ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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キリスト教徒,逮捕

6月9日,ドラカ郡でキリスト教徒7人が逮捕された。2人は郡内私学2校の校長,他の5人はキリスト教団体「Teach Nepal」のメンバー。

この7人は,私学2校の課外活動中に,聖書小冊子『偉大な物語』を885人の生徒に配布した。これを地元政治家が聞きつけ,郡役所を動かし,警察に7人を逮捕させたということらしい。容疑は,憲法26(3)条により禁止されている改宗勧誘・他宗教妨害

この事件は,一般紙はあまり報道していないが,いまの政権の基本姿勢をうかがわせる重大な事件である。ネパールのキリスト教徒は,公式には37万5千人だが,実数は230万人に上るという。すでに一大宗教勢力だ。そのキリスト教会が,今回のような,いささか強引な布教活動をすれば,ヒンドゥー教多数派と衝突するのは当然だ。

現行憲法堅持なら,この種の宗教紛争は継続,激化せざるをえない。逆に,憲法改正に向かえば,ヒンドゥー教勢力が黙ってはいない。現政権は憲法堅持だが,いずれをとるにせよ,難しい選択だ。

160618a 160618b

[参照]
*1 “Nepal police arrest Christians accused of converting people to Christianity,” christiandaily.com, 15 June, 2016
*2 “Nepal arrests seven Christians over allegations of converting people to Christianity,” christiantimes.com, 14 JUNE, 2016

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/06/18 at 11:24

改宗勧誘は禁錮5年,刑法改正案

オリ政府が,改宗勧誘処罰を規定する刑法改正案の議会提出を準備している。これに対し,宗教関係者,とくにキリスト教会が激しく反発している。先述のクリスマス公休祭日指定取り消しともあいまって,今後,大きな問題となりそうだ。

1.憲法の宗教関係規定
【1990年憲法】
第4条 王国
(1)ネパールは,・・・・ヒンドゥー教の立憲君主国である。
第19条 宗教に関する権利
(1)・・・・何人も,他人をある宗教から他の宗教に改宗させる権利を有しない。
【2007年暫定憲法】
第4条 ネパール国家
(1)ネパールは,・・・・世俗的な連邦民主共和国である。
第23条 宗教に関する権利
(1)・・・・何人も,他の人をある宗教から他の宗教に改宗させる権利を有しない。他の人の宗教を害するような行為は,なされてはならない。
【2015年憲法】
第4条 ネパール国家
(1)ネパールは,・・・・世俗的な連邦民主共和国である。
原注(स्पष्ताकरण):本条でいう「世俗的」は,古来の宗教と文化の保護ならびに宗教的および文化的自由の保護を意味する。
第26条 宗教的自由への権利
(3)何人も,・・・・他の人をある宗教から他の宗教に改宗させること,または他の人々の宗教を妨害することをしてはならない。そのような行為は法に則り処罰される。

このように,ネパール憲法は,一貫して改宗勧誘の禁止を規定してきた。それは,厳密に解釈すれば,当然,布教の禁止となる。したがって,この改宗勧誘禁止規定は,体制派ヒンドゥー教以外の諸宗教,とくにキリスト教会やマオイスト左派により,繰り返し厳しく批判されてきた。

しかし,いかに批判されようが,改宗勧誘禁止規定は憲法の中に残された。ネパール体制派が,改宗,とくにキリスト教への改宗をいかに強く警戒してきたかが,この憲法規定を見るとよくわかる。

2.刑法改正案の改宗勧誘処罰規定
オリ政権が進めている刑法改正は,この憲法の改宗勧誘禁止規定を根拠にしている。改正案の骨子は次の通り。

【刑法第156条】
(1)何人も,他の人々を改宗させてはならない。他の人々の改宗は,組織的働きかけによってであれ,唆しによってであれ,行われてはならない。
(2)何人も,いかなる形の利益供与に依っても,もしくは依らなくても,または少数者集団もしくは少数者共同体が古来維持してきた宗教や信仰を妨害することによって,他の人をある宗教から他の宗教に改宗させてはならないし,また同様の意図をもって自分たちの宗教や信仰を他の人々に宣べ伝えてはならない。
(3)上記(1)および(2)の罪を犯した者は,5年の禁錮および5万ルピー以下の罰金に処する。
(4) 上記(1)および(2)の罪を犯した外国人は,本条の定める禁錮刑の期間満了後,7日以内に本国に送還されなければならない。
(RAMESH KHATRY, ”Not really secular,” Kathmandu Post 10 Apr; Prakash Khadka, “Anti-conversion law will send Nepal backwards,” UCAN India, 14 Mar)

この刑法改正案が成立し,厳密に適用されることになれば,あらゆる布教活動は事実上できないことになる。このような刑法改正案が,本当に成立するのであろうか?

