ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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「使える英語」とカタカナ英語:リスキリングのリスク(3)

3.社会的弱者を襲うカタカナ語・ローマ字略語洪水
ところが,現実には,教育におけるオーラル実用英語偏重教育は,その勢いを増すばかりだ。が,いかに笛吹けど,内田も指摘するように,学生らの英語力は落ちるばかりだ。

そこで,私が忖度するに,政官財の有力者らが取ることになった策が,カタカナ語・ローマ字略語での代用。彼らは,自分たちはペラペラ,スラスラ完全マスターしていると自画自賛の英語を,下々のためにカタカナ語やローマ字略語で表現してやることにより,「これくらいならお前らにも分かるだろう」と親切めかして一方的に押し付けてきているのだ。

政官財有力者らのカタカナ語・ローマ字略語多用は,社会的弱者支配のための便利ではあるが,お手軽にして稚拙な道具となっている,と見ざるをえないであろう。

以下,参考までに,ごくごく一部のみを列挙(岸田首相については,上記参照)。

コンサイスカタカナ語辞典』2020。約58,500語収録
行政カタカナ用語集』2008。「分かったようで分からない」カタカナ用語1500語収録
厚生省「カタカナ語使用の適正化について」1997                             [列挙されているカタカナ語とローマ字略語] ニーズ,コンセプト,リスク,プロジェクトチーム,ワーキンググループ,フォローアップ,スキーム,アカウンタビリティー,ビジョン,コーディネート,カンファレンス,フリーアクセス,メディカルチェック,ライフサポートアドバイザー,リターナブル,ホスピタルフィー,ドクターズフィー,モデル事業,ドナー,レシピエント,ケアプラン,ケアマネジメント,ケアマネージャー,スクラップアンドビルド,バイオセーフティー,プライマリ・ケア,バリアフリー,ノーマライゼーション,ホームヘルパー,デイサービス,ショートステイ,ケアハウス,新ゴールドプラン,サテライト型デイサービス,マニフェスト,プルーデントマン・ルール,ADL,食品GLP 
デジタル庁HP(2023)                                        [使用されているカタカナ語とローマ字略語の一部]プレスルーム,トピック,マイナンバー,マイナンバーカード,データダッシュボード,サイトポリシー,プライバシーポリシー,ウェブアクセシビリティ,コピーライトポリシー,データダッシュボード,パンデミック,VRSチーム,オープンデータセット,変換コンバータ,日英デジタルパートナーシップ,オンラインイベント,SPYxFAMILY,セキュリティ,QRコード,ダウンロードページ,イメージ,チャットポット,カテゴリ,e-Tax,オンラインバンキング,コールセンター,簡単ステップ,ワンストップサービス,GビズID,ガバメントソリューションサービス,サービスデザイン

これはヒドイ。行政関係用語集ですら,2008年時点で,「分かったようで分からない」カタカナ用語を1500語も収録している。植民地英語より惨めではないか!

日本語は,造語能力に長けた言語だから,たいていの外国語は日本語への移し換えが可能だ。内田も力説するように,そうすることによってこそ,日本語・日本文化は,より豊かになっていくにちがいない。

いまこそ明治の先達に学ぶべき秋だ。

【参照1】
1 内田樹「AI時代の英語教育について」2019,『サル化する世界』2020所収
2 内田樹「日本の外国文学が亡びるとき」2008
3 内田樹「イノベーションは、共同体のアーカイブから浮かび上がってくる:複雑化の教育論」,インタビュー2022/05/18
4 内田樹,英文和訳関係ツイート,2016/03/16
5 柳父 章『翻訳語成立事情』岩波新書,1982
6 谷川昌幸「書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』」1 2 3 4 5 6 7 8
7 谷川昌幸「愛国者必読: 施光恒『英語化は愚民化』
8 谷川昌幸「安倍首相の国連演説とカタカナ英語の綾

【参照2】(2023/03/15)
杉田聡氏は,「略語は英語の頭文字語よりローマ字書き日本語で──JPCZはNKKSに」(論座2023/03/15)と提唱されているが,ローマ字書き日本語の略語の方が何倍も判りにくいことは明白。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2023/03/05 at 09:46

