ネパール評論

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「使える英語」とカタカナ英語:リスキリングのリスク(2)

2.知的成熟のための外国語学習:内田樹
この問題につき,真正面から取り組み,ズバリ答えているのが,内田樹「AI時代の英語教育について」(『サル化する世界』2020所収)。以下,内田の所説に依拠しつつ,外国語学習の在り方について,私なりに要点をまとめてみる。

(1)自文化成熟のための外国語学習
内田によれば,英語などの外国語を学ぶ本来の目的は,われわれが「母語の枠組み[母語の檻]を抜け出して,未知のもの,新しいものを習得してゆく」ことにより,成熟を実現することにある。

しかし,その一方,決して忘れてならないのが,「本当に創造的なもの,本当に『ここにしかないもの』は,母語のアーカイブから汲み出すしかない」(235)ということ。だから,われわれは「母語を共にする死者たち」からもまた,深く学ばなければならない(237)。

こうすることによってはじめて,われわれは,外国語に一方的に飲み込まれてしまうことなく,自分たちの母語の中に本当に新しい語や概念を生みだし,ほかならぬ自分たち自身の文化を発展させていくことが出来るのである。

(2)「使える英語」教育による英語力低下
ところが,今の日本の政官財界では,実社会ですぐ「役に立ち使える」実用英語の教育が最重視されている。たとえば,

▼文科省「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」平成15年3月31日
  目標:高卒=英語で日常的なコミュニケーションができる
     大卒=仕事で英語が使える
  入試:リスニングテスト
  授業:英語による英語授業

この文科省計画にもみられるように,いまや英語学習はもっぱら受験・就職のためであり,また社会に出てからは国内外でのメガコンペティションに勝ち抜くための単なる手段とされてしまっている。

こうした状況では,当然ながら学校での英語学習意欲は相対的な競争手段として以上には高まるはずもなく,その結果,「大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきた」(191)。これは,内田だけでなく,他の大学関係者も少なからず認めている歴然たる事実である。なんたる皮肉か!

(3)植民地的オーラル・コミュニケーション偏重教育
「使える英語教育」はまた植民地的オーラル偏重でもあり,これによりとりわけ読解力が低下した。

実用英語偏重教育では,英語といっても「オーラルだけが重視されて,読む力,特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です」(220-21)。

植民地では,「宗主国民の命令を聴いて,それを理解できればそれで十分」。読解力を身につけ,古典などを読み,宗主国民以上の教養を身につけられたら困る(221)。

しかも,オーラル・コミュニケーションの場では,「100%ネイティヴが勝つ」(221)。そんな発音,そんな言い方はしないといって「話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる」(221)。

今の日本が,まさにそれ。「今の日本の英語教育がオーラルに偏って,英語の古典,哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは,『アメリカという宗主国』の知的アドバンテージを恒久化するためです」(222)。

「文法を教えるな,古典を読ませるな,・・・・。それよりビジネスにすぐ使えるオーラルを教えろ,法律文書や契約文書が読める読解力以上のものは要らない。そう言い立てる。それが植民地言語政策そのものだということ,自分たちの知的劣位性を固定化することだということに気が付いていない」(224)。

これは何とも厳しいが,真っ向から反論できるほどの余地は,どこにもあるまい。ノンネイティヴは,オーラルでは,ネイティブ児童にすら負けるのだ。

(4)AI自動翻訳と英語教育
オーラル実用英語を教育目標とすることは,より直接的には,AI自動翻訳の革命的進歩により現実に無意味となりつつある。

たしかに,自動翻訳の進歩は,私自身,日々驚かされている。今では,主語を省いても,倒置しても,かなりの精度で文意を解釈し,英語はむろんのこと,他の多くの言語にも,瞬時に翻訳してくれる。少し補えば,「実用」としては十分だ。

それでは,と内田は問いかける――「自動翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害を除去してくれるということになったら,一体何のために外国語を学ぶのか?」(184)。