■ネパール王国国章

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/04/16 at 14:56

カテゴリー: 宗教, 憲法

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宗教問題への「不介入」,独大使

1.独政府の宗教問題「不介入」
マイヤー独大使が12月19日,大使公邸で記者会見し,こう語ったという。

「われわれ[独政府]は,宗教の自由を支持している。しかし,改宗は個人的な事柄であり,必ずしも常に公的な問題となるわけではない。現に,われわれは改宗を勧めることは,していない。」

スパークス英大使が,制憲議会議員宛公開書簡で提案したこと(改宗の自由の憲法保障)はEU全体の考え方でもあるが,「われわれ[独政府]は,宗教については,絶対に,どのような立場も取ってはいない」。

「ドイツは,ネパールにおける宗教や連邦制の問題については,どのような立場も取らないし論評もしない。宗教と国家は別のもの,とドイツは考えている。・・・・ドイツは,求められるときのみ,支援する。われわれの希望は,ネパールの安定,繁栄,民主化である。」(“Germany Doesn’t Hold Any Position On Religion: German Envoy,” Republica,Dec 20; Cf. LEKHANATH PANDEY,”We don’t advocate religion conversion: German envoy,” Himalayan,2014-12-19)
141220b 141220a ■独大使館とHPフロントページ

2.クリスマス宣伝,独GIZ
独大使館は,このような慎重な立場を公言しているが,これはドイツがキリスト教宣伝をしていないと言うことではない。

たとえば,ドイツ国際協力公社(GIZ: Gesellshaft fur Internationale Zuzanmenarbeit)。GIZは,ドイツの政府公社であり官民協力の国際援助機関。ネパールでは1975年から援助活動をしている。

このGIZが,たとえば下記のような派手なクリスマス・バザー(独開発協力事務所前庭開催)の宣伝をしている。もちろん,これは直接的な布教活動ではないが,キリスト教文化の宣伝となることは言うまでもない。

フェアトレードグループ・ネパール,独大使館カトマンズ,GIZネパールからの
フェアトレード・クリスマスバザーへのご招待!

 141220e

3.神々の自由競争の前提条件
個人の信教の自由は,いまではネパールでも広く認められている。ヒンドゥー教徒であっても,大多数はそれには反対しないはずだ。ところが,布教活動の自由については,必ずしもそうはない。

繰り返し述べてきたように,布教の自由は,宗教以外の他の諸条件の基本的平等がなければ,実際には,「強者の布教の自由」となってしまう。神々の自由競争は,大きな貧富格差のあるところでは,富者の神の勝利となる。富者の神が優れているからというよりは,むしろ強力な富の援軍(マモン)が富者の神にはついているからだ。富者の神への「宗教外強制」。

ネパール憲法の改宗勧誘禁止規定は,一見いかにも反人権的と見えるが,ネパールにはそうした憲法規定をおかざるを得なかったもっともな事情があったこともまた,紛れもない事実である。

4.英独の文化侵略
英独は,ネパール憲法が改宗勧誘を禁止してきた事情など,百も承知だ。彼らは,わかった上で(悪意で),やっている。タチが悪い。

ドイツが,イギリスと少し違うのは,ナチス・ドイツのトラウマがあり,イギリスほど平然と二枚舌外交をやれないため。ドイツは,内政不干渉をつねに強調せざるをえないのだ。

しかし,これはドイツがドイツ流の価値観をネパールに持ち込もうとしていないということではない。ドイツは,開発援助や学術文化支援を通して,やや慎重だが,きわめて活発に,ドイツ的価値のネパールへの普及・浸透を図っている。

英独など,こうした西洋諸国の「強者の正義」の押しつけや「強者の自由」の行使が,ネパールの少なからぬ人々の神経を逆撫でし反発を招くのは,当然といわざるをえない。

【参照】改宗問題 Conversion Battle フェイスブック  ツイッター

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/12/20 at 16:58

改宗勧奨: 英国大使のクリスマス・プレゼント

クリスマス準備で浮かれるネパール国民に,スパークス英国大使が,ビッグなクリスマス・プレゼントを贈ってくれた。

1.公開書簡で改宗権保障の勧め
スパークス英国大使は,制憲議会議員宛に公開書簡を送り,これが12月10日付『リパブリカ』紙に掲載された(a)。その中で,大使は議員たちにこうアドバイスをした。

「われわれ[英国政府]は,宗教を変える権利の保障の実現のために,制憲議会議員諸氏が努力されることを期待する・・・・」

この提言は,ネパールにおいては,事実上,ヒンドゥー教からの改宗の奨励を含意する。英国大使が,制憲議会議員宛の公開書簡において,堂々と,新憲法への「改宗権」の書き込みを要請した!!

