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カモとイルカと伝統文化
4月4日,阪神間の桜の名所,夙川公園に行ってきた。満開! 花吹雪が舞い,夙川はまるで桜花のせせらぎ,花筏。
その桜花の清流に,つがいのカモと一羽のサギが来ていた。せせらぎで桜花と戯れ,時折,エサをついばんでいる。悠々泰然,人を恐れることはほとんどない。この鳥・人共生関係は,調和的な「第二の自然」であり,地域の伝統「文化」だ。
この「文化」の中でカモやサギは意味づけられており,もし誰かが無警戒のカモを捕らえ,カモ鍋にして食べてしまったら,なんたる野蛮,残酷と非難されるだろう。それは地域の伝統「文化」の否定であり,道徳的に許されない。
しかし,そのような文化がなく,カモは狩猟の対象とされているところでは,カモを捕まえ食べたとしても,誰もそれを非難したりはしない。もしかりに生息数減少で保護が必要なら,そう説明し捕獲制限を話し合えばよいだけのことだ。
この自明の理がわからないフリをしているのが,ケネディ駐日大使ら,米欧イルカ人道主義派。イルカ漁が「非人道的(inhumane)」とは,自文化絶対のタメにする妄論に他ならない。
ネパールにはサルを捕獲して食べている少数民族がいる。ヒトと同じ霊長類だから,サル猟は「非人道的」と言って言えないことはないが,「文化」を尊重するネパールの人々は決してそんな「非文化的」なことを言いはしない。私たち日本人も言わない。もしかりに助言を求められたら,近年,生息数が減ってきているので,サル猟はそろそろ見直した方がよいのではないですか,と科学的に冷静に答えるであろう。
イルカ漁を「非人道的」と非難できないのは,牛屠殺を「非人道的」と非難できないのと同じこと。牛屠殺であれ,特定文化の中で,許容されているにすぎない。ウソだと思うなら,インドに行き、公然と牛を殺してみよ。
イルカ漁も,種保護のため制限が必要となるかもしれない。しかし,それはそれだけのこと。決して「非人道的」などといった普遍的価値判断の問題ではない。むろん,ケネディ大使らは,そんなことは,十分わかっている。わかっていながら,わからないフリをして無茶を言う。なぜか?
いうまでもなく,政治が目的。イルカは票になる。米欧は政治力で世界を征服した。政治的に有効と思えば何でもやる。たとえば,ベトナム戦争。米国は,肥沃なベトナムの山野・田園に有毒枯葉剤を大量散布し,無数の美しく愛らしい動植物を虐殺した。被害は「ヒト」にもおよび,いまなお多くの「人」が苦しめられている。もしイルカ漁が「非人道的」なら,これはいったい何と表現すればよいのか?
[参照]
イルカ漁非難,その反キリスト教的含意と政治的戦略性
ケネディ大使,ジュゴン保護を!
伴野準一『イルカ漁は残酷か』平凡社新書,2015(2016年3月19日追加)
イルカ追い込み漁は、はたして日本の伝統なのか、はたまた反捕鯨団体が批判するような心ない行為なのか。映画「ザ・コーヴ」を契機に巻き起こったこの議論は、残念なことに、双方の主張が不毛な感情論のまま平行線をたどっている。だが今必要なのは、虚心坦懐にイルカと人間の関係を知ることだ──。気鋭のノンフィクション作家による詳細な歴史調査と関係者への徹底インタビューから、この問題の驚くべき真実が見えてきた。
谷川昌幸(C)
イルカ漁非難,その反キリスト教的含意と政治的戦略性
1.ケネディ大使のイルカ漁批判
ケネディ駐日大使が,イルカ追い込み漁の「非人道性(inhumaneness)」を,ツイッターで非難した。
この発言自体は,「人間」と「非人間」の区別さえしない,お粗末きわまりない感情的非難であり,聖書の教えにすら反する単なる言いがかりにしかすぎない。
それにしても,いったい誰が,いつ,何の目的で,”human”に “e“をつけ,”humane“とし,ご都合主義的にごまかす巧妙な詐術を考えついたのだろう。われわれ日本人は,はるかに論理的な日本語を使う民族であり,こんないい加減なアメリカ語に卑屈に屈服すべきいわれは,みじんもない。
だが,そこは老獪なアメリカ,そんなことは十分わかった上で,長期的観点から戦略を立て,日本にたいし,この文化的非難攻撃を仕掛けているとみるべきだ。
だから,いくら腹が立とうが,感情的に反発しては負け,アメリカ以上の戦略を立て,冷静かつ論理的に,このケネディ大使発言に断固反論し,世界社会の共感を勝ち取っていくべきであろう。
2.二枚舌の戦術と戦略