そして,こう答える――「どんなものであれ,外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」から,と(184)。

(5)創造的なものは母語から
日本には,古来,外来の諸概念を最大限翻訳し取り入れてきた伝統がある。近代欧米の重要な諸概念も,カタカナ語ではなく,「自然」「社会」「個人」「権利」「哲学」などと漢訳して日本語の中に取り入れた。こうして欧米に取り込まれることなく,「日本は短期間に近代化を成し遂げることができた」(227)。(参照: 柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書1982)

それだけではない。新語,新概念というものは,もともと「個人の思い付きではなくて,母語の深いアーカイブの底から浮かび上がってきたもの」にほかならない(229)。だから,われわれは母語を深く学び,「現代日本語の檻」から抜け出したうえで,「本当に創造的なもの」を「母語のアーカイブから汲み出すしかない」のである(235)。

「母語の檻」から出るには,「一つは外国語を学ぶこと,一つは母語を共にする死者たちへの回路を見つけること」(237)。

以上の内田の英語教育論が,政官財大合唱のオーラル実用英語教育に対する原理的にして効果的な批判となっていることに,もはや疑問の余地はあるまい。

追補】慶応大学経済学部入試の英語で,日本語本文を読み英語で答える問題が出された。日本語本文は高度で,それが読解できることが大前提。英語以前に日本語能力が試されている。西岡壱誠「慶大、常識覆す『英語試験で出題文が日本語』の衝撃」東洋経済ONLINE,2023/02/25

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2023/03/04 at 11:27

ネパール流お化粧直し,ekantipur

ネパールの代表的メディア,ekantipurがホームページの化粧直しをしている。バックが白,文字は黒,リンク付きは青と,すっきりしている。日本からのアクセスには,ちゃんと日本企業の宣伝もでる。

そして,いかにもネパール式と感心するのが,まだ未完成で正常に表示できない部分が多々あるのに,平気で新デザインに切り替えてしまうところ。もし日本でこんなことをやったら,新聞社や大手サイトはむろんのこと,大学や高校でも,非難囂々,担当者は減給か左遷だろう。

ネパールでは,あれこれやっている舞台裏を平気で見せ,少しずつ手直しをしていく。みる方も慣れているから,あぁやっているな,そのうち直るだろう,と寛容だ。

 ekantipur, 2012-02-20

完璧主義――よい子ちゃん――の日本式と,このネパール式を比較すると,どちらがよいか? それぞれ一長一短があるが,グローバル化で変化が速く大規模な現在では,断然,ネパール式の方が強い。柔軟であり,費用も安上がり。

日本式完璧主義は,ダメ。特に教育において。たとえば,入試。センター試験など,常軌を逸している。公平を金科玉条に,徹底的に人間性を否定し,軍隊的官僚主義に徹している。受験生も,試験実施担当の教職員も,まるで自動機械,指定された手順を少しでも外れようものなら,マスコミなどがよってたかって,まるで極悪非道の犯罪人のように糾弾する。異常だ。奇問珍問なぜ悪い。試験時間が1分短かろうが長かろうが,それがどうした。そんなことにも対応できないようなマニュアル人間を,大金をかけて,大量生産してどうなる? そもそも,費用対効果からして,まったく割に合わない。

同じようなことが,政治についてもいえる。日本からみると,ネパール政治は出鱈目のように見えるが,少し長い目で見ると,なかなかうまくやっているともいえる。人民戦争は確かに悲惨だったが,近代ブルジョア革命や現代社会主義革命,あるいは他の途上国の紛争に比べ,ネパールは,比較的少ない犠牲で,前近代的半封建的社会から現代社会へと,一気に転換しつつある。

日本は,ITと同様,政治についても,ネパールから学ぶべきことが少なくない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/02/20 at 10:56

カテゴリー: 情報 IT, 政治, 文化

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