ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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「美しい国」首相の美しくない日本語

16日の日露首脳共同記者会見を聴き始めたものの,どこのものとも知れない変な言葉に当惑し,気恥ずかしくなり,薄気味悪くなり,寒気がしてきて聴き続けられず,スイッチを切った。これが,「美しい国」を取り戻すことを信条とする日本国の首相の言葉なのだ。首相官邸HPによれば,安倍首相の発言は次の通り。

「プーチン大統領、ウラジーミル。ようこそ、日本へ。日本国民を代表して君を歓迎したいと思います。・・・・・君と約束をしました。・・・・ウラジーミル、今回の君と私との合意を『出発点』に、『自他共栄』の新たな日露関係を、本日ここから共に築いていこうではありませんか。」

親密さを示したいなら,「ウラジーミルさん,あなたを・・・・」ではないか? 名を呼び捨てにし,ぞんざいに「君(キミ)」で受ける。日本語文化文脈では。あまりにも不自然だ。馬鹿にしているようにさえ,聞こえかねない。

西洋語文脈ないしアメリカ語文脈を金科玉条とし,植民地根性丸出しで,それに卑屈に迎合し,このような気恥ずかしく,薄気味悪い言葉遣いになったのではないか? 日本国元首たるもの,外交の場では「美しい日本語」で語り,親密さ表現のさじ加減は,専門の通訳に任せるべきであろう。

【参照】島崎今日子「無理していない? その呼び方」朝日新聞12月21日
「どんなに親密になろうと,私たちは互いを『さん』付けの名字で呼び合っていた。・・・・『さん』で仲良くなることになんの支障もなかったからだ。・・・・だが,・・・・政治の世界では海外の要人とはファーストネームで呼び合うことこそ,親密さの表れだとなっていて,メディアも盛んにそう報じている。・・・・それにしても,『ウラジーミル』『シンゾー』と呼び合うわりには,とても胸襟を開く関係には見えなかった。むしろ,無理しているようで,そういうお膳立てが必要なのだろうと推測させられた。」(12月21日追加)

161219首相官邸HP

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/12/19 at 17:05

カテゴリー: 言語, 外交

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京都の米軍基地(61):米軍のプレゼンス・プレゼント

最先進にして最強の米国と,極東の後進国日本の辺境地。はや勝負あり! 米軍のプレゼンスに,京丹後はメロメロなのだ。

たとえば,京丹後市国際交流協会企画の「国際交流会」(12月21日)。米軍基地からもオルブライト司令官ら5人(朝日デジタルでは4人)が招待されて参加,久美浜の「豪商稲葉本家」を見学し,会食した。参加費(飲み食い代など)を米軍側も負担したか否かは,報道では不明。

この交流会は,いかにも日本流(!)といった,少々気恥ずかしくなるような“おもてなし”。日本女性の大正琴を聴き,和室でばら寿司を箸で食べ,お茶を楽しんだ。普通の日本人はとうの昔忘れてしまった,外国向け日本文化のご披露だ。

むろん絵になる。さっそく米軍は宣伝に使いまくっている。

141222d 141222b
 ■交流会案内/交流会(中隊FB)

141222c ■交流会(中隊FB)

辺境地の丹後にとって,米軍進駐は,願ってもない僥倖。米国の文化は世界最新であり,米語(英語)は世界共通の超一流言語。極東の辺地の辛気くさい日本語など,グローバル化時代には,なんの役にも立たない。米国の文化と言語を学ぶにも,米軍進駐は願ってもない好機なのだ。

地元は,米軍向けの日本語講座を準備しているらしいが,これはムダ,やめた方がよい。逆だ。地元民が米語(英語)を学び,道路標識も店内表示も,すべて米語に書き換え,米軍関係者を見たらまず米語で話しかけるよう努力すべきだ。すでに米軍基地との連絡の公用語は,米語となっているらしい(未確認)。

そもそも日本国元首の安倍首相からして,洋魂和才ないし洋魂洋才が目標であり,初等教育英語必修化など米語(英語)の日本普及に余念がない。これが安倍首相の掲げる「国益」であり,丹後が「国益」第一を掲げるなら,当然それから見習うべきだ。

いずれそのうち,丹後進駐の米兵や軍属やその家族,ときには彼らの子供たちが,小中高校の授業や市民向け語学講座で,ボランティアとして,あるいは特別講師として,本場の本物のネイティブな米語を教えてくれるようになるであろう。日本人の米語はまがい物,日本人英語教師は格下。かくして,一流の米国人と米国文化,二流の日本人と日本文化という序列がじわじわ地域に浸透していき,やがて“米国人をさえ見ればただ腰を屈するのみ”が習い性となってしまうだろう。

安倍首相がお手本だ。安倍首相は,国際社会で日本元首として発言するときでも,平気で日本語を放棄し,カタカナ米語(英語)を使う。日本語を放棄して「国益」追求などバカバカしくて,アホらしくて,お話にもならないが,安倍首相にはそんな問題意識など,ひとかけらもない。京丹後市は,その安倍首相が唱える「国益」を第一とし崇めている。

米国は日本人のそのような性向を鋭く見抜き,巧妙に行動している。アングロサクソンは,世界辺境の三流言語であった英語を,ほんの数百年で超一流の世界共通語にしたこと一つを取ってみても,政治戦略に長けており,きわめて現実的だ。ロマンではなく,実利で彼らは動いている。

米軍は,ロマンチックな善意一杯の日本流“おもてなし”は宣伝にめいっぱい利用しつつ,他方では,こんな中隊シンボルマークを堂々と掲げ,地元住民を威圧している。彼らは,最前線の軍隊であり,イザとなれば,本国のため――京丹後住民のためではなく――命を賭けて戦う覚悟だ。すべてはその手段。利用できるとなれば,大正琴を聴きもすれば,箸で寿司も食う。ただ,それだけ。それが,アングロサクソン流なのだ。

141222a ■常在戦場の第14ミサイル中隊(中隊FB)

その結果,はや,こんなトンデモナイ規制ですら,地元住民はすんなり受け入れてしまっている。この飛行制限区域,つまり危険区域には,経ヶ岬はおろか,国道178号線や袖志海岸など,陸地部分も広く含まれている。経ヶ岬展望台に行くと,なにかのはずみで「人間の丸焼き」になってしまうかもしれない。

141222e ■飛行制限区域(京丹後市)

【参照】
「米軍人と住民交流会 京都・京丹後市」読売テレビ,2014-12-21
「ばらずしランチで国際交流 京丹後」朝日デジタル,2014-12-22
金田そうじん「経ヶ岬Xバンドレーダー基地に勤務する米国人の生活を支援する「フレンドシップクラブ」を立ち上げよう」2014-12-7
金田そうじん「ウエルカム アメリカン フレンズ」2014-12-19

谷川昌幸(C)

皇室利用と日本語放棄で五輪を買った安倍首相:”under control”のウソ公言

安倍首相は,皇室の政治的利用と日本語の放棄により,オリンピック開催の興行権を買った。「美しい国」である「日本を取り戻す」どころか,金儲けのためであれば,憲法も伝統文化も顧みない「醜い日本」を世界にさらけ出したのだ。

1.政治としてのオリンピック招致活動
オリンピック招致活動が「政治」であることはいうまでもない。オリンピック開催により,(1)経済界の景気浮揚要求に応える,(2)ヒノマル・ニッポン挙国一致ナショナリズムの高揚を図る。いずれも安倍政権の維持強化のためであり,いま現在,これをもって「政治」といわずして,何を政治というのか? 安倍首相自身,これを最も重要な政治課題の一つと考えるからこそ,わざわざブエノスアイレスまで出かけ,招致活動に参加したのだ。

2.高円宮妃のロビー活動
その政治そのものといってもよいオリンピック招致のため,安倍内閣は高円宮妃を利用した。本音報道のスポニチ(9月7日)は,記事に「会場にIOC委員続々到着,高円宮妃久子さま,積極的ロビー活動」というタイトルをつけ,高円宮妃が「積極的に動き」,IOC委員らに声を掛けていたと伝えた。親皇室の産経や報知(9月7日)にも同様の記事が出ているから,高円宮妃が「積極的ロビー活動」をしたことは間違いないであろう。

