ネパール評論 Nepal Review

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Posts Tagged ‘構造的暴力

京都の米軍基地(93):文化的暴力の刷り込み

京丹後駐留米軍がフェイスブック(FB)で,3月27日開催「イースターイベント」における子供利用を,あっけらかんと全世界に向け,宣伝している。

「3月27日、第14ミサイル防衛中隊は京丹後市国際交流協会の協力の下、・・・・大宮アグリセンターでイースターイベントを開催いたしました。約130名のお子様と保護者の方に御参加頂きました。参加者は、キャンディーや“ミッションカード”が入ったカプセルを拾う“エッグハント”・・・・を楽しみました。また、アメリカ人が読む絵本読み聞かせや、兵隊と腕相撲、じゃんけんを楽しみました。・・・・」(米軍FB,3月30日)
「3月27日、第14ミサイル防衛中隊は、宇川アクティブハウスでもイースターイベントを開催致しました。約30名のお子様と保護者の方に御参加頂きました。」(米軍FB,4月1日)

イースターはクリスマスと並ぶキリスト教の重要祭事。それを米軍が主催し,地元の子供たち多数を招き,参加させたのだ。

ここで子供たちが拾わされた「ミッションカード」の「ミッション」とは,いうまでもなく本来はキリスト教の「伝道, 布教」のこと。ひょっとしたら,「イースターについて兵隊さんに教えてもらいましょう」とか「イエス復活の図にマルをつけましょう」などといったミッション(任務)が書かれていたのかもしれないが,詳細不明。

あるいは,子供たちは「兵隊と腕相撲やじゃんけん」をさせられた。これは,子供たちを軍隊や軍人に慣れさせることに他ならない。しかも,外国の! 維新知事の大阪府ですら,そのホームページで,平和否定の「暴力の文化」について,このように説明している。

「直接的暴力[戦争など]、構造的暴力[貧困,差別など]、文化的暴力は相互に依存・補完しあっています。文化的暴力とは他の2つに正統性を与え、支えているものです。・・・・文化的暴力の中には、戦争を容認する意識・・・・が含まれています。そして、そういった姿勢や意識というものが、直接的・構造的暴力を正当化・合法化するのです。」(大阪府人権学習シリーズHP)

まともな独立国なら,どの国であれ,自国の子供たちを好き勝手に利用させるようなことを,外国進駐軍に決して許しはしないだろう。「キャンディーやミッションカードが入ったカプセルを拾う」――“ギブミー・チョコレート!”と,どこが違うのだ!

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 ■異教徒の村で米軍がキリスト教宣伝(米軍FB,4月1日)
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 ■アメリカの兵隊さんと腕相撲(米軍FB,4月1日,顔引用者消去)
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 ■ギブミー・キャンディー!(米軍FB,3月30日,顔引用削除)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/04/04 at 19:59

京都の米軍基地(87): 米軍・自衛隊・監視カメラ

住民監視カメラがまた増設されたらしい。これは,既設カメラから,ほんの百数十メートルしか離れていない三叉路のもの。新設ピカピカ。さぞかし鮮明な画像が得られることだろう。(既設カメラとは設置主体・目的が別かもしれないが,盗撮され利用されることに違いはない。)京丹後は,先述の沖縄「海洋博公園」万人監視体制に近くなってきた。

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もう一つ驚いたのが,「エルモ(駐留軍等労働者労務管理機構)」。米軍基地を誘致したおかげで,自衛隊関係業務に加え,独立の事務所を構えなければならないほどの米軍基地関係業務が地元に落ち始めたのだ。

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まずはメシ。生活の平穏やプライバシーなど,地方搾取でヌクヌク暮らす都市住民の既得権にすぎない。文句あるなら,地方移住してみよ!

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/01/19 at 11:29

表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

フランスのムハンマド風刺画掲載紙(シャルリー・エブド)襲撃事件(2015年1月7日)は,現代民主主義社会の根幹に関わる難しい問題である。「表現の自由は無限定だ」とか「言論には言論で」といった形式論理の「正論」で応えても,それは空論というよりはむしろ,より根源的な問題の隠蔽に他ならず,決して問題の真の解決にはならないであろう。
150117 ■仏政府HPより

現代社会においても,言論や表現は無制限どころか,実際には法的あるいは社会的規制が無数にある。名誉毀損,プライバシー侵害,危険行為煽動など,言論・表現の自由の乱用は許されない。これは常識だ。またヘイトスピーチやナチス賛美のような言論・表現も,多かれ少なかれ禁止している国が少なくない。では,もしそうであるなら,なぜ信者に耐えがたい苦痛を与えるようなムハンマド風刺は,許されなければならないのか?