「使える英語」とカタカナ英語:リスキリングのリスク(2)

2.知的成熟のための外国語学習:内田樹
この問題につき,真正面から取り組み,ズバリ答えているのが,内田樹「AI時代の英語教育について」(『サル化する世界』2020所収)。以下,内田の所説に依拠しつつ,外国語学習の在り方について,私なりに要点をまとめてみる。

(1)自文化成熟のための外国語学習
内田によれば,英語などの外国語を学ぶ本来の目的は,われわれが「母語の枠組み[母語の檻]を抜け出して,未知のもの,新しいものを習得してゆく」ことにより,成熟を実現することにある。

しかし,その一方,決して忘れてならないのが,「本当に創造的なもの,本当に『ここにしかないもの』は,母語のアーカイブから汲み出すしかない」(235)ということ。だから,われわれは「母語を共にする死者たち」からもまた,深く学ばなければならない(237)。

こうすることによってはじめて,われわれは,外国語に一方的に飲み込まれてしまうことなく,自分たちの母語の中に本当に新しい語や概念を生みだし,ほかならぬ自分たち自身の文化を発展させていくことが出来るのである。

(2)「使える英語」教育による英語力低下
ところが,今の日本の政官財界では,実社会ですぐ「役に立ち使える」実用英語の教育が最重視されている。たとえば,

▼文科省「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」平成15年3月31日
  目標:高卒=英語で日常的なコミュニケーションができる
     大卒=仕事で英語が使える
  入試:リスニングテスト
  授業:英語による英語授業

この文科省計画にもみられるように,いまや英語学習はもっぱら受験・就職のためであり,また社会に出てからは国内外でのメガコンペティションに勝ち抜くための単なる手段とされてしまっている。

こうした状況では,当然ながら学校での英語学習意欲は相対的な競争手段として以上には高まるはずもなく,その結果,「大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきた」(191)。これは,内田だけでなく,他の大学関係者も少なからず認めている歴然たる事実である。なんたる皮肉か!

(3)植民地的オーラル・コミュニケーション偏重教育
「使える英語教育」はまた植民地的オーラル偏重でもあり,これによりとりわけ読解力が低下した。

実用英語偏重教育では,英語といっても「オーラルだけが重視されて,読む力,特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です」(220-21)。

植民地では,「宗主国民の命令を聴いて,それを理解できればそれで十分」。読解力を身につけ,古典などを読み,宗主国民以上の教養を身につけられたら困る(221)。

しかも,オーラル・コミュニケーションの場では,「100%ネイティヴが勝つ」(221)。そんな発音,そんな言い方はしないといって「話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる」(221)。

今の日本が,まさにそれ。「今の日本の英語教育がオーラルに偏って,英語の古典,哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは,『アメリカという宗主国』の知的アドバンテージを恒久化するためです」(222)。

「文法を教えるな,古典を読ませるな,・・・・。それよりビジネスにすぐ使えるオーラルを教えろ,法律文書や契約文書が読める読解力以上のものは要らない。そう言い立てる。それが植民地言語政策そのものだということ,自分たちの知的劣位性を固定化することだということに気が付いていない」(224)。

これは何とも厳しいが,真っ向から反論できるほどの余地は,どこにもあるまい。ノンネイティヴは,オーラルでは,ネイティブ児童にすら負けるのだ。

(4)AI自動翻訳と英語教育
オーラル実用英語を教育目標とすることは,より直接的には,AI自動翻訳の革命的進歩により現実に無意味となりつつある。

たしかに,自動翻訳の進歩は,私自身,日々驚かされている。今では,主語を省いても,倒置しても,かなりの精度で文意を解釈し,英語はむろんのこと,他の多くの言語にも,瞬時に翻訳してくれる。少し補えば,「実用」としては十分だ。

それでは,と内田は問いかける――「自動翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害を除去してくれるということになったら,一体何のために外国語を学ぶのか?」(184)。

そして,こう答える――「どんなものであれ,外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」から,と(184)。

