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RPP党則から「ヒンドゥー国家」と「君主制」を削除,選管
ネパール選挙管理委員会(EC)が3月17日,5月地方選のための政党登録にあたって,国民民主党(RPP)の党則から,同党のもっとも根本的な基本理念たる「ヒンドゥー国家」と「立憲君主制」の部分を削除した。報道からは,具体的な削除文言や削除手続きは分からないが,RPPは長い歴史を持ち,現在議会第4党,そのれっきとした公党の党則を,選管がいわば「検閲」したのだ。大胆な,恐るべき権力行使!
選管のナレンドラ・ダハール委員長は,RPP党則からの「ヒンドゥー国家」と「立憲君主制」の文言削除につき,それらは憲法の定める「世俗国家」と「共和制」に反しているし,また憲法は政党が国民間の憎悪を煽ったり国家の安全を脅かしたりすることを禁じてもいるから,同党党則からそれらの文言を削除したのだと説明している(*4)。
たしかに,ネパール憲法は「第29編 政党に関する規定」において,次のように定めている(関係部分要旨)。
第269条 政党の結成,登録および活動
(2)政党は,選管に「政党名」を登録する。
(3)政党は,党則(党規約),会計報告書,およびその他法律に定める文書を選管に提出する。
(4)政党登録の要件。(a)政党の党則や党規約は民主的でなければならない。
(5)政党の名称,目的,シンボルおよび旗が,この国の宗教的ないし共同体的統一を損なうか,または対立をもたらす恐れがあるときは,その政党は登録されない。
これらの憲法規定を見ると,もし選管が「ヒンドゥー国家」と「立憲君主制」の党則記載を理由としてRPPの政党登録を拒否したとしても,それには全く根拠がないというわけでもなさそうだ。しかしながら,報道によれば,今回,選管は政党登録拒否ではなく,RPP党則の中のそれらの文言を一方的に削除したらしい。
RPPは,この選管のやり方に猛反発,選管の行為を違憲として最高裁に訴える一方,選管本部前に押しかけ激しい抗議活動を展開した。
RPPのカマル・タパ党首は,党則からの「ヒンドゥー国家」と「立憲君主制」の削除は党から魂を抜くようなものだと述べ,もしこのような党則削除が許されるのなら,UML,マオイストなど多くの共産党系諸政党の党則からも憲法原理に反する「共産主義」の規定を削除すべきだが,選管にそんなことができるのか,と皮肉を込め鋭く反撃している。(*5)
また,モハン・シュレスタRPP広報委員も,こう批判している。「選管には政治問題を論評する権利はない。憲法は政党が政策を訴えることを禁じてはいない。憲法は表現の自由を保障している。」もし「ヒンドゥー国家」と「立憲君主制」を訴えることができないのなら,RPPが選挙に出ることは無意味だ。「選管は,地方選挙の無意味化を企んでいるのではないか。」(*4)
RPPのこのような選管批判は,もっともである。「ヒンドゥー国家」や「立憲君主制」が国益にかなうと信じる政党が,それらを党の政策理念として掲げて選挙を戦い,主権者たる国民の審判を仰ぐことは,政治的行為であり,政党に当然許されてしかるべきである。民主主義は国家理念をめぐる自由な政治闘争を認めている。もしネパール憲法がそのような政治的自由をすら許容せず,異論の行政的権力的排除を求めているのであれば,憲法のそのような規定,あるいは憲法規定のそのような解釈は,民主的とはいえないであろう。
*1 “EC removes ‘Hindu state’, ‘monarchy’ from RPP’s statute,” Republica, March 17, 2017
*2 “RPP to move SC against EC’s decision,” Kathmandu Post, Mar 18, 2017
*3 “EC’s decision may affect local poll: DPM Thapa,” Kathmandu Post,Mar 18, 2017
*4 “EC removes Hindu state, monarchy from RPP’s statute,” The Himalayan Times, March 18, 2017
*5 “Election Commission robbed us of our soul, says Kamal Thapa,” The Himalayan Times , March 18, 2017
*6 “RPP to seek “constitutional remedy” to protect charter RPP to seek “constitutional remedy” to protect charter,” The Himalayan Times, March 18, 2017
*7 “Police fire tear gas during RPP protest,” Kathmandu Post, Mar 20, 2017
*8 “DPM Thapa stages sit-in outside EC’s office, Thapa’s participation comes after police used force to clear RPP protesters,” Kathmandu Post, Mar 20, 2017
谷川昌幸(C)
ガルトゥングの王制擁護論
1.ガルトゥングの訪ネ前インタビュー
ヨハン・ガルトゥングといえば,「積極的平和」や「トランセンド法」で知られる平和学の世界的権威だ。そのガルトゥングが,来年1月のネパール訪問をまえにインタビューに応じ,いくつか興味深い指摘をした。インタビューは下記ネパリタイムズに掲載。
