ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Posts Tagged ‘愛国心

オリ首相の危険なナショナリズム

オリ政権は,UML,UCPN,RPP-Nのナショナリスト3党を基盤としており,もともと対外強硬路線に向かいがちだ。

エースはなんといっても,カマル・タパ副首相兼外相。いち早くニューデリーに乗り込み,モディ首相に直談判したし,11月2日にはジュネーブのUNHRC会議でインドの対ネ非公式経済封鎖を非難した。しかし,彼はもともと王制派ナショナリストなので,そうした発言は予想されたことであったし,また保守主義者なので発言には良識的抑制が利いていた。

これに対し,オリ首相(UML)のナショナリズムは民主主義的で,よりストレート,あるいは報道が事実とするなら,かなり荒っぽく,それだけに,より危険である。オリ首相は11月6日,「ネパール記者連盟(FNJ)」と「ネパール・タルン・ダル(NC青年組織)」のメンバーと相次いで会い,次のように語ったと報道されている。

 151108■オリ首相(内閣府HP)

「ネパール新憲法はネパール人がネパール人のために制定公布したのであり,他の誰への加害も意図したものではない。」また「われわれは隣国インドに対し何ら悪意を持っていないし,その利益を害しようとも思っていない。」(Himalayan, 1 Nov)

ところが,インドはネパールに対し意図的に経済封鎖をし,ネパールを「非人道的に扱っている」。インド政府は,腐った魚や野菜を送りつけ,封鎖をしていないことを証明しようとしたが,ガスは供給しない。戦時中であっても,食料などは人道的観点から輸送されるのに,いまはそうではない。インドの対ネ封鎖は,「戦争より非人間的」だ。(Himalayan & Republica, 6 Nov)

またインドは,ジュネーブのUNHRC会議において,人民戦争期の人権問題を蒸し返した。「少し前,隣国指導者の一人が,インドはネパールに対しその気概を示すだろう,と公に警告した。・・・・いま,彼らは10年も前の問題を掘り出してきた。」たしかに「われわれは,過去に戦争の苦難に直面したが,いつまでも戦争を続けることはできない,と思い知った。そこで,われわれは平和プロセスを開始したのだ。」「以前は戦っていた諸党が,いまでは一緒になり,与党,野党にかかわりなく,民主的・平和的な改革を押し進めている。」(Zee News, 6 Nov)

「隣国がわれわれの目を覚ましてくれた。私は,わが国の独立,尊厳,国民的統一を堅持し,この国を今の危機から救い出す努力を惜しまない。」(Republica, 6 Nov)

このように述べたうえで,オリ首相は,国民とメディアに二つの要請をする。

インドの対ネ経済封鎖は,「別の道を求めるチャンス」でもある。政府はトロリーバス復活を考えるし,国民は電気自動車や電気ヒーターを買い使ってほしい。[一日十数時間停電では?]

また,メディアは,国家の統一,主権,独立を損なうような記事を書くべきではない。自由はアナーキーではない。しかるに,このところ,表現の自由を名目に,国家を脅かすような活動が目に付く。この国は国民的統一を必要としているのであり,国民とメディアには成熟した責任ある態度が求められている。

オリ首相は,以上のようなことを語ったと,ネパールとインドのメディアは報道している。もしこれらの報道が事実から大きく外れていないのなら,オリ首相は,カマル・タパ副首相以上に強硬なナショナリストということになる。

 151108a■UML第9回党大会(同党HP)

もともとネパール新憲法は,きわめて国民主義的,愛国主義的である。第5条は「国益」を定めており,「国益」侵害は連邦法により処罰される。ネパール国民の独立,主権,領土的統一,国民性,尊厳などは,「国益」として法の処罰をもって守られる。したがって,オリ首相の「国益」を理由とした報道自粛要請も,単なるお願いではなく,法的な根拠があるわけだ。

