ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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スルケットの性労働者,約300人

スルケット「社会意識向上センター」の調査によれば,スルケット郡内には性労働者(売春従事者)が約300人いる。失業と貧困が主な理由だという(Rising Nepal, Mar20, 2013) 。一方,カトマンズの性労働者は3万人ともいわれている。こうした都市部の近現代的「性産業」との関係は,どうなっているのだろう? 

スルケット郡総人口:350,804人(2011年)
性従事者:約300人
   出身:ほとんどがダリット
   女性:164人
   十代:154人
   18歳未満:4人

130326

Written by Tanigawa

2013/03/26 at 11:09

カテゴリー: 社会, 人権

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売春カーストと性産業セックスワーカー

谷川昌幸(C)

1.売春カースト
8月下旬,売春職業カースト,Badiが他のダリット団体と共同で,国会周辺で生活改善要求運動を続け,逮捕者,負傷者が多数出ている。

2.バディの裸デモ
The Himalayan Times社説によれば,バディ・カーストは次のような現状にある。

いま国会デモをしているのは,西タライのバディ。国会周辺で「半裸デモ」を行い,もし要求が通らなければ「全裸デモ」をすると予告している。

主な要求は,売春をやめるための耕地の分配と子供の無償教育。売春職業のため,父不明の子供がたくさんいる。

法律は,売春を合法とも違法とも決めていない。ネパールでは,売春職業カーストが罪の報いとして古くから代々継承されてきた。社説は,法律で明確な規制を定め,女性搾取を禁止した上で,自由売春を認めるのが現実的という結論のようだ。

3.恥ずかしいのは社会
売春を家業とせざるをえないというのはいまの人権基準では明らかに正義に反する。生活に必要な「耕地を分配せよ」,「子供に無償教育を受けさせよ」というバディの要求は謙虚なものであり,文句なしに正しい。

「半裸デモ」はすでに新聞が報道した。人々の不幸をメシのタネにするのはケシカランが,しかし半裸バディ写真を掲載することで,彼女らの現状が世界中に知られた。マスコミは因果な商売だが,これは業,頑張って欲しい。

バディは次は「全裸デモ」をするという。服を脱いで全裸で100人,1000人がデモすれば,もはや誰もとめられない。これも,ぜひ一面トップで掲載し,世界中にネパール文化の深遠を知らしめて欲しい。

恥ずかしいのは,売春家業でも半裸デモでもない。それはネパール社会が彼女らに強制してきたことだ。ありのままを人々に見せる。恥ずかしいのは,見ている社会の側だ。世界への恥さらしと見るなら,即刻バディの謙虚な要求を受け入れ,全裸デモをやめてもらうべきだ。

4.マオイストのリキシャ攻撃,大使猟官運動
マオイストは何をしているのか? 人権団体はいくつか連帯を表明しているが,腰が引けている。マオイストはよく分からない。こんなときこそ,バディを全面支援し,解放を勝ち取るべきだ。

それなのに,マオイストは先日のバンダで,何とリキシャ(人力車)を攻撃して回った。リキシャの運ぶ人や物などたかがしれている。かつてのバンダでは,リキシャだけは例外で,「人民のためのバンダ」をアピールした。そんなことも出来ないマオイスト。リキシャなど攻撃せず,一泊数万円もする某高級ホテルでも攻撃してみよ。

その一方,マオイストは,一番おいしい官職である大使に4候補を出した。デンマーク,オーストラリア,フランス,マレーシアだという(8月28日4大使閣議決定)。リキシャ攻撃と大使猟官運動。それらと,バディの「全裸デモ」のどちらが恥ずかしいことなのか?

5.バディとセックスワーカー
バディ問題が難しいのは,文明社会でもセックスは「産業」として成立しているからだ。「売春職業カースト」と「性産業セックスワーカー」は,どこが違うのか? 日本でも欧米でも,性産業は認められており,売春そのものを堂々と公認している先進国もある。

あるいは,「バディの半裸や全裸」と,先進諸国の半裸夏ファッションやネット性無法状態は,どこがどう違うのか? 29日午後,ネパール文部省正門前で,ヘソだし半裸ファッションの日本女性を見た。ビーチと勘違いしているらしい。ギョッとし,猥褻罪で逮捕されないかと心配になった。

ネパールでも,伝統的性交像満載のヒンズー寺院の周辺には,近代的性産業が続々進出してきている。数日前,寺院の向かいの飲食店に迷い込んだら,これはイカン,性的退廃ムード瀰漫。イカン,ケシカランが,道の反対側のヒンズー教寺院と,このケシカラン飲食店,あるいは全裸で踊らせているあまたの酒場(先週ヌードダンサー80人が逮捕された)と,どこがどう違うか?