 141216b ■公開書簡

2.ネパール政府による説明要求
スパークス大使のこの提言は,ネパール側,とくに国民民主党(RPP-N)やコングレス党の反発を招いた。彼らは,コイララ首相やパンディ外相に対し,スパークス大使を呼び,抗議し,善処を求めよ,と要求した。RPP-N支持者は,すでに抗議デモさえ始めている。

ところが,張本人のスパークス大使は,クリスマス休暇(!)で帰国し,不在。仕方なく,ネパール政府は,ハリソン代理大使を呼び出した。

ネパール外務省バイラギ次官代理は,ハリソン代理大使に対し,現行ネパール暫定憲法では改宗働きかけが禁じられていることを説明した上で,ネパールの憲法はネパール国民自身が決めるのであり,この種の内政の微妙な問題についての発言は控えるように注意を促した。

3.英国大使館の釈明
これに対し,ハリソン代理大使は,公開書簡は「悪意」によるものでも,ネパール社会の「調和を乱す」ことを意図したものでもなく,ネパール国民の憲法制定を応援するためのメッセージだった,と釈明した。

さらに英国大使館は,フェイスブック(12月15日付)において,公開書簡非難は誤解によるものだとして,次のように釈明した(b)。

スパークス大使の公開書簡は,長年の友好国からの憲法制定「応援メッセージ」であり,「個人の宗教変更権の保障への言及」も国際人権規約・第18条(思想・良心及び宗教の自由)の規定に沿ったものであって,改宗「強制」を支持するものではない。大使館も館員も,特定の宗教をネパールの議員や国民に説いたり強制したりはしていない。また,世俗主義についても,大使館は特定の立場を説いてはいない。世俗国家か否かは,ネパール国民とその代表者が決めることだ。

大使館は,公開書簡が誤解を招いたことを,残念に思っている。

 141216a ■大使館FB

4.英国外交の常套手段
英国大使館は,大使公開書簡に「悪意」はなかった,非難は誤解によるものだ,と釈明しているが,老練外交大国にしてネパール熟知の英国が,そんな初歩的なヘマをやるはずがない。

英国大使が,制憲議会議員宛公開書簡で「改宗の権利」に言及すれば,たいへんな物議を醸すであろうことなど,誰にでも予想できることであり,明々白々な常識だ。

英国には,前科がある。セカール・コイララ議員(NC)によれば,1990年憲法制定時に,英国使節団は,憲法に「世俗主義」を規定するよう提案した。これに対し,KP.バタライ首相は,ネパールの憲法はネパール人が決める,英国の元首はキリスト教徒だということを忘れないでいただきたい,と反論したという(i)。英国は歴史の国であり,ほんの二十数年前のことを忘れるはずがない。

こうしたことを考え合わせるなら,スパークス大使は,十分わかった上で,つまり「悪意」をもって,「改宗の権利」に言及したと見るべきだ。

むろん,憲法への「改宗の権利」書き込みを提言すれば,たいへんな反発を呼び,非難攻撃されることも,計算の上だ。内政干渉だと非難されたら,国際人権規約を盾に取る,つまり自らのものと巧妙に仮装している建前としての普遍的価値を引き合いに出し,ねじ伏せるわけだ。

そもそも英国は,KP.バタライ首相が反論したとされるように,世俗国家ではない。英国元首(国王/女王)は,英国国教会の首長だ。それなのに,英国大使は,そんなことなどそしらぬ顔で,ネパールには「改宗の権利」や「世俗国家」を押しつけようとする。(実際には,何宗への改宗か!) 建て前と本音の見事な使い分け。英国外交の真骨頂,ここにありといったところだ。

5.英国大使からのクリスマス・プレゼント
スパークス大使は,イエス・キリストの誕生を祝うため本国に帰り,休暇を楽しんでいる。クリスマス商戦たけなわのネパールに,「改宗の権利」というビッグなクリスマス・プレゼントを残して。

 141216c ■ホテルのクリスマス(H.Shanker)

[参照]
クリスマスと布教の自由問題
世俗国家ネパールのクリスマス祭日(再掲)
「布教の自由」要求:キリスト教会
信仰の自由と強者の権利

[参照資料]
(a)Andy Sparkes, “Letter To Sabhasad-jyus,” Republica,2014-12-10
(b)UK in Nepal,Facebook,2014-12-15
(c)”Govt Summons UK Official Over ‘rights To Change Religion’,” Republica, 2014-12-16
(d)”Mahat Says Conversion Through Inducement A Crime,” Republica, 2014-12-15
(e)”Misunderstanding regretted: Embassy,” HIMALAYAN,2014-12-15
(f)LEKHANATH PANDEY,”Govt seeks clarification on Sparkes’ conversion remarks,” Himalayan,2014-12-15
(g)DAMAKANT JAYSHI,”Koirala to look into U.K. envoy’s conversion remarks,” The Hindu,2014-12-14
(h)SHIRISH B PRADHAN, “UK Envoy in Nepal Under Fire for Advocating Right to Conversion,” Outlook India, 2014-12-15
(i)”UK Envoy Under Flak For Advocacy Of Conversion, Govt prepares to seek clarification,” Republica,2014-12-14

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/12/16 at 21:22

信仰の自由と強者の権利

1.強者の権利
自由は,多くの場合,「強者の権利(強者の自由)」である。弱者に自由はない。自由は,一般に,人が何かをしようとするとき妨害や禁止をされず,自分の思い通り行為できる状態を意味する。いわゆる消極的自由(negative freedom)である。この自由は,J.S.ミルが『自由論』(1859年)において論証したように,人間本性の要求であり,この自由により人間とその社会は進歩する。

