ネパール評論 Nepal Review

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カドガ・KC著「丸山真男と近代日本の政治思想」

Khadga K.C.,”MARUYAMA MASAO AND MODERN JAPANESE POLITICAL THOUGHT,” International Journal of East Asian Studies, Vol.4, No.1,2015,pp.27-34.

Maruyama Masao is one of Japan’s influential political thinkers of the twentieth-century. This article attempts to briefly discuss Maruyama Masao’s thoughts on Japanese political engagement by focusing on the intellectual and psychological causes of Japan’s political ambitions over the years. Maruyama Masao commented on numerous issues like the intellectual history of Tokugawa Japan, theory and psychology of ultra-nationalism and reflections on Article IX of the Japanese Constitution. Maruyama’s modern thought helped the Japanese understand their role in nation building and the importance of preserving peace at all cost. The paper concludes that Maruyama’s political thoughts are still relevant in this day and age.

丸山真男が,急激な近現代化の諸矛盾に苦しむネパールにおいて注目され始めた。

「近現代化」とは,文字通り「近代化」と「現代化」の二重の課題を同時に遂行せざるを得ないということ。つまり,一つは,前近代的封建社会を解体して自由・平等・独立の諸個人を析出し,その諸個人から民主的な主権的国民国家を構築するという近代化の課題。もう一つは,理論的仮設としては可能であっても実際には解体しきれない文化的諸集団(民族集団,言語集団,宗教集団など)の諸要求を国家社会に取り入れるべきだという現代的な包摂民主主義の課題。

この「近代化」と「現代化」は,欧米では数世紀かけて,日本でも百数十年かけて,段階的に進行してきた。ところが,ネパールでは,これら相矛盾するところの多い「近代化」と「現代化」の二つが,ほぼ同時に,急激に,進行し始めた。これがいかに困難であり,多くの深刻な軋轢を生み出すかは,想像に難くない。

そうしたネパールの苦しみについて,欧米諸国は極めて鈍感であり,「近代化」をすっ飛ばし,一気に「現代化」をせよと無理難題を押し付け,様々な圧力をかけている。無責任極まりない。(単線的歴史発展論は,いまどき流行らないが,ここではあえて近代化抜きの現代化の危険性を強調しておきたい。)

むろん,ネパールにとっても「現代化」は避けられないし望ましくもあるが,しかし,ネパールにはネパール固有の事情がある。「近代化」は欧米にとっては過去のことかもしれないが,ネパールにとってはまだまだ追求し実現されるべき課題である。ネパールは,「現代化」を受け入れるためにも,その前提となる「近代化」について,もっと注目し,研究し,少なくともその最も基本的な諸原理だけは社会においてある程度実現しておく必要がある。

こうした観点からすると,カドガ・KC氏のこの論文は,大いに注目に値する。丸山真男こそ,欧米に遅れて近現代化した――その意味でネパールの近現代化の参考になり得る――日本を理論的に鋭く分析し,その問題点と課題を最も明晰に示してくれた20世紀日本の政治学者だからである。

カドガ氏の論文は,おそらくネパール初の学術的な丸山研究であろう。これを契機に,丸山がネパールにおいて注目され,さらに研究が進められていくことを期待している。

論文抜粋(pp.33-34, 改行追加引用者)
「戦前日本のファシズムないし超国家主義を厳しく批判した丸山のような自由主義思想家たちが育成した社会意識こそが,憲法第9条の擁護を可能としたのだ。

ところが,残念なことに,安倍首相の指導の下に,第9条の解釈が今年半ばに変更されてしまった。

日本国憲法そのものは何ら改正も変更もされていないのに,第9条の解釈変更により,日本はいまでは集団的自衛権を行使できるようになり,武力紛争当事国を積極的に支援できることになった。

換言するなら,安倍首相は,丸山が生涯をかけて反対し闘ってきたこと,すなわち日本の軍事防衛政策を正常化することに,成功したのである。」

 151212■カドガ・KC氏(同氏FB

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/12/12 at 21:31

肉体文学としての「ハシシタ 奴の本性」

「ハシシタ 奴の本性」(週刊朝日10月26日号)掲載中止に関する著者の見解が発表された。佐野眞一「見解とお詫び」朝日新聞出版HP(2012-11-12)。失笑、幻滅。全く話にならない。

1.責任倫理の欠如
そもそも佐野氏には、著者としての自覚、当事者意識が希薄だ。朝日側が何を言おうが、「ハシシタ 奴の本性」は佐野氏の名前で発表された佐野氏自身の作品である。「ハシシタ」を「奴の本性」と見事喝破されたのだから、その論理からしても、「ハシシタ 奴の本性」という作品は、Authorたる佐野氏の本性の発現と考えるほかあるまい。だとしたら、当然、 自分の名を冠した作品の第一の責任は朝日にではなく自分にある、と堂々と宣言されるべきであった。それが作家たるものの矜持であろう。

ところが、佐野氏はそうはされなかった。今後、佐野氏がどのような作品を発表されようが、読者は「どうせ誰かに書かせたのでしょ」と、疑ってかかる。著者には、自分の名を冠した作品に対する第一の責任がある。著者としての「責任倫理」を自覚せず、作品に対する「結果責任」をとらない作家は、誰からも信用されないだろう。