(5)創造的なものは母語から
日本には,古来,外来の諸概念を最大限翻訳し取り入れてきた伝統がある。近代欧米の重要な諸概念も,カタカナ語ではなく,「自然」「社会」「個人」「権利」「哲学」などと漢訳して日本語の中に取り入れた。こうして欧米に取り込まれることなく,「日本は短期間に近代化を成し遂げることができた」(227)。(参照: 柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書1982)

それだけではない。新語,新概念というものは,もともと「個人の思い付きではなくて,母語の深いアーカイブの底から浮かび上がってきたもの」にほかならない(229)。だから,われわれは母語を深く学び,「現代日本語の檻」から抜け出したうえで,「本当に創造的なもの」を「母語のアーカイブから汲み出すしかない」のである(235)。

「母語の檻」から出るには,「一つは外国語を学ぶこと,一つは母語を共にする死者たちへの回路を見つけること」(237)。

以上の内田の英語教育論が,政官財大合唱のオーラル実用英語教育に対する原理的にして効果的な批判となっていることに,もはや疑問の余地はあるまい。

追補】慶応大学経済学部入試の英語で,日本語本文を読み英語で答える問題が出された。日本語本文は高度で,それが読解できることが大前提。英語以前に日本語能力が試されている。西岡壱誠「慶大、常識覆す『英語試験で出題文が日本語』の衝撃」東洋経済ONLINE,2023/02/25

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2023/03/04 at 11:27

ネパール社会科学の英語偏重

カトマンズ法科大学(Kathmandu School of Law)の准教授が2名連名で,ネパールの社会科学における英語偏重を手厳しく批判している。以下,補足説明を加えつつ,要旨を紹介する。
▼Pranab Kharel & Gaurab KC, “Beyond English,” Republica, 11 Jun 2017

ネパールの社会科学は,学校教育においても専門研究においても,使用言語は英語が主となっている。学生は,母語では受験対策本はあっても良い教科書はなく学習に苦しみ,たとえ十分な知識を持っていても英語発表を要求されるためその能力を十分に発揮できず悩んでいる。研究者・専門家向けの社会科学雑誌や,セミナー,シンポジュウムなども,多くが英語。

その結果,ネパールでは,社会科学の基本諸概念が十分に習得されず,創造的構想力が欠如し,英語文献をなぞるだけとなりがちである。そしてまた,これは英語文献の諸概念に相当する諸概念がネパール語にはないという状況をもたらすことにもなっている。

ネパールにおける英語偏重⇒創造的構想力育成不全⇒母語貧困化⇒さらなる英語偏重⇒・・・・

この英語支配への転落の悪循環をどう断つべきか? ネパール人学者には「ネパール語や他のネパール母語による学術論文の執筆を勧めるべきだ」。また,ネパール母語による良質の教科書の作成・使用も不可欠だ。

外国人学者にも責任はある。外国人学者には,ネパール母語の十分な知識を持たず,英語文献を選好するきらいがある。「これは,非英語文献を蔑視する尊大な態度といってもよいだろう。英語圏大学で英語が必須なら,ネパールで社会科学に携わる者にはネパール諸言語の知識が必要不可欠のはずだ。」

――以上が記事要旨。これは,ネパール語はおろか英語ですらおぼつかない私には耳の痛い批判だが,非英語圏の言語問題の核心を突く指摘であり,むろん日本も例外ではない。

日本の政府・財界はいま,金儲けファースト,浅薄なグローバリズムにとりつかれ,英米語を世界共通語と妄信し,小学校英語必修化や大学入試英語外部丸投げ,あるいは英語の会社公用語化などを進めている。

日本はこれまで,初等教育から高等教育まで,いや世界最先端学術研究でさえ,母語で行うことのできる世界でも稀な非英語圏国家の一つであった。わが先人たちは,舶来知識を参考にしつつも,日本語を工夫して必要な諸概念を日本語で構築し,洗練し,高度化させてきた。この努力は世界に誇り得るものである。

