行を施そうなどという,甘っちょろい考えをもっている。ネオコンごっこで権力強化し,よい子ぶって,その権力で国民を善導しようなどと幼稚なことを考えている。要するに,子供の火遊びだ。そして,これがいちばん危険なのだ。こんな政権は一刻も早く引導を渡すべきだ。

3.チチばなれ出来ない晋三氏
『美しい国へ』を開くと,晋三氏のお父さん(安倍晋太郎元外相)やお祖父さん(岸信介元首相)がやたらと出てくる。そのこと自体は別にかまわないのだが,情けないのは,「お祖父ちゃん,お父ちゃんに言われたとおり,ぼくちゃんはやっています」といった話しが次々に出てくること。

「祖父は,幼いころから私の目には,国の将来をどうすべきか,そればかり考えていた真摯な政治家としか写っていない。それどころか,世間のごうごうたる非難を向こうに回して,その泰然とした態度には,身内ながら誇らしく思うようになっていった。」(p.24)
「父,そして祖父も政治家だったので,わたしも子供のころは素朴に父のようになりたいと思っていた。」(p.30)
「《政治家は,自らの目標を達成させるためには淡泊であってはならない》――父から学んだ大切な教訓である。」(p.37)

ふつう52歳にもなったら,こんなことは恥ずかしくて書けはしない。おそらく晋三氏には,大人になるための通過儀礼たる「反抗期」は無かったのだろう。

4.確たる信念なく,たじろぎ・・・・
その未熟ネオコン安倍首相の信念は,チャーチルに学んだ「確たる信念をもち,たじろがず,批判を覚悟で臨む」(p.41)だそうだ。

が,この本のどこに「確たる信念」があるのか? チャーチルこそ,いい迷惑だろう。

5.人権よりも主権が先の拉致問題
安倍首相の信念らしきものといえば,なんといっても拉致問題への強硬姿勢だろう。威勢はよいが,これは信念というより,独りよがりであり,要注意。

彼は,人権よりも,「なによりも日本の主権が侵害され」(p.46)たことを問題にしているのだ。人権侵害の立場に立てば,国際世論を糾合して解決に向かうはずなのに,主権侵害が先に立つので,そうした努力は十分にはなされず,後回しにされてきた。北朝鮮問題の解決が,国際的協力なしには一歩も前進しないことは,いまや常識となりつつある。

6.へなちょこ靖国参拝論
安倍首相のもう一つの信念らしきものは,靖国参拝。この本でも,「一国の指導者が,その国のために殉じた人びとにたいして,尊崇の念を表するのは,どこの国でもおこなう行為である」(p.68)とはっきり述べている。ところが,周知のように,かれはどうやら靖国参拝は行わないという言質を入れ,中国・韓国訪問を実現したらしい。へなちょこ信念ではないか。

その点,小泉前首相は立派だった。おそらく彼自身は靖国神社なんか信じていないだろうが,信じた振りを演じきった。立派なワルであり,困った首相だが,美しい

ところが,安倍首相は,靖国をシンプルに,無邪気な少年のように信じ切っているのに,中国・韓国(そして米国)の圧力にへなへなと負け,参拝をやめてしまった。「たじろがず,批判を覚悟で」は,どこへ行ったのか!

安倍首相には,日本国の運命よりも自分の美学を優先させる小泉前首相のような「美しさ」は,みじんも感じられない。若年寄の小賢しい俗な現実主義があるだけだ。

7.軽薄ナショナリズム
安倍首相の第3のウリは,ナショナリズム。ところが,このナショナリズムも,安倍首相が語ると,軽薄そのもの,ヘナヘナ,ペラペラだ。

東京オリンピックのころ,安倍少年は「日本人が活躍しそうなときは」みんなでテレビを見,「日本人が勝ったという誇らしげな気分」にひたったという。小学生の安倍氏の行動そのものに後知恵でイチャモンをつけているのではない。そうではなく,大国日本の首相ともあろう人が,こんな稚拙な文章を書き,ナショナリズム――重く怪しく危険きわまりない――を弄び,正当化しようとする軽率さが問題なのだ。こんなことも言っている。

