Posts Tagged ‘名前’
「夫婦別姓」最高裁判決を前に
最高裁大法廷は,12月16日午後,夫婦同姓を定めた民法750条の違憲訴訟に対する判決を下す。おそらく選択的夫婦別姓を認めるものとなるだろう。この問題については,すでにいくつか議論をした。以下,ご参照ください。(古い資料のためリンク切れなどがあります。ご了承ください)
【参照】 ⇒⇒⇒⇒「夫婦別姓」(谷川)[一部リンク切れ]
▼別姓パスポートを取ろう!
夫婦別姓パスポートを取得した。結婚改姓後、戸籍名パスポートを使用してきたが、国際化とともに不便さがつのり、通称名表記に切り替えた。 別姓パスポートは、正式の制度であり、取得手続きは簡単だ。通称名使用の事実を示す資料と、別姓パスポートの必要 …
▼別姓クレジットカードを作ろう!
通称名で生活していると、クレジットカードも通称名のものが必要になる。たとえば、通称名で会員登録をしている場合、会費支払いは通称名でないと、面倒だ。別姓クレジットカードを作り、普及させよう!
▼住基ネット―夫婦別姓で笑殺
住民基本台帳ネットワークの危険性は自明であり、多言を要しない。あのペンタゴンでさえハッカーに侵入された。総務庁の防衛力はペンタゴン以上か? また、公務員不祥事は枚挙にいとまがない。権力乱用はある、というのが、健全な政治の …
▼夫婦別姓パスポートはネパールで
某地獄耳情報によると,夫婦別姓パスポートは,旅行者でも在外大使館(在ネパール日本大使館など)で比較的簡単に取得できるそうだ。 日本国家は,明治以降,家制度を天皇制国家の基礎 …
▼別姓 ・公文書でも旧姓表記!
旧姓使用許可書(長崎大),長崎大学における旧姓使用(2002)
▼合憲判決(12月17日追加)
最高裁大法廷は12月16日,民法750条の夫婦同一姓規定を合憲と判断した。理由は,(1)姓の選択は当事者夫婦の自由であること,(2)夫婦同一姓は「社会的に定着」していること,(3)旧姓通称使用の広がりにより改姓の不利益を一定程度緩和できること。
この判決は,「夫婦同姓」規定を違憲とまでは言えないと判定し,選択的夫婦別姓制度にするか否かは国会で決定すべき事柄だという立場をとっている。最高裁のこれまでの憲法判断に対する慎重な,あるいは消極的な,いや臆病な姿勢からすれば,さもありなん,といったところ。
夫婦同一姓の法的強制に対しては,「市民的抵抗」を継続強化し,対抗すべきであろう。結婚改姓をした夫または妻が,別姓のパスポート,クレジットカード,ポイントカードなどを最大限保有し続け,また新たに作成し,そして生活の他のあらゆる場面においても別姓を最大限使用する。そうすることによって,夫婦同一姓を骨抜きにし,法的強制を事実上不可能としてしまうのだ。
夫婦別姓を市民的抵抗により「社会的に定着」させてしまう。そうすれば,臆病最高裁をまつまでもなく,国会が民法改正に向かうであろう。
谷川昌幸(C)
「実」より「名」,プラチャンダの連邦制提案
マオイストのプラチャンダ議長が10月15日,民族名結合の州名とするのであれば,10州以下の連邦制でもよい,と語った(Republica,15 Oct)。2013年11月の制憲議会選挙では,マオイストは12州を提案していた。
連邦制は,いうまでもなく新憲法制定への最大の懸案の一つ。連邦を構成する州の数が少なければ,州区画が大きくなり,民族/カーストごとの州をつくれず,相対的多数派の民族/カーストの力が大きくなる。州名も多数派民族/カーストの名前か,民族/カーストとは無関係の,たとえばコングレス提案の「東州」とか「西州」といった民族/カースト中立州名になるであろう。この場合,前者はいうまでもなく,後者であっても,現実政治においては多数派民族/カーストが実際にはヘゲモニーを握ることになる。
世間では,名前など符号にすぎないとか,「名」より「実」だなどいわれることも少なくないが,実際には「名」が「実」を左右する。夫婦同一姓強制への固執がそうだし,会社合併で「三菱東京UFJ」とか「三井住友」のように旧会社名継承にこだわるのも,「名」が「実」を規定すると信じられているからである。その意味では「名」は「実」より重要だ。
ネパール連邦制の議論において,プラチャンダが,州名を複数の民族/カーストの名を結合したものにするなら,州の数は10以下でもよいと述べ,コングレス党の6~7州案に大きく歩み寄ったのも,とりあえずは「実」を捨てるふりをして「名」を取る作戦だろう。被抑圧諸民族/カーストの権利実現をスローガンとして民主化運動を闘ってきたのだから,彼らのメンツ(名前)だけはつぶさないでやってくださいね,と情に訴える高等作戦。
もともとネパールでは,どの民族/カーストであれ,単独で独自の州をつくることは困難なのだから,結合名の州という提案は少数派民族/カーストにも受け入れられやすいものだ。そして,「名」を取れば,いずれ「実」をも取れるという希望も,少数派民族/カーストはもつことができるであろう。さすが策士,プラチャンダ!
しかし,果たして,それでうまくいくのであろうか? 結合名にするとして,では実際に,民族/カーストの名をどう結合するのか。プラチャンダは「キラト-ルンビニ-コシ州」といった例を出しているが,本当にこの程度で済むのだろうか?
