ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Posts Tagged ‘労働

囲い込まれた自然と文化:宝塚

宝塚に転居して一年,近隣の目もくらむ自然格差・文化格差に愕然たる思いだ。

宝塚は神戸・六甲山系の東山麓。かつては美しい里山・田園地帯であったのだろうが,容赦ない宅地開発で,いまや醜怪な現代都市に変貌している。

以前の比較的余裕のあった邸宅が相続で売却されると,跡地は分割され,3~4軒のマッチ箱住宅が建つ。あるいは,わがアパートのような,貧相な墓石型集合住宅となる。

このような新興住宅住民には,豊かな自然や文化は無縁だ。働き,食い,寝るだけ。貴族主義者のハンナ・アーレントは,「労働」を必然と消費に隷従する最下級の人間行為と喝破したが,私のような庶民アパート住民には,反論のしようもない。

かつて高度成長以前の日本社会では,そうではなかった。人々の多くは貧しかったが,下町でも農村でも時間はあふれ,様々な趣味や遊び,つまり多様な文化が栄えていた。美しい自然と多様な文化は,日本を訪れた外国人を痛く感動させた,日本古来の伝統であった。

いまの宝塚には,もはやそのような自然や文化はない。雑然とした必要と消費のための街に成り下がってしまった。

例外があるとすれば,それは金網と鉄格子で囲い込まれた広大なゴルフ場だけ。そこは別天地。花々が咲き乱れ,小鳥がさえずる美しい自然の中で,時間はゆったり流れ,優雅なゴルフ文化が享受されている。

現代資本主義は,富だけでなく,自然と文化をも囲い込む。現代型エンクロージャー! 貧しくとも,自然と時間と文化を享受できた頃の方が,庶民は幸福であったのではないだろうか。

130331a
■切れ切れながらも,わずかに残る里道の桜並木。先人の風流が忍ばれる。金網の向こうはゴルフ場。

130331d ■現代の囲い込み:ゴルフ場

130331b ■貧乏人立ち入り禁止

130331c ■貧乏人のひがみ根性

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/03/31 at 23:12

米作と手織り絨毯

1.米の収穫
キルティプールはいま、米の収穫の最盛期。周囲の水田で稲を刈り取り、人力脱穀、籾をザルに入れ選別し、風で藁くずを取り除き、集めた籾を袋に入れ、担いで丘の上まで運び上げる。そして自宅前の通路や寺院の広場にゴザを敷き、籾を広げ、乾燥させる。

すべて人力。籾袋を担ぎ上げる重労働は男性もやっているが、籾の乾燥はたいてい女性。陽が当たるように籾をかき混ぜ、寄ってくる雀や鳩や鶏を追い払う。のどかだが、これも忍耐のいる作業だ。

日本の米作も、高度成長以前は、これに近い作業だった。子供の頃、手伝ったので、その厳しさは実感としてよくわかる。ネパールでいただくご飯は、こうして作られたお米なのだ。一粒たりとも、徒やおろそかにしてはなるまい。

 ■寺院前広場で籾の乾燥

2.手織り絨毯
米作の一方、キルティプールでは、手織り絨毯や手織り布が作られている。道路沿いに、手織り絨毯作業場があったので、窓からのぞかせてもらった。

そこでは女性が3人、上下の縦糸に、柄を織り出す様々な色の横糸を手で組み込み、槌でたたいて固めていた。紙に描かれた図柄指示を見ながら、色糸を選び、縦糸に絡ませる。たいへんな根気と体力のいる作業だ。

私も、ネパール手織り絨毯を数枚持っている。それらも、女性たちのこうした重労働により製造されたものなのだ。これまでも大切に使ってきたが、さらに大切にしたい。

 ■土間の手織り織機

 ■手織り絨毯作業場(記事とは別の作業場)

3.身体労働と頭脳労働
それにしても、米にせよ絨毯にせよ、人々が自分の身体を動かし手間暇かけて作ったものの価格は、なぜこれほど安いのだろうか? ものの価値は労働により生み出されるのであれば、機械で作る工業製品など、もっと安くてよいはずだ。そもそも身体(肉体)労働が頭脳労働よりも評価が低いのは、なぜなのだろうか?