ロビー活動をする人は,「ロビイスト」である。広辞苑(第5版)はこう定義している。「ロビイスト(lobbyist): 圧力団体の代理人として,政党や議員や官僚,さらには世論に働きかけて,その団体に有利な政治的決定を行わせようとする者。」

高円宮妃は,まさに,このようなロビイストの1人として,積極的にIOC委員に働きかけ,東京招致という「政治的決定」に大きな政治力を発揮したのだ。しかし,このロビー活動に高円宮妃の政治責任は,むろん一切ない。

3.皇室政治利用の責任
高円宮妃のロビー活動やプレゼン冒頭挨拶の責任は,すべて安倍首相にある。朝日新聞稲垣編集委員によれば,川渕・サッカー協会最高顧問は,こう語ったという。「4日にブエノスアイレス入りした久子様の出席に熱心だったのは,猪瀬さん,安倍さん,森さんだよね。なかでも猪瀬さんは,本当に熱心だった。」(朝日デジタル,9月6日)

安倍,森,猪瀬は,いずれも政治家だが,行政権の長は安倍首相だから,高円宮妃の招致活動の全責任は,天皇への「助言と承認」(憲法第3,7条)に準ずる何らかの“助言と承認”を与えたはずの首相にある。

では,今回の高円宮妃の招致活動への“助言と承認”は適切であったのか? 憲法は第1条で天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と定め,第4条で「国政に関する権能を有しない」と明記している。象徴としての天皇,したがってそれに準ずる皇族は,権力行使や政治的意思決定に関わるナマグサイ行為は一切してはならない。これは,天皇象徴制の根本原理であり,現在の日本国家はこの原則の上に成り立っている。

高円宮妃のオリンピック招致活動は,この憲法原理の枠を完全に逸脱している。「ロビー活動」は,広辞苑の定義のように,政治そのものであり,高円宮妃は,ブエノスアイレスで政治活動を繰り広げていたのだ。それは,たとえ日本国家のためであっても許されない,違憲の政治的行為である。

4.皇室政治利用の危険性
今回はたまたま招致が成功したから,高円宮妃も安倍首相もいまのところあまり批判はされていない。しかし,もし失敗していたら,政治活動をした皇室の権威は失墜し,安倍首相は皇室政治利用の責任を追及され,退陣は免れなかったであろう。

しかし,この件に関しては,成功は失敗よりもむしろ恐ろしい。絶大な効果に味を占めた政治家たちが,天皇や皇室の政治的利用に飛びつき,国民もこれを歓迎するからだ。天皇制ファシズム(超国家主義)への先祖返りである。天皇を大切と思うなら,天皇や皇族の政治的利用は絶対に許してはならない。

130913a ■皇室利用と英語ウソ公言(朝日9月8日)

5.日本語放棄の安倍首相
安倍首相がオリンピック招致プレゼンを英語で行ったことも,見過ごせない。「日本を取り戻す」はずなのに,実際には,日本文化の魂たる日本語を放棄してしまったのだ。

そもそも各言語はすべて平等であり,本来なら,それぞれが母語で話し理解し合うべきだ。しかし,現状は,かつての植民地大国が文化侵略により英仏語やスペイン語などを普及させてしまったため,現在,多くの地域で使用されているそれらの言語を便宜的に使用するのは,次善の策として,ある程度はやむを得ない。

しかし,公式の場での公人の話となると,そうはいかない。天皇は「日本国の象徴」だから,公式の場では英語やフランス語をしゃべるべきではない。ましてや首相は,日本国の元首だから,たとえペラペラであっても,外国語を使うことは許されない。それなのに,安倍首相は嬉々としてカタカナ英語でプレゼンを行った。国家元首失格である。(注: 天皇は「象徴」,首相は「元首」)

6.外国語での国家公約の危険性
私には英語はほとんど分からないが,安倍首相の英語は発音がぎこちなく,いかにも不自然だ。おそらく英米やフィリピンなどの小学生レベル以下であろう。そんな英語で,安倍首相はIOC総会において日本国民を代表しプレゼンをした。He said―

Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo.

なぜ,こんなトンデモナイことを? むろん,英語を知らないからだ。

世界周知のように,福島原発事故は東京にも被害を及ぼしたし,放射性物質はいまなおじゃじゃ漏れ,止めるめども立たない。その原発について安倍首相は”under control”と,国際社会の公の場で,日本国元首として,公言した。これは日本語ではなく,英語。解釈は,当然,英語ないし欧米語文脈で行われる。

この欧米語文脈では,公式の場での政治家のウソは,絶対に許されない。建前かもしれないが,建前を本音より重視するのが,欧米政治文化。英語を知らない安倍首相は,その欧米語文脈を意識することすら出来ず,子供のように無邪気に,カタカナ英語を日本語文脈で使った。その落とし前は,いかに大きなものになるにせよ,結局は日本人自身がつけなければならない。

7.英語帝国主義にひれ伏す
英語帝国主義は,何百年にもわたる壮大な世界戦略であり,オリンピック興行権など,はした金,それで日本国首相に公式の場で英語を使わせることができるのなら,こんな安上がりの買い物はない。

安倍首相は,日本語=日本文化を売り渡し,英語文化圏の土俵に乗り,オリンピック興行権を買った。長期的に見ると,皇室の政治利用よりも,こちらの方が深刻かもしれない。

安倍首相のカタカナ英語のおかげで,日本語が二流言語であることが,国際的に公認された。日本語は,国際言語カースト制の中に下位言語(被支配言語)として組み込まれた。もはやここから逃げ出すことは出来ないであろう。

130913b ■揶揄される日本国元首発言(Canard Enchaine / Reuters, Sep.12)

[参照1]
高円宮妃プレゼン
高円宮妃久子さま IOC総会で復興支援に感謝の言葉(ANN News13/09/08)
宮内庁,新聞各紙はすべて日本語訳。一流言語たる仏語・英語オリジナルは下々には隠されている。
安倍首相プレゼン
Mister President, distinguished members of the IOC…
  It would be a tremendous honour for us to host the Games in 2020 in Tokyo ? one of the safest cities in the world, now… and in 2020.
  Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you,the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo. I can also say that, from a new stadium that will look like no other to confirmed financing, Tokyo 2020 will offer guaranteed delivery.
  I am here today with a message that is even more important. We in Japan are true believers in the Olympic Movement. I, myself, am just one example.
  When I entered college in 1973, I began practicing archery. Can you guess why? The year before, in Munich, archery returned as an Olympic event after a long time.
  My love of the Olympic Games was already well-established. When I close my eyes vivid scenes from the Opening Ceremony in Tokyo in 1964 come back to me. Several thousand doves, all set free at once. High up in the deep blue sky, five jet planes making the Olympic rings. All amazing to me, only 10 years old.
  We in Japan learned that sports connect the world. And sports give an equal chance to everyone. The Olympic spirit also taught us that legacy is not just about buildings, not even about national projects. It is about global vision and investment in people.
  So, the very next year, Japan made a volunteer organization and began spreading the message of sports far and wide. Young Japanese, as many as three thousand, have worked as sports instructors in over 80 countries to date. And they have touched the hearts of well over a million people through their work.
  Distinguished members of the IOC, I say that choosing Tokyo 2020 means choosing a new, powerful booster for the Olympic Movement.
    Under our new plan, “Sport for Tomorrow,” young Japanese will go out into the world in even larger numbers. They will help build schools, bring in equipment, and create sports education programs. And by the time the Olympic torch reaches Tokyo in 2020, they will bring the joy of sports directly to ten million people in over one hundred countries.
  Choose Tokyo today and you choose a nation that is a passionate,proud, and a strong believer in the Olympic Movement. And which strongly desires to work together with the IOC in order to make the world a better place through the power of sport.
  We are ready to work with you. Thank you very much.
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[参照2]
皇室と五輪招致 なし崩しのIOC総会出席 記者有論 社会部・北野隆一 (朝日新聞,2013年9月25日)
 16年夏季五輪開催地を決める09年IOC総会への皇太子さまの出席が求められた際、宮内庁は「招致運動は政治的要素が強く、(出席は)難しい」と慎重姿勢を貫いた。・・・・
 今回、安倍政権の強い意向に押し切られ、宮内庁の対応はずるずると後退した。当初「久子さまはIOC総会に出ない」としていたが、一転、出席。「招致活動と切り離すため、スピーチ後は降壇する」はずだったが、結局最後まで壇上にとどまった。
 招致競争に勝ったから結果オーライではない。安倍政権は今回、既成事実を積み重ね、なし崩し的な手法で皇族を担ぎ出したように見えた。皇室の守ってきた原則を曲げさせ、相当な覚悟を負わせたことになるのではないか。
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谷川昌幸(C)