アングロサクソンは,政治的能力に長けた民族。短期的戦術と長期的戦略を組合せ,二枚舌を巧妙に使い分け,目標を達成する。単線化,単純化しやすい非政治的民族日本人より,はるかに懐が深いといってよい。
たとえば,ヨーロッパの片田舎の不合理で不便な英語を数百年以上かけ「世界共通語」にしたし,敗戦日本には食パン学校給食を強制し,米作中心の日本農業を衰退させた。コンピューターでも,初期段階で,優秀な日本製基本ソフトを政治的圧力により開発継続断念に追い込み,出来の悪かったアメリカ製を普及させ,その結果,いまや日本はアメリカの電脳植民地。そのうち,日本語そのものが,「不公正な貿易障壁」とみなされ,攻撃され,アメリカ語の公用語化を強要されるであろう。(英語帝国主義への屈服の見本が「美しい国」の安倍首相)。
ケネディ大使のイルカ漁「非人道性」攻撃は,この文脈で見なければならない。
3.「動物の平等権」の侵害
米大使のイルカ漁批判は,言い方を変えれば,米国における牛の近代的・合理的・科学的な屠殺は「人道的」であるのに対し,日本におけるイルカの伝統的・文化的な追い込み漁は「非人道的」だ,ということだろう。なぜか? それは,おそらく牛はバカだが,イルカは知能が高く人間に近いから,ということだろう。
私は,小学生の頃,牛部屋の隣で寝起きし,毎日のように牛の世話をしていた。だから,たぶんケネディ大使より,牛には詳しいはずだ。私にとって,牛はたいへん賢く,忍耐強く,平和愛好的で,「女神」のように優しかった。イルカと暮らしたことはないが,おそらく牛は,イルカと同等かそれ以上に賢いといってよいであろう。
しかし,たとえ百歩譲って牛がイルカより少々知的能力が劣るとしても,それをもって牛(や他の動物たち)とイルカを差別するのは,「動物の平等権」の侵害だ。人間の都合で,動物と動物を差別するのは,不当,不公平であり,許されない。
4.生命の尊厳と「人道的」屠殺
これは自明のことであり,アメリカもそんなことは十分わかっている。それにもかかわらず,イルカ漁を非難するのは,別の目的があるからに他ならない。
一般化していえば,近代的・合理的・科学的に――つまり経済活動の一環として――「人道的」に殺害できる動物は,殺して食ってもよいから,大いに食え! ということ。要するに,アメリカン・ビーフを食え,ということだ。
敗戦のドサクサに紛れ,日本にパン食文化を押しつけ,日本を米国産小麦粉の大市場にしたように,日本人にもっと牛を食わせ,米産牛肉の市場を拡大するのが,米戦略なのだ。
しかも,米国において牛は「人道的」に屠殺され,その現場は可能な限り市民生活から隔離されている。私たちは,牛(や他の動物)がこのように「人道的」に殺されれば殺されるほど,私たち自身が彼らの「生命」を食べて生きていることを忘れてしまうのである。
これが,意識されてはいないだろうが,実際には,動物愛護運動の隠された目的のひとつだ。いや,それが言い過ぎだとするなら,少なくともその善意は金儲けのために巧妙に利用されているといってもよいであろう。
5.南アジアもターゲットか?
しかも,狙われているのは,日本だけではあるまい。日本以上のターゲットは,おそらく南アジアの巨大なヒンドゥー教文化圏であろう。
むろん,この地域には,仏教やジャイナ教などの不殺生の幅広い強力な伝統があり,牛を殺して食うことはタブー。しかし,たとえそうであっても,「死」や「(殺すための)暴力」が,こうして,まるで存在しないかのように,きれいに隠されてしまえば,目にするのは単なる食品の一つとしてのパックされた「ビーフ」にすぎなくなる。そうなれば,ヒンドゥー教徒にとっても,牛肉への敷居は,おそらく低くなるであろう。それは商品としてのパック食品であり,したがって消費さて当然ということ。
しかと確かめたわけではないが,ネパールでは,すでに「ビーフ」は日常的に消費される食品の一つとなりつつあるという。
南アジアは,巨大な人口を擁し,なお急増しつつある。その南アジアに,もし牛肉食文化を受け入れさせれば,アメリカや他の牛肉生産国は,巨大なマーケットを手にするわけだ。牽強付会? そうかどうか,あと数十年もすれば,わかるであろう。
他の論点については,下記記事をご参照ください。
【参照】
▼動物の「人道的」供犠:動物愛護の偽善と倒錯
▼動物供犠祭への政治介入:動物権利擁護派の偽善性
▼インドラ祭と動物供犠と政教分離
▼毛沢東主義vsキリスト教vsヒンズー教
▼中国援助ダムに沈黙のNGOとマオイスト
谷川昌幸(C)
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