「国際スポーツ大会における勝ち負けというのは,国がどれほど力を入れるかで,おおきく左右されるものだ。勝つことを目標にかかげることで,それにむかって頑張ろうとする国民の気持ちが求心力のはたらきをえて,ひとつになる。」(p.79)

情けない。小学生か! まだまだある。

「いま若者たちはスポーツで愛国心を率直に表現している。スポーツには,健全な愛国心を引きだす力があるのだ。/スポーツに託して,自らの帰属する国家やアイデンティティを確認する――ナショナリズムがストレートにあらわれる典型がサッカーのW杯だ。」(p.80)

「2004年のアテネオリンピックで,水泳800メートル自由形で優勝した柴田亜衣選手は,笑顔で表彰台にのぼったのに,降りるときには大粒の涙を落としていた。/『金メダルを首にかけて,日の丸があがって,「君が代」が流れたら。もうダメでした』。/日本人として,健闘を称えられたことが率直にうれしかったのだ。」(p.82)

日本人として,情けなくて,涙が流れそうだ。安倍首相には,スポーツがナショナリズムを超える力を持つ――それこそがスポーツの本質――ということが,まるで分かっていないようだ。

東京オリンピックで最高の感動を呼んだのは何だったか。決して日の丸ではない。ほとんどの日本人が,日本人たることを忘れて感動したときがあった。小細工で歴史を偽造してはならない。

それは,いうまでもなく,マラソンのアベベだ。裸足で黙々と走る哲人のようなアベベの姿。それは,国家も民族も超え,日本中の人々を感動させた。スポーツは,国境を越えるところに,その本質がある。国旗を振り振りナショナリズムを煽るような軽薄なスポーツは,企業と国家の野合であり,決して本物のスポーツではなく,見せ物である。

8.愛なき人の愛説教
未熟ネオコン安倍首相は,よせばよいのに,大人の領域である宗教や愛にまで口を挟む。これは,もうどうしようもない。無教養丸出し。遠藤周作の『沈黙』について,こんなことを書いている。

「ロドリゴは,拷問を受けても棄教せず,殉教していく日本人キリシタンたちを救うために,自ら踏み絵を踏み,信仰を捨てる選択をする。神に仕えるロドリゴにとって,仲間のキリシタンを助けることは世俗のことにすぎない。しかし,彼は結局は,世俗を優先し,現実の世界で誰かを救うため,いままでの人生を否定することまでした。」

こんな浅薄な読みは,小学生でもしない。情けない。踏み絵を踏むことが,「世俗のことにすぎない」とは,およそ信仰とも愛とも無縁の人の言うことだ。安倍首相には,愛や思いやりの心を語る資格は全くない。

9.気の抜けた家族国家論
安倍首相の軽薄ナショナリズム,愛なき愛説教は,気の抜けた二番煎じの軽薄家族国家論にたどり着く。

戦前の家族国家論は,伊藤博文らの苦心の作たる「大日本帝国憲法」を根拠にしており,『国体の本義』に見られるように,それなりによくできていた。西洋近代思想をよく研究し,その弱みをつき,「そうかなぁ」と思わせるようなできばえとなっていた。

つまり,自然な家族愛が郷土愛となり,これが愛国心となる。家族の長が父であるように,国家の長は赤子の父たる天皇陛下である。自然な家族共同体の拡大したものが自然な生命国家日本であり,これは利己的人間が集まって人為的につくった西洋の機械的国家とは全く異なるものだというわけだ。初等教育で思考のベクトルを機械よりも生命,論よりも情に方向付けてしまえば,あとは簡単,国民はこの情緒的生命国家論,家族国家論の世界の中でしか思考できなくなってしまう。『国体の本義』は悪書だが,妖艶な悪女の魅力を備えている。

安倍首相は,この家族国家論を墓場から掘り起こし再生させたいようだが,グローバル化の21世紀,そんなアナクロ秘術で騙されるような単純な人はいないはずだ。

たとえば,戦前の軍国主義者たちがそうしたのと同じく,安倍首相も特攻隊員の自然な愛を国家のために横取りしようとする。

「《かれら(特攻隊員)は,この戦争に勝てば,日本は平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために――それは,父母であり,兄弟姉妹であり,友人であり,恋人であった。そしてその愛しきものたちが住まう,日本であり,郷土であった。かれらは,それらを守るために出撃していったのだ》/わたしもそう思う。だが他方,自らの死を意味あるものにし,自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。・・・・死を目前にした瞬間,愛しい人のことを思いつつも,日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。」(p.107)