2.肉体文学: 作品性の欠如
第二の問題は、佐野氏は「配慮を欠いたこと」を反省されているが、これは世間への配慮の問題ではない。佐野氏には、作品を書くということへの理解が根本的に欠如している。

いま手元にないので詳しくは引証できないが、「ハシシタ 奴の本性」は、丸山眞男のいう「肉体文学」にほかならない。

フィクションはいうまでもなく、ノンフィクションも、作者が生の素材を加工して作り出す「作品」である。取材した素材を生のままさらけ出すのは、クソ実証主義であり、作品性のない単なる「肉体文学」であるにすぎない。

佐野氏は、「取材の自由は保障されなければなりません」などと繰り言をいっているが、それは当然のことであって、いまさら言われるまでもないことだ。また、「まさに言論と表現の自由の危機です」とも述べているが、実際には、そんな高尚なことが問題になっているのでもない。問題の核心は、取材した素材が生煮えで、作品化されていないということなのだ。

もし作家が佐野氏の反省に習い、世間や権力に配慮し書くべきことを書かなかったり、筆を曲げてしまっては、作家失格である。佐野氏は「慎重な上にも慎重な記述を心がけます」などと、誰かに書かされたかのようなことも書いておられるが、作家にはそのような世間を意識した「慎重さ」など、全く不要である。書くべきことを自由に書けばよい。

ただし、そこでは当然、事柄の真実に迫る、換言するなら、作品としての完成を目指す、という内在的規範が厳しく作家を規制する。素材をそのままさらけ出す安易低俗な肉体文学ではなく、素材を徹底的に吟味し事柄の本質に迫る本物のフィクション、本物のノンフィクションこそが作家の目標でなければならないのである。

3.結果責任の欠如
佐野氏の取材の自由は誰も制限しないし、すべきでもない。また、作品を書くに当たって、佐野氏は世間に配慮や遠慮をする必要はないし、すべきでもない。ただただお願いしたいのは、作品としての完成度を高めること、そして、それでももし不十分として批判されたら、「配慮を欠いた」などといった無様な言い訳をせず、潔く力不足を認め、作家としての責任倫理に基づき、結果責任を堂々と果たして行かれることである。

「ハシシタ 奴の本性」――それは断じて世間への「配慮」や「慎重さ」の問題ではなく、ノンフィクションとしての作品自体の質の問題である。

[参照]
2012/10/23 ゴシップで売る朝日と佐野眞一氏の名前
2012/10/22 佐野氏の執筆責任放棄と朝日の表紙かくし
2012/10/21 朝日と佐野氏の優生思想:「ハシシタ 奴の本性」の危険性

 ■週刊朝日表紙

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[参考資料]

見解とお詫び

 報道と人権委員会の厳しい評価と重い処分が出たことを深刻に受け止めています。この件に関する私の意見を申し述べたいと思います。
 まず初回で連載打ち切りの事態になり、日本維新の会代表の橋下徹氏を通じて現在の未曾有の政治的停滞状況と言論の置かれた危機的状況を描きたいという筆者の真意が読者の皆様にお伝えできなかったことが残念でなりません。人物評伝を書く場合、私には鉄則があります。テーマとする人物の思想や言動は、言うまでもなく突然生まれたわけではありません。
 生まれ育った環境や、文化的歴史的な背景を取材し、その成果を書き込まなくては当該の人物を等身大に描いたとはいえず、ひいては読者の理解を得ることもできない。それが私の考える人物評伝の鉄則です。ましてや公党の代表である公人中の公人を描く場合、その人物が生まれ育った背景を調べるため、家族の歴史を過去に遡って取材することは、自分に課したいわば私の信念です。
 取材で得た事実をすべて書くわけではありませんが、取材の自由は保障されなければなりません。それが許されなければ、まさに言論と表現の自由の危機です。
 こうした手法を取るのは、当該の人物を歴史の中に正確にポジショニングして描くためであって、差別や身分制度を助長する考えは毛頭ありません。
 しかしながら、ハシシタというタイトルが、不本意にも橋下氏の出自と人格を安易に結び付ける印象を与えてしまい、関係各位にご迷惑をかけてしまいました。
 人権や差別に対する配慮が足りなかったという報道と人権委員会のご指摘は、真摯に受け止めます。また記述や表現に慎重さを欠いた点は認めざるを得ません。
 出自にふれることが差別意識と直結することは絶対あってはならないことです。差別に苦しめられながら、懸命に生きてきた心から尊敬できる人は数多くいます。
 そのことが重々わかっていたつもりだったにもかかわらず、それら心ある人たちのひたむきな努力や痛みに思いを致せない結果となってしまいました。
 私の至らなかった最大の点は、現実に差別に苦しんでおられる方々に寄り添う深い思いと配慮を欠いたことです。その結果、それらの方々をさらなる苦しみに巻き込んでしまったことは否めません。今後はこのようなことがなきよう、慎重な上にも慎重な記述を心がけます。関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします。

2012年11月12日 佐野眞一

(http://publications2.asahi.com/3.html)
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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/13 at 02:04