しかし,その反面,自由が強者の権利であることもまた,疑いえない真実である。自由は,一般に,強者が権益を拡大し確保するため主張される。世界では18世紀末~19世紀の大英帝国や20世紀以降の米帝国,現代日本では大規模チェーン店や宅急便など。強者は,禁止や規制がなければ,自分の力(精神的,物理的,経済的,文化的など)により競争に打ち勝ち得るので,自由を求めるのである。弱者は,自由競争の下では,負けるのみ。

2.弱者のための自由制限
自由は強者の権利であるという「不都合な真実」は,政治や経済においては,あまりにも露骨なので,その「不都合」を軽減するため,様々な自由制限が行われる。たとえば,ネパール暫定憲法では,包摂民主主義の大原則によりクオータ制など,多くの自由制限が設けられている。あるいは,特定産業保護のための規制は,ネパールだけでなく,どの国でも多かれ少なかれ行われている。自由が制限されなければ,平等はないのである。

3.信教の自由と神々の自由競争
この点で難しいのが,精神的自由,特に信教の自由だ。日本国憲法は,次のように定めている。

第19条 思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。
第20条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。

このように,信教の自由は,無条件に保障されているようにみえる。しかし,実際には,これは形式的保障にすぎず,一定の社会的条件が,暗黙の裡に前提とされている。その条件が満たされていなければ,弱者には,実質的な信教の自由はない。

信教(宗教)の前に,精神や魂の本質にかかわるという点ではよく似ている言語について見ておくと,分かりやすい。

ネパールでは,1990年革命以前の開発独裁においては,ネパール語が国語とされ,国語教育が推進された。先進諸国が日本を含め,すべてやってきたことだ。ところが,1990年革命により他の諸言語の自由も認められ,2006年革命によりその自由がさらに手厚く保障されるようになった。いまでは,どの言語を学び使うかは,本人の自由である。

その結果,どうなったか? いうまでもなく,最強言語たる英語の勝利だ。少数言語,いやネパール語ですら,形式的な「言語の自由」は保障されていても,実際には見捨てられ,英語化が着々と進行している。言語には言語をもって闘えなどといわれても,どだい言語圏勢力格差は巨大であり,競争にはならない。言語の自由市場競争には公正はない。

宗教は,魂の救済にかかわるだけに,言語の場合に勝るとも劣らず深刻だ。人間と同様,神々も社会の中で闘争し,自由競争が保障されれば,社会的強者の神が勝つ。言語と同じこと。いまネパールで,その神々の自由市場競争が始まりつつある。

4.キリスト教への改宗急増
ネパールにおける神々の競争において優勢に立つのは,いうまでもなくキリスト教だ。『ゴルカパトラ(ネット版)』(4月12日)は,フェイスブックでの次のような議論を紹介している。

英字紙編集長「1985年,政府は,キリスト教に改宗させたとして,キリスト教徒80名を逮捕・投獄した。」
BBCネパール元記者「20年後の今日,『民主主義』のもとで,政府は,改宗に反対したとして,非キリスト教徒を何人も逮捕・投獄しそうな状況だ。」

この編集長と元記者の名前は記されていないが,議論は宗教をめぐる現状の核心を突いている。記事によれば,キリスト教への改宗急増は,外からの大量援助によるものだ。教会は都市でも地方でも,いたるところで急増,貧困層,とくにダリットやジャナジャーティをカネやモノで釣り,改宗させているという。

「たしかに,世俗国家では,どの宗教を選択しようが,自由だ。しかし,ネパールでは,世俗が,貧しいネパール人をキリスト教に改宗させる目的で,悪用されている。ネパール人をキリスト教に改宗させるために使われるカネがいくらか正確には分からないが,総額は年数十億ルピーにものぼるはずだ。また,政党の中には,キリスト教組織からカネをもらっているものもあるといわれている。

このままでは,寺院の街カトマンズは,すぐに教会の街となる。さらに,改宗急増は,社会の平和と調和を乱すことになるだろう。雌牛や雄牛を殺し牛肉を出す店も増えてきたが,これは雌牛をラクシュミ女神の化身と信じているヒンドゥー教徒との対立をもたらすにちがいない。

多くのレストランやホテルは,すでに牛肉を大っぴらに売り始めた。ほんの10年前までであれば,信じられないような光景だ。マハボーダ付近で売られている1皿10ルピーのモモは,牛肉だといわれている。

・・・・偉大な聖者たちは,様々な宗教やそれらの目標に何の相違も認めていない。もしそうなら,改宗しても,たいした違いはない。ところが,それにもかかわらず,多くの人々が続々とキリスト教に改宗しており,これが聖者や修行者や知識人らを心配させている。しかし,彼らには,改宗急増を食い止める手立ては何もないのだ。」(上掲ゴルカパトラ)

130415  ■聖牛の国,ネパール

5.経済外強制と経済的強制
この記事を掲載しているゴルカパトラは,体制メディアだから,ヒンドゥー教王国懐旧記事を掲載しても不思議ではない。しかし,それを留保しても,この記事がグローバル市場競争社会化の本質を突く真実を簡潔明快に剔出していることは,事実である。