日本軍国主義の聖典『国体の本義』の下手な引き写しである。あのアジア・太平洋戦争のどこに「大義」があったのか? 父母が身を挺して子を守るように,愛ゆえに自らの生を犠牲にすることは,崇高な行為である。国家のため生命を捧げるということも当然ありうる。しかし,家族愛と国家愛とのあいだには,越えなければならない手順がたくさんある。家族愛が無条件に国家愛に直結するわけではない。国家は機械だから,機械の保守のために命を捧げるには,合理的に納得できるだけの根拠がいる。100%合理的な了解は無理としても,ギリギリまで合理的に理解し,納得する努力は絶対に不可欠だ。それが民主主義だ。ところが,大日本帝国はその合理的手順を放棄し,家族愛と国家愛を情緒で直結し,それを安倍首相も安易に引き写している。

安倍首相には,親子関係ですら機械的な契約関係で合理的に説明したホッブズの厳しさは,みじんも感じられない。親が子を,子が親を守ることを,ホッブズはギリギリのところまで合理的に説明し,納得させようとした。情で直結するような手抜きは許さなかった。それが政治家というものだ。政治家には,そうした厳しさが求められる。

ところが,安倍首相のアナクロ家族国家論は,「甘えの構造」(土居健郎)にどっぷり浸かり,政治家としての本物の自覚,責任感を完全に忘却している。政治家が国民にむかって愛や道徳を説くのは,支配を合理的に説明できないのを糊塗するための「甘え」であり,国民はこのようなごまかしを断じて許してはならない。

大日本帝国も安倍首相も,特攻隊員の死を合理的に説明できない。だから愛に甘え,ごまかすのだ。国家との関係で言えば,特攻隊員の死には,何の意味もない。無駄死にだ。しかし,権力者たちは,もし彼らの死を無駄死にと認めると,そうさせた彼らの責任が追求されるので,「大義に殉じること」(p.107)と情緒的に美化し,偽りの意義を与えたのだ。卑怯ではないか。

日の丸をうち振って特攻隊を賛美する安倍首相のような人々こそが,私たちから家族,友人,恋人,郷土を奪っていくのだ。観念的情緒的日本国家のために。そんなくだらぬもののために,命を捨ててはならない。

10.従属国家へ
アナクロ・ナショナリスト安倍首相は,日本国家の独立を願っているらしい。

「では,わたしたちが守るべきものとは何か。それは,いうまでもなく国家の独立,つまり国家主権であり,わたしたちが享受している平和である。」(p.129)

ところが,「『自分の国は自分で守る』という気概が必要なのはいうまでもないが,核抑止力や極東地域の安定を考えるなら,米国との同盟は不可欠であり,米国の国際社会への影響力,経済力,そして最強の軍事力を考慮すれば,日米同盟はベストの選択なのである」(p.129)ということになる。

しかし,これはウソだ。沖縄はいうに及ばず,日本全国に米軍基地があり,軍事占領されているに等しい。自衛隊がいても,これは米軍の下働きであり,独自作戦は不可能だ。

しかも,米軍は日本防衛のために駐留しているというのは,全くのウソであり,話しにもならない。アメリカは,米国本土防衛の盾,弾よけとするため,日本に経費を負担させ米軍を日本に駐留させているのだ。

この点では,チチ離れできない安倍首相よりも,自主防衛論を採る石原東京都知事の方が,危険ではあるが論敵としては立派だ。

11.自衛隊の海外傭兵化
アナクロ安倍首相は,グローバル化の怖さも知らぬまま,アメリカの軍事的下働きを海外にまで拡大するため,自衛隊を海外に派遣しようとしている。

PKF参加解除で,「これまでの後方支援から停戦や武装解除の監視,あるいは放棄された武器の収集,処分といった幅広い国際協力が可能になった。また,・・・・武器使用の制限も,正当防衛の範囲内で緩和された」(p.143)。