額に汗して作られる米や野菜、絨毯や布地よりも、ディスプレイを見ながらキーボードで打ち込む記号の方が高く評価される。これはやはり異常だ。そろそろ自然に帰らねば、人間は理性肥大により滅びてしまうだろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/06 at 19:44

カテゴリー: 社会, 経済

Tagged with , , ,

コピペ革命の「すばらしき新世界」

谷川昌幸(C)

ネットに掲載したら,無断転載は防止できない。RSS等も発達し,無断掲載と変わらない。コピー禁止など,まったく無意味だ。

これは,コピペ革命(コピー&ペースト革命,切り貼り革命)だ。情報プロレタリアが情報ブルジョアの情報独占支配を粉砕し,情報を万人のものたらしめつつある。これに対し,アメリカなど情報帝国主義勢力は,著作権を振りかざし,軍隊で脅し,コピペ革命を弾圧してきたが,古来,情報は万人のもの,正義は情報プロレタリアートの側にある。

つい先日までマオイスト中国はコピペ革命の旗手だったが,米日情報帝国の軍門にくだり,また自国内ブルジョア反動勢力の圧力に負け,反革命に寝返った。しかし,まだまだ,北朝鮮など,情報プロレタリア諸国がブルジョア物品をコピペしまくり,頑張っている。噂では,現状ではまだドル札,タバコ,酒,ブランド商品など,ローテク商品・情報のコピペであり,これらは軍隊の脅しによる弾圧で,封じ込めにある程度成功している。しかし,情報プロレタリア諸国や先進国情報プロレタリアがコピペ革命をネットに持ち込むのは時間の問題であり,そうなれば世界コピペ革命の成功は間違いない。

情報ブルジョアジーの反革命成功の見込みはまず無いが,最大限の抵抗はするだろう。たとえば――
・コピペを想定し,世論操作用情報だけ掲載。
・記事はさわりだけ。
・写真・絵画は画質を落とす。

つまり,掲載記事の質を落とし,情報プロレタリアートには,低俗情報しか見せないようにするのだ。そして,価値のある情報は,アクセス制限をかけ,高い情報料を払う者だけに見せるようにする。この方法は,たしかに一時的には有効かもしれないが,いったんネットに掲載した以上,その気になればコピペは可能であり,結局コピペ革命は阻止できない。人民情報解放戦争の勝利は間違いない。

この情報革命に対する反革命は,したがって,情報化そのものの原理的否定とならざるをえない。つまり,本物の価値ある情報の完全秘教化だ。情報は,口伝を原則とし,やむなく文章化,映像化したものは,厳重に管理された宝物庫の奥深くに保管する。そして,信心深い信者にのみ,高い拝観料を取り,コピペできない形で拝観させる。情報の密教化こそ,コピペ革命に抵抗しうる唯一の途だ。

こうして,本物の価値ある情報は,結局,大衆には縁遠いヒマラヤ霊山の奥深くに隠され,秘教化する。

そして,下々のおびただしいネット情報は,ガラクタと化す。コピペ革命でコピーされた情報は,情報創造者の手を離れ,それには修正など本人のコントロールは及ばなくなる。コピペ情報は,無主化し,無責任となる。どんな間違いにも,誰も責任を取らない。

むろん,カント大先生の頃であれば,公衆の美的判断が働き,「美しくない情報」は淘汰された。しかし,21世紀のコピペ革命は,そんな啓蒙の楽天主義を木っ端みじんに粉砕するだろう。本物は徹底的に秘教化され,大衆から隠される。大衆には,本物と偽物の区別さえつかない。氾濫する情報は,本物とも偽物とも区別されないまま,「たんにそこにある物」となってしまう。