人は,自由,特に魂や精神の自由を求める。それは人間存在の本質であり,それに反対することは出来ない。建前としての正義は,信仰の自由を掲げる側にある。

しかし,その信仰の自由といえども,社会内での自由であり,たとえ経済外強制はなくとも,経済的強制は,歴然として,ある。もしそうなら,経済外強制は認められないのに,経済的強制は許されるのは,なぜなのか? 経済活動・市場経済は自由だからだ,というのは資本主義社会の強者の強弁にすぎない。経済的弱者は,経済的強制により,事実上,信教の自由をすらも奪われている。

ゴルカパトラ記事がいいたかったのは,ヒンドゥー教は,キリスト教というよりは,資本主義教・自由市場信仰に,抵抗のすべもなく無残にも敗退しつつある,ということであろう。ネパール語や他の民族諸言語と同様に。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/04/15 at 16:54

クリスマスと布教の自由問題

1.ネパールのクリスマス広告
ネパールのクリスマス広告は、一時よりは控え目となったが、それでも新聞には大きな広告が出ているし、ヒンドゥー教徒の友人からもクリスマスカードが多数送られてくる。キリスト教は、商売先行だが、着実に勢力を拡大しつつある。

121224a ■Republica, Dec24

 121224b ■YES KANTIPUR, Dec24

2.布教活動の活発化
アジアニュース(カトリック系)によると、今年は、ヒンドゥー原理主義者の脅はなく、被昇天大聖堂教会では、ヒンドゥー教徒も仏教徒も参加し、安心してクリスマスを祝うことができる。これは、クリスマスが国家祭日として公認されたことが大きいという。

“2006年のヒンドゥー王制崩壊後、政府は、観光促進のためクリスマスを国家祭日とした。これによりキリスト教徒は、聖像などを店内でも、教会や自宅の外でも飾ることができるようになった。現在、カトリック教徒は1万人。これは、2006年の世俗国家移行時よりも4千人の増加である。

宗教の自由が拡大したことにより、信仰を公にするカトリック教徒の数が増えた。教会は、クリスマス行事を行い、庭には十字架やツリーや花環を飾っている。もはや装甲車は必要ない。

このように表に出て活動できるようになったおかげで、多くの人がカトリックに関心を持ち始めた。カトマンズのある小さな教会では、クリスマス・ミサで24人が洗礼を受ける。ほとんどがヒンドゥー教徒だ。

大聖堂教区ロビン・ライ神父は、人類のためにイエスが生まれたことの本当の意味の証となるよう、信者に呼びかけた。「すべての人が信仰告白により信仰を強化し、キリストのお告げを全国にあまねく広げていってほしい。」

ネパールでは、近年、たいていはヒンドゥー過激派によるものだが、少数派宗教への攻撃が続き、殺害もあった。最悪の事件は、2009年5月23日のカトリック大聖堂攻撃であり、このときは2人が殺され、13人が負傷した。

2011年からは、保守諸政党の提案する改宗禁止法の施行もまた、議論されるようになった。しかしながら、この刑法改正への動きは、新憲法制定問題のため、いまのところは議会で止まっている。”(Asianews.it, 2012-12-20)

3.カトリックの柔軟さと強さ
カトリック教会は、形式主義でありながら、いや形式主義だからこそ、きわめて柔軟であり、それがプロテスタントにない強みとなっている。とにかく、利用できるものは何であれ、布教に利用する。

前掲記事では、「観光促進のためクリスマスを国家祭日とした」と皮肉・嫌味をいいながら、ちゃっかりそれを布教に利用している。キリスト教団体幹部のKB・ロカヤ氏は、クリスマスはヒンドゥー教徒のビジネス・チャンスになっていると皮肉りつつも、「その盛り上がりにより、少数派キリスト教徒の境遇は改善された」と歓迎している。

あるいは、アジアニューズの別の記事(12月10日)は、在ネパール国連人権担当官ロバート・パイパー氏がクリスマス慈善フェアに出席し開会を宣言したことを特筆し、「大部分の慈善用商品はキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒がつくったクリスマス関連商品であり」、フェアの成功はこれらの人々の「勝利」であると高く評価した。ここでもカトリック教会は、信仰の純粋さなど問題にせず、とにかく利用できるものは利用し、キリスト教受容の下地をつくり出すことに努力している。理屈のプロテスタントにはない、カトリックの幅の広さと強さである。

4.布教禁止規定の存続
先の記事にあるように、キリスト教にとって最大の法的障害は、憲法の改宗強制(布教)禁止規定である。これは世界最先端の超進歩的暫定憲法にも、以前の憲法からそのまま継承され、残っている。

「何人も、他の人を別の宗教に改宗させることはできない。」(第23条1)

これはもちろん改宗強制の禁止規定だが、布教は改宗勧誘に他ならず、容易にこの規定により禁止できる。そして、事実、この規定により布教は事実上禁止されるか、あるいは厳しく制限されてきた。