文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動

1.CPN-Mのインド映画禁止運動
マオイスト左派のCPN-M[バイダ派マオイスト]が,9月26日,「下劣なインド映画」とインド車両の全面禁止を宣言した。すでにCPN-Mは,影響下の自称「タムサリン州」の10郡(チトワン,マクワンプル,ダディン,シンドパルチョーク,カブレなど)において,インド車両の通行を実力阻止し,インド映画・インド音楽の上映や放送を禁止している。26日の発表は,このインド映画・インド車両排除運動の全国への拡大宣言である。

この決定のうち,インド車両の禁止は,分からないわけではない。インド登録車両がどの程度ネパール国内に入り使用されているか正確には分からないが,相当数使用されていると思われ,もしそうなら独立国家ネパールの政治と経済にとって,これはゆゆしき問題であり,何らかの規制は当然といえよう。

2.CPN-Mはアナクロ全体主義か?
これに対し,インド映画禁止は,「知る権利」や「表現の自由」の真っ向からの制限であり,賛否が分かれる。CPN-Mのパンパ・ブサル報道担当は,こう述べている。

「インド映画はネパール国家とネパール人民を侮蔑し,卑猥を助長し,文化汚染を広めるものだ。それゆえ,わが党は,インド映画を禁止することにした。」(nepalnews.com, 26 Sep)

これに対し,統一共産党(CPN-UML)は,「幼児的敵対行為」と批判し,コングレス党(NC)やマデシ諸党派も同様の理由により強く反発している。

たしかに,「表現の自由」や「知る権利」の世界的常識からみると,CPN-Mのインド映画禁止運動は非常識であり,時代錯誤の極左全体主義といわざるをえない。CPN-Mは,各方面からの激しい非難を受け,すべてのインド映画が反ネパール的というわけではないので,「反ネパール的映画か否かを判定する独立機関を設置する」(Republica, 27 Sep)ことにより,有害でないインド映画は上映を許可するようにしたいと説明しているが,これとて権力による「検閲」であり,見方によれば,全面禁止よりも危険といわざるをえない。

こうしたことは今日では自明のことであり,人権論の初歩である。CPN-Mは,そんなことも知らないアナクロ全体主義政党なのだろうか?

 ネパールの映画館

3.権利の形式的保障の弱点
西洋諸国や日本の人々の多くは誤解しているが,ネパール・マオイストは人権論や民主主義論の最新の動向をよく知っており,したがって「表現の自由」や「知る権利」についても十分な知識を持っている。CPN-Mは,そんなことはわかった上でインド映画全面禁止を決定,実力をもってそれを全国実施させようとしているのである。なぜか?

それは,CPN-Mが,自由や権利の形式的保障は強者ないし多数派の側に有利であり,実際には弱者や少数派にとっては何の権利保障にもならないことをよく知っているからである。

CPN-Mの支持基盤はジャナジャーティ(少数派民族諸集団)である。これらの民族諸集団は,それぞれ独自の言語や文化をもっているが,それらは1990年革命が成功し自由民主主義体制になっても,多数派言語・文化との自由競争にさらされるばかりで,実際には保護されることなく衰退一方であった。

そして,自分たちの言語や文化の衰退は,その社会での民族としての存在の希薄化と表裏一体であるから,少数派諸民族は1990年憲法体制のもとで実際には民族としての自律性をも喪失していくことになった。言語や文化の自由競争,すなわち「表現には表現をもって」とか「言論には言論をもって」といった自由や権利の形式的保障こそが,少数派民族の危機をもたらしているのである。

4.民族の権利の実質的保障
だからこそ,CPN-Mは,民族の言語や文化,自由や権利は,実質的に保障されなければならないと考えるのである。

たとえば,1990年憲法(第18条)でも2007年暫定憲法(第17条)でも,母語による初等教育が保障されているが,自由な選択と競争に任せておけば,少数派言語を学んでも社会ではほとんど役に立たないから,親たちは,結局は,多数派言語のネパール語か,あるいは可能ならば「世界共通語」の英語を選択することになり,少数民族の言語や文化は衰退してしまう。形式的保障では,少数民族の自由や権利は守られないのだ。

CPN-Mが,ネパール文化を守るためインド映画を禁止する決定をしたことには,したがって十分な根拠がある。自由競争にゆだねると,大国インドの映画やTV番組が弱小国ネパールを席巻してしまい,ネパール語文化や諸民族語文化の衰退は免れないからだ。

CPN-Mは,断じてアナクロではない。むしろ,日本などより先行しているくらいだ。もし少数派諸集団の言語や文化,自由や権利を本気で守ろうとするなら,多数派有利の「表現の自由」や「知る権利」は制限されなければならない。

5.近代市民社会の常識と現代多文化社会
しかし,こう言ったからといって,「表現の自由」や「知る権利」が,民主主義や人格形成にとって必要不可欠の権利であることまで否定するわけではない。権力や多数派の側の情報のウソや偏向を暴き,人権を守り民主主義を前進させるためにも,また個々人の人格形成や文化発展を図るためにも,「表現の自由」や「知る権利」は最大限保障されなければならない。言論・映像・音楽など,あらゆる「表現」については,表現をもって応答し,権力や暴力で黙らせるといったことは許されるべきではない。近代市民社会では,これは常識であって,こんなことを言うのは蛇足にすぎない。

しかしながら,世界社会における少数派,多文化国家における少数派の実情を見ると,「言論には言論をもって」とか「表現には表現をもって」といった市民社会の常識が,深刻な反省を迫られているという感じがしてならない。ネパールでは,多くの少数派言語,少数派文化が,言語・言論・表現の形式的保障による自由競争のもとで衰退し,消滅しつつある。

これは余所事,他人事ではない。たとえば,日本語。以前,水村美苗『日本語のために』の紹介(下記参照)でも述べたが,このままでは日本語は「世界共通語」としての英語との自由競争に敗れ,衰退は免れない。親は日本語よりも世界に通用する英語を学ばせようとし,企業はグローバル競争に勝ち抜くため,英語を企業公用語にしてしまう。こうなると,日本社会において,一流言語=英語,二流言語=標準日本語,三流言語=他の諸言語,といった言語カースト制が成立する。これは魂=精神のカースト制であり,日本社会には深い亀裂が入り,修復は困難となるであろう。

言語・文化の自由市場競争による淘汰は,日本ではまだ緩慢にしか進行せず,激しい自覚症状は現れていないが,日本の100年の変化を数年で経験しているネパールでは,言語も文化も形式的権利保障だけで自由市場競争に投げ出されたため,相対的少数派の言語・文化から次々と衰退し消滅していっている。そして,こうした言語や文化の衰退は,その言語や文化をもつ民族の実質的な社会的地位の没落でもあるのだ。

6.ポストモダンのマオイスト
この少数派諸民族にとって酷な現実を見て,実力をもって多数派の言語や文化と対抗しようとしたのがプラチャンダの旧マオイストであり,旧マオイストの体制内化後は,現在のCPN-Mである。

CPN-Mのインド映画禁止運動は,乱暴ではあるが,多数派が見ようとはしない「表現の自由」や「知る権利」の多文化社会における問題点を鋭く突くものであることは間違いない。時代錯誤のアナクロ極左全体主義と冷笑して済ますことはできようはずがない。マオイストこそ,ポストモダンの前衛なのだ。

[参考資料]
・”CPN-Maoist declares nationwide ban on Hindi movies, Indian plate vehicles,” nepalnews.com, 26 Sep.
・”CPN-Maoist’s anti-India rant earns severe criticism,” The Himalayan Times, 26 Sep.
・”CPN-Maoist bans Hindi movies, Indian plate vehicles,” Republica, 27 Sep.
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8), 2009/06/16
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7), 2009/06/15
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(6), 2009/06/14
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(5), 2009/06/13
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(4), 2009/06/12
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(3), 2009/06/11
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(2), 2009/06/10
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(1). 2009/06/09