ナショナリズムは,民主的であればあるほど,危険だ。11月7日には,プラチャンダUCPN議長が,ブトワルでの記者会見で,「もしインドがわれわれを支配しようとするなら,そのような抑圧とはいつでも戦う覚悟をすべきだ」と檄を飛ばした(Kathmandu Post, 7 Nov)。UMLもUCPNも,いずれ劣らず強硬な民主主義的ナショナリストだ。

これは危ない。愛国心をあおられ,激高した人々が,不測の事態を引き起こさなければよいが。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/11/08 at 08:39

「八重の桜」と「同期の桜」

日本放送協会(Japan Broadcasting Corporation, NHK)がハデな大宣伝をしているので、「八重の桜」を観てみた。なんたる空騒ぎ、無惨な失敗作となる悪い予感がする。

まず冒頭の「つかみ」、「驚き」がない。どんな作品でも、最初に「あれ! これは何かな?」と興味を引きつけなければ、まず失敗である。小説、随筆などでも、傑作は「書き出し」がよい。これは、作品の鉄則。

ところが、「八重の桜」の冒頭は、南北戦争。時代背景を説明するためなのだろうが、最初から逃げであり、しかもド派手な戦闘場面の連続。こんな劇画のノリで描くと、米国民から抗議されかねない。まったくもって稚拙。

同じことが、メインテーマの「幕末のジャンヌ・ダルク」についても、いえる。女が鉄砲を持つ――つまり人を殺す――には、相当の内面的葛藤があってしかるべきだが、そんな気配は寸毫もない。そんな面倒なことはスゥーと素通りし、いたいけない少女が人形をほしがるように鉄砲をねだり鉄砲にほおずりする。そりゃ、ないだろう。あんまりだ。

子供だって、鉄砲の弾が当たればどうなるか位は想像する。子供時代を思い起こしてほしい。子供は大人以上に繊細であり、人や動物が傷つき、苦しみ、死ぬことの悲惨を直感的に知っている。子供をバカにしてはいけない。それなのに、脳天気に子供を描くから、リアリティがまるでない。絵空事だ。

他の場面にしても、映像表現に自信がないらしく、やたら「語り」が出てくる。場面、場面をいちいちナレーションで説明しなければ、その意味がわからないのだ。無惨といわざるを得ない。

さらにまた、スローモーションも多用されている。スローは、ここぞというときに使用してはじめて効果を発揮する。それなのに、いたるところスローだらけ、まるで安物劇画だ。

そして、これは坂本龍一/中島ノブユキの責任ではないであろうが、音楽がやたら多用されている。といっても、音楽そのものはよく出来ている。出来すぎといってもよいくらいだ。しかし、いくらなんでも使いすぎであり、これでは背景音楽ではなく、音楽のための背景映像だ。「八重の桜」ではなく、「坂本/中島音楽の桜吹雪」と言ったところ。

むろん、これはまだ初回。先は長い。くれぐれも、右傾化時代迎合の「同期の桜」女性版とならないことを願っている。それゆけどんどんの「幕末ジャンヌ・ダルク」や戦意高揚「篤志看護婦」など、みたくもない。

130107 ■ リアリティなき樹上の八重(NHK・HPより)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/01/07 at 15:19

震災後日本の無責任と自己犠牲

1.祖国愛と自己犠牲の崇高さ
震災・原発事故で示された日本人の「勇気」と「自己犠牲」は世界中の人々を驚かせ,ハーバードのサンデル教授も,前述のように,それを特別講義で取り上げ,コミュニタリアニズム(共同体主義)のモデルとして賞賛した。

今回の大震災や原発事故のような未曾有の危機に際し,多くの日本人が驚嘆すべき「勇気」と「自己犠牲」を示してきたことは事実である。昨日もテレビが,地震直後,中国人研修生20人を真っ先に高台に避難させ,自分は津波に呑まれ亡くなってしまった女川町の男性の勇敢な行動と,それに対する中国からの感謝と賞賛を紹介していた。東日本大震災では,このような本物の「勇気」や「自己犠牲」が多数みられたという。私は,日本人の一人として,彼らを心から尊敬し誇りに思う。