裸や性を見せている点では,両者は何ら変わらない。違いは,宗教性の有無,あるいは経済外的強制の有無だけだ。現代性産業は,世俗化され,民主化され,共和制化されている。そこが違う。

バディなど前近代的売春職業は,宗教や親など他者により売春を強制された。これに対し,近代民主主義社会では,本人の自由意思で,売春する。自由・独立の個人が,自分の自由意思により,新しい服が欲しいといった理由により,自分の財産(property)である身体の一部である性器を貸し,使用料を取る。資本主義の原理からいって,自分固有の財産(性器)をどう使用しようが,他人の同等の自由を侵害しない限り,それは自己責任であり,何ら問題はない。だから,ヒマラヤンタイムズも,世俗的民主的共和制的な法律により規制した上で,自由意思による売春を認めるという現実的な提案をしたわけだ。(性器の使用契約とは卑猥な表現だが,くそまじめな哲学者カント大先生の表現を拝借しただけ。抗議はカント先生にしてください。)

6.拝金教による強制
しかし,その近現代セックス・ワーカーの自由意思は,本当に自分の意志か? もし資本主義文化により巧妙に創り出されたものなら,売春強制者がヒンズー教などの宗教から資本主義(拝金教)に替わったにすぎない。

先進文明国の教養ある人々は,バディ売春職業カーストを野蛮な未開国の因習と見下すが,見方によれば,自己責任で性産業に従事させられている先進国のセックス・ワーカーの方がはるかに悲惨な状況にある。バディの売春は強制されたもので,性器を貸すだけだが,先進国の性産業セックス・ワーカーは自分の自由意思で性を売り金品を得ている(と社会から見られている)からだ。バディにはまだ魂の救いがあるが,先進諸国のセックス・ワーカーには救いはない。性を売ったことの責任を全部引き受けて死んで行かねばならない。

いまのネパールは,過渡期だ。売春職業カーストが残っている一方で,資本主義型性産業が急成長している。バディはカースト差別でケシカランが,では,民主化され万人に開かれた近代的性産業はどうなのか?

7.民主主義の偽善は許されない
カースト規制から解放されたバディが,餓死の自由を得,自らの自由意思で資本主義的性産業にセックス・ワーカーとして就職するといった民主主義の偽善は,絶対に許されてはならないだろう。

* ネパールの性問題の現状については、アイウエオサークル 「セックス産業花盛り」(8月28日)http://aiueo.blog.ocn.ne.jp/nepal/2007/08/post_3887.html

* The Himalayan Times, 28 Aug. 2007.

写真(上):文部省玄関。国民道徳総本山への入り口。
写真(中上):筋向かいのヒンズー教寺院と敷地内の銀行。宗教と資本主義先兵の結託(この寺は観光収入目的で建設されたというウワサもある)。
写真(中中):ヒンズー教寺院の性交像。この種のものが無数にある。
写真(中下):同上
写真(下):寺院反対側(文部省の並び)の繁華街。近代性産業もこうした繁華街内に増殖中という。  

Written by Tanigawa

2007/09/01 at 14:54

日本ポルノとネパール性タブー

谷川昌幸(C)

性風俗には興味津々とはいうものの,全くの門外漢,その方面の専門家には常識かもしれないが,最近,疑問に感じたことについて述べてみたい。

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性は,人間関係の根幹,文化の最下層の土台であり,どの社会にも性規範はある。異文化との出会いで最大の驚きの一つは,性風俗,性規範の違いである。

ネパールに初めていったときの驚きも,まさにこれだった。カトマンズのあちこちに男女交合図がある。日本のスミ塗りポルノなど足元にも及ばぬリアルさ,まさに男女の性行為そのものの彫像や絵画が白昼堂々と町中で鑑賞できる。これはいったいなんだ!