H.アーレントがどこかで言っていたことをもじっていうなら,情報プロレタリアが世俗的必要のためにせっせと「労働」し,情報産品を生産し,そして「消費」する。それは,世界の中での永遠を意識した人間の「活動」でもなければ「作品」でもない。他の動物たちが,生存のために身体を働かせて食物を摂り,排泄し,そして死んでいくように,人間も,永遠性と関わる何かを創出する独立の人格性を奪われ,無主労働で情報を生産し,消費し,そして死んでいく。

これが,コピペ革命の「すばらしき新世界」だ。

Written by Tanigawa

2008/01/16 at 12:32

性器と貨幣の目的外使用禁止タブー

谷川昌幸(C)

これまた民俗学の常識であろうが,素人の蛇足を2,3本。

ネパールや日本の寺社などに性器や性交図が祭られているのは,いうまでもなく子孫繁栄祈願のために他ならない。性器は正当目的のため使用されており,それゆえ神聖なものとして祭られる。

ネパールのP寺院では,白昼堂々と女性たちが石造りの男性器を撫で礼拝する。かつては日本でも各地に同様の習俗があった。見方によれば,ずいぶん卑猥な光景だが,誰もこれを猥褻とはいわない。性器の目的外使用禁止タブーが利いているからだ。

では,なぜタブーで目的外使用を禁止しなければならないほどの快楽を性行為に与えたのか? それは神のみぞ知るだが,下司の勘ぐりでは,ときには生命を失うほどの苦痛に耐え子供を産ませるには,それ以上の快楽が必要だと神が考えたからだろう。

同じく貨幣(蓄積)が快楽なのも,それがなければ人間は働かないからにちがいない。したがって,働いた対価として貨幣を受け取り,それを他の必要な物品と交換しても,誰もそれを強欲とはいわない。貨幣は本来の目的のために使用されているからだ。

聖書もいうように,出産と労働は原罪に対する神罰であり,死に次ぐ人間の二大苦だ。そんな苦痛の対価だから,性の快楽も貨幣の快楽も尋常なものではない。とてもじゃないが,人智,人力で制御できはしない。そこで神のタブーとなったのだろう。

ところが人間は,神の目を盗んでこのタブーを破り,性を生殖から,貨幣を労働から切り離し,快楽のための目的それ自体として追求し始めた。当初は破戒を恥じ,性器を恥部,陰部などと呼び,性行為も隠れて行っていたし(祭事としての性行為は別),また金儲け,特に金(快楽)が金(快楽)を生む金貸しは賤しい行為とされていた(ここにも問題はあるが別の事柄)が,科学信仰が広まるにつて,性と貨幣のタブーは非科学的として否定され,性や貨幣の快楽を目的そのものとしてよいということになり,ついにはグローバルネット社会における性欲,金銭欲丸出しの,恥も外聞もないバーチャル・セックス,バーチャル・マネーとなってしまったのである。こんな不毛なセックス・バブル,マネー・バブルがいつまでも続くはずがない。

この末世の狂宴は,不思議なことに,原罪以前の性の楽園に似ている。アダムもイブも原罪以前はスッポンポンの丸裸だった。性行為があったかどうか分からないが,少なくとも彼らの性器は恥部でも陰部でもなかった。この堕落以前と末世の現在,理念化すればネパールと今の日本は,性器や性行為が公然と陳列されているという点では,同じだ。違いはただ一つ,性タブーの有無。ただそれだけだが,両者には天地の差がある。どちらがまとも(正気)か,幸福かといえば,それはいうまでもなくネパールの方だ。

日本は,少なくとも堕罪を自らにとどめ,ネパールに性タブーを犯させるようなことだけは,すべきではないだろう。

(多面的な性風俗やネパール文化をかなり強引に理念化しています。仮説に近いものなので,機会があれば,出来るだけ実証していきたいと思っています。)

Written by Tanigawa

2007/03/16 at 18:55

カテゴリー: 文化

Tagged with , , , , ,

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。