また,福島原発事故でも,被曝の危険を顧みず,現場に踏みとどまり,あるいは現場に入り,事故拡大防止のため懸命に努力されてきた多くの技術者・作業員の方々の「勇気」と「自己犠牲」にも心から感謝し,日本人として彼らを尊敬し誇りに思う。

人間が自分の家族や地域(近隣),あるいは祖国を愛するのは自然なことである。そして,それらが危機に陥れば,生命を賭しても救いたいと思うのが,人情である。右翼はもちろん,リベラルも左翼も、これは否定しない。家族愛,郷里愛,祖国愛の無い人は,生命を賭してわが子を守ろうとする野の小鳥にすら劣る。人間,いや動物ですらない。キリストやガンディーのように敵まで愛するのは難しいとしても,家族や同胞を愛せないような人は,人間失格である。

2.祖国愛の詐取
しかし,である。人間社会の難しさは,この家族・地域・祖国への自然な愛が,社会では巧妙に詐取されてしまうことが少なくない,という点にある。国家や企業には、危機対処の職責にある人々が選任されている。彼らは,危機の際,自ら決断し,行動し,その結果に対して責任を取らなければならない。ところが,社会で危機対処への無私の「勇気」や「自己犠牲」が賞賛され始めると,彼らはそれに便乗し,あるいは自ら積極的に煽り立て,そうすることによって,決断し行動するという自らの当然の職責をぼかし,責任を回避するようになる。「自己犠牲」は,崇高な無私の自発的行為から,社会的賞賛により陰湿に強制される擬似自発的行為へと成り下がってしまうのだ。

さらに恐ろしいことに,家族・地域・祖国のための「自己犠牲」は自然な愛による自発的行為だという賞賛が繰り返されると,「自己犠牲」を強制されている本人ですら,それを「強制」とは感じなくなり,自分の自発的行為と思い込んでしまう。為政者や企業幹部,あるいは社会多数派にとって,これほど都合のよい状況はない。

これに対し,もし,たとえば原発事故処理への出動を職責に基づき命令し強制すれば,命令権者には明確な責任が生じる。誰が,誰に,どのような条件で,原発事故処理作業をさせるのか? それが危険な作業であれば,命令権者は、当然,合理的で妥当な労働条件を明示し,同意(informed consent)を得た上で,作業を命令しなければならない。命令権者と労働者の権利義務は明確となる。

ところが,実際には,そうではないらしい。原発事故処理への出動を,勇敢な「自己犠牲」と賞賛することにより,命令権者は「命令」ないし「強制」の事実を隠微な形に希薄化していき,危険きわまる劣悪な労働条件での作業を技術者や作業員に「自発的に」引き受けさせることに成功したようだ。隠微・陰湿な命令権者は,たとえ技術者や作業員に被害が出ても,崇高な自発的「自己犠牲」を理由に,たいした補償もせず,責任を免れるにちがいない。

3.「無責任の体系」としての震災後日本
かつて丸山眞男は,天皇制国家を「無責任の体系」と呼んだ。それと,どこが違うのか? 天皇制国家は,家族への自然な愛を国家へと拡大し,国家のために死ぬことを賛美した。そして,国民もそれを信じたとき,為政者はそれを最大限利用し無数の国民を国家のために殺したのである。自発的愛国心により自らお国のために生命を捧げたのだから,為政者には責任はない。一億総懺悔!

福島原発処理では,そしてそれよりも分かりにくくはあるが震災・津波被害処理においても,原理的ないし構造的には同じ「無責任の体系」が出来つつあるのではないか?

