ネパール評論 Nepal Review

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「かぐや姫の物語」,リアリティの欠如

「かぐや姫の物語」が早くもTV放映されたので,派手な宣伝にのせられ,観てみた。「公式サイト」によれば,この映画は――

日本最古の物語文学「竹取物語」に隠された人間・かぐや姫の真実の物語。
姫の犯した罪と罰。
製作期間8年、製作費50億円の娯楽超大作。

150324

しかし,「姫の犯した罪と罰」をうたっているにもかかわらず,この映画は物語の構成が甘く,本物のフィクションの神髄たるリアリティも作品としての深みも感じられない。とくに物語の展開をナレーションや登場人物の語りで説明するのは興ざめ。

これは,先の「風立ちぬ」を観たときと同じような印象。日本のアニメは,全体的に,かつてのような想像力・構想力・創造力を失いつつあるのではないだろうか? もとより,これは趣味判断だから,他の見方や評価もありうることは言うまでもないが。

参照Sophia Pande,”The Tale of the Princess Kaguya,” Nepali Times,20-26 March 2015,#750
I have always loved Studio Ghibli’s productions, referring to them often in my reviews, especially when talking about animation that is not a product of this blessed dream factory. While Hayao Miyazaki,[…]did not direct The Tale of the Princess Kaguya (2013) which is co-written and directed by Isao Takahata, it is nevertheless one of the most charming and uplifting films to come out of the famed animation studio. […]

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/03/25 at 19:47

カテゴリー: 文化

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肉体文学としての「ハシシタ 奴の本性」

「ハシシタ 奴の本性」(週刊朝日10月26日号)掲載中止に関する著者の見解が発表された。佐野眞一「見解とお詫び」朝日新聞出版HP(2012-11-12)。失笑、幻滅。全く話にならない。

1.責任倫理の欠如
そもそも佐野氏には、著者としての自覚、当事者意識が希薄だ。朝日側が何を言おうが、「ハシシタ 奴の本性」は佐野氏の名前で発表された佐野氏自身の作品である。「ハシシタ」を「奴の本性」と見事喝破されたのだから、その論理からしても、「ハシシタ 奴の本性」という作品は、Authorたる佐野氏の本性の発現と考えるほかあるまい。だとしたら、当然、 自分の名を冠した作品の第一の責任は朝日にではなく自分にある、と堂々と宣言されるべきであった。それが作家たるものの矜持であろう。

ところが、佐野氏はそうはされなかった。今後、佐野氏がどのような作品を発表されようが、読者は「どうせ誰かに書かせたのでしょ」と、疑ってかかる。著者には、自分の名を冠した作品に対する第一の責任がある。著者としての「責任倫理」を自覚せず、作品に対する「結果責任」をとらない作家は、誰からも信用されないだろう。

2.肉体文学: 作品性の欠如
第二の問題は、佐野氏は「配慮を欠いたこと」を反省されているが、これは世間への配慮の問題ではない。佐野氏には、作品を書くということへの理解が根本的に欠如している。

いま手元にないので詳しくは引証できないが、「ハシシタ 奴の本性」は、丸山眞男のいう「肉体文学」にほかならない。

フィクションはいうまでもなく、ノンフィクションも、作者が生の素材を加工して作り出す「作品」である。取材した素材を生のままさらけ出すのは、クソ実証主義であり、作品性のない単なる「肉体文学」であるにすぎない。

佐野氏は、「取材の自由は保障されなければなりません」などと繰り言をいっているが、それは当然のことであって、いまさら言われるまでもないことだ。また、「まさに言論と表現の自由の危機です」とも述べているが、実際には、そんな高尚なことが問題になっているのでもない。問題の核心は、取材した素材が生煮えで、作品化されていないということなのだ。

もし作家が佐野氏の反省に習い、世間や権力に配慮し書くべきことを書かなかったり、筆を曲げてしまっては、作家失格である。佐野氏は「慎重な上にも慎重な記述を心がけます」などと、誰かに書かされたかのようなことも書いておられるが、作家にはそのような世間を意識した「慎重さ」など、全く不要である。書くべきことを自由に書けばよい。

ただし、そこでは当然、事柄の真実に迫る、換言するなら、作品としての完成を目指す、という内在的規範が厳しく作家を規制する。素材をそのままさらけ出す安易低俗な肉体文学ではなく、素材を徹底的に吟味し事柄の本質に迫る本物のフィクション、本物のノンフィクションこそが作家の目標でなければならないのである。