言論・表現の自由は,本来,弱者や少数派が強者や多数派に対して抵抗するための武器である。力は強者・多数派のものであり,弱者・少数派は力では勝ち目はない。だから,弱者や少数派には,言論・表現をもって強者や多数派に抵抗する自由や権利が認められているのである。他方,強者や多数派には,言論・表現の自由をことさら保障するに及ばない。彼らは,事実として,自分たちの考えや意見を押し通す優越した力をもっているからである。

このように,本来,主張され守られなければならないのは弱者・少数派の言論・表現の自由であるが,しかし,この自由は民主化とともにますます保障が困難になってきている。なぜなら,民主社会では,多数派が権力を握り,多数意見が「正義」「正論」とみなされているからである。

いや,そればかりか,「言論・表現の自由」という場合の「自由」の概念それ自体からして,現代社会では強者・多数派によって形づくられてしまっており,彼らはその自分たちの「自由」概念を使って弱者・少数派を抑圧支配するのである。

そのことは,強者・多数派には意見を形成し宣伝普及させるための様々な前提条件(教育・資金・メディア等々)が十分に整っているのに,弱者・少数派にとってはそうではない,という事実をみれば,一目瞭然である。

現代社会の強者・多数派が「言論・表現の自由」を大上段に振りかざし,「自由を守れ!」と叫ぶとき,それはたいてい社会の弱者・少数派を抑圧し黙らせるためである。トクヴィルやJ・S・ミルが警告した「世論の専制」「社会的専制」である。

もっとも,強者/弱者,多数派/少数派といっても,それはあくまでも相対的な区別である。社会や人間関係は多元的・複層的であり,ある人が同時に社会関係Aでは強者・多数派,社会関係Bでは弱者・少数派ということも少なくない。言論・表現の自由が守られなければならないのは,この相対的弱者・少数派に対してである。

では,今回のムハンマド風刺画事件は,どう見るべきであろうか? 問題は単純ではない。現代の世界社会全体から見ても,ヨーロッパ社会から見ても,掲載週刊紙は強者・多数派の側に立っているか,あるいはそちらに近いように思われる。しかし,もしイスラム教原理主義により抑圧されている人々の側に立っているといえるとするならば,掲載週刊紙は弱者・少数派を代弁しているということにもなる。

掲載週刊紙は,実際には,おそらくこれら両側面を併せ持っているのであろうが,これまでの報道を見ると,その限りでは,この週刊紙は現代世界の強者・多数派の側からムハンマド風刺画を掲載したという印象は否めない。先進国・日本の一市民たる私ですらそう感じるのだから,ましてや途上国や周縁化された地域のイスラム教徒たちがそう感じたとしても,それはやむをえないであろう。

言論を暴力で封じることは,もちろん許されない。が,その「暴力」とはなにか? 現代平和学の権威,ガルトゥング博士は,暴力には「直接的暴力」と「構造的暴力(間接的暴力)」があるといっている。暴力は許されない,という場合の「暴力」は,これら二つの暴力のいずれも許されないということである。そして,「平和」とは,この直接的暴力と構造的暴力のいずれもがない状態のことに他ならない。この平和概念,暴力概念は,いまでは国連でも西洋でも広く認められている。

もしそうだとするなら,言論・表現を「直接的暴力」で封じるのが許されないのと同様,それを「構造的暴力」で間接的に封じることもまた許されないはずである。ところが,先進諸国の「表現の自由」大合唱は,彼ら自身も認めている「構造的暴力」の問題にご都合主義的に目をふさぎ,もっぱら「直接的暴力」のみを非難攻撃しているように見えて仕方ない。直接的暴力は残虐だが,構造的暴力はそうではない,とでも強弁するつもりだろうか? 