谷川昌幸(C)

朝日の反エコ面妖紙面

朝日新聞のGlobeについては何回か批判したが,3月4日付は以前にも増してヒドイ。

空きスペースだらけの資源浪費,読解難渋,美的センス皆無,文字転倒の倒錯・・・・。いったい誰が,誰を対象に,こんな紙面をつくっているのだろう? 西洋はもちろん,ネパールにだって,こんな読みにくい,反エコ新聞はない。

そして,奇妙なことに,別刷りだけでなく,朝日新聞本紙も,この反エコ横組みを採用し始めた。縦組みと横組みの混載。頭がクラクラする。

もちろん,一部を横組みにしてアクセントをつけることはこれまでにもあったし,日本語の自在さを生かした工夫はあってもよい。しかし,読みやすさ,デザインを無視し,紙面の1/3~1/2を横組みにしてしまうのは,トンデモ企画以外の何ものでもない。

新聞・雑誌や書籍の縦組みは,日本文化と深く結びついている。朝日新聞には,社会の公器として,日本文化を尊重し正しく伝える使命があるはずだ。

もちろん,横組みそのものが悪いわけではない。しかし,もし横組みに転換するのなら,横文字文化をよく勉強し,デザインも工夫し,まともな横組み新聞に移行すべきだ。

Globeや,本紙の縦横混載紙面は,おそらくデジタル朝日への移行準備であろう。紙媒体読者への一種の嫌がらせ。そうでなければ,こんな悪趣味なゲテモノ紙面を,金を取って臆面もなく宅配できるはずがない。

朝日には,「プロメテウスの罠」のような,優れた連載記事がある。このような卓越した,ジャーナリズムの鑑のような記事さえあれば,ことさら奇をてらわなくても,読者は決して朝日を離れないはずだ。朝日新聞には,ジャーナリズムの正道を歩んでほしい。

 朝日新聞グローブ,2012-3-4
 ■巨大空きスペース,カラー印刷,転倒文字。バブル景気再来のよう。

 朝日新聞,2012-3-1
 ■朝日本紙は縦横混載へ。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/03/06 at 14:31

カテゴリー: 情報 IT, 文化

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8)

谷川昌幸(C)
 9.日本語の選び直しは可能か?
以上,速読・粗読気味であったが,水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』を読んできた。もとより専門外の素人の読書ノートにすぎず,誤読もあろうが,そうした点は訂正しながら,お読みいただければ幸いである。
 
本書は,政治学一般の観点から読んでも面白いが,私の場合,最近,ネパール政治に凝っているので,とりわけ興味深く,身につまされる思いであった。
 
ネパールは,サンスクリットの豊穣な伝統に属し,植民地支配されることもなかったが,近代化が遅れたため,ネパール語の国語としての成熟以前に,英語帝国主義に席巻されてしまった。
 
ネパールでは,ネパール語が国語であり,1959年憲法以来,憲法でも「国語」と定められてきた。ところが,1990年民主化革命により自由化が一気に進むと,皮肉なことに,ネパール語を守ってきた様々な防壁が次々に取り除かれ,特にこの数年はインターネットを通して,英語が洪水のようにネパールに押し寄せてきた。
 
いまネパールに行くと,因襲的カースト制に代わって,新しい言語カースト制が成立しつつあることに気づく。「英語―ネパール語―諸民族語」の,魂までも序列化してしまう言語カースト制である。
 
ネパールでは,就職も昇進も,この言語カースト制により決まるようになってきた。それを見て,親たちは,どんな無理をしてでも,競って子供たちを内外の英語学校に入れようとする。高度な教育は,保育園・小学校から大学まで,英語で行われているからだ。貧乏人は,イヤイヤながら,現地語=ネパール語学校に行く。ネパールでは,誰知らぬものはない公然たる事実だ。マオイストですら,この言語カースト制には拝跪している。悪循環だ。英語帝国主義への隷従だ。分かってはいるが,もはや誰にも止められない。
 
このネパールで,B・アンダーソンが唱えたことを,同じ鈍感さで,かつ大いなる善意をもって実践しているのが,国連諸機関だ。
 
在ネパール国連諸機関は,最新の包摂民主主義を奉じ,少数諸民族の言語の保護育成に躍起になっている。ところが,その際,彼らもまた英語で大キャンペーンを繰り広げているのだ。何たる偽善か!
 
英語帝国主義の国連諸機関やその手先のネパール人たちが,いくら母語教育を喧伝しようが,ネパールの人々は,言語カースト制の現実を日々イヤというほど見せつけられている。誰が,そんな偽善的母語教育の笛で踊るものか。
 
そもそも,ネパール最高の就職先たる国連諸機関に就職するには,高度な英語力を要求される。多言語主義・母語教育主義を唱えるなら,まず国連諸機関が英語帝国主義を率先して放棄し,多言語主義を実践せよ。そうすれば,ネパールでも母語教育が実現できるだろう。もしそれができないのなら,英語で多言語主義を唱えるなどといった恥知らずなことは,直ちに止めるべきだ。
 
ネパール語を国語として成熟させる前に英語を受容してしまったネパールでは,もはや国語としてのネパール語の選び直しは不可能であろう。パソコンの進化で,たしかにデバナガリの使用は容易になった。普通のキーボードから,誰でも簡単に /fi6«efiff (राष्ट्र भाषा) と入力できる。しかし, /fi6«efiff (राष्ट्र भाषा) と書いて,誰が読んでくれるのか。natinal languageであれば,世界中の人々に理解してもらえる。
 
これが国語の成熟を見る前に「英語の世紀」に引きずり込まれてしまったネパールの惨状だ。日本も,こんな悲惨な言語植民地になってしまって,それでよいのか?
 
日本語を選び直す――滔々と進行する「英語の世紀」の中で,それは本当な可能であろうか・・・・。
 
水村氏の『日本語が亡びるとき』は,まさしく「読まれるべき言葉」が書かれた本物の「憂国の書」である。
 

Written by Tanigawa

2009/06/16 at 09:42

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7)

谷川昌幸(C)
7.英語の世紀と国語の危機
ところが,著者によると,グローバル化,情報化,大衆社会化などにより,いまや英語が唯一の普遍語となり,それ以外の国語は現地語へと引き下げられ,国民文学は存亡の危機に立たされている。「英語の世紀」が始まったのである。
 
たとえば,著者も指摘するように,日本でも学術論文は英語で書くようになりつつある。日本史や日本文学史の論文ですら,英語で書かされる。世界の多くの人に読んでもらうという高尚な目的よりも,業績評価において英語論文は5点もらえるのに,日本語論文はせいぜい2点,ひどい場合は0点にしかならないからである。 
 
また著者は,日本の大学が翻訳機関たることを止め始めたと指摘しているが,これも加速度的に進行している。優秀な大学,大学院ほど,入試や授業の英語化を進めている。英語授業がウリなのだ。
 
かくして日本語・日本文学の祝祭の時代は終わりを告げつつある。次の文章には,著者の悲壮な憂国の情が溢れている。少し長いが,力強い文章なので,引用しよう。  
 
 今、その〈国語の祝祭〉の時代は終わりを告げた。
 一度火を知った人類が火を知らなかった人類とちがうよう、あるいは、一度文字を知った人類が文字を知らなかった人類とちがうよう、一度〈国語〉というものの存在を知った人類は、〈国語〉を知らなかった人類とはちがう。美的のみならず、知的、倫理的な重荷を負うものとして〈自分たちの言葉〉で読み書きするのを知った人類は、地球規模の〈普遍語〉が現れたといっても、即、深い愛着をもつに至った〈国語〉に、知的、倫理的、美的な重荷を負わせなくなることはないであろう。だが、〈普遍語〉と〈普遍語〉にあらざる言葉が同時に社会に流通し、しかもその〈普遍語〉がこれから勢いをつけていくのが感じられるとき、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれていってしまう。それは、春になれば花が咲き秋になれば実が稔るのにも似た、自然の動きに近い、ホモ・サピエンスとしての人間の宿命である。
 悪循環がほんとうにはじまるのは、〈叡智を求める人〉が、〈国語〉で書かかなくなるときではなく、〈国語〉を読まなくなるときからである。〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれてゆくとすれば、たとえ〈普遍語〉を書けない人でも、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉を読もうとするようになる。ふたたび強調するが、読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものであり、〈普遍語〉のような〈外の言葉〉を読むのは、書くのに比べてはるかに楽な行為である。すると、〈叡智を求める人〉は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます〈国語〉で書こうとは思わなくなる。その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、〈叡智を求める人〉はいよいよ〈国語〉で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、〈叡智を求める人〉にとって、英語以外の言葉は、〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく。〈叡智を求める人〉は、〈自分たちの言葉〉には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいしだいに求めなくなっていくのである。(p253-4)
 