3.結果責任の欠如
佐野氏の取材の自由は誰も制限しないし、すべきでもない。また、作品を書くに当たって、佐野氏は世間に配慮や遠慮をする必要はないし、すべきでもない。ただただお願いしたいのは、作品としての完成度を高めること、そして、それでももし不十分として批判されたら、「配慮を欠いた」などといった無様な言い訳をせず、潔く力不足を認め、作家としての責任倫理に基づき、結果責任を堂々と果たして行かれることである。

「ハシシタ 奴の本性」――それは断じて世間への「配慮」や「慎重さ」の問題ではなく、ノンフィクションとしての作品自体の質の問題である。

[参照]
2012/10/23 ゴシップで売る朝日と佐野眞一氏の名前
2012/10/22 佐野氏の執筆責任放棄と朝日の表紙かくし
2012/10/21 朝日と佐野氏の優生思想:「ハシシタ 奴の本性」の危険性

 ■週刊朝日表紙

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[参考資料]

見解とお詫び

 報道と人権委員会の厳しい評価と重い処分が出たことを深刻に受け止めています。この件に関する私の意見を申し述べたいと思います。
 まず初回で連載打ち切りの事態になり、日本維新の会代表の橋下徹氏を通じて現在の未曾有の政治的停滞状況と言論の置かれた危機的状況を描きたいという筆者の真意が読者の皆様にお伝えできなかったことが残念でなりません。人物評伝を書く場合、私には鉄則があります。テーマとする人物の思想や言動は、言うまでもなく突然生まれたわけではありません。
 生まれ育った環境や、文化的歴史的な背景を取材し、その成果を書き込まなくては当該の人物を等身大に描いたとはいえず、ひいては読者の理解を得ることもできない。それが私の考える人物評伝の鉄則です。ましてや公党の代表である公人中の公人を描く場合、その人物が生まれ育った背景を調べるため、家族の歴史を過去に遡って取材することは、自分に課したいわば私の信念です。
 取材で得た事実をすべて書くわけではありませんが、取材の自由は保障されなければなりません。それが許されなければ、まさに言論と表現の自由の危機です。
 こうした手法を取るのは、当該の人物を歴史の中に正確にポジショニングして描くためであって、差別や身分制度を助長する考えは毛頭ありません。
 しかしながら、ハシシタというタイトルが、不本意にも橋下氏の出自と人格を安易に結び付ける印象を与えてしまい、関係各位にご迷惑をかけてしまいました。
 人権や差別に対する配慮が足りなかったという報道と人権委員会のご指摘は、真摯に受け止めます。また記述や表現に慎重さを欠いた点は認めざるを得ません。
 出自にふれることが差別意識と直結することは絶対あってはならないことです。差別に苦しめられながら、懸命に生きてきた心から尊敬できる人は数多くいます。
 そのことが重々わかっていたつもりだったにもかかわらず、それら心ある人たちのひたむきな努力や痛みに思いを致せない結果となってしまいました。
 私の至らなかった最大の点は、現実に差別に苦しんでおられる方々に寄り添う深い思いと配慮を欠いたことです。その結果、それらの方々をさらなる苦しみに巻き込んでしまったことは否めません。今後はこのようなことがなきよう、慎重な上にも慎重な記述を心がけます。関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします。

2012年11月12日 佐野眞一

(http://publications2.asahi.com/3.html)
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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/13 at 02:04

八百長メール暴露の隠された意図

警察庁=警視庁による八百長メール暴露の真のねらいは,ズバリ,憲法の保障する「通信の秘密」を「公共の利益」により否定し捜査をやりやすくすること,おそらくそういうことであろう。

1.相撲興行の粋
大相撲に限らず,プロスポーツは興業ないしショー(見せ物)であり,巧拙はあれ,八百長はつきものだ。大相撲も,石原都知事が言うように,もともと「そういうもの」であり,そのようなものとして楽しめばよいだけの話し。下手な,見え見えの八百長をする力士はファンから見放され自ずと淘汰されるし,また協会幹部が呼び出し興業だからもっと真剣にやれ,と厳重注意・指導すればよい。

そもそも,ウソ(八百長)と分かりつつも,迫真の演技に拍手喝采するのが,粋(いき)。それなのに,八百長に騙されたとか,スポーツの精神を汚したといって怒るのは,虚構と現実の区別がつかないはな垂れ小僧,無粋の極みといってよい。お上に八百長メールを暴露されるまで,「真剣勝負と信じていた」自分の目の節穴,無知不明をこそ,恥じ入るべきだ。