[参照]
宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件
文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動
前田朗,「私はシャルリではない。テロの挑発をやめよ」-2015年をどう闘うか(『関西共同行動』ニュース67号2015年1月31日)

谷川昌幸(C)

後進国への後退とシャネル広告

シャネルが,朝日新聞朝刊(3月29日)に,全面広告を6頁(!!)も出している。日本人を見くびり,自然や人類をバカにした,許されざる所業だ。

後進国が「途上国」と改称される以前の後進国にいって真っ先に驚いたのが,高級ブランド店の超豪華仕様。後進国住民の大半はその日暮らしさえままならない惨状なのに,ごくわずかの特権階級相手に,目玉の飛び出そうな高価な贅沢品を売っていた。最近はめでたく「途上国」に発展したので,以前ほど酷くはなくなったが,それでも庶民生活と高級ブランド店との落差は大きい。

高級ブランド店は,少数の特権階級に寄生し,格差拡大とともに厚かましくも派手になり,格差を商品化し,繁栄する。

シャネルが高級紙に6頁もの全面広告を出したのは,日本が後進国へと後退し,宿主が生まれ生長し始めたからだ。特権階級は,むろん大多数の庶民を搾取して太っていく。日本は,搾取が構造化された後進国型階級社会に転落し始めたのだ。マルクス万歳!

そもそも6頁全面広告は,日本人見くびり以前に,自然浪費だ。この空疎な広告のため,山や森の木が何本切り倒されたのか? 石油が何ガロン燃やされたのか? 川の水や地下水が何万KL汚染されたのか? 反自然的・反人類的と断罪せざるをえない。

こんな反倫理的・反社会的広告を掲載した朝日も,むろん同罪だ。高級紙なら,貧すれども鈍せず,高級紙としての品格を堅持すべきだろう。

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[参照]シャネルの新聞広告

谷川昌幸(C)

 

Written by Tanigawa

2014/03/29 at 11:34

自称「右翼軍国主義者」の「積極的平和主義」:安倍首相の国連演説

安倍首相が,自称「右翼の軍国主義者」として,H・カーン賞受賞スピーチ(9月25日)と国連総会演説(9月26日)において,「積極的平和主義」を唱えた。

このうち自らを「右翼の軍国主義者(right-wing militarist)」と称したのは客観的な正しい事実認識だが,「積極的平和主義」の方は極めて欺瞞的である。外国と英語を利用した巧妙な詐術。こんな不誠実な元首演説を許してはならない。

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 ■安倍首相の国連総会演説(9月26日)

1.”under control”以上に危険な「積極的平和主義」
安倍首相は自他ともに認める「右翼」だから,夷狄たる諸外国ないし国際社会の常識は端から無視している。リオデジャネイロでは,カタカナ英語で”under control”と放言した。国際社会の常識では,福島原発の現状は”un-controlled”あるいは”out of control”だが,そんなことは全く意に介さない。

このような用語法は,「右翼の軍国主義者」の伝統に則っている。周知のように,帝国陸軍は対中「戦争」を「事変」と呼び換え誤魔化した。また,戦況不利で退却を余儀なくされると,それを「転進」と呼び換え誤魔化した。しかし,国際社会の常識では,中国での戦いは「戦争」であり,部隊の後退は「退却」ないし「敗退」である。

このような言葉による誤魔化しは,国際社会では通用しなかったが,不幸なことに,いや滑稽かつ悲惨なことに,日本社会では効果絶大であった。帝国臣民は素直に「事変」と信じ,暴支膺懲に走った。そして,帝国陸海軍の「転進」は,結局,大日本帝国それ自体を破滅させることになった。「敗退」,「退却」であれば,敗因と責任が解明され,次の作戦に生かされていたはずだが,「転進」,「転進」と叫んでいるうちに,銃後の臣民ばかりか軍自身もそれを信じてしまい,同じような失敗を繰り返し,戦況を見失い,あげくは,あの破滅的敗戦の悲惨を招くことになってしまったのである。

福島原発も,”under control”と言いつのっているうちに,当事者までそれを信じ,ますます事故原因の解明や責任追求がおろそかとなり,結局は帝国陸海軍と同じような破滅への行程を辿ることになってしまう可能性が高い。

安倍首相の「積極的平和主義」もまた,このような呼び換え語法の一変種である。安倍首相は,国際社会では「消極的平和」と呼ばれているものを「積極的平和主義」と呼び換え,国連総会演説やH・カーン賞受賞スピーチで,それを日本政府の平和貢献への基本指針とすると宣言した。これは”under control”に勝るとも劣らない危険な重大発言である。

 131001c ■H・カーン賞受賞スピーチ(9月25日)

