ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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世界でいちばん美しい村,大阪上映

「世界でいちばん美しい村」が,大阪の「第七芸術劇場」(淀川区十三)で,6月17日から上映される。石川梵監督らのトークショーも予定されている。詳しくは,同劇場HPをご覧ください。
 ●第七芸術劇場 http://www.nanagei.com/

世界でいちばん美しい村
「ネパール大地震で壊滅した村が、悪戦苦闘しながら復興を果たそうとする姿を捉えた感動のドキュメンタリー。貧しくともいつも笑顔のアシュバドル一家、村を支える一人の看護婦、神秘的な風習、ヒマラヤの大自然を舞台に繰り広げられるさまざまな人間模様を捉える。」(公式HPより)

■公式HPより

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2017/06/13 at 10:53

カテゴリー: ネパール, 自然, 文化

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大野裕之『チャップリンとヒトラー』

20世紀の「天才」2人,チャップリンとヒトラーを表紙に見ただけで,この本を買わずにはいられなかった。そして持ち帰り,読み始めると,たちまち引き込まれ,最後まで読み終えてしまった。綿密な実証に裏付けられたノンフィクションないし学術書なのに,フィクションのように,いやそれ以上に面白い。

本書において著者は,「四日違いで生まれて,同時期に同じ髭を生やし,第二次大戦開戦の直後に『独裁者』撮影開始,パリ入城の翌日にラストの演説撮影,という両者の人生における交差」を,単なる「偶然」としてでも「必然」としてでもなく,稀有な「必然的偶然」として丹念に描いている(230頁)。この「必然」と「偶然」の実証的描写――そこに本書の劇的な「面白さ」の秘訣があるように思われる。

チャップリンは1931年に,こんなことを語っている。まるで21世紀の「美しい国」に向けてのように。
愛国心というのは,かつて世界に存在した最大の狂気だよ。私はこの何カ月かヨーロッパの各国をまわってきたが,どこでも愛国心がもてはやされていた。これがどういう結果になるかというと,また新たな戦争だ。願わくば,この次は老人を前線に送ってもらいたいね。今日のヨ一口ッパでは,真の犯罪者は老人なんだから。(37頁)

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 一八八九年四月- 二〇世紀の世界で,もっとも愛された男ともっとも憎まれた男が,わずか四日違いで誕生した。
 やがて、二人の才能と思想は,歴史の流れの中で,巨大なうねりとなって激突する。
 知られざる資料を駆使し,映画『独裁者』をめぐるメディア戦争の実相をスリリングに描く!
(表紙カバーより)

*大野裕之『チャップリンとヒトラー』岩波書店,2015年

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/02/20 at 11:16

暑くて濃いミニバス

ネパール・カトマンズ盆地のミニバスは,安くて便利だ。トヨタ・ハイエースなどを使い,乗客を詰め込めるだけ詰め込み,猛スピードでぶっ飛ばすので,乗るには多少のコツと勇気を要するが,要領さえつかめば,どこでも乗り降りできるし,15~20ルピーでたいていのところには行ける。

そのミニバスで,先日,とんでもないサービスを受けた。ネパール在住の方には周知のことだろうが,なんと,ミニバスの前方上方にTVモニターが設置され,PR付ビデオが放映されていたのだ。

しかもそのビデオが,例のマサラ系。カンカン照りの晴天の上,例のバルクーやカリマティで長時間渋滞。こんな時は気を利かせエベレストかアンナプルナ方面の爽やかな高原ものでも流してくれたらよいのに,そんな配慮は一切なし。炎天下,排ガスまみれで,超濃厚マサラ映像&音楽を延々と堪能させられたわけ。

さすがのネパール人乗客にも口笛,掛け声の元気なし。20ルピーで超濃厚ネパール! 通に,お勧め。

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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/08/01 at 19:40