この改宗強制禁止規定が、西洋諸国の強い反対にもかかわらず、暫定憲法に残されたのは、まさに布教問題こそが、ネパールのヒンドゥー教社会の死命を制すると見られてきたからである。布教禁止規定の正否・善悪は別として、この状況認識そのものは、正確に問題の核心を突いていると言ってよいだろう。

現在、正式憲法の制定が焦眉の課題となり、そこでは連邦制に議論が集中しているが、ネパールの国家社会にとっては、それよりもむしろ、この布教禁止規定ををどうするかの方が、長期的には重要な問題だといっても決して言いすぎではあるまい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/12/24 at 17:43

世俗国家ネパールのクリスマス祭日(再掲)

以下は,2008年12月24日掲載の記事。ワードプレス移転により書式が崩れたため,再掲。掲載後3年で状況が大きく変化し,本格的な宗教紛争勃発も危惧されている。
[関連記事]
 ・神々の自由競争市場へ? 新憲法の課題
 ・死者をめぐる神仏の争い
 ・墓地紛争:キリスト教vsヒンドゥー教
 ・墓地紛争,ヒンドゥー惨敗か?
 ・キリスト教会,「宗教省」設置要求
 ・キリスト教墓地問題
 ・最高裁,パシュパティ埋葬許可命令
 ・墓地問題でハンスト抗議
 ・「布教の自由」要求:キリスト教会
 ・キリスト教墓地問題検討委員会発足
 ・首相官邸に棺桶,議会前に遺体:キリスト教会
 ・キリスト教墓地要求,ハンストへ

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世俗国家ネパールのクリスマス祭日

ネパールでは,今年からクリスマスが国民祭日(国家祭日)となった。2006年民主革命により世俗化したネパールが,なぜキリスト教の祭日を国民祭日とし,全国民にキリスト生誕を祝わせるのか? これは政教分離の原理問題であるばかりか,キリスト教と他宗教との関係をめぐる現実的な生臭い政治問題でもあり,理論的および政治的に慎重に検討し対処しないと,将来,深刻な宗教紛争に発展する恐れがある。

1.1990年革命とキリスト教
キリスト教は,1990年民主化革命以前は,厳しく規制され,民衆に布教すると,逮捕・投獄された。そのため,革命以前のキリスト教徒は,3~5万人にとどまっていた。

この状況は,90年革命で信仰の自由が認められたことにより改善され,信者数も増加し始めたが,1990年憲法は依然としてヒンズー教を国教とし,しかも布教制限規定をもっていたため,布教の自由は実際には大幅に制限されていた。たとえば,2000年10月,ノルウェー人を含む4人のクリスチャンが東ネパールで布教したとして逮捕され,国際問題になった。

(注)1990年憲法
第4条 ネパールは,・・・・ヒンズー教立憲君主国である。
第19条(1) 何人も・・・・古くから継承されてきた自分自身の宗教を信仰しかつ実践する自由を有する。ただし,何人も,他人をある宗教から別の宗教に改宗させる権利をもたない。

2.2007年暫定憲法とキリスト教
2006年革命とその成果としての2007年暫定憲法は,この状況を大きく変えることになった。暫定憲法に基づき2008年4月10日に制憲議会選挙が実施され,これにより成立した制憲議会は5月28日の初会議でヒンズー教王制を正式に廃止し,ネパールを世俗の民主共和国とした。

むろん過渡期の憲法である現行2007年暫定憲法には,1990年憲法と同じ布教制限規定がそのまま残っているが,国家が世俗化され,ビシュヌ神化身としての国王も廃止されたので,この規定の発動は実際には難しくなっている。

(注)暫定憲法
第23条(1) 何人も・・・・古くから継承されてきた自分自身の宗教を信仰しかつ実践する自由を有する。ただし,何人も,他人をある宗教から別の宗教に改宗させる権利をもたない。

マオイスト幹部のバルシャマン・プン(アナンタ)も,全ネパール・キリスト教評議会の大会に出席し,世俗国家ネパールは宗教の自由に対する制限をすべて撤廃し,「すべての宗教を平等に扱う」と語っている(Christian Century, Jul.1, 2008)。

キリスト教会は,いまようやく,念願の布教の自由を獲得しつつあるのである。

3.キリスト教徒の激増
世俗共和制の成立を,キリスト教会は布教のチャンス到来と諸手を挙げて大歓迎した。

「世俗共和制は,人民の勝利であり,宗教の自由への前兆である。」Simon Pandey, General Secrretary of the National Churces Fellowship of Nepal (Christian Century, Jul.1, 2008)

「ネパールは世俗民主制への道を歩んでおり,宗教の自由はいまや確実なものとなっている。」Plus Perumana, Vicar General of the Roman Catholic Church in Nepal (ibid)

「以前のネパールでは,クリスチャンはゴスペル(福音)を説いたというという理由で逮捕・投獄されていたという。・・・・ナラヤン・シャルマ(アジア・ゴスペル協会ネパール代表)によれば,彼自身も信仰を告白したという理由で逮捕され,地下牢のような刑務所に投獄された。・・・・ところが,以前はクリスチャンの逮捕を報道していた国営ラジオ局が,いまではゴスペル番組を流している,とシャルマは語った。」(Christian Post, Jul.14,2008)