2.消極的平和の定義
安倍首相の掲げている平和は,国際社会の常識では,積極的平和ではなく,消極的平和(negative peace)である。これは,「平和」を「戦争のない状態」と定義する。「ない」というnegativeな形での定義なので,「消極的(negative)平和」と呼ばれている。

消極的平和は,近代の基本的な平和概念であり,これは「力のバランス(balance of power)」によって実現されると考えられていた。だから,平和(戦争のない状態)の実現には,「力」(中心は軍事力)が不可欠であり,常に相手をにらみながら軍事力を増強することが求められた。

この消極的平和は現在でも根強く支持されており,日本の歴代政府も基本的にはこの立場をとってきた。安倍内閣もそれを継承したが,従来の慎重に限定された自衛隊の役割には満足できず,その制限を一気に取り払う政策へと大きく方向転換した。軍隊の抑止力による平和(消極的平和)が前面に打ち出され,憲法解釈変更による集団的自衛権行使の承認や憲法9条の改正,あるいは日米安保の強化が強く唱えられるようになったのは,そのためである。国際常識から見ると,このような安倍首相の平和政策は,まちがいなく「消極的平和主義」である。

3.積極的平和の定義
これに対し,積極的平和(positive peace)は,第二次世界大戦終結前後から注目されはじめ,ガルトゥングらの努力により,冷戦終結後,急速に有力になってきた平和の考え方である。積極的平和は,単に戦争のない状態,つまり消極的平和は真の平和ではないと考える。たとえ戦争が無くても,社会に貧困,差別,人権侵害などの構造的暴力があれば,あるいは日本国憲法の文言で言うならば「専制と隷従,圧迫と偏狭」などがあれば,その社会は平和とはいえない。構造的暴力は紛争原因となり,紛争は戦争をも引き起こす。だから真の平和は,構造的暴力が存在せず,人々が基本的人権を享受しうるような積極的(positive)な状態でなければならないのである。

この積極的平和の実現には,軍隊はほとんど役に立たない。構造的暴力は,非軍事的な人間開発*によってはじめて効果的に除去できる。消極的平和が軍事的手段によって「戦争のない状態」の実現を目指すのに対し,積極的平和は平和的・非軍事的手段によって「戦争原因のない積極的平和」の実現を目指すのである。
 *「人が自己の可能性を十分に発展させ、自分の必要とする生産的・創造的な人生を築くことができるような環境を整備すること。そのためには、人々が健康で長生きをし、必要な知識を獲得し、適正な生活水準を保つための所得を確保し、地域社会において活動に参加することが必要であるとする。パキスタンの経済学者マプープル=ハクが提唱した概念(デジタル大辞泉)」。国際社会ではUNDPが中心になって人間開発に取り組んでいる

4.呼び換えとしての「積極的平和主義」
以上が,平和の二概念に関する国際社会の常識である。だから,私も,当然,安倍首相がこの国際常識に従って「積極的平和」を唱えたものと思っていた。ところが,驚いたことに,実際には,そうではなかった。安倍首相は,消極的平和への貢献を積極的平和主義と呼び換え,そのための軍事的貢献を国際社会に約束したのである。

まず注目すべきは,用語法。日本語の方は,国連演説(日本語)でもH・カーン賞受賞スピーチ日本語訳でも「積極的平和主義」となっている。ところが,英語の方は,いずれにおいても,”Proactive Contribution to Peace”ないし”Proactive Contributor to Peace”となっている。(国連演説英訳H・カーン賞受賞スピーチ英語原文

当初,安倍首相が「積極的平和主義」を唱えたと報道されたので,私は,てっきりガルトゥングらのいう”positive peace”,あるいは非軍事的手段による平和貢献を語ったのだと思い,大いに期待した。ところが,そうではなかった。”positive”はなく,その代わりに”proactive”が「貢献」の前に置かれ,日本語版では「積極的平和主義」と表記されていたのだ。巧妙な呼び換え,いや欺瞞,詐術とさえ言ってもよいかもしれない。

それでも英語の方は”proactive”と言っているので,少なくとも外国では大きな誤解は少ないだろう。”proactive”という用語は,”proactive defense”という形でよく使用されるように,事前・先手の対策,その意味での積極的防衛という意味合いが強い。安倍首相は,H・カーン賞受賞スピーチで具体例を挙げ,”proactive”をこう説明している。