まったくもって水村氏は愛国者(パトリオット)であり憂国の志士だ。漱石の苦悩を自らの苦悩として追体験したいと願っていられるようでさえある。しかし,その願いはもはや叶えられそうにない。
 
果たして漱石ほどの人物が、今、大学を飛び出して、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。今、日本語で小説を書いている人たちの仲間に入りたいと思うであろうか。いや、それ以前に、問わねぽならない問いがある。果たして漱石ほどの人物が、もしいたら今、日本語で書かれている小説を読もうなどと思うであろうか。/悲しいことに悪循環はとうにはじまり、日本で流通している〈文学〉は、すでに〈現地語〉文学の兆しを呈しているのではないだろうか。(p261)
 
*参照:内田樹「日本の外国文学が亡びるとき」 (http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
 
8.「英語の世紀」の英語教育と日本語教育
(1)英語帝国主義の鈍感と偽善
憂国の志士,水村氏は「英語の世紀」の到来に悲壮な闘いを挑まれている。「英語帝国主義」などといった俗な表現は使用されていないが,内容的には氏の主張は英語帝国主義批判に他ならない。本書で,この関係で私にとって特に印象的であったのは,氏のB・アンダーソン批判である。
 
著者は,アンダーソンが著書『想像の共同体』において国家を「想像の共同体」とし,それと「国語」との関係を解明したことを高く評価しつつも,「英語に関する考察がまったく欠落している」という点を厳しく批判する。 著者によれば,アンダーソンは2005年,早稲田大学で講演し,最後をこう締めくくったそうだ。
 
学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。/英語ではだめなのです。保証しますよ。(p116)
 
これに対し著者は,そんなことをいっても,それじゃと,インドネシア語やフィリピン語を学ぶ人がどれだけいるか,と批判する。アンダーソンは,多言語主義が実際には英語ができることを大前提にしていることに,まったく気づいていない。
 
アンダーソンには英語が<普遍語>であることの意味を十分に考える必然性がなかっただけではない。考えないまま、多言語主義の旗手となる必然性ももっていたのである。(p119)
 
この部分の注で,著者はアンダーソンもあとで普遍語としての英語の力に気づくようになったと補足しているが,しかし,英語圏の人々が英語の特権的地位に鈍感なことは,紛れもない事実だ。
 
弱小言語の大切さを最強普遍語の英語で述べ伝える。「英語ではだめなのです」と英語で言う。何たる鈍感,何たる偽善か! これぞ英語帝国主義の真骨頂だ。著者はこんな下品な表現はされていないが,ここでの批判は,まさにこのようなことであろう。
 
こうしたことは,グーグルの図書デジタル化計画についても認められる,と著者は指摘している。たしかに,各国語の図書のデジタル図書館化は可能であろうが,英語はそれらとはまったくレベルが異なる。そのことに英語圏の人々はまったく無自覚だ。
 
それらの[非英語]〈図書館〉のほとんどは、その言葉を〈自分たちの言葉〉とする人が出入りするだけなのである。/唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな〈普遍語〉となりつつある英語の〈図書館〉であり、その〈図書館〉だけが、英語をく外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする〈図書館〉なのである。/英語を〈母語〉とする書き手の底なしの無邪気さと鈍感さ。(p246)
 
まさにその通り。こうした英語母語者の無邪気と鈍感こそが,「英語の世紀」の最大の脅威であり,憂国の志士,水村氏と共に「日本語宣言」を高く掲げ,断固闘い抜かねばならないのである。
 
(2)英語エリート教育のすすめ
「英語の世紀」はもはや押しとどめられない。では,この時代において,どのような英語教育を行い,どのようにして日本語を守っていくか? これが水村氏のこれからの切実な課題となる。
 
「英語の世紀」の英語教育には,次の三つの方針が考えられる。
  Ⅰ <国語>を英語にしてしまう。
  Ⅱ 全国民をバイリンガルにする。
  Ⅲ 国民の一部をバイリンガルにする。
 
 ①英語エリート教育
結論から言うと,著者はⅢの英語エリート教育を採用するよう要求する。
 
Ⅲを選ばなくては、いつか、日本語は「亡びる」。(p278)
 
日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きでこと足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。・・・・/かれらは、英語を苦もなく読めるのは当然として、苦もなく話せなくてはならない。発音などは悪くともいいが――悪い発音で流通するのが〈普遍語〉の〈話し言葉〉の特徴である――交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない。それだけではない。読んで快楽を与えられるまでの、優れた英語を書ける人もいなくてはならない。優れた英語を書くことこそ、インターネットでプログが飛び交い、政治そのものが世界の無数の人たちの〈書き言葉〉で動かされるこれからの時代には、もっとも重要なことだからである。(p276-7)
 
この英語エリート教育に,私は賛成だ。国際交渉の場で堂々と意見が述べられないのは英語だけのせいとは思わないが,それでも英語圏の人々と同等以上に英語に通じた練達の英語プロ集団をもつことは,「英語の世紀」における日本国益のためにも,絶対に必要なことだ。戦車や戦艦などなくても,英語プロ軍団は不可欠だ。
 
②片言英語教育の愚劣
では,日本は実際にはどのような英語教育を行っているのか? Ⅰの英語を日本国語とする案は,かつて森有礼が唱えたことがあるが,いまではこれの支持者はほとんどいない。
 
いま目標とされているのは,Ⅱである。学校教育を通して,「国民総バイリンガル社会」を実現し,英語を(第二)公用語にしてしまおうというのだ。
 
しかし,著者は,そんなことは不可能だし必要でもないと批判する。この先,在日外国人が少々増えようと,日常会話は片言で用が足り,皆がバイリンガルになる必要はさらさらない。
 
ところが,日本の学校教育は,英語ができなければ乗り遅れるといった世間の英語強迫観念にも押され,不必要かつ不可能な「国民総バイリンガル社会」を目標としている。
 
小学校では,「片言でも通じる喜びを教える」ため,英語が導入された。見当外れも甚だしい(p287)。 インターネットの時代,もっとも必要になるのは,「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは,世界中で通用する<普遍語>を読む能力である(p289)。
 
③英語は選択科目に
「英語の世紀」に求められる英語プロ集団を育成するには,学校での英語は選択科目とすべきなのである。
 
(3)日本語教育
著者は,「英語の時代」の英語教育をこのように英語エリート教育に改めることにより,国語を守っていくことが可能になると考える。
 
もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、Ⅲという方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。(p284-5)
 
 だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリソガルになる必要などさらさらないという前提すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。しかも、そうすることによってのみしか、〈国語〉としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念として掲げることはできない。
 人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い〈書き言葉〉の伝統をもった日本語なのである。
 〈国語>こそ可能な限り格差をなくすべきなのである。 (p290)
 

Written by Tanigawa

2009/06/15 at 14:17

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(6)

谷川昌幸(C)
5.国語と国語の祝祭
 (1)国語 National Language
著者は,国語を「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」(p105)と定義する。そして,国家が自然なものではなく「想像の共同体」(B・アンダーソン)であるのと同じく,「 <国語>は自然なものではない」(p105)と考える。
 
国語は,国民国家が成立し,その社会の出版語(print language)が国民国家の言葉に転じたとき,生まれる。つまり,15世紀に印刷機が発明され,「口語俗語」が「書き言葉」となり,書物として印刷され,これが資本主義の発達により成立した市場において広く流通することにより,国民国家の言語としての国語が成立するのである(p109-113)。
 