ネパールにおける英語偏重批判――日本も謙虚に耳を傾けるべきであろう。


■英語学校大繁盛(バグバザール)/カトマンズ法科大学HP

【参照】
1) 英語帝国主義による英米文化の刷り込み
2) 英語帝国主義にひれ伏す公立学校
3) 英語帝国主義とネパール
4) 内田樹【複雑化の教育論(中編)】 イノベーションは、共同体のアーカイブから浮かび上がってくる 「母語のアーカイブに深く広くアクセスできる能力を高めてゆくこと、それが言語集団の知的生命にとって死活的に重要である」

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2017/06/12 at 16:13

京都の米軍基地(76):分断支配に向けて

分断支配(分断統治,分割支配,Divide and Rule, Devide and Conquer)は,西洋の古典的戦略であり,特にアングロサクソンはこの戦略に長けている。米軍の京丹後政策が,お得意のこの分断支配戦略の現地適用であることはいうまでもない。

関連情報は,ふんだんにある。といっても日本側はご主人様にお伺いを立てないと出せないので少ないが,支配者側の米軍はおうよう,気前がよい。のぞいてみると,面白い情報がいくらでも見つかる。

下掲はそのいくつか。米軍は,軍事的,政治的には言うまでもなく,文化的にも圧倒的な優位にあり,日本側は劣位。正誤,優劣の判断は,彼らが下す。この優劣関係の下では,現地住民は,米軍に近づけば近づくほど文化的,政治的,経済的な様々な利得にありつける。住民分断は,住民自身の自発的協力により進行していく。

米軍は,軍人・軍属やその家族に米語をしゃべらせ,飲み食いさせ,遊ばせるだけでも,住民分断支配を進めることができる。お見事!

[参照]内田樹・白井聡『日本戦後史論』(徳間書店2015年)。「米属国としての日本」の「対米従属」に関する刺激的で面白い対話。

▼京丹後米軍「フェスタ飛天(弥栄町8月1ー2日)」参加
150808a■米軍が「カンティーナ」(日米友好協会経営)を支援し参加(京丹後米軍FB,8月3日)

▼京丹後米軍「ドラゴンカヌーレース(久美浜町7月26日)」参加(京丹後米軍FB,7月26日)
150808b

▼沖縄米軍による成績評価(嘉手納町7月16日)
150808c■後援:米軍第18航空団,審査員:同航空団副司令官他(在日米軍FB,7月20日)

▼京丹後市日米友好協会
150808d■協会FB,7月10日

150808e■協会経営レストラン「カンティーナ」(同店FB,8月3日)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/08/08 at 16:24

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7)

谷川昌幸(C)
7.英語の世紀と国語の危機
ところが,著者によると,グローバル化,情報化,大衆社会化などにより,いまや英語が唯一の普遍語となり,それ以外の国語は現地語へと引き下げられ,国民文学は存亡の危機に立たされている。「英語の世紀」が始まったのである。
 
たとえば,著者も指摘するように,日本でも学術論文は英語で書くようになりつつある。日本史や日本文学史の論文ですら,英語で書かされる。世界の多くの人に読んでもらうという高尚な目的よりも,業績評価において英語論文は5点もらえるのに,日本語論文はせいぜい2点,ひどい場合は0点にしかならないからである。
 
また著者は,日本の大学が翻訳機関たることを止め始めたと指摘しているが,これも加速度的に進行している。優秀な大学,大学院ほど,入試や授業の英語化を進めている。英語授業がウリなのだ。
 