日本には,「三井住友海上あいおい生命」といった長~い社名や「損保ジャパン日本興亜」といった珍妙な社名があるが,いくら長くても珍妙でも丸く収まっているのであれば,それはそれでよい。
しかし,ネパール連邦制は,もっとはるかにやっかいだ。西洋諸国が焚き付けた民族アイデンティティ政治は,民族/カースト名をいくつ連結してみても,とうてい丸く収まりそうにはない。パンドラの箱を開けたツケは,ここでも地元住民に付け回されることになるのであろう。
谷川昌幸(C)
ゴシップで売る朝日と佐野眞一氏の名前
1.「ハシシタ 奴の本性」の販促効果
今日,近所の小さな書店に行ったら,『週刊朝日』11月2日号が山積みされていて,けっこう売れていた。先週号に続き,「ハシシタ,奴の本性」の販促効果だ。
スキャンダルを暴露し,あるいは自らゴシップの種となり,売上増を狙うのは,週刊誌の常套手段だが,まさか朝日までもがその手を疑われる事態になろうとは想像もしなかった。
たしかに朝日は,本体の朝日新聞にしても,特に地方では販売が厳しいらしく,以前なら考えられないような怪しげな広告を掲載するようになっている。デジタル版も,有料購読者はおそらく期待以下であり,経営の足しにはなるまい。貧すれば鈍するだ。
「ハシシタ 奴の本性」が,意図的なゴッシプ販促狙いと疑わざるをえないのは,多くの識者が指摘しているように,このような低俗な見出しや品性下劣な文章が厳格をもって知られる朝日の記事チェックをやすやすと通ってしまったのが,あまりにも不自然だからだ。
私のようなジャーナリズム素人が見ても,これはマズイ,こんな人権侵害の反社会的記事は大幅修正か掲載中止とすべきだ,と反射的に感じたほどだ。
そんなひどい記事を朝日が掲載したのは,どう考えても,意図的としか思われない。朝日は,おそらくゴシップで売るきわもの経営に方向転換したのだろう。
■ゴシップとハウツーに向かう『週刊朝日』(11月2日号)。他に「自分の女性器,見たことある?」(62頁)など。
2.編集長の編集・掲載責任
『週刊朝日』11月2日号には,川畠大四編集長「おわびします」(18-19頁)が掲載されている。要点は,次の4つ。
(1)編集部がノンフィクション作家・佐野眞一氏に執筆を依頼したこと。
(2)不適切な表現があり,人権に著しく配慮を欠くものであったこと。
(3)編集・掲載責任は編集部にあること。
(4)この記事の企画立案・記事作成について,徹底的に検証すること。
3.執筆者としての佐野眞一氏
朝日が編集・掲載責任を明確にし,検証を進めるということなので,記事執筆者である「はず」の佐野眞一氏の作家としての責任も自ずと明らかとなるであろう。
しかし,それはそれ。私たちが知りたいのは,なぜ佐野氏ともあろう方が,このような文章を書かれ掲載を承認されたのか,ということだ。まさか,ゴシップで売ろうとする朝日に名前を利用されただけ,ということはあるまい。
そもそも,名前は単なる記号ではない。人の本質は,DNAや血脈にあるのではなく,名前にある。名前こそが自分の人格であり自分自身である。佐野氏の名前を冠した文章,「ハシシタ 奴の本性」は,佐野氏の人格の外化であり文章化である。川畠編集長も,「佐野眞一氏に執筆を依頼しました」(18頁)と明言している。
もしそうであるなら,執筆の目的や連載中止の理由を説明する責任は,編集部以上に佐野氏自身の方にある。にもかかわらず,「すべての対応は『週刊朝日』側に任せています」(朝日新聞11月20日)で済ますことは,作家としての沽券に関わることではあるまいか。
谷川昌幸(C)
第三の性,公認
5月開始のネパール国勢調査で,男女に加え「第三の性」が正式分類項目に加えられるという(International Daily News, 11 Jan)。ネパールでは,先進国では考えられないような速度で社会規範の弛緩が進み,最も強固と見られてきた男女区分も融解し,ついに「第三の性」公認となった。これについては,以下も参照。
PLAから学ぶ,ジェンダーフリーSDF
ネパール秘義政治とインド性治学
アイデンティティ政治実験の愚
パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2e)
カトマンズ性浄化: Amoral or Immoral
もともと男女間は,あれかこれかの二者択一ではなく,「男らしい男」から「女らしい女」まで,ゆるやかにアナログ変化するものである。それを「男」と「女」にデジタル区分してきたのは,その方が社会の認識・統治にとって便利だからに過ぎない。だから男女二分法をやめ,ネパールのように「男(第一の性)」「女(第二の性)」「いずれでもない(第三の性)」の三区分にしても,その限りでは何ら問題はないわけだ。
しかし,この性の三区分にも合理的根拠があるわけではない。消極的(negative)定義で満足しているうちはよいが,いずれ「第三の性」アイデンティティの積極的(positive)定義に進み,自分たち独自の権利の要求となることは避けられない。そうなったとき,今度は「第四の性」が問題となるであろう。
われわれは,物事に「名前」をつけることによって,それを他から区別し認識する。命名それ自体が他との区別ないし差別を意味しているのだ。
ネパールが「第三の性」を公認し国勢調査項目に入れたり,「第三の性」身分証明書(住民登録証)を発行したりすることは,たしかに人間の因習的定義付けからの解放であり自由の拡大となる。それはそうだが,しかしそれにもかかわらず,「そんなことをやって,どうなるの?」といった疑念が払拭しきれないのもまた事実である。
谷川昌幸(C)
コメントを投稿するにはログインしてください。