カテゴリー: 文化, 旅行

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「風立ちぬ」:ごちゃまぜ中途半端

連日の酷暑に参り,涼みに映画館へ。宮崎駿監督「風立ちぬ」を観てきた。126分の大作。

絵はきれいで,あれこれ考えさせられるところもある作品だが,一度見た限りでは,全体的に中途半端で,とくに三分の二位の部分はダレ気味で,間が持たない感じ。

ストーリーは,堀越二郎のゼロ戦設計に至る半生と堀辰夫『風立ちぬ』を合わせたもの。堀越のことは全く知らないし,『風立ちぬ』もほとんど忘れているが,この合わせ技がうまくいっていない。

企画書(宣伝パンフレット)には,「この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして,ひとりの主人公“二郎”に仕立てている」と書かれている。いくらなんでも「ごちゃまぜ」はひどいと思ったが,観た後では,たしかに「ごちゃまぜ」という印象を払拭しきれなかった。正直な企画宣伝部員だ。(それとも,これは監督自身の本音か?)

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「ごちゃまぜ」感を禁じ得ないのは,「菜穂子」と「ゼロ戦設計」が二兎追いとなり,どちらつかずとなっているから。「純愛」なら菜穂子を追うべきだが,追い切れない。宣伝文に「愛と青春を描いた一大感動作!!」と謳うが,ちょっと違うのではないか?

この映画のメインテーマは,やはり「ゼロ戦設計」の方であろう。「純愛」をウリとするのなら,戦闘機であれ何であれ「美しい飛行機」でさえあればよい,といった「純粋さ」を追い詰めるべきだった。ところが,二兎追いの結果,「純粋さ」は維持しきれず,随所に戦争批判が織り込まれる。観客はなめられている。中途半端な,平板な戦争批判が,申し訳のサッカリンのように「純粋さ」にまぶされている。観客のためではなく,制作者自身のために。

そもそも堀越二郎といった実在の人物や「風立ちぬ」といった既成作品を下敷きにしたのが,まずかったのではないか? フィクションに徹していたら,純粋に生きようとする人々が自他を傷つけ,あるいは悪に荷担せざるを得ない人生の不条理を,美しくも切なく,冷酷にして残酷に描けたのではないだろうか?

この映画では,「ピラミッドの無い世界より有る世界の方がよい」あるいは「(それにもかかわらず)生きねば」といったメッセージが,セリフや語りでくどくど説明されている。作品としての完成度が不十分と言わざるをえない。

[新聞記事:2013.8.21追加]
映画:賛否両論「風立ちぬ」「感動」×「違和感」キーワードは「ピラミッド」 (毎日新聞2013年08月21日東京夕刊)

私(記者)も見た。126分の上映時間が過ぎ、エンドマークが出る。沈黙。周囲の観客はささやきすら交わさず、おもむろに帰り支度を始める。そう、感想を言葉にしようにも、言葉にならないのだ。「宮崎監督は何を訴えたかったのだろう」。素朴な疑問がいつまでも消えない。

この記者の疑問は「素朴」ではない。やはり,できが悪いのだ。記事によれば,東浩紀,中森明夫,藤原帰一,渡辺真由子,大高宏雄といった人たちも厳しい評価をしているという。

[新聞記事:2013年9月28日追加]
沢木耕太郎氏が「風立ちぬ」を批評している。言葉使いは慎重だが,「大人のための作品」でも子供のための作品でもないとは,手厳しい。根本的な批判であり,要するに,失敗作という評価であろう。

沢木耕太郎「銀の街から:風立ちぬ」(朝日新聞,2013年9月27日)
「これは宮崎駿の作品ではない・・・・」
「(二郎の零戦と菜穂子の恋という)この二つの要素は,映画の中で,有機的な融合がなされていない。」
「二郎の前には,多少の風は吹き渡っていても凹凸のない平原があるだけだ。険しい山もなければ,深い谷もない。」
「この『バリアフリー』化に輪をかけたのが,主人公の声である。主人公の声に物語の起伏を生みだす力がなかったため,ますます『風立ちぬ』は平坦なものになってしまった。」
「もし,この『風立ちぬ』を見て,子供たちが退屈するとしたら,それは『大人のための作品』だったからではない。」
「これは新しいものを生みだした作品ではなく,かつてあったものが失われた映画だったからである。」