かくして日本語・日本文学の祝祭の時代は終わりを告げつつある。次の文章には,著者の悲壮な憂国の情が溢れている。少し長いが,力強い文章なので,引用しよう。
 
 今、その〈国語の祝祭〉の時代は終わりを告げた。
 一度火を知った人類が火を知らなかった人類とちがうよう、あるいは、一度文字を知った人類が文字を知らなかった人類とちがうよう、一度〈国語〉というものの存在を知った人類は、〈国語〉を知らなかった人類とはちがう。美的のみならず、知的、倫理的な重荷を負うものとして〈自分たちの言葉〉で読み書きするのを知った人類は、地球規模の〈普遍語〉が現れたといっても、即、深い愛着をもつに至った〈国語〉に、知的、倫理的、美的な重荷を負わせなくなることはないであろう。だが、〈普遍語〉と〈普遍語〉にあらざる言葉が同時に社会に流通し、しかもその〈普遍語〉がこれから勢いをつけていくのが感じられるとき、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれていってしまう。それは、春になれば花が咲き秋になれば実が稔るのにも似た、自然の動きに近い、ホモ・サピエンスとしての人間の宿命である。
 悪循環がほんとうにはじまるのは、〈叡智を求める人〉が、〈国語〉で書かかなくなるときではなく、〈国語〉を読まなくなるときからである。〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれてゆくとすれば、たとえ〈普遍語〉を書けない人でも、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉を読もうとするようになる。ふたたび強調するが、読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものであり、〈普遍語〉のような〈外の言葉〉を読むのは、書くのに比べてはるかに楽な行為である。すると、〈叡智を求める人〉は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます〈国語〉で書こうとは思わなくなる。その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、〈叡智を求める人〉はいよいよ〈国語〉で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、〈叡智を求める人〉にとって、英語以外の言葉は、〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく。〈叡智を求める人〉は、〈自分たちの言葉〉には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいしだいに求めなくなっていくのである。(p253-4)
 
まったくもって水村氏は愛国者(パトリオット)であり憂国の志士だ。漱石の苦悩を自らの苦悩として追体験したいと願っていられるようでさえある。しかし,その願いはもはや叶えられそうにない。
 
果たして漱石ほどの人物が、今、大学を飛び出して、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。今、日本語で小説を書いている人たちの仲間に入りたいと思うであろうか。いや、それ以前に、問わねぽならない問いがある。果たして漱石ほどの人物が、もしいたら今、日本語で書かれている小説を読もうなどと思うであろうか。/悲しいことに悪循環はとうにはじまり、日本で流通している〈文学〉は、すでに〈現地語〉文学の兆しを呈しているのではないだろうか。(p261)
 
*参照:内田樹「日本の外国文学が亡びるとき」 (http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
 
8.「英語の世紀」の英語教育と日本語教育
(1)英語帝国主義の鈍感と偽善
憂国の志士,水村氏は「英語の世紀」の到来に悲壮な闘いを挑まれている。「英語帝国主義」などといった俗な表現は使用されていないが,内容的には氏の主張は英語帝国主義批判に他ならない。本書で,この関係で私にとって特に印象的であったのは,氏のB・アンダーソン批判である。
 
著者は,アンダーソンが著書『想像の共同体』において国家を「想像の共同体」とし,それと「国語」との関係を解明したことを高く評価しつつも,「英語に関する考察がまったく欠落している」という点を厳しく批判する。 著者によれば,アンダーソンは2005年,早稲田大学で講演し,最後をこう締めくくったそうだ。
 
学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。/英語ではだめなのです。保証しますよ。(p116)
 
これに対し著者は,そんなことをいっても,それじゃと,インドネシア語やフィリピン語を学ぶ人がどれだけいるか,と批判する。アンダーソンは,多言語主義が実際には英語ができることを大前提にしていることに,まったく気づいていない。
 
アンダーソンには英語が<普遍語>であることの意味を十分に考える必然性がなかっただけではない。考えないまま、多言語主義の旗手となる必然性ももっていたのである。(p119)
 
この部分の注で,著者はアンダーソンもあとで普遍語としての英語の力に気づくようになったと補足しているが,しかし,英語圏の人々が英語の特権的地位に鈍感なことは,紛れもない事実だ。
 
弱小言語の大切さを最強普遍語の英語で述べ伝える。「英語ではだめなのです」と英語で言う。何たる鈍感,何たる偽善か! これぞ英語帝国主義の真骨頂だ。著者はこんな下品な表現はされていないが,ここでの批判は,まさにこのようなことであろう。
 
こうしたことは,グーグルの図書デジタル化計画についても認められる,と著者は指摘している。たしかに,各国語の図書のデジタル図書館化は可能であろうが,英語はそれらとはまったくレベルが異なる。そのことに英語圏の人々はまったく無自覚だ。
 