この国語の成立において不可欠なのが,上位レベルの言語(ラテン語など)を下位の現地語に訳す「翻訳」である。
 
翻訳とは、そうすることによって、上位のレベルにある〈普遍語〉に蓄積された叡智、さらには上位のレベルにある〈普遍語〉によってのみ可能になった思考のしかたを、下位のレベルにある〈現地語〉の〈書き言葉〉へと移す行為だったのである。/その翻訳という行為を通じて、〈現地語〉の言葉が〈書き言葉〉として変身を遂げていく。ついには、〈普遍語〉に翻訳し返すことまで可能なレベルの〈書き言葉〉へとなっていく。〈国民国家〉の誕生という歴史を経て、その〈書き言葉〉がほかならぬ〈国語〉として誕生するのである。(p134)
 
こうして国語が誕生しても,ヨーロッパ知識人は,長らく普遍語(ラテン語など)と国語の二重言語者であったが,仏英独語などの各国語が十分成長すると,それらが普遍語へと昇格し,人々はラテン語などでの読み書きをやめ,それぞれの国語で学問をするようになった。仏英独語は普遍語と国語の二重性をもつ言語となったのである(p138-140)。そして,その後,仏独語が脱落し,英語が世界の普遍語の地位を獲得していくことになる。 ここで普遍語と学問の関係が問題となる。
 
くり返すが、学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において〈普遍語〉でなされる必然がある。/このことは、何を意味するのか?/それは、〈自分たちの言葉〉で学問ができるという思いこみは、実は、長い人類の歴史を振り返れば、花火のようにはかない思いこみでしかなかったという事実である。〈国語〉で学問をしてあたりまえだったのは、地球のほんの限られた地域で、ほんのわずかなあいだのことでしかなかった。そして、その時代は、長い人類の歴史のなかでは、規範的であるよりも、例外的な時代であった。(p144)
 
学問は,西洋語(仏英独)でなされなければならなくなり,そしていまや英語でなされなければならなくなったのである。こう考えると,前述のように,日本ではこれまで日本語で学問ができていたということが,いかに奇跡的なことかが,よく分かる。
 
(2)国語の祝祭
しかし,国語はもう一つ,それが現地語・母語にも足をおいているという特質がある。普遍語と現地語の両特性の上に成立するのが,国民文学であり,著者はそれが栄えた時代を「国語の祝祭」の時代と呼んでいる。
 
ヨーロッパで<国民文学>としての小説が、満天に輝く星のようにきらきらと輝いたのは、まさに<国語の祝祭>の時代だったのであった。それは、<学問の言葉>と<文学の言葉>とが、ともに、〈国語〉でなされていた時代である。そして、それは、〈叡智を求める人〉が真剣に〈国語〉を読み書きしていた時代であり、さらには、〈文学の言葉〉が〈学問の言葉〉を超えるものだと思われていた時代であった。(p147-8)
 
くり返すが、〈国語〉とは、もとは〈現地語〉でしかなかった言葉が、〈普遍語〉からの翻訳を通じて、〈普遍語〉と同じレベルで、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負うようになった言葉である。しかしながら、〈国語〉はそれ以上の言葉でもある。なぜなら、〈国語〉は、〈普遍語〉と同じように機能しながらも、〈普遍語>とちがって、〈現地語〉のもつ長所、すなわち〈母語〉のもつ長所を、徹頭徹尾、生かし切ることができる言葉だからである。(148-9)
 
かくして、〈国語〉は、あたかも自分の内なる魂から自然にほとぼしり出る言葉のように思えてくるのである。〈国語〉とは、必然的に、〈自己表出〉の言葉となる。小説は、社会に対する個人の内面の優位を謳うものとして発展していったが、内面の優位とは、実は、〈国語〉で書くことの結果でしかない。(p149)
 
6.国語としての日本語の成立と日本文学
(1)国語としての日本語の成立
著者は,このような仏英独語に匹敵する国語が日本において奇跡的に成立したのは,幸運にも次の三条件が満たされたからであったと考える。
 
①「書き言葉」としての日本語の成熟
日本語は,普遍語としての漢文の日本現地語への翻訳を通して熟成していき,普遍語と同等のレベルの言語となっていった。その際,日本と漢文圏との「距離」も幸いした。近すぎると,たとえば科挙制度などで,日本が漢文圏に吸い込まれてしまうことを防止できなかったであろう。こうして――
 
日本の二重言語者の男たちは<普遍語>で読み書きしながらも、自然に<現地語>でも読み書きするようになった。/そのおかげで、日本語は<普遍語>の高みに近づき、美的な重荷を負うだけでなく、時には、<普遍語>と同じように、知的、倫理的な重荷も負うのが可能な言葉になっていったのであった。(p169)
 
②印刷資本主義
江戸時代には,300年の平和の下で資本主義が発達し,藩校や寺子屋により教育も普及した。識字率は世界一だったといわれている。
 
これを背景に,印刷資本主義が発達し,日本の「書き言葉」は成熟し広く流通していった。著者も指摘するように,福沢諭吉の『学問のすゝめ』は初版(明治5年)が20万部,全17編で300万部以上売れたのである。
 
③植民地支配を受けなかった
日本語成立にとって,日本が植民地にならなかったことは,決定的であった。植民地支配されれば,宗主国言語が支配言語となり,現地語は下位言語とされてしまう。もしアメリカが日本を植民地化しておれば(可能性は大であった),日本中の優れた人々は英語で教育を受け,英語で読み書きするようになっていただろう。
 
要するに、もしアメリカの植民地になっていたら、〈普遍語/現地語〉という、二重構造のなかで、英語が〈普遍語〉として流通し、日本語は、正真正銘の〈現地語〉として流通することになったはずである。たとえ美的な重荷を負うことはあっても、知的、倫理的な重荷を負うことはほとんどなかったはずである。悲しい「ニホンゴ」。(p180)
 
幕末維新の頃の愛国主義,ナショナリズムは,植民地化を免れ独立維持を目指す限りにおいて,決して不健全なものではなかった。その最大の文化的遺産は,著者が称賛するように,日本語であったといってよいであろう。
 
 (2)大学と日本語
日本語が成熟するには,大学の果たした役割も大きかった。そもそも日本の大学は西洋文明の翻訳機関として設立され,「翻訳者養成所として機能するようになった」(p199)。
 
[日本の大学は英独仏三大言語を教えた。]そして、重要なのは――世界的にみても重要なのは、このような非西洋の二重言語者である日本人が、西洋語という〈普遍語〉をよく読みながらも、〈普遍語〉では書かず、日本語という〈国語〉で書いたという点にある。それによって、かれらは翻訳を通じて新しい〈自分たちの言葉〉としての日本語を生んでいった。そして、その新しい日本語こそが〈国語>――同時代の世界の人々と同じ認識を共有して読み書きする、〈世界性〉をもった〈国語〉へとなっていったのであった。(p200)
 
日本に近代文学があるのを可能にした条件は日本に〈国語〉があったことにあり、日本に〈国語〉があるのを可能にした条件は日本に大学があったことにあり、日本に大学があるのを可能にした条件は、まさに日本が西洋列強の植民地になる運命を免れたことにあった。 (p201)
 
事実、〈国語〉が高みに達したときは、単一言語者であっても、〈世界性〉をもった文学を書けるようになる。しかも、時を得た人間の能力には底知れぬものがあり、すべては目を瞠るような勢いでおこる。二重言語者が育つやいなや一挙に翻訳本が増える。すると〈世界性〉をもった〈国語〉で書かれた言葉が一挙に増える。〈世界〉で何が起こっているかをおおよそ知るために、西洋語をじかに読む必要がなくなるのである。/そして、言葉というものは、そうなってこそ、〈国語〉だと言えるのである。(p229)
 
 こうして,日本語は漢文からの翻訳,西洋語からの翻訳を通して「国語」の高みに達し,そして著者のいうあの奇跡としての日本近代文学を生み出していくことになったのである。
 

Written by Tanigawa

2009/06/14 at 09:59

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(5)