性=罪=悪とするクリスチャンはいうに及ばず,儒教にキリスト教を接ぎ木した日本人にとっても,これはみだらな不道徳,良く言えば理解を超えた神秘だった。

だから十数年前,女子学生十数名を連れてネパールに行くことになったときも,ネパールにはとんでもない「○○○○」がある,見たくない人,ショックに耐えられない人は行かないように,と何回も警告した。そして,行ってからも,たとえばバクタプル博物館の「危険ゾーン」に近づいたときは,「ここから先には○○○○がある。足元だけ見て先に進むように」と注意したものだ。

いまなら,これだけ注意しておいても,帰国後,セクハラ委員会に訴えられ,懲戒処分にされるかもしれない。(セクハラ委員会は特高よりこわい。訴えられたら,おしまい。周防監督,つぎは「セクハラ委員会」を映画にしてください。)

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しかし,町のあちこちに,男女性器丸出しの露わな性交像,性交図があるにもかかわらず(そばで子どもたちが遊んでいる),ネパールに性規範がないわけではない。キリスト教や儒教とは規範の形が異なるだけで,性への規制は極めて厳しい。

これは近代化以前の日本でも同じことだった。明日香などの古い文化をもつところでは,いまでも性行為の仕草を見物人の前で演じる祭事が残っているし,かつては日本のあちこちにリアルな男性器,女性器が祭られていた。しかし,だからといって,近代化以前の日本人がみだらだったわけでも,性規範をもたなかったわけでもない。性は日常的な生殖行為であると同時に,神秘的な恐れるべきものであり,だからこそそれは神の領域にあるタブーであった。

現代のネパールやかつての日本で,性器や性交の像や図があちこちにあるのに,性がタブーだったというのは,現代人には理解しがたいことだが,性は生死と同じく身近なものであると同時に,理性ではコントロールできない人智を越えた神秘なもの,安易に触れてはならないもの,隠し遠ざけておくべきもの,つまりタブーであったのだろう。

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しかし,日本ではすでに生も死も神秘ではなくなり,したがって性もタブーではなくなった。タブーの消滅は,日常と非日常の区別の消滅である。テレビでは,四六時中,寝室内の性行為があからさまに語られ,商品化された性が市中で自由に売買されている。

これは,性のグローバル市場化といってもよい。グローバル化は,あらゆる隔壁,あらゆるタブーの否定を目指している。わが安倍首相が軍と民の区別を止め,軍民共同活動を唱えているのも,グローバル化のバスに乗り遅れないためだ。グローバル化により,昼と夜,日常と非日常,公と私の区別が曖昧になり,性も夜の秘められた私生活や非日常的祭事に閉じこめておくべきものから,商品化し大っぴらに開陳し,取り引きしてよいものとなった。現代人は,昼夜なく,商品化された性で発情させられている。

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その先兵がインターネットだ。ネット世界には,性タブーはおろか,なんの規制もない。目先の利く連中が金儲けのために性を商品化し,ネットに流し,おかげで世界中の大人も子供も昼夜の区別なく,他人の性行為のリアルな姿を見聞きできるようになった。節度がないというか,品がないというか,これが「美しい国」の現実だ。「美しい」は,日本国首相の大嫌いな反資本主義的タブーがあり規範(規制)があるからこそ,成立する。日本は他の先進資本主義国と同様,性的に「醜い国」に成り下がってしまっている。

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ところが,ネパールにはまだ強力な性規範,性タブーが残っている。ヒンズー教のカースト的性規制は別格として(問題はあるがそれは別の事柄),素人の私が見ても厳格な性規範,性タブーの健在はよく感じ取られる。

だから,少なくとも数年前まではネパールには,外人向けカーマスートラは氾濫していても,住民向けの近代資本主義的ポルノや性産業はなかった。(むろん伝統的性職業はあり,これはこれで問題だが,このことについては別の文脈で論じた方がよい。)

しかし,最近のグローバル資本主義化の波はネパールにも容赦なく押し寄せ,ネパールの古き良き性規範,性タブーを破壊し始めたようだ。この数年訪ネしていないが,ウワサではタメル近辺では近代的性風俗店が激増し,性ビジネスを始めているらしい。タメルが,非日常の外人租界であれば,外人向け近代的性サービス業が出現しても仕方ないと言えなくもないが,タメル地区と他の地区との融合が進み,日常と非日常の区別はもはやほとんどなくなっているそうだ。性をタブーとし,非日常の特定の時間,場所,人々に囲い込んで何とか制御しようとしてきたネパールの(そして他の多くの伝統的社会の)歴史的叡智が,「欲望の体系」の究極形態たるグローバル資本主義により,破壊され始めたのだ。