そもそも八百長は犯罪ではない。人を騙すことそれ自体が犯罪なら,プロレスもフィクション小説もみな犯罪になってしまう。相撲にしても,上手に騙して観客を楽しませる「興業」に他ならない。ただし,上手に騙すには,おのずと真剣勝負に接近せざるをえないが。

2.八百長メール暴露の隠された意図
その犯罪でもない行為についてのメールを,警察庁がなぜばらしてしまったのか? このところ,警察の捜査は地域社会の崩壊,交通・通信手段の発達などにより情報がとりにくく,ますます困難になっている。特にテロや公安事件では,そうであろう。

その警察にとって,通信の傍受・利用は,すでに「通信傍受法(盗聴法)」はあるものの,その制約を外し,もっと自由に最大限利用したい捜査手法であるに違いない。しかし,「通信の秘密」は,憲法が保障するもっとも強固な人権であり,これにさらに手をつけることは,少々のことでは困難である。

そこに八百長メールの神風が吹いた。粋に騙されることのできない未熟な国民性をうまく利用し,国民に非難攻撃の大合唱をさせ,国民に国民自身の最も大切な権利の一つ,「通信の秘密」を放棄させようとしているのだ。

憲法第21条2 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。

3.天声人語のヒステリックな煽動
今回の八百長メールは,野球賭博事件捜査のために押収した携帯電話の記録を警視庁が復元し,警察庁が「公共性」「公益性」の観点から文科省に伝えたものだ。それが無際限にマスコミにばらされ,ヒステリックな非難攻撃の大合唱となった。たとえば,「天声人語」は,ここぞとばかりに,人の声を代弁し,こう絶叫している。

「本職をサボる八百長は,賭博や酒のトラブル以上に罪深い。・・・・『勝つ』以外の意思が土俵に紛れ込んだ時,プロスポーツとしての大相撲は死ぬ。大多数の力士が,おびえではなく怒りに震えていると思いたい。」(朝日2/3)

このような後先も見ず,ことの軽重を考えないヒステリックな大衆煽動が何をもたらすか? ご丁寧にも,朝日は社説でも同趣旨のことを書いているが,ここにも「通信の秘密」への言及は全くない。憲法21条の「検閲」の禁止,「通信の秘密」の保障は,マスコミの存立基盤そのものなのに,まったくもって脳天気,自分で自分の足場を掘り崩そうと躍起になっているのだ。

4.メール・ネットサイトに秘密なし
もともとメールに秘密がないことは,少し知識のある人には周知の事実だ。メールがどこかで傍受されていること,パソコンや携帯電話の記録は削除しても復元可能なこと――これは常識だ。

しかし,公権力が直接の犯罪容疑もないのにそれをやり始めると,たいへんなことになる。粋な八百長相撲が楽しめなくなるくらいではすまない。公権力監視の警察国家になってしまう。憲法21条の検閲禁止,通信の秘密は,人権保障に不可欠であり,これは死守されなければならない。

それと同時に,私たちはメールはすべて傍受されている,メールに秘密はない,ということを前提にメールを使うべきだ。また,インターネット・サイトへの個人情報の記載も,すべて保存され,検閲されていると考えるべきだろう。自分のマル秘情報,恥ずかしい写真などが,いつ世界中にばらまかれるか分からない。5年後,10年後かもしれない。故意か「事故」か,わからない。これまでに,そのようなことが幾度もあった。

とにかく,ネットサイトやメールに個人情報はできるだけ流さないことだ。流す以上,秘密は放棄した,と覚悟すべきだろう。

■通信傍受法[盗聴法](平成11年8月18日)
第1章 総則 (目的)第1条  この法律は、組織的な犯罪が平穏かつ健全な社会生活を著しく害していることにかんがみ、数人の共謀によって実行される組織的な殺人、薬物及び銃器の不正取引に係る犯罪等の重大犯罪において、犯人間の相互連絡等に用いられる電話その他の電気通信の傍受を行わなければ事案の真相を解明することが著しく困難な場合が増加する状況にあることを踏まえ、これに適切に対処するため必要な刑事訴訟法 に規定する電気通信の傍受を行う強制の処分に関し、通信の秘密を不当に侵害することなく事案の真相の的確な解明に資するよう、その要件、手続その他必要な事項を定めることを目的とする。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/02/06 at 13:05