この国家世俗化の効果は,早くもキリスト教徒の激増となって現実のものとなっている。いまでは,ネパールは「キリスト教社会の成長が世界で最も速い国の一つ」である(World Council of Churches, Sep.9, 2008)。概数であるが,いくつか数字をあげると:

<現在の信者数>
 ・100万人[Christian Century, Jul.1, 2008]
 ・80万人,6000会衆(2007.11) ← 5万人(1991年以前)[Ecumenical News International, Nov.24, 2007]
 ・70万人(2008.11) ← 3万人(15年前)[Anne Thomas, Bible Society UK, Nov.27, 2008]
 ・700万人[70万人?],1500会衆(2006.5) ← 5万人(1990年以前)[Simon Gurung, Ecumenical News International, May.8,2006]

これらの数字を見ると,1990年革命以前はほんの数万人にすぎなかったキリスト教徒が,現在では70~100万人に激増したことが分かる。

信者数100万人といえば,すでに大勢力であり,政治的にも無視し得ない力を獲得しつつあるといえる。

4.青年層のキリスト教化
では,いったい誰がキリスト教に改宗しているのか? これは容易に想像がつくように,主に青年層である。

「ネパールの教会の成長の中心を担っているのは,青年たちだ」Raju Lama, President of the United Christian Youth Fellowship in Kathmandu (Ecumenical News International, Nov.24, 2007)

たしかに,ネパール関係の教会HPを見ると,まず家族の中の若者がキリスト教に改宗し,それに激怒する親族を根気よく説得し,容認させ,そしてついには親族一同を改宗させる「美談」がいたるところで紹介されている。

教会の宣伝だからある程度割り引くとしても,大筋では,このような形でキリスト教への大改宗が進行しているのであろう。

5.下層民のキリスト教化
もう一つ,注目すべきは,教会が下層民への布教に力を入れていることである。教会自身は明らかにしていないが,数が多いのはおそらくこの層の改宗者であろう。下層庶民に先駆けて,「目覚めた」中層・上層の知識人や若者が改宗し,彼らの指導の下で下層民が大挙して改宗する。そのような流れが始まっているのだろう。

教会記事によれば,教会は食事や物品を提供し,音楽やダンスをふんだんに織り込み,下層民を教会へと誘導している。

「バイダ(1995年ヒンズーからキリスト教へ改宗)の説明によれば,教会の人々は若者たちに音楽,スポーツ,能力開発の機会を恒常的に提供している。これがネパールの青年たちをキリスト教に引きつけることになっている,と彼は語った。」(Ecumenical News International, Nov.24, 2007)

「ミャンマーの宣教師によれば,サイクロン被災後,地方の人々は,宣教師や教会ボランティアたちが食事や物品を配っているのを見て,そこに神の心を見て取った。/『仏陀は,私たちが苦しんでいるとき,何もしてくれなかった。が,皆さんのイエスは,私たちを愛してくれている』と,ある家族が語ったのを,その宣教師は記憶している。『いまでは,日曜日になると,彼らは教会に来て,主を礼拝しています』と彼はつけ加えた。」(Christian Post, Jul.14, 2008)

ネパールに行くと,知識人や政治家たちが,キリスト教会は食事・物品・教育・留学などの供与や,音楽・ダンスなどの娯楽提供で改宗を働きかけているとさかんに教会批判をするが,この批判には全く根拠がないわけではない。ネットの教会HPやユーチューブを見ると,そんな宣伝記事や映像があふれている。

それにしても,イエスは助けてくれるが,仏様は冷淡だ,などといった下品なことは,たとえそうした傾向があるにしても,言ったり報道したりすべきではない。非難している方のお里が知れるだけだ。
  

6.神々の自由競争市場
1990年の民主化がネパールに資本の自由競争市場をもたらしたとすれば,2006年の世俗化はネパールに神々の自由競争市場をもたらしたといってよいだろう。

以前は,ヒンズー教が国教であり,ヒンズーの神々は国家権力で保護されており,競争は厳しく制限されていた。ところが,世俗国家になり,そうした参入障壁が除去され,ヒンズー教の神々は仏教の仏たちやキリスト教の神と,生き残りのための自由競争をせざるをえないことになった。

これは資本主義社会における企業の自由競争と同じく,勝つも負けるも自己責任であり,その限りでは公平だといえる。

しかし,ここで注意すべきは,資本主義社会の自由競争は,実際には対等者間のフェアな競争ではあり得ないことだ。アメリカを筆頭に,資本家は国家権力に保護・支援されており(政府は資本家の総代表),自己責任をとる意思も能力もない。今回のアメリカ発世界金融危機で図らずも露見したように,市場の公平を唱え,自己責任と自由競争を世界中に強制してきた先進諸国の政府や大企業が,手のひらを返したように,国家介入による自国企業の保護・支援を強硬に要求している。節操も,恥も外聞もあったものではない。