▼Johan Galtung,Interview, “If you want peace, abolish hunger,” Nepali Times, #626, 12-18 Oct, 2012
2.王制の正統性
第一に注目すべきは,王制(君主制)についてだ。ガルトゥングの祖国ノルウェーは王国であり,立憲君主制・議院内閣制をとっている。ネパールについても,ガルトゥングは,このような立憲君主制の方が適切だと考えているようだ。
「ガルトゥング:王制(君主制)についていうならば,正しい(正統性がある Legitimate)か否かは,ひとえに王制の在り方による。王制だから正しくないとは思わない。専制(despotism)こそが不正なのだ。国王個々人と王制そのものとは区別されなければならない。
ネパール人の多くは,王制そのものは支持していたと思われる。立憲君主制は,王制の象徴性と憲法による規制を両立させるものだ。マオイスト紛争期に,私はカトマンズのある警察署長と話したことがある。彼が言うには,マオイストの40項目要求のうちの39項目には賛成であり,したがってマオイストの断固取締には躊躇するほどであったが,それでも他の1項目,王制廃止には賛成できなかった。
マオイストの王制廃止要求は,一般の人々の思いからは外れるものであったと考えられる。」(Ibid)
ここでガルトゥングは,まず第一に,制度と人を区別せよ,といっている。これは常識であり,もし区別しないなら,ヒトラーを生み出した民主制は悪ということになってしまう。王制についても,ある国王が悪政を行っても,だからといって直ちに王制そのものが悪となるわけではない。王制と専制は峻別されなければならないということである。
ここでガルトゥングは,ネパールの王制復古を積極的に唱えているわけではないが,自国ノルウェーが王国であることもあり,立憲君主制には彼は好意的であるとみてよいであろう。
3.連邦制と国家統一
連邦制については,ガルトゥングは強く支持しているが,その根拠は,説明(ネパリタイムズ記事)の限りでは不明確だ。
ガルトゥングによれば,連邦制は,権力や資源を豊かなところから貧しいところに移転させるが,これが直ちに国家分裂をもたらすわけではない。各州は,資源自治権や言語教育決定権などを保有しつつも,「国家」や「国民」の一部として行動する。州は地理的区分だが,どの州も他州の権利を侵害できず,したがってその意味では,一つの国の部分として行動せざるをえない。だから,分裂とはならない。
このガルトゥングの連邦制擁護論は,記事が正確だとすれば,論拠薄弱であり,説得力がない。彼自身のこのインタビューにおける他の主張とも整合性がない。西洋諸国には,多民族途上国の連邦制への思い入れがあるのではないだろうか?
4.自由より食糧
これはインタビュータイトル(If you want peace, abolish hunger)となっている議論である。この部分を見ても,ガルトゥングが想像以上に保守的な考えをもっていることがよくわかる。
たとえば,ネパール暫定憲法は最高裁解釈では同性婚を認めているが,ガルトゥングによれば,そうした権利は西洋諸国では重要となっているが,ネパールではまだ最優先課題の一つであるわけではない。「ネパール人にとっては,日々の食事への権利の方がもっと重要であろう。一言でいえば,ネパール憲法は,もっと守備範囲を限定した憲法であるべきだ。」
このガルトゥングの忠告は,わからないわけではない。メシもまともに食えないのに,同性婚のような,最先端の権利をあれもこれもと追いかけ回してどうなる,憲法は身の丈相応の簡素なものにせよ,という忠告である。
それはそうだ。私もそう思うし,幾度もその趣旨の発言をしてきた。途上国では,自由権,社会権,参政権のいずれも満足には保障されていない。一気に,それらすべてを実現することは到底不可能なので,当然,優先順位をつけざるをえない。もしそうだとすると,同性婚などのような最先端の権利よりも,国家としていま努力を傾注すべきは飢餓救済などの基本的権利の保障だ,という議論は十分になりたつ。これは合理的,現実的な判断だ。
しかし,その一方,これは一種の途上国差別であり,無意識の優越感の現れといってもよいであろう。「まともにメシも食えず学校へも行けないのにケイタイをほしがってどうする」といった,上から目線の「おごり」である。
食糧にも事欠き,電気・水道・道路も普及していない途上国に行って,最先端の法・政治制度や最新の工業製品を宣伝して回るのはいかがなものかと思うが,その一方,現地の人々がそうした最先端・最新の制度や製品を求めることについては,それは彼ら自身の選択であり,見守るよりほかはあるまい。日本人だって,幕末維新の頃は,ずいぶん分不相応な新制度・新製品に飛びついていた。自戒したい。
谷川昌幸(C)
王制復古と人民の自由
ギャネンドラ元国王は,最近のインタビューで,立憲君主あるいは儀礼君主として復位する用意があると語った(BBC-Nepal, 6 Jul)。
私は,王制が本質的にイケナイものだとは思わない。われらが哲人カントは,民主制は本質的に専制的であるのに対し,君主制は「法の支配」と自由・平等が実現される共和的な体制だと喝破した。事実,カントの伝統に棹さす西欧には君主国が多い。イギリス,ノルウェー,スウェーデン,デンマーク,ベルギーなど,みな君主国だ。それなのに,それらの国々の開発機関やNGO,あるいは王立アカデミーなどの学者先生方は,競ってネパールに共和制を押しつける。そんな暇があったら,自国の王制打倒にまず立ち上がるべきだろう。