谷川昌幸(C)
4.普遍語・国語・現地語
本書における議論のキータームは,言語の三類型としての「普遍語」「国語」「現地語」である。また,これらを使う人々については,自分の話し言葉以外の言語を読める人を「二重言語者」,二言語を自在に話せる人を「バイリンガル」と呼び,明確に区別される。
 
(1)言語の三類型
まず,言語の三類型については,それら3種の言語は上下の三層構造をなすものとして説明される。学問的真理を基準とするなら,普遍語が最上位にあり,現地語が最下位に来る。ところが,生活の「現実」を基準とすれば,現地語がそれに最も近く,普遍語は遠いということになる。図解すれば:   
 
   普遍語 ― 国語 ― 現地語
 
この言語三類型の説明を見たとき,私はすぐ丸山眞男の「思想史の考え方について」(1961年,著作集9)を思い浮かべた。丸山は,思想を次の三類型に分類した。   
 
   教義 ― 観念 ― 時代精神
 
教義は,高度に自覚的で抽象度の高い体系や学説。観念は,「進歩」や「いき」など,教義ほども自覚的でも体系的でもないもの。時代精神は,理性的反省以前の生活感情さらには意識下にあるもの。丸山は,これら3レベルの思想の関係について,次のように説明している。
 
このさまざまのレヴェルでの思想の相互の連関を考えるについては、まずこれを全部包括した、多義的なものとしての「思想」を出発点として想定します。そうしますと、およそ思想というものにオリエンテーションを与える、つまり目標や方向性を与えるのは、相対的にこの成層において上のレヴェルにあるものです。つまり目的意識性、目的設定による方向性というものは、上から下に向かって行く。それに反して思想を推進していくようなエネルギーというものは、逆にこの層の下の方から発して上へと上昇していくこういうことが言えるのではないでしょうか。そこでカントの有名な言葉をもじっていうならば、たとえば生活感情とか実感とか、そういうものによって裏づけられないところの理論なり学説なり教義なりは「空虚」であり、逆に理論、学説、教義あるいは世界観というものによって方向づけられない実感は「盲目」である、つまりエネルギーはあるけれどもどこにいくか、どういう機能を果たすかわからない。こういうことがいえるのではないか。一般的に目的設定もしくは方向性の設定は上から下に、エネルギーは下から上にいく、ということになりましょう。(著作集,p65-66)
 
さすが丸山,あざやかな分析である。学問(科学)と実感のいずれかなどという,不毛な議論ではなく,両者はいわば弁証法的関係にある。 水村氏の言語の三類型は,結局,丸山が言おうとしたことと,おなじことであろう。彼女は,ここではおそらく丸山のこの論文は見ていない。もし彼女がこの論文を読み,下敷きにしていたら,この部分の議論はもっと明確なインパクトがあるものになっていたであろう。
 
(2)二重言語者とバイリンガル
次に,「二重言語者」と「バイリンガル」については,著者は,話すことよりも読むことを重視し,もっぱら「二重言語者」について議論している。「普遍言語」を母語としない人々にとって重要なのは,「普遍言語」をペラペラ話せるようになることではなく,それを読めるようになることだからである。(後述のように,この観点から軽薄英会話教育が完膚無きまでに批判されることになる。)
 
――以上のことをふまえて,以下,「普遍語」と「現地語」についてみていく。「国語」はそれら両者との関係の中で議論されるので,節を改め議論することにする。
 
(3)普遍語(universal language)
普遍語とは,原理的に世界に開かれた世界言語であり,たとえばラテン語,ギリシャ語,アラビア語,サンスクリット,漢語などである。
 
①聖なる言語: もともと普遍語はキリスト教,イスラム教,ヒンドゥー教,仏教,儒教などの聖典を書き記した「聖なる言語」(B・アンダーソン)であった。
 
②書き言葉,読まれるべき言葉: この「聖なる言葉」は「書き言葉」であり,「読まれるべき言葉」であった。つまり,それらは様々な現地語を使う人々が共通して読み書きする普遍言語であり,二重言語者の使う言語だったのである。
 
③世界に開かれた言葉: 普遍言語は,現地語や母語がなんであれ,共通して読まれるべき言語であり,したがって「世界に向かって開かれた言葉」である。その純粋型は,誰の母語(現地語)でもない数学言語。これは万人に開かれている。
 
④学問の言葉: 普遍語は,書き言葉であり,記録として残り,したがって写され,修正され,追加され,広まっていく。それは,人類の叡智の蓄積である。だから,「叡智を求める人」は,普遍語を読み普遍語で書こうとする。普遍語は「学問=scienceの言葉」である。
 
学問で〈普遍語〉を使うのは、便宜上のためや、慣習や法に従うためではない。学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いたことが〈真理〉であるかどうか、〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問うことによって、人類の叡智を蓄積するものだからである。くり返すが、学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において、〈普遍語〉でなされてあたりまえなのである。(p129)
 
(4)現地語(local language)
現地語とは,多くの場合,母語であり,人々が巷で使う「口語俗語」である。
 
〈普遍語〉は、上位のレベルにあり、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負わされる。それに対して、〈現地語〉は下位のレベルにあり、もし〈書き言葉〉があったとしても、それは、基本的には、「女子供」と無教養な男のためのものでしかない。(p132)
 
しかし,その反面,母語は自然に体得するものであって,言語の恣意性を意識しなくても済む。母語は生まれながらに話していたように感じられる。「お母さん」という言葉とそれが指し示す対象としての「母親」との間には,自然な必然的関係があるように思われる。それが現地語の特権である。
 
これは,いわば生活実感としての言語といってもよいであろうが,この部分の著者の説明は必ずしも十分とはいえない。現地語は「女子供と無教養な男のためのもの」(p132)などと偽悪的な表現をしているが,説明不足のため真に受けて,水村氏は現地語蔑視だ,女性差別だ,インテリ・エリート主義だ,などと憤慨する人が出てくるにちがいない。
 
むろん著者は現地語蔑視などしてはいない。おそらく著者は,人為的な(意識的に学習する)普遍語と,自然な(と感じられる)母語ないし現地語を対比し,前者はその人為性のゆえに翻訳可能だが,後者はその自然性・直接性のゆえに翻訳不可能だ,ということがいいたいのだろう。経験の直接性や固有性,あるいは生活「実感」は,自然な(と感じられている)母語ないし現地語でしか語れない。それが現地語の特権だということであろう。
 
著者の説明は,ここのところがいまひとつ明確ではない。普遍語と現地語をヒエラルヒーの上下に位置づけてしまったがため,現地語の固有の意義がはっきりしなくなってしまったのだ。現地語や母語には,普遍語に翻訳しきれない特権的価値があり,そこから「文学の真理」は生まれてくる。おそらくそういうことだろうが,そこのところが明確ではない。
 
ここのところは,もし著者が丸山眞男を読んでいたのであれば,あの「教義―観念―時代精神」の図式が利用できたはずだ。そうすれば,「普遍語―国語―現地語」の説明が,もっとダイナミックに,わかりやすく説明できていたであろう。
 
(5)「学問の真理」と「文学の真理」
この普遍語と現地語(母語)の問題は,「学問の真理」と「文学の真理」の区別,あるいは「テキストブック」と「テキスト」の区別という観点からも,議論されている。これも,分かったようで,よく分からない。著者はこう説明している。
 
<テキストブック>を読めばすむ<真理>を代表するのが<学問の真理>なら、<テキスト>そのものを読まねばならない<真理>を代表するのが,<文学の真理>である。(p152)
 
くり返すが、この世には二つの種類の〈真理〉がある。別の言葉に置き換えられる〈真理〉と、別の言葉には置き換えられない〈真理〉である。別の言葉に置き換えられる〈真理〉は、教科書に置き換えられるく真理>であり、そのような〈真理〉は〈テキストブック〉でこと足りる。ところが、もう一つの〈真理〉は、別の言葉に置き換えることができない。それは、〈真理〉がその〈真理〉を記す言葉そのものに依存しているからである。その〈真理〉に到達するには、いつも、そこへと戻って読み返さねばならない〈テキスト〉がある。(p251)
 
真理には「学問の真理」と「文学の真理」があることは分かる。文学は数式には還元できない。そして「学問の真理」はテキストブックに書き留められ,それを読めば分かることも分かる。数学の真理は数式を読めば理解力のある人には理解できるからである。
 
では,数式にも還元できず,別の言葉にも翻訳できない「文学の真理」とは何か?  著者は,文学的真理は「言葉そのものに依存している」といい,またそれは「文体に宿る」(p153)ともいっている。では,ここでいう「言葉」や「文体」とは何であり,それらで表現される「真理」を「知る」とはどのようなことか?  
 
