ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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平静に見える市内、燃料不足でも

石油、ガスなど、燃料不足は深刻そうだ。昨日、ジャタの食堂でモモと紅茶をたのんだら、燃料が無いので出来ないといわれ、コーラとパンを勧められた。バス、とりわけ郊外路線では、前回紹介したように、車内に入りきれない乗客が大勢、屋根の上に乗っている。雨期でないのが、せめてもの救いだ。

しかし、そうした状況でも、人びとはいたって平静だ。少なくとも、外からは、そう見える。日本ならパニックになり社会不安、政治不安は避けられそうにないのに、ネパールではそうはならない。人びとには、まだ危機に対する伝統的な対処能力が残っているのだろう。

日本では、石油危機のとき、トイレットペーパーが無くなるというウワサで、都市住民がパニックになり、買い占めに走った。トイレットペーパーなんかなくても、どうということはないのに、近現代的な市民は、そうした柔軟な思考ができない。環境変化に極めて弱い。現代の専制や独裁は、そうしたパニック心理から生まれる。

イザとなれば、食うことくらい何とかなるさ、といった柔軟な思考が、いま求められている。ネパールから学ぶことは少なくない。

151121c■ラトナ公園・警察署前

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/11/21 at 17:35

本格予算案、政府が強行準備

日本と同様、ネパールでも予算を巡り、政治が行き詰まり、先が見えなくなってきた。ekantipur(31 Oct)記事は、次のように述べている。

ネパールでは、予算を審議・可決すべき議会が任期切れで消滅してしまい、現在は無議会政治。次善の策たる全党合意もほとんど絶望的。

この状況で3ヶ月の現行暫定予算の期限が、11月15日に切れてしまう。そこで、切羽詰まったマオイスト主導政府は、政府が本格予算案を作り、ヤダブ大統領の認証をえて、これを11月16日から施行するつもりだという。

アグニ・サプコタUCPN報道担当:「10月31日予定の諸党幹部会議で合意が得られなくても、政府は本格予算を準備し大統領に提出する予定だ。」

マオイスト政府は、この政府予算案を大統領は認証せざるをえない、と考えている。たしかに、通常であれば、その通りだが、今回は議会可決がない。全党合意もない。その意味では、大統領には予算案認証拒否の正当な理由があるといえよう。

もし大統領がコングレス党やUMLの圧力により政府予算案を拒否すると、金欠により政府崩壊、あるいは大統領によるバブラム・バタライ首相解任という事態になる。いずれも、憲法上やってやれないことはないが、もしこの大統領「大権」を行使すれば、大統領は1990年憲法の国王に限りなく近づく。大統領の独裁である。

この可能性にたいし、サプコタUCPN報道担当は、「もしそのような事態になれば、人民に訴え人民による問題解決を目指す」と警告している。「人民運動」再開である。

マオイスト政府には、切実な事情がある。政府は、UNMIN登録後の資格非認定戦闘員に対し、一人当たり20万ルピーを給付する約束をしている。マーティン元UNMIN代表*によれば、約31000人が戦闘員登録申請し、その約40%が審査により無資格とされ、最終的に19602人が人民解放軍戦闘員として認定された。これ以外の、給付金20万ルピーの対象たる非認定戦闘員がどの範囲か、定かではないが、計算上、相当額になることは間違いない。本格予算が通らなければ、到底支給できない。(なお、人民解放軍正規除隊者13922人には、一人当たり50~80万ルピーの給付金の支払いがほぼ完了している。)[資格非認定戦闘員は約4000人。Republica, 5 Nov]

* Martin, Ian,”The United Nations and Support to Nepal’s Peace Process: The Role of the UN Mission in Nepal,” Eisiedel, von S., D.M. Malone & S. Pradhan ed., Nepal in Transition, Cambridge UP, 2012, pp.201-231.

アメリカ独立革命が同意なき課税への抵抗から始まったように、予算作成・課税徴収・予算執行は、民主主義国家の基礎である。もし議会なし・全党合意なしで予算案が通るなら、どう言い訳をするにせよ、それは独裁政治である。民主主義の形骸を持つだけ、国王独裁よりたちが悪い。

予算の面でも、ネパール政治と日本政治は近接してきた。もっとも、当面は、天皇制廃止とはならないだろうが。


  ■ラトナ公園バス停前

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/02 at 13:11

大統領の専制化:選挙関連2法署名拒否

ヤダブ大統領(コングレス党)が,バブラム内閣提出の制憲議会選挙関連2法への署名・公布を拒否した(Republica, 18 Aug)。根拠は,暫定憲法第88条(1)。

暫定憲法第88条 (1)立法議会開会中を除き,大統領は,緊急対応が必要と考える場合は,この憲法の諸規定に反しない限りにおいて,内閣の助言に基づき,必要な法令(ordinance)を公布することができる。

あれあれ?! 憲法では、大統領は内閣の助言に基づき行為するはずなのに,ヤダブ大統領は,その憲法規定を根拠として,バブラム内閣提出の法律(ordinance)への署名を拒否した。議院内閣制において,そんなことがあり得るのか?