現在の日本国憲法解釈では,国連PKO派遣自衛隊は,隣の派遣外国軍が攻撃されても助けられない。また,日本近海の米艦が攻撃されても,自衛隊の艦船は米艦を助けられない。これは”proactive”ではない。だから「日本は,地域の,そして世界の平和と安定に,今までにもましてより積極的に(proactively),貢献していく国になります」。つまり,平たく言えば,憲法は集団的自衛権行使を禁止しているというこれまでの政府解釈を変更し,あるいは機を見て憲法9条を改正し,自衛隊を普通に戦える軍隊に変えることによって,自衛隊を戦う軍隊として国連PKOや多国籍軍,あるいは日米共同軍事作戦に参加させるということである。

これは,いうまでもなく軍事力による平和貢献であり,目指されている平和は,結局,「消極的平和」ということになる。消極的平和への”proactive”な貢献!

ところが,日本国内向けの日本語版になると,安倍首相はもっぱら「積極的平和主義」を唱えたということになり,これだけでは従来一般的に使用されてきた「積極的平和(positive peace)」と見分けがつかない。実に紛らわしい。というよりもむしろ,意図的に紛らわしい用語を用い,積極的平和を支持してきた多くの人々を惑わせ,取り込むことをひそかに狙っているように思われる。

5.日本国憲法と積極的平和への貢献義務
平和的・非軍事的・非暴力的手段による平和貢献と,軍事的手段による平和貢献は,原理的に全く異なる。日本国憲法が規定しているのは,いうまでもなく非軍事的手段による積極的平和への貢献である。

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日本国憲法 前文
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.

第二章 戦争の放棄
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
CHAPTER II RENUNCIATION OF WAR
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
——————————

これは,世界に先駆けた積極的平和の宣言に他ならない。日本国民は,非軍事的・非暴力的手段により世界の構造的暴力(恐怖と欠乏)を除去し,積極的平和(平和のうちに生存する権利)を実現する努力をする,と世界に向け宣言し約束した。憲法は,日本国民が誠実にこの努力を続け,国際社会における「名誉ある地位」を得ることを要請しているのである。これは,軍事的手段による消極的平和への”proactive(積極的)”な貢献のことでは,断じてない。

積極的平和は日本の国是である。そして,それを定めた日本国憲法は「国の最高法規」であり,首相は当然「この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(98条)。日本国元首たる首相が,違憲の政策を国連総会で国際公約するようなことは断じて許されない。

 131001 ■『あたらしい憲法のはなし』(文部省,1947)挿絵

6.言霊の国
言葉は,どの文化圏でも,霊魂の宿るところとして畏れられ大切にされてきた。キリスト教では「はじめに言葉があり,言葉は神であった」のであり,日本は「言霊の国」とされてきた。

ところが,その「言霊の国」日本で言葉を最も軽んじ弄んできたのは,日本固有の文化と伝統を守るはずの「右翼の軍国主義者」らであった。

「事変」と「転進」に誤魔化されたように,いままた”under control”や「積極的平和主義」に誤魔化され,体制翼賛に走ると,日本は再び道を大きく誤ることになるであろう。

[参照1] 安倍首相の怪著『美しい国へ』

[参照2]
●『積極的平和主義を目指して』総合研究開発機構(NIRA),2001年
 日本が積極的平和主義を目指して世界のために貢献しようとするのであれば、国連の平和維持活動(PKO)にこれまで以上に積極的に参加していく必要がある。・・・・以前として凍結されたままになっている自衛隊の部隊などによるいわゆる平和維持活動の本態業務の早急な凍結解除が望ましい。・・・・
 本体業務の凍結解除に続いて必要とされるのは、いわゆる日本のPKO五原則の見直しである。冷戦後は、紛争当事者が確定し難い内線型の紛争が頻発するようになったこともあり、停戦合意の存在や日本の参加への関係当事者の同意等の条件に関しては、国連の平和維持活動開始の決定により満たされたものとみなすとの趣旨の法改正が望ましい。また、派遣隊員などによる武器使用についても憲法解釈の問題はあるが、国連の慣行との整合性を図る努力が必要であろう。・・・・ (誤字が多いが原文のまま引用)
(NIRA出版物情報 http://www.nira.or.jp/past/pubj/output/dat/3502.html)