それらの[非英語]〈図書館〉のほとんどは、その言葉を〈自分たちの言葉〉とする人が出入りするだけなのである。/唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな〈普遍語〉となりつつある英語の〈図書館〉であり、その〈図書館〉だけが、英語をく外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする〈図書館〉なのである。/英語を〈母語〉とする書き手の底なしの無邪気さと鈍感さ。(p246)
 
まさにその通り。こうした英語母語者の無邪気と鈍感こそが,「英語の世紀」の最大の脅威であり,憂国の志士,水村氏と共に「日本語宣言」を高く掲げ,断固闘い抜かねばならないのである。
 
(2)英語エリート教育のすすめ
「英語の世紀」はもはや押しとどめられない。では,この時代において,どのような英語教育を行い,どのようにして日本語を守っていくか? これが水村氏のこれからの切実な課題となる。
 
「英語の世紀」の英語教育には,次の三つの方針が考えられる。
  Ⅰ <国語>を英語にしてしまう。
  Ⅱ 全国民をバイリンガルにする。
  Ⅲ 国民の一部をバイリンガルにする。
 
 ①英語エリート教育
結論から言うと,著者はⅢの英語エリート教育を採用するよう要求する。
 
Ⅲを選ばなくては、いつか、日本語は「亡びる」。(p278)
 
日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きでこと足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。・・・・/かれらは、英語を苦もなく読めるのは当然として、苦もなく話せなくてはならない。発音などは悪くともいいが――悪い発音で流通するのが〈普遍語〉の〈話し言葉〉の特徴である――交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない。それだけではない。読んで快楽を与えられるまでの、優れた英語を書ける人もいなくてはならない。優れた英語を書くことこそ、インターネットでプログが飛び交い、政治そのものが世界の無数の人たちの〈書き言葉〉で動かされるこれからの時代には、もっとも重要なことだからである。(p276-7)
 
この英語エリート教育に,私は賛成だ。国際交渉の場で堂々と意見が述べられないのは英語だけのせいとは思わないが,それでも英語圏の人々と同等以上に英語に通じた練達の英語プロ集団をもつことは,「英語の世紀」における日本国益のためにも,絶対に必要なことだ。戦車や戦艦などなくても,英語プロ軍団は不可欠だ。
 
②片言英語教育の愚劣
では,日本は実際にはどのような英語教育を行っているのか? Ⅰの英語を日本国語とする案は,かつて森有礼が唱えたことがあるが,いまではこれの支持者はほとんどいない。
 
いま目標とされているのは,Ⅱである。学校教育を通して,「国民総バイリンガル社会」を実現し,英語を(第二)公用語にしてしまおうというのだ。
 
しかし,著者は,そんなことは不可能だし必要でもないと批判する。この先,在日外国人が少々増えようと,日常会話は片言で用が足り,皆がバイリンガルになる必要はさらさらない。
 
ところが,日本の学校教育は,英語ができなければ乗り遅れるといった世間の英語強迫観念にも押され,不必要かつ不可能な「国民総バイリンガル社会」を目標としている。
 
小学校では,「片言でも通じる喜びを教える」ため,英語が導入された。見当外れも甚だしい(p287)。 インターネットの時代,もっとも必要になるのは,「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは,世界中で通用する<普遍語>を読む能力である(p289)。
 
③英語は選択科目に
「英語の世紀」に求められる英語プロ集団を育成するには,学校での英語は選択科目とすべきなのである。
 
(3)日本語教育
著者は,「英語の時代」の英語教育をこのように英語エリート教育に改めることにより,国語を守っていくことが可能になると考える。
 
もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、Ⅲという方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。(p284-5)
 
 だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリソガルになる必要などさらさらないという前提すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。しかも、そうすることによってのみしか、〈国語〉としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念として掲げることはできない。
 人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い〈書き言葉〉の伝統をもった日本語なのである。
 〈国語>こそ可能な限り格差をなくすべきなのである。 (p290)
 

Written by Tanigawa

2009/06/15 at 14:17

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