ヤダブ大統領の署名拒否理由は,11月22日予定の制憲議会選挙は事実上困難であり,また諸政党の合意もなく,大統領として「satisfy」できないから。つまり,署名・公布の諸条件が整っていないということだろう。

しかし,バブラム首相は,第88条(1)に定める「助言」をしたのであり,にもかかわらず大統領はそれに「満足」しないという。いったい,これはどういうことか? ヤダブ大統領にそのような権限があるのだろうか?

これは,日本の天皇に置き換えてみるとよく分かる。もし天皇が,内閣の「助言と承認」に満足(satisfy)せず,法律への署名・押印(御名御璽)を拒否したら,どうなるか? もし天皇がそんなことをしたら,日本の国制は根底から転覆する。天皇には,内閣の「助言と承認」に反する自由はない。何を助言されようが,たとえ天皇制廃止法であれ,機械的に署名・押印するのみだ。

ネパール大統領は日本天皇とは異なり,相当程度の政治的権限を認められている。しかし,法令署名・公布権(88条)をはじめ,非常事態権限(143条),国軍指揮権(144条),憲法施行障害除去権(158条)など,実質的な国政に関することについてはすべて「内閣の助言に基づき」権限を行使することが明記されている。それにもかかわらず,内閣の助言を無視し,選挙関連2法への署名を拒否するとは,いったい全体,この国の法治主義はどうなっているのだろう。リーガルマインドはあるのか?

このように大統領が内閣の助言を無視して行動し始めると,それは国王専制よりもはるかに危険な事態になる恐れがある。王制は歴史的に成熟した制度であり,国王には「伝統」の枠があるのに対し,大統領には,現実の力関係を別にすれば,法以外にその手を縛るものはない。その大統領が,もし法を無視し権力行使を始めたら,歯止めがきかなくなってしまう。

すでにヤダブ大統領は,制憲議会選挙には全国民的合意が必要であり,バブラム首相には選挙実施は不可能だ,と発言した。あるいは,統一共産党のオーリ元副首相によれば,ヤダブ大統領はすでにバブラム首相を暫定(caretaker)首相と認定しており,したがって大統領はバブラム首相を罷免できるし,また罷免すべきであるという。

首相(内閣)の助言に基づき行為するはずの大統領が,「満足(satisfy)」できないという理由で,首相を罷免する。そんなことがあってよいのだろうか? もし天皇が,「あいつは気にくわない」といって,野田首相を罷免したら,いったいどうなるのか?

こうしたヤダブ大統領の専制化に対し,マオイストは猛反発している。ディベンドラ・ポウデル首相顧問は,「大統領には署名・公布以外の選択肢はない」のであり,署名拒否は反民主的・反憲法的だと述べ,大統領を非難した。プラチャンダ議長も,署名拒否は混乱をもたらすと述べ,大統領を厳しく批判した。

選挙関連2法をいま成立させることが政治的に賢明か否かは,どちらとも言いがたい。しかし,それは政治判断であり,儀式的大統領の仕事ではない。コングレス党や統一共産党は,大統領の違憲の政治的利用をやめるべきだ。もし選挙関連2法を違憲と考えるのなら,政治闘争により阻止するか,もしくは最高裁に訴え阻止する努力をすべきである。それが法治主義であり,憲政の常道だ。

* Republica,18 Aug; nepalnews.com, 18 Aug; ekantipur, 18-19 Aug; Hindustan Times, 18 Aug.

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/08/20 at 10:33

大統領の政治化助長

コングレス,統一共産党などが,ヤダブ大統領に対し,11月22日総選挙経費70億ルピーを認めるべきではない,と圧力をかけている。これは,予算の当否よりも,そのような要求の仕方そのものの方が問題である。

暫定憲法は,議院内閣制であり,「行政権は内閣にある」(第37条)。大統領は議会により任免され,内閣または議会議長等の助言により,憲法で定められた儀式的・形式的行為のみを行う。大統領は,国政に関する実質的な決定権限は一切持たない。大統領は,1990年憲法の定める国王の儀式的・形式的行為を継承しているのである。

ところが,その大統領に対し,NCやUMLは,首相や内閣の予算に関する助言を拒否せよ,と要求している。憲法で認められていない政治的権限を行使せよと迫っているのだ。

これは,実は,諸政党が1990年以降,国王に対して繰り返し行ってきたことだ。1990年憲法は日本国憲法よりはるかによくできた憲法であった。ビレンドラ国王も,少なくとも1990年以降は,憲法を遵守し行動しようと努力していた。