4.「死ぬ」倫理と「殺す」論理
しかし,再び「にもかかわらず」といわざるをえない。家族・地域・祖国への愛は,国家や企業,あるいは社会多数派に詐取されがちだが,にもかかわらず,それがわれわれのうちに自然なものとして内在していること,そしてまたそれは決して無用・無価値であるわけではないこと,これは確かである。丸山眞男はこう喝破した。

「『国家のために死ぬ』というのは個人倫理の立場であり,政治は戦争においてそれを『国のために殺す』行為に転換させるのです。そうした『政治』の苛烈な法則,政治次元の独立性が一切容認された上で,なおわれわれはヨリ高次の意味で政治における倫理的契機について語らねばなりません。いかなる万能の政治権力もその前に頭を垂れなければならない客観的な倫理的価値があり,それを全く無視して存続することは不可能です。」(「政治学入門」244-5頁,強調原文)

政治家が市民に国家社会への貢献を要求しうるのは,政治家が責任倫理を自覚し,自らの判断と責任の下に,委ねられた権力を行使する場合のみである。それは「無責任の体系」の下での、隠微・陰湿な「自己犠牲」の強制とは,対極にあるものである。政治的には,それは合理的であり,市民には支配に服従する政治的義務がある。

しかしながら,それでもやはり政治においては「強制」の契機が払拭しきれず,権力による国家貢献命令は倫理的には正当化しきれない。それは,つねに家族・地域・祖国への自然な,純粋に自発的な愛の倫理により,批判されなければならない。

5.理念型としての隣人愛と祖国愛
父母には子への無私の愛がある。生命を賭してわが子を救ったという事例は枚挙にいとまない。近隣や祖国への愛は,それほど直接的ではないであろうが,理念型としては純粋な隣人愛や祖国愛はあり得る。イエスの隣人愛やガンディーの祖国愛はそうしたものであろう。もしそうした愛ですらすべて否定してしまえば,人間は野獣にも劣る悪魔的怪物になりはてる。問題は詐取であって,家族愛・隣人愛・祖国愛そのものではない。

「国のために死ぬ」と「国のために殺す」――この慄然たる深い宿命的葛藤を見ようともしないサンデル教授の震災特別講義は,政治哲学として、どう評価されるべきだろうか?

参照1:サンデル教授と震災後日本の「秩序と礼節」
参照2:「時代も事情も異なるが、東電本社と、未経験の危機と闘う現場に、「大本営と前線」の落差が重なる。きびしい使命にもかかわらず、伝え聞く作業従事者の処遇はずいぶん酷だ。・・・・現場と国民に対して欺瞞の大本営であるなかれ。東電だけではない。菅政権への気がかりは、より大である。」(天声人語,2011-4-22)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/23 at 12:53

天皇元首化vs王制廃止――対比の妙

谷川昌幸(C)

ネパール王制問題は,よそ事ながら,わがことのように切実に感じられる。というのも,次期首相と目される安倍氏が,8月22日,政権公約の骨子を表明し,憲法と教育基本法の改正を最優先課題と宣言したからだ(朝日新聞,8/23)。

1.憲法改正で日本軍を世界展開
ねらいはもちろん,憲法9条を改正し,自衛隊を国軍(皇軍)に格上げし,アメリカと協力してグローバル資本主義秩序を守ること。つまり,アメリカ軍を補完し日本国益を守るため,世界のどこにでも日本軍を展開できるようにすることである。

2.教育基本法改正で愛国心育成
そして,この目的(日本産軍官政複合体の利益)のための国民動員を可能にするのが,教育基本法改正だ。学校で愛国心が教え込まれ,その奥の院の御簾の奥にはもちろん天皇が鎮座している。いくら否定しても,本質的には「忠君愛国」の再来であることは明白だ。

アナクロと侮ってはならない。これはグローバル化日本の現状と重ね合わせると,極めて現実的な政策だ。

日本軍が本格的に海外展開すれば,必ず死傷者が出る。本人も家族も,そして国民も,「世界平和のため」では納得しない。祖国のために命を捧げ,靖国に祀られ,神となり,天皇陛下に頭を下げてもらう。この神話を生涯教育を通して復活させなければ,飽食のこの時代,誰も紛争地に行きはしない。人は,世界平和といった抽象的理念のために生命を捧げたりはしない。生命を捨てさせるには,自分の家族,郷里といった具体的な守るべき対象がいる。その自然な家族愛,郷土愛をかすめ取り,「国益」のため人々を戦わせ,大量に殺してきたのが,近代国家だ。