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資本主義は,欲望の無限の増大により維持される。資本主義は,常に成長を求め,インフレを維持拡大し,カネにカネを生ませ,いまではバーチャル投機経済となってしまった。資本主義は麻薬のようなものであり,インフレの快楽(冨)を拡大し続けなければ,崩壊する。

これと同じく,資本主義化された社会の性も自然なものではなく,人々は人為的に性的欲望を刺激され,つねにより多くの性的快楽を求め続けるようにさせられてしまっている。資本主義化された性は,快楽を不断に拡大させねばならず,近代以前のように性をタブー視し,非日常世界に閉じこめることを許さない。性の拡大再生産のため,性を日常生活にまで拡大し,日常生活をあまねくポルノ化し,大人だけでなく子供も性産業の中に取り込み,性的欲望を無限に増大させていこうとする。無際限に世界をポルノ化しなければ,資本主義的性は存続し得ない。そして,その極限が,ネット社会のバーチャル・セックスだ。四六時中,子供から老人まで性的欲望をバーチャル・セックスで増大させようと焦燥感に駆られ足掻いている。狂気寸前だ。

元来,金と性は人間にとって制御困難な危険物であり,西洋でも東洋でも近代以前は,タブーとされていた。あからさまに語ってはならない恥ずかしいもの,みだらに触れてはならないものだった。金も性も,神ないし悪魔の領域だった。ところが,脱魔術化した近代人は,その二大タブーを破ってしまった。そしていま,グローバルに肥大化したバーチャル経済は破綻寸前,そして同じくバーチャル・セックスも破綻が見え始めた。

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そうした性誇大妄想近代世界からの脱出を願う人々にとって,ネパールは,まだまだ希望の地だ。近代性産業が出現し始めたとはいえ,まだごく限定された地域だ。そして,何よりも性タブーの健在をよく示すのが,インターネットだ。

ネット・ポルノは,性風俗店よりもはるかに容易に開業できるし,創業者利益も莫大だ。世界中の性産業家がそう考え,ネットをポルノだらけにしている。同じ文化圏のインドもネット・ポルノの中心地の一つだ。

それなのに,普通に見る限り,ネパール(人)発のネット・ポルノは無い。金と性は不可分の関係にあり,ビデオもインターネットもポルノ先導で発達してきた。グローバル資本主義化で世界中が欲ボケ,色ボケになってしまったのに,ネパールは敢然と性タブーを守り続けている。この性タブーは,紛争下でも外国人襲撃がないことと合わせて,「現代ネパールの二大奇跡」と呼んでもよいだろう。かなり弱体化したとはいえまだ残存する金銭タブーと,そしてこの強固な性タブーが,ネパール社会の健康をかろうじて維持してきたのだ。

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しかし,ネパールが性タブーを維持し続けることは,非常に難しい。金ボケ,色ボケの欲望亡者・先進諸国が,そのみだらで不道徳な金銭欲+性欲を「近代的」「民主的」と美化し,伝統的性タブーを「封建的」「中世的」と非難攻撃してくるからだ。

一番よい金儲けの種は,従来タブーとされてきたこと,生死(=医者,僧侶)と性だ。生と死はすでに十分開発された。次は性の開発だ。誰がネパールの性タブーに挑戦し,金を儲けるか?

私としては,ネパールには,欲ボケ性亡者の先進諸国の甘言など断固拒否し,性タブーを守り通してほしい。日本や欧米を見れば分かるように,性の産業化は決して人々を幸福にはしない。

しかし,これはすでに性タブーを破ってしまった先進国の勝手な願望であり,ネパールの人々が自らタブーに挑戦するのなら,それは彼らの事柄であり,致し方ない。自分たちは性産業でさんざん儲けていながら,ネパールの人々に同じことをするな,とは言えないからだ。

しかし,性タブーがまだまだ健在のネパールに欲ボケ外人が性ビジネスを持ち込むことは許せない。ましてや,ネットでネパールがらみのポルノを流すなど,もってのほかだ。たしかに儲かるであろう。しかし,そんなネパール文化の尊厳を冒涜し,その根を無惨に断ち切るような野蛮なことは絶対にやってはならない。

Written by Tanigawa

2007/03/14 at 18:23

カテゴリー: 文化

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