ところが,民主化により権力を得た諸政党は十分な統治能力をもたず,自党に都合が悪くなると,すぐ国王に直訴し国王介入により政治を有利に動かそうとした。国民民主党だけでなく,コングレス党も共産党も,みな同じこと,何かあると王宮に参内し,「ご聖断」を仰いだ。

それでも,ビレンドラ国王は最大限憲法を遵守し国王介入を抑制したが,ギャネンドラ国王になると,そのような抑制は一気に取り払われ,国王親政へと一気に突き進んだ。ギャネンドラ専制は,国王というよりは,国王の政治的利用を繰り返してきた諸政党の責任である。

それと同じことを,またNC,UMLなど諸政党が大統領を使ってやり始めた。暫定憲法で儀式的大統領を決めておきながら,その大統領の「ご聖断」を仰ぎ,政治介入を要求する。民主国家の政党にあるまじき,幼児的行為だ。専制は権限を越えた権力行使。それを,諸政党が大統領にやらせようとしているのだ。

大統領の民主専制は,国王専制よりもはるかに恐ろしいことを忘れてはならないだろう。

【参照】ネパール王制と天皇制:苅部直「新・皇室制度論」をめぐって

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/13 at 14:47

初代大統領はプラチャンダ?

新憲法玉虫合意がさっそく本領を発揮、大統領制か議院内閣制かでもめ始めた。大統領優位がマオイスト、首相優位がNC,UML。

とくにプラチャンダ議長は、確信的大統領制論者で、16日にも、大統領制要求を明言した。選挙となれば、一番人気はプラチャンダであり、初代大統領としてネパールを統治し、偉大な建国の父として歴史に名声を残すことになるからだ。

さきの4党合意によれば、大統領は国民直接選挙であり、この場合、正統性は議会選出の首相よりも大統領の方が上になる。通常は首相が統治していても、例外状況になれば(ネパールでは例外状況が常態だが)、大統領が決断する。イザというときの大統領の独裁。これは理の当然だ。

プラチャンダは、直感的に、この政治の本質を見抜き、「国民選出大統領は首相以上の行政権を行使する」と、はばかることなく公言したのだ(nepalnews.com, May16)。やはり、われらがプラチャンダは偉い。

マオイスト=プラチャンダが要求する大統領権限は、防衛、外交、連邦・州関係調整。ここからは、非常事態権限、軍隊指揮権、大使任免権などが導き出され、また首相任免権や連邦議会解散権にも及ぶかもしれない。「国家元首(大統領)」と「政府元首(首相)」であれば、例外状況では、国家元首上位は当然であろう。

これに対し、NCやUMLは大統領にそのような権限を与えると反民主的な統治になると批判するが、民主主義はもともと「人民の支配」「人民独裁」であり、人民直接選挙大統領の独裁こそが、もっとも民主的な統治なのだ。

しかし、人民直接選挙大統領に専制化のおそれがないかといえば、そんなことはない。プラチャンダがいかに偉大であれ、いかに愛すべきネアカ政治家であれ、プラチャンダ大統領独裁は一夜にして大統領専制と化しうる。民主主義は、原理的に、これを防止できない。

NCやUMLは、民主主義に民主主義の原理で対抗しようとしているが、そんなことは理論的にも政治的にも無理である。彼らが実際に依拠しているのは、非民主主義的な諸原理である。まったく無自覚であるが、彼らの理屈は保守主義であり貴族主義であり、ときには封建主義である。

いや、国政権限の全くない、国家・国民の統合の象徴としての大統領は、限りなく王制に近い。NCやUMLは、実際には、象徴(儀式)君主制主義者なのだ。これは、恥ずべきことではない。非民主主義的諸原理に依拠しながら、民主主義者と錯覚していることこそが、問題なのだ。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/05/17 at 11:54

カテゴリー: 議会, 憲法, 政党, 民主主義

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カントにおける共和制と民主制

谷川昌幸(C)

1.超明快訳『永遠平和のために』
カントの『永遠平和のために』は平和論の古典であり,むろん幾度も読んだが,新訳(中山元訳,光文社)が評判なので,改めて読んでみた。ビックリ仰天,超明快。もともと『永遠平和』は『純粋理性批判』などの抽象的著作よりも分かりやすかったが,そこは哲学者中の大哲学者カントのこと,難解なところが多々あった。新訳は,そういったところも平易な表現になっており,これなら高校生にも分かる。

もともとphilosophyは日常生活と不可分のものなのに,それを「哲学」などと有り難そうな深遠な訳語にしたのが誤りだった。もう定着したので仕方ないが,この新訳を読むと,カントはごく身近な思慮深い隣人のような気がする。分かりすぎにも問題はあろうが,本来,哲学はこのように普通に読んでとりあえずは理解できるもののはずである。