国家は家族や郷里と違い,人工的な,不自然な制度である。したがって,それを愛させるには,不自然な教育による教化・洗脳や,天皇,靖国神社といった壮大な「現代の神話」が不可欠なのだ。

安倍次期政権は,この国家神話・国家神道を,グローバル化世界で「生き残る」ために,憲法・教育基本法改正により,再興しようとしている。アナクロに見えて,アナクロではない。そこが怖い。

3.「日本人」意識で労働者分断
それともう一つ,この国家神道復活への企ては,国内のグローバル化対策でもある。グローバル競争に「生き残る」ため,労働条件が引き下げられ,日本は格差社会になった。日本=天皇へ向けた「愛国心」涵養により,まず,この格差の痛みを慰撫し,受容させること。祖国=天皇のためなら,喜んで労苦を引き受けよう。

そして,その労苦は「日本人」であることにより,さらに癒される。つまり,グローバル化により,今後,途上国から日本に大量の労働者が入ってくる。たとえば,フィリピン介護士の受け入れなど。企業も外国人労働者受け入れを声高に要求しており,この流れはもはや不可避だ。

こうした外国人労働者に対し,日本人は「日本人」であるということで優位に立ち,優越感を持ちうる。使用者側にとって,日本人労働者と外国人労働者が連帯し,共闘を始めたら一大事。それを防止するのが,「日本人」アイデンティティなのだ。分割統治せよ,ということ。ここでも国家神道復活は,アナクロであるどころか,極めて現実的な政策なのである。

4.途上国ネパールの共和制化
このように,先進国日本で天皇制(君主制)復活強化が図られているのとは逆に,後発途上国ネパールでは,王制から共和制への流れが加速している。これは興味深いコントラストだ。

ネパールの人々が日本のこの保守「反動」の動きを見たら,どう思うだろうか? 日本の遅れにビックリし,軽蔑するか? それとも,世界で最も国民統合の諸条件が整っている先進国日本が,あえていま天皇制復活を目指す理由を注意深く探ってみようとするのであろうか? 他の諸条件が異なるから単純な比較はできないが,現実政治的にも理論的にも面白い課題だ。(もちろん,日本人がネパール共和制論から君主制の持つ本来的危険性を学ぶことも可能だ。)

5.国王国家機関の宣言を
それにしても,ネパールでは王制存廃の瀬戸際に来ているのに,国王や王党派から何の発言もないのは,なぜだろう? もし彼らがダンマリを決め込み,裏で何かをたくらんでいるとすると,これは愚策だ。

以前から指摘しているように,もし国王が王制存続を望むのであれば,国王は世俗の権力や財産を全部断念し,象徴に徹することを自ら宣言するのが最善の策だ。

換言すれば,国王が自ら政教完全分離を宣言し,自分を儀式に専念する国家機関と宣言するのがよい。天皇機関説のネパール版,「国王機関説」だ。

あるいは,国民のアイドルとしての国王と言い換えてもよい。Idleだから,世俗の権力・財産をすべて放棄し,何もしない(idle)。そんな国家機関としてのアイドル国王になるという宣言。

6.人間の弱さと王制
むろん,そんなにまでして,なぜ王制を残す必要があるのか,という反論はありうる。それには,人間は元来不完全な弱いものであり。伝統的な神や国王を否定しても,新たな代替神,代替国王をでっち上げ,歴史に徴するに,大抵後者の方が前者の何倍も危険であった,とだけ答えておこう。

いずれにせよ,民主化は現代の宿命。ネパール国王も,民主化に適応しなければ,生き残れない。このままでは,王制に未来はない。

Written by Tanigawa

2006/08/24 at 10:39