■カントにおける共和制と民主制 2008/03/24
というわけで,ネパールが王制復古してイケナイわけはないが,復位されるのがギャネンドラ元国王であったりパラス元皇太子であっては,少々マズイであろう。お二人は,革命前,権力政治にあまりにも深く関与されすぎた。王制復古となるのであれば,元国王のお孫さんなどの方が国王にはより適任であろう。
巷でも,王制復古論が元気になってきた。カマル・タパRPP議長は,制憲議会消滅により自ずと制憲議会選挙前の王制に戻ったと主張している(Telegraph,8 Jul)。2008年4月10日以前の体制だ。理屈としては,そうもいえなくもない。
ただ,ここで注意すべきは,王制復古を目指すとしても,それは旧体制の半封建的既得権益の復活となってはならないということ。王党派の中にはこれを狙っている人々も少なくないであろうが,これは絶対に阻止しなければならない。王制復古は,もしそれを目指すなら,少なくともすでに獲得された自由・人権体制の上に,それを安定させるための飾りとして国王を置く,という形にすべきだろう。
御輿には,やはり神様(らしきもの)が載っていないと,様にならない。
【参考】
THE RATIONALE FOR THE KINGSHIP IN NEPAL (1996)
MASAYUKI TANIGAWA
1. Nepalese King and Japanese Emperor
The Nepalese monarchical system is an.exceptional theme being discussed by Japanese constitutional lawyers who had.paid.little attention.to the Nepalese constitution.and.politics so far. Since the promulgation.of the Japanese constitution.in 1946, the Emperor has been.one of the biggest constitutional puzzles among Japanese intellectuals. They have studied.the Emperor by using comparative as well as historical and.theoretical methods. The Emperor has been.compared with.the Kings (Queens) of Britain,Belgium, Norway and.so on. The Nepalese King has been.among them. Takeshi Ebara allotted.one chapter to the Nepalese monarchy in.his voluminous book, AComparative Constitutional Study on.Monarchy (1969). Many other studies on.the Emperor also refer to the Nepalese King. For Japanese scholars, the monarchy is the most interesting part of the Nepalese constitution.
For Nepalese scholars too, the Nepalese monarchy is undoubtedly regarded.as one of the most important political institutions enshrined.in.the constitution. Nepalese politics is much.influenced.by interpretations of the King’s function. If He has the right to nominate the prime minister, the Houses (the House of Representatives and.the National Assembly) will be weaker. If not, theywill be stronger and.He is likely to become a mere symbol. The King is still a big factor in.Nepalese politics.
Here, I would.like to verify the Nepalese King’s functions according to the constitution.of 1990, compare them with.the Japanese Emperor’s and finally point out the reason.for the King in.Nepal. Although.both.the King and.the Emperor must be studied.from a wider cultural point of view, I
cannot help.limiting the study to a comparative study of their functions sanctioned.by the respective written.constitutions.