「テキスト」を「テキストブック」に翻訳していって,それでも最後まで翻訳しきれずに残る文学的真理とは何か? 難しいが,いつかは翻訳しきれるはずの「真理」なのか? それとも本質的に学問的には理解不可能な別個の「真理」なのか? 
 
もし別個の「真理」とすると,それがどうして複数者に共有されることを本質とする「言葉」によって表現できるのか? 翻訳不能な自分だけの「言葉」は,形容矛盾ではないのか?  いや,それよりもなによりも,いかに根源的・個人的な体験(本人のみの特権的「実感」と感じられるもの)にせよ,実際には,他者なしでは成立しないのではないか?
 
あるいは,「テキスト」や「文体」そのものに宿る「真理」とは,分からないけれど何かあるに違いないといった「真理」なのか? あるいは,分からないけれど「テキスト」や「文体」に何かあると,どうして分かるのか?  そんなものはないのではないか?
 
この問題の理解を一歩前進させるためには,実感(主観)と科学(客観)を媒介する美的判断,つまり特権的個別的実感(直接的体験)が他者にどう共感(共有)されるか,の考察が必要ではないか? 文学的真理は,著者が言うように「言葉」に依存するものであり,であるとすると,もっぱら科学と対比してその特権的個別性を擁護するのではなく,むしろ美的判断の対象として取り扱った方がよいのではないか?
 
以上のように,この問題は,切った張ったの俗な政治学をやっている私にとってはあまりにも難しい。分かるようで分からない。分からないようで分かる。そこが、文学の文学たるゆえんかもしれない。
 

Written by Tanigawa

2009/06/13 at 11:36

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(4)

谷川昌幸(C)
3.奇跡としての日本語と日本文学
(1)日本語・日本文学の世界的意義
パトリオットにしてナショナリスト,憂国の志士・水村氏は,日本語をフランス語に優るとも劣らない世界史的意義を持つ言語と確信している。そして,その日本語で書かれた日本文学も,世界史的価値を持つ。これはブリタニカも認めているところだとして,著者はその部分を翻訳し引用している。
 
その質と量において、日本文学は世界のもっとも主要な文学(major literatures)の一つである。その発展のしかたこそ大いにちがったが、歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいては、英文学に匹敵する。現存する作品は、七世紀から現在までに至る文学の伝統によって成り立ち、この間、文学作品が書かれなかった「暗黒の時代」は一度もない……。(p102,下線部分は原著傍点)
 
(2)奇跡としての日本語・日本文学
これは,非西洋世界にあっては奇跡的なことだ,と著者は力説する。
 
日本のようにはやばやとあれだけの規模の近代文学をもっていた国は、非西洋のなかでは、見あたらないということである。そして、さらに、たしかなのは――たしかである以上に重要なのは、たとえ世界の人には知られていなかったとしても、世界の文学をたくさん読んできた私たち日本人が、日本近代文学には、世界の傑作に劣らぬ傑作がいくつもあるのを知っているということである。/そのような日本近代文学が存在しえたこと自体、奇跡だと言える。(p103)
 
日本が近代以前から成熟した文学的な伝統をもっていたおかげ――まさに、漢文も含めた長い文学の伝統、しかも、市場を通じて人々のあいだに広く行き渡っていた文学の伝統をもっていたおかげである。日本の文学は、「西洋の衝撃」によって、〈現実〉の見方、そして、言葉そのもののとらえかたに「曲折」を強いられた。世界観、言語観のパラダイム・シフトを強いられた。だが、日本の文学はその「曲折」という悲劇をバネに、今までの日本の〈書き言葉〉に意識的に向かい合い、一千年以上まえまで遡って、宝さがしのようにそこにある言葉を一つ一つ拾い出しては、日本語という言葉がもつあらゆる可能性をさぐっていった。そして、新しい文学として生まれ変わりながらも、古層が幾重にも重なり響き合う実に豊かな文学として花ひらいていったのである。/・・・・これほど多様な文字と文学の伝統とをまぜこぜにし、しかもそれぞれの歴史の跡をくっきりと残した文学――そのような文学は私が知っている西洋の文学には見あたらない。(p225-226)
 
日本人が日本語という言葉に向かい合ううちに、日本近代文学は波のうねりが高まるように、四方の気運を集め、空を大きく駆けめぐったのである。そして、それは、歴史のいくつもの条件が重なり、危うい道を通り抜けて初めて可能になったことであった。日本近代文学というものがこの世に存在するようになったこと――れ自体が、日本近代文学の奇跡なのである。(p227)
 
(3)日本語・日本文学の固有性
しかも、著者によれば,日本語・日本文学は単に優れているばかりか,他をもってしては代え難い固有の存在価値を持っている。
 
日本文学の善し悪しがほんとうにわかるのは、日本語の〈読まれるべき言葉〉を読んできた人間だけに許された特権である。/強調するが、いくらグローバルな〈文化商品〉が存在しようと、真にグローバルな文学など存在しえない。グローバルな〈文化商品〉とは、ほんとうの意味で言葉を必要としないもの――ほんとうの意味で翻訳を必要としないものでしかありえない。(p264)
 
かなりキワドイ発言だ。日本文化は日本人にしか分からないという,すでに論破されたと信じられている議論スレスレだ。たしかに挑発的発言であり危ういが,しかし,今はやりの多文化主義は,結局,このことをいっているのではないか。
 
著者と違って,議論を詰めもせず呑気にグローバル化時代の多文化共生(異文化と仲良くしましょう!)などといっている人々には,文化の固有性の主張がいかに危険か,まるで分かっていない。著者は,それを十分に分かった上で,つまり普遍性との緊張関係・相互作用のもとで,文化の固有性を断固守り抜こうとしているのだ。
 
(4)人類文化のための日本語擁護
結局,日本語・日本文学が守られなければならないのは,日本人だけでなく世界全人類のためでもある。
 
これは本書の結論部分であり,パトリオット水村氏の悲壮な「日本語宣言」といってもよい。結論の先取りになるが,全体の流れがわかりやすくなるので,ここで引用しておこう。  
 
だが、これから先、日本語が〈現地語〉になり下がってしまうこと――それは、人類にとってどうでもいいことではない。・・・・[世界の人は]〈普遍語〉と同じ知的、倫理的、美的な重荷を負いながら、〈普遍語〉では見えてこない〈現実〉を提示する言葉がこの世から消えてしまうのを嘆くはずである。 人類の文化そのものが貧しくなると思うはずである。 少なくとも、日本語をよく知っている私たちは、かれらがそう思うべきだと思うべきである。 この先、〈叡智を求める人〉で英語に吸収されてしまう人が増えていくのはどうにも止めることはできない。大きな歴史の流れを変えるのは、フランスの例を見てもわかるように、国を挙げてもできることではない。だが、日本語を読むたびに、そのような人の魂が引き裂かれ、日本語に戻っていきたいという思いにかられる日本語であり続けること、かれらがついにこらえきれずに現に日本語へと戻っていく日本語であり続けること、さらには日本語を〈母語〉としない人でも読み書きしたくなる日本語であり続けること、つまり、英語の世紀の中で、日本語で読み書きすることの意味を根源から問い、その問いを問いつつも、日本語で読み書きすることの意味のそのままの証しとなるような日本語であり続けること――そのような日本語であり続ける運命を、今ならまだ選び直すことができる。(p322-323)
 
マルクスの「共産党宣言」は,やけに元気で明るいプロパガンダであった。これに対し,水村氏の「日本語宣言」には悲壮感が漂う。前回書いたように,「今ならまだ選び直すことができる」といいつつも,インターネット英語の「普遍語化」による日本語の死はもはや押しとどめようがない,と観念されているからに違いない。

Written by Tanigawa

2009/06/12 at 09:57

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