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/08/11 at 11:00

カテゴリー: 平和, 文化

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文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動

1.CPN-Mのインド映画禁止運動
マオイスト左派のCPN-M[バイダ派マオイスト]が,9月26日,「下劣なインド映画」とインド車両の全面禁止を宣言した。すでにCPN-Mは,影響下の自称「タムサリン州」の10郡(チトワン,マクワンプル,ダディン,シンドパルチョーク,カブレなど)において,インド車両の通行を実力阻止し,インド映画・インド音楽の上映や放送を禁止している。26日の発表は,このインド映画・インド車両排除運動の全国への拡大宣言である。

この決定のうち,インド車両の禁止は,分からないわけではない。インド登録車両がどの程度ネパール国内に入り使用されているか正確には分からないが,相当数使用されていると思われ,もしそうなら独立国家ネパールの政治と経済にとって,これはゆゆしき問題であり,何らかの規制は当然といえよう。

2.CPN-Mはアナクロ全体主義か?
これに対し,インド映画禁止は,「知る権利」や「表現の自由」の真っ向からの制限であり,賛否が分かれる。CPN-Mのパンパ・ブサル報道担当は,こう述べている。

「インド映画はネパール国家とネパール人民を侮蔑し,卑猥を助長し,文化汚染を広めるものだ。それゆえ,わが党は,インド映画を禁止することにした。」(nepalnews.com, 26 Sep)

これに対し,統一共産党(CPN-UML)は,「幼児的敵対行為」と批判し,コングレス党(NC)やマデシ諸党派も同様の理由により強く反発している。

たしかに,「表現の自由」や「知る権利」の世界的常識からみると,CPN-Mのインド映画禁止運動は非常識であり,時代錯誤の極左全体主義といわざるをえない。CPN-Mは,各方面からの激しい非難を受け,すべてのインド映画が反ネパール的というわけではないので,「反ネパール的映画か否かを判定する独立機関を設置する」(Republica, 27 Sep)ことにより,有害でないインド映画は上映を許可するようにしたいと説明しているが,これとて権力による「検閲」であり,見方によれば,全面禁止よりも危険といわざるをえない。

こうしたことは今日では自明のことであり,人権論の初歩である。CPN-Mは,そんなことも知らないアナクロ全体主義政党なのだろうか?

 ネパールの映画館

3.権利の形式的保障の弱点
西洋諸国や日本の人々の多くは誤解しているが,ネパール・マオイストは人権論や民主主義論の最新の動向をよく知っており,したがって「表現の自由」や「知る権利」についても十分な知識を持っている。CPN-Mは,そんなことはわかった上でインド映画全面禁止を決定,実力をもってそれを全国実施させようとしているのである。なぜか?

それは,CPN-Mが,自由や権利の形式的保障は強者ないし多数派の側に有利であり,実際には弱者や少数派にとっては何の権利保障にもならないことをよく知っているからである。

CPN-Mの支持基盤はジャナジャーティ(少数派民族諸集団)である。これらの民族諸集団は,それぞれ独自の言語や文化をもっているが,それらは1990年革命が成功し自由民主主義体制になっても,多数派言語・文化との自由競争にさらされるばかりで,実際には保護されることなく衰退一方であった。

そして,自分たちの言語や文化の衰退は,その社会での民族としての存在の希薄化と表裏一体であるから,少数派諸民族は1990年憲法体制のもとで実際には民族としての自律性をも喪失していくことになった。言語や文化の自由競争,すなわち「表現には表現をもって」とか「言論には言論をもって」といった自由や権利の形式的保障こそが,少数派民族の危機をもたらしているのである。

4.民族の権利の実質的保障
だからこそ,CPN-Mは,民族の言語や文化,自由や権利は,実質的に保障されなければならないと考えるのである。

たとえば,1990年憲法(第18条)でも2007年暫定憲法(第17条)でも,母語による初等教育が保障されているが,自由な選択と競争に任せておけば,少数派言語を学んでも社会ではほとんど役に立たないから,親たちは,結局は,多数派言語のネパール語か,あるいは可能ならば「世界共通語」の英語を選択することになり,少数民族の言語や文化は衰退してしまう。形式的保障では,少数民族の自由や権利は守られないのだ。