この『永遠平和』の課題は,世界平和は国家体制が共和制であり,そうした共和国が集まって国家連合をつくり,国際法と世界市民法を守ることにより実現される,という命題の論証である。

2.国家体制の分類
カントによれば,平和のためには国家体制は共和制でなければならない。共和制は,次のように分類される国家体制の1つである(p.170-171)。

A.支配の形式による区別(支配者の数)
(1)君主制--1人
(2)貴族制--数人
(3)民主制--国家構成員すべて

B.統治の形式による区別
(1)共和制
(2)専制

この体制分類は,古代ギリシャ以来のものであり,カントの頃もいわば「常識」であった。その「常識」が市民革命の中で動揺しかけてきたので,カントが常識を整理し,人々に再確認を促したわけだ。つまり,「支配の形式」と「統治の形式」は,別のカテゴリーであり,たとえば君主制か民主制かという問いと,共和制か専制かという問いは,別のものであるということである。この「常識」は,体制選択直前のネパールでも,今一度,初心に戻り,再確認すべきだろう。

(補足)法の分類--(1)国民法(市民法) (2)国際法(万民法) (3)世界市民法

3.共和制
共和制の構成条件は,次の3つである。
(1)社会構成員の自由
(2)社会構成員が唯一の共同の法に従う
(3)社会構成員の市民としての平等

この共和制は,統治形式としては次のように規定され,専制とは明確に区別される。

「共和政体とは行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり,専制政体とは,国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。」(p.171)

これは権力を「立法権」と「執行権」に分けたJ.ロックの権力分立論の流れに属する。立法権と執行権(行政権)が分離されるから,法が執行権(行政権)と人民自身をも拘束することになり,共和制が実現される。法の支配と,市民の自由・平等である。

4.代議制
共和制は,代議制をとる。「代議的でないすべての統治形式は,ほんらいまともでない形式である。というのは立法者が同じ人格において,同時にその意思の執行者となりうるからである。」(p.171)

5.共和制と民主制の矛盾
代議制をとる共和制は,君主制または貴族制とは結びつきうるが,民主制とは結びつかない。

「国家権力にかかわる人格の数,すなわち支配者の数が少なければ少ないほど,そして支配者が代表する国民の数が多ければ多いほど,国家体制はそれだけ共和的な体制の可能性に近づくのであり,漸進的な改革をつうじて,いずれは共和的な体制にまで高まることが期待できるのである。このためこの唯一法的に完全な体制に到達する可能性がもっとも高いのは君主制であり,貴族制では実現が困難になり,民主制では,暴力による革命なしでは,実現不可能なのである。」(p.172)

このように,カントは,古代ギリシャ以来の正統政治哲学にしたがい,君主制を最善の政体としている。最後の部分は,民主制であっても暴力革命により共和制の実現は可能としているようでもあり,解釈が難しい。おそらく,フランス革命を想定しているのだろうが,全体として見ると,カントが「君主制+共和制」をもって最善の国家体制としていることは明白だ。

6.専制としての民主制
民主制は,カントにおいて,最悪の政体である。

「三つの国家体制のうちで、民主制は語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のもとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。」(p.171)

カントのいう民主制は直接民主制であり,この民主制が必然的に専制となるのだ。法をつくる者と法を執行する者が同一の「人民」だからである。 このような民主制を専制とする考え方は,19世紀初頃までの西洋では常識であり,民主主義は無知な民衆の専制として恐れられていた。

こうした反民主主義思想は,19世紀半に代議制民主主義が優勢となるにつれ後退し,20世紀にはいると,民主制こそが最善の政体とされ,いまやそれは疑う余地のない正義,いわばタブーのごときものとなっている。

しかし,民主主義の伝統の長い欧米では,現在も,カントにも継承されている反民主主義思想が根強く残っており,つねに民主制を批判し牽制している。原理的に,人民主権は立法権・行政権を主権者たる「人民」が握るものであり,人民主権が主張されればされるほど,二権は融合していく。社会主義がその好例だ。こうした人民主権論の必然的専制化の傾向に対し,カントの共和制論は,鋭い原理的批判としての意義を今なおもっている。

ネパールの民主主義は,手放しの人民主権論(loktantra)として展開されており,原理的な批判を受けていない。事実としての反民主主義勢力は存在するが,彼らはまだほとんど理論武装しておらず,旧態依然であり,人民主権との原理的対決は到底無理である。

欧米保守主義がフランス革命(人民主権)に対する対抗イデオロギーとして成立したように,ネパールでも近代保守主義がいまの民主革命(人民権力)に対する対抗イデオロギーとして出現するかもしれない。それは,社会が自由であるためには必要不可欠の条件なのである。

Written by Tanigawa

2008/03/24 at 23:36

カテゴリー: 平和, 憲法, 民主主義

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