同じことが,神々の自由競争市場についてもいえる。かつてキリスト教会は「宣教師と軍隊」と言われるように,軍隊の力を借りて非西洋世界を強引にキリスト教化していった。

また,そうした露骨な軍事的脅しがない場合でも,キリスト教会には富と科学力の後光が差していた。非西洋世界の人々は,この光背に目を奪われ,教会に近づき,そしてキリスト教化されていった。もちろん,いかに光背が輝かしかろうと見向きもしない信仰堅固な国もあれば,日本のように,おいしいエサだけ喰って,ご本尊には見向きもしない不届きな国もあるにはあったが,そうでない多くの国々はエサもろともハリを飲み込み,釣られていった。

キリスト教会が,そうした手練手管で非西洋世界をキリスト教化し,土着の多様で豊かな文化を滅亡させていった経緯を見ると,キリスト教の神の偉大よりもむしろ神の強欲・無慈悲を感じざるをえない。

ネパールは,世俗化により,神々の自由競争の時代に入ったが,以上に述べたように,神々は決して対等な条件で競争するのではない。もしネパールの人々が,ネパールの社会的・経済的条件を無視し,キリスト教世界の言うがままに神々の自由競争を認めたら,大変なことになる。

先進諸国の大企業は,強大な国家の強力な支援を得ている。そんな大企業と自由市場で競争したら,途上国の企業や労働者たちは負けるに決まっている。同じく,もし富と力と科学のケバケバしい光背付きのキリスト教会と自由競争市場で競争したら,貧弱な光背しかないネパールの神々は負けるに決まっている。

ネパールのキリスト教徒はすでに70~100万人に達している。日本が180万人程度(2000年)なので,人口比では日本よりもはるかに多い。このままだと,いずれ宗教紛争が勃発する危険性が高い。
 

7.政教分離の原則
宗教の勢力関係が急変しつつあるネパールにおいて,もっとも危惧されるのは,政治家たちが,こうした状況下で最低限必要とされる「政教分離の原則」について全くといってよいほど関心を示していないことである。

いくども指摘したように,ヤダブ大統領はヒンズー教宗教儀式に頻繁に参加している。一方,ネワング制憲議会議長は,キリスト教会の催しに出席し,祝辞を述べている(Christian Post, Jul.14,2008)。(この点,プラチャンダ首相は,管見の限りでは,いかなる宗教儀式にも首相としては出席しておらず,節を通している。やはり,勇敢であり,偉い。)

いまネパールでもっとも必要なことの一つは,政教分離の原則の確立だ。電力不足問題よりも,緊急度ははるかに高いといってよい。政教分離の原則を確立しておかないと,微妙な問題の多い宗教政策が無原則となり,大混乱を来すことになる。

信仰は個々人の内面の問題であり,ここに国家権力が介入することは,民主国家では絶対に許されない。その意味では,神々は人々の良心の前で自由競争をし,選ばれた神がその人の信仰となる。

しかし,宗教活動は社会の中で展開され,外面性を帯び,この部分については政治権力による規制を受ける。この規制をどのようにするかは,極めて難しい問題である。それぞれの社会が,その社会の実情に応じて,最適な方法と範囲をその都度具体的に決めていかざるをえない。

また,宗教の外面的活動のうち政治的・法的規制になじまない事柄については,社会が世論ないし常識(コモン・センス)による規制を行なう一方,宗教自身も信仰の本質に照らし自己規制していかなければならない。

信仰は絶対に自由だが,外面性を帯びる部分については,自由放任は許されない。自由放任は強者の利益である。政治でも経済でもそうであった。宗教が例外であるはずがない。
 

8.イエスの真実
私は,政治国家が,いずれかの宗教を国教としたり特権的に保護するのは誤りであり,民主国家では許されないことだと確信している。国家は,国民生活の外面的安全の保障に,その任務を厳しく限定すべきである。

したがって,当然,神々は人々の支持を求めて自由競争せざるをえない。ただし,その競争が真に公平な競争となるように,神々も富や力の外面的光背を外し,内面的な信仰の場で裸になって競争すべきである。

そのモデルの一つが,イエス・キリストその人である。イエスは,おそらく政治的権力も軍事的権力も経済的権力も何一つ持たない,世俗的には無力な人であったのだろう。イエスは,そのようなものは一顧だにせず,つねに貧しい人,悩み苦しんでいる人,虐げられている人と共にあり,その苦しみを共に苦しみ自らに引き受けようとし,そしてついには自分の生命までも罪深き人々のために献げてしまった。

私が理解するところでは,キリスト教の神は,人をしてイエスのこのような生き方に習うことを求める神であろう。

もしキリスト教の神がそうした神であるのであれば,たとえ他の神々が現れても,よもや富や外面的な力でそれを屈服させ排除することを人々に求めたりはしないであろう。

私はクリスチャンではないが,イエスが説き,身をもって示したこの神の真実こそが,真の平和への道であると信じている。このことは,近著(高橋・舟越編『ナガサキから平和学する』法律文化社)において,もう少し詳しく説明している。機会があれば,ご覧いただきたい。

(未完草稿)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/12/18 at 12:43