谷川昌幸(C)
カントにおける共和制と民主制
谷川昌幸(C)
1.超明快訳『永遠平和のために』
カントの『永遠平和のために』は平和論の古典であり,むろん幾度も読んだが,新訳(中山元訳,光文社)が評判なので,改めて読んでみた。ビックリ仰天,超明快。もともと『永遠平和』は『純粋理性批判』などの抽象的著作よりも分かりやすかったが,そこは哲学者中の大哲学者カントのこと,難解なところが多々あった。新訳は,そういったところも平易な表現になっており,これなら高校生にも分かる。
もともとphilosophyは日常生活と不可分のものなのに,それを「哲学」などと有り難そうな深遠な訳語にしたのが誤りだった。もう定着したので仕方ないが,この新訳を読むと,カントはごく身近な思慮深い隣人のような気がする。分かりすぎにも問題はあろうが,本来,哲学はこのように普通に読んでとりあえずは理解できるもののはずである。
この『永遠平和』の課題は,世界平和は国家体制が共和制であり,そうした共和国が集まって国家連合をつくり,国際法と世界市民法を守ることにより実現される,という命題の論証である。
2.国家体制の分類
カントによれば,平和のためには国家体制は共和制でなければならない。共和制は,次のように分類される国家体制の1つである(p.170-171)。
A.支配の形式による区別(支配者の数)
(1)君主制--1人
(2)貴族制--数人
(3)民主制--国家構成員すべて
B.統治の形式による区別
(1)共和制
(2)専制
この体制分類は,古代ギリシャ以来のものであり,カントの頃もいわば「常識」であった。その「常識」が市民革命の中で動揺しかけてきたので,カントが常識を整理し,人々に再確認を促したわけだ。つまり,「支配の形式」と「統治の形式」は,別のカテゴリーであり,たとえば君主制か民主制かという問いと,共和制か専制かという問いは,別のものであるということである。この「常識」は,体制選択直前のネパールでも,今一度,初心に戻り,再確認すべきだろう。
(補足)法の分類--(1)国民法(市民法) (2)国際法(万民法) (3)世界市民法
3.共和制
共和制の構成条件は,次の3つである。
(1)社会構成員の自由
(2)社会構成員が唯一の共同の法に従う
(3)社会構成員の市民としての平等
この共和制は,統治形式としては次のように規定され,専制とは明確に区別される。
「共和政体とは行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり,専制政体とは,国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。」(p.171)
これは権力を「立法権」と「執行権」に分けたJ.ロックの権力分立論の流れに属する。立法権と執行権(行政権)が分離されるから,法が執行権(行政権)と人民自身をも拘束することになり,共和制が実現される。法の支配と,市民の自由・平等である。
4.代議制
共和制は,代議制をとる。「代議的でないすべての統治形式は,ほんらいまともでない形式である。というのは立法者が同じ人格において,同時にその意思の執行者となりうるからである。」(p.171)
5.共和制と民主制の矛盾
代議制をとる共和制は,君主制または貴族制とは結びつきうるが,民主制とは結びつかない。
「国家権力にかかわる人格の数,すなわち支配者の数が少なければ少ないほど,そして支配者が代表する国民の数が多ければ多いほど,国家体制はそれだけ共和的な体制の可能性に近づくのであり,漸進的な改革をつうじて,いずれは共和的な体制にまで高まることが期待できるのである。このためこの唯一法的に完全な体制に到達する可能性がもっとも高いのは君主制であり,貴族制では実現が困難になり,民主制では,暴力による革命なしでは,実現不可能なのである。」(p.172)
このように,カントは,古代ギリシャ以来の正統政治哲学にしたがい,君主制を最善の政体としている。最後の部分は,民主制であっても暴力革命により共和制の実現は可能としているようでもあり,解釈が難しい。おそらく,フランス革命を想定しているのだろうが,全体として見ると,カントが「君主制+共和制」をもって最善の国家体制としていることは明白だ。
6.専制としての民主制
民主制は,カントにおいて,最悪の政体である。
「三つの国家体制のうちで、民主制は語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のもとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。」(p.171)
カントのいう民主制は直接民主制であり,この民主制が必然的に専制となるのだ。法をつくる者と法を執行する者が同一の「人民」だからである。 このような民主制を専制とする考え方は,19世紀初頃までの西洋では常識であり,民主主義は無知な民衆の専制として恐れられていた。
こうした反民主主義思想は,19世紀半に代議制民主主義が優勢となるにつれ後退し,20世紀にはいると,民主制こそが最善の政体とされ,いまやそれは疑う余地のない正義,いわばタブーのごときものとなっている。
しかし,民主主義の伝統の長い欧米では,現在も,カントにも継承されている反民主主義思想が根強く残っており,つねに民主制を批判し牽制している。原理的に,人民主権は立法権・行政権を主権者たる「人民」が握るものであり,人民主権が主張されればされるほど,二権は融合していく。社会主義がその好例だ。こうした人民主権論の必然的専制化の傾向に対し,カントの共和制論は,鋭い原理的批判としての意義を今なおもっている。
ネパールの民主主義は,手放しの人民主権論(loktantra)として展開されており,原理的な批判を受けていない。事実としての反民主主義勢力は存在するが,彼らはまだほとんど理論武装しておらず,旧態依然であり,人民主権との原理的対決は到底無理である。
欧米保守主義がフランス革命(人民主権)に対する対抗イデオロギーとして成立したように,ネパールでも近代保守主義がいまの民主革命(人民権力)に対する対抗イデオロギーとして出現するかもしれない。それは,社会が自由であるためには必要不可欠の条件なのである。
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