いよいよ自衛隊が,イラクやアフガンのような紛争地に本格的に派遣され,米軍の下働きとして働かされ,米兵の身代わりとなって名誉の戦死を遂げ,そして,靖国神社に英霊として祭られることになる。こうなれば,安倍首相も,堂々と靖国神社参拝が出来るわけだ。

12.そして,先制攻撃へ
そして,安倍首相のアナクロ国家主義の仕上げが,先制攻撃論。国家主義者らしく安倍首相は「日本も自然権としての集団自衛権を有している」と強弁している。

自然権は,自然人(個々の人々)の生存権だけだ。国家は不自然な人工物であり,その権利はすべて個々人より信託されたものにすぎない。これは,政治学の常識。それなのに,安倍首相は,自然権としての自衛権を根拠に,先制攻撃を正当化する。

「どこの国でももっている自然の権利である自然権を行使することによって,交戦になることは十分にありうることだ。・・・・明らかに甚大な被害が出るであろう状況がわかっていても,こちらに被害が生じてからしか,反撃が出来ないというのが,憲法解釈の答えなのである。」(p.133)

だから,憲法を改悪し,軍隊を堂々と保持し,アメリカのように先制攻撃が出来るようにせよということになる。想像力の欠如としか言いようがない。日本が先制攻撃権を振りかざせば,当然相手も同じことを考える。ミサイルの時代,先制攻撃されたら,防ぎようがない。

13.アナクロ教育論
先にも触れたように,一般に政治家は合理的に説明できない胡散臭いことをするとき,国民に愛やモラルを説くものだ。安倍首相も「モラルの低下」(p.212)を嘆き,「教育の再生」を唱える。バカバカしい提案ばかりだが,極めつけは,ボランティアの強制。

「たとえば,大学入試の条件として,一定のボランティア活動を義務づける方法が考えられる。大学の入学時期を原則9月にあらため,高校卒業後,大学の合格決定があったら,それから3カ月間をその活動にあてるのである。」(p.213-4)

愚劣きわまりない。「美しい国へ」というのなら,「ボランティア」などという敵性言語の使用からまずやめるべきだ。「奉仕活動」「勤労奉仕」といった「美しい」日本語があるではないか。そして,この3カ月を自衛隊体験入隊にすると,日本はもっと「美しい国」になるだろう。

こんなくだらない提案を恥ずかしげもなく掲げることが出来るのは,安倍首相がそもそも「愛」を知らないからだ。愛なき奉仕は苦役であり,教育にとっては全くの逆効果。そんな「愛」なき政治家が教育改革を政策の目玉にする。日本はもはや末世だ。

14.美しくない国,日本
いまの日本は,残念ながら,たいへん醜い。そうしたのは,晋三氏のお祖父さん,お父さん,大叔父(佐藤栄作)さんをはじめとする権力政治家たちだ。

晋三氏は,いまの日本は美しくないと批判しつつ,そうしたのが誰かまで頭が回らない。憲法,教育基本法があるにもかかわらず,それらを無視した政治により,日本は醜くされてきた。「日本社会は,自由と民主主義,そして基本的人権を尊重する社会であり,しっかりした法の支配の下にある」(p.158)。あれあれ,憲法9条(戦争放棄)や20条(信教の自由)を他に率先して無視してきたのは,誰だったのだろう。

日本は美しくない。『美しい国へ』で政治を進めると,ますます美しくなくなる。憲法,教育基本法の遺産があるあいだに,『美しい国へ』を捨て,本当に美しい国へと方向転換を図らねばならない。

15.必読文献としての「美しい国へ」
正直いって,『美しい国へ』を読む以前は,安倍首相がこんなにヒドイ人物とは思っていなかった。美しいがワルの小泉首相よりもマシかな,と想像していた。ところが,そうではなかった。安倍首相は,美しくなく,そして悪い

私たちにとって,良書だけが必読なのではない。悪書もときには読む必要がある。『美しい国へ』は,美しくも面白くもない駄作だが,われらが首相の「本格的な初の単著」(著者紹介)である。国民には,たとえ拷問に耐えるほどの決意が必要だとしても,読む義務がある。