CPN-Mが,ネパール文化を守るためインド映画を禁止する決定をしたことには,したがって十分な根拠がある。自由競争にゆだねると,大国インドの映画やTV番組が弱小国ネパールを席巻してしまい,ネパール語文化や諸民族語文化の衰退は免れないからだ。

CPN-Mは,断じてアナクロではない。むしろ,日本などより先行しているくらいだ。もし少数派諸集団の言語や文化,自由や権利を本気で守ろうとするなら,多数派有利の「表現の自由」や「知る権利」は制限されなければならない。

5.近代市民社会の常識と現代多文化社会
しかし,こう言ったからといって,「表現の自由」や「知る権利」が,民主主義や人格形成にとって必要不可欠の権利であることまで否定するわけではない。権力や多数派の側の情報のウソや偏向を暴き,人権を守り民主主義を前進させるためにも,また個々人の人格形成や文化発展を図るためにも,「表現の自由」や「知る権利」は最大限保障されなければならない。言論・映像・音楽など,あらゆる「表現」については,表現をもって応答し,権力や暴力で黙らせるといったことは許されるべきではない。近代市民社会では,これは常識であって,こんなことを言うのは蛇足にすぎない。

しかしながら,世界社会における少数派,多文化国家における少数派の実情を見ると,「言論には言論をもって」とか「表現には表現をもって」といった市民社会の常識が,深刻な反省を迫られているという感じがしてならない。ネパールでは,多くの少数派言語,少数派文化が,言語・言論・表現の形式的保障による自由競争のもとで衰退し,消滅しつつある。

これは余所事,他人事ではない。たとえば,日本語。以前,水村美苗『日本語のために』の紹介(下記参照)でも述べたが,このままでは日本語は「世界共通語」としての英語との自由競争に敗れ,衰退は免れない。親は日本語よりも世界に通用する英語を学ばせようとし,企業はグローバル競争に勝ち抜くため,英語を企業公用語にしてしまう。こうなると,日本社会において,一流言語=英語,二流言語=標準日本語,三流言語=他の諸言語,といった言語カースト制が成立する。これは魂=精神のカースト制であり,日本社会には深い亀裂が入り,修復は困難となるであろう。

言語・文化の自由市場競争による淘汰は,日本ではまだ緩慢にしか進行せず,激しい自覚症状は現れていないが,日本の100年の変化を数年で経験しているネパールでは,言語も文化も形式的権利保障だけで自由市場競争に投げ出されたため,相対的少数派の言語・文化から次々と衰退し消滅していっている。そして,こうした言語や文化の衰退は,その言語や文化をもつ民族の実質的な社会的地位の没落でもあるのだ。

6.ポストモダンのマオイスト
この少数派諸民族にとって酷な現実を見て,実力をもって多数派の言語や文化と対抗しようとしたのがプラチャンダの旧マオイストであり,旧マオイストの体制内化後は,現在のCPN-Mである。

CPN-Mのインド映画禁止運動は,乱暴ではあるが,多数派が見ようとはしない「表現の自由」や「知る権利」の多文化社会における問題点を鋭く突くものであることは間違いない。時代錯誤のアナクロ極左全体主義と冷笑して済ますことはできようはずがない。マオイストこそ,ポストモダンの前衛なのだ。

[参考資料]
・”CPN-Maoist declares nationwide ban on Hindi movies, Indian plate vehicles,” nepalnews.com, 26 Sep.
・”CPN-Maoist’s anti-India rant earns severe criticism,” The Himalayan Times, 26 Sep.
・”CPN-Maoist bans Hindi movies, Indian plate vehicles,” Republica, 27 Sep.
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8), 2009/06/16
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7), 2009/06/15
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(6), 2009/06/14
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(5), 2009/06/13
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(4), 2009/06/12
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(3), 2009/06/11
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(2), 2009/06/10
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(1). 2009/06/09

谷川昌幸(C)