『新・戦争論 積極的平和主義への提言』伊藤憲一著,新潮新書,2007年
(1)書評:小田嶋隆(日経ビジネス2007年11月16日)
 筆者によれば、最も重大な点は、憲法第九条の二項(←「大きな問題があります」と言っている)にある。
 すなわち、第二項が〈過ぎ去った「戦争時代」の発想や思考で雁字搦めになっているからです。このままでは日本は不戦時代に入りつつある世界の流れから取り残されるだけでなく、不戦時代を作りだそうとする世界のコンセンサスに背くことにさえなります。現行の第二項は「終わった戦争」や「終わった時代」に固執して、不戦時代の到来という新しい時代をまったく理解していないからです〉[P153]というのだ。
 で、その「新しい時代」である「不戦時代」の要請に応えるために、日本は、「あれもしない」「これをしない」という偽物の平和主義から脱却し、「あれもする」「これもする」という「積極的平和主義」へと踏み出さねばならないということらしい。
 ちなみに、本書の末尾の一文はこうなっている「見て見ぬふりをする消極的平和主義から、市民としての義務を果たす積極的平和主義へと、日本人はその平和主義を脱皮させる必要があります。世界的な不戦共同体に参加し、その共通の目的に積極的に貢献することこそが、われわれに求められている課題であると言わねばなりません」[P177]
 つまり、目的が「戦争」でないのだから、軍事力の行使もアリだ、と、そういうことなのだろうか?
 著書の言う「積極的平和主義」が、かつて歴史の中で繰り返されてきたように、開戦の口実にならなければよいのだが。
(http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071115/140706/)

(2)書評: 堂之脇光朗(日本紛争予防センター理事長)
 加えて、「積極的平和主義」も提言されている。「あれもしない、これもしない」といった「消極的平和主義」は戦争時代の思考法にとらわれた偽物の平和主義であり、国連の平和維持活動などのために「あれもする、これもする」との積極的平和主義こそが不戦共同体の一員としての日本の選択であるべきだとしている。7年ほど前に総合研究開発機構(NIRA)が「戦争の時代から紛争の時代へ」などとして、「積極的平和主義を目指して」と題する研究報告を発表したことがある。その後、国連に平和構築委員会が設置され、わが国の防衛庁も防衛省に改組された。このような最近の時代の流れからみても、積極的平和主義がわが国の進むべき道であることは間違いないであろう。
(http://www.jfir.or.jp/cgi/m-bbs/contribution_history.php?form%5Bno%5D=547)

谷川昌幸(C)

京都の米軍基地(8):基地反対集会

1.「6・15丹後集会」
「京都に米軍基地はいらない! 6・15丹後集会」に参加した。雨天にもかかわらず,参加者約500名。

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▼集会次第
13時30分~ 司会 丹後連絡会事務局長 近江裕之
      主催者あいさつ 丹後連絡会副代表 三野みつる
      会の代表などを紹介、メッセージの紹介
13時38分~ 経ケ岬米軍基地設置 徹底質問 軍事と法律の専門家に聞く
      質問者 府民の会 小林さん
      回答者
       府民の会事務局長・京都平和委員会理事長 戸田昌基
       自由法曹団京都支部事務局長・弁護士   渡辺輝人
      京丹後市議会、京都府議会での質疑・協議について
      会場のみなさんからの質問時間もとります
      カンパの訴え
14時10分~ 私も一言
      集会アピール
      閉会あいさつ 府民の会代表 京都総評・吉岡徹議長
14時35分閉会

▼京都に米軍基地いらない6・15丹後集会アピール
日米両政府は、京丹後市経ケ岬に米軍基地を設置しようとしています。

私たちは丹後の美しい自然を生かした地域の振興を願っており、米軍基地の設置は、このことを真っ向からふみにじるものです。米軍基地の設置をやめるよう、私たちは強く求めます。

新たにつくられようとしている米軍基地は、アメリカ本土のミサイル防衛のための「目」となるXバンドレーダーを設置するものです。これは、核戦争の最前線基地が京丹後市につくられるということです。米軍基地の設置は、この地域の軍事的な危険を高め、住民のくらしと自然を脅かします。

Xバンドレーダーは、住宅地から数百メートルしか離れていないところに置かれます。日本政府は安全だと主張していますが、強力な電磁波を出すため、レーダー周辺は150メートルの立ち入り禁止区域と半径6キロ、高度6キロの飛行禁止区域が設定されます。海難事故の救援や、ドクターヘリの運行にも支障が出ます。そのため住民は強い不安を抱いています。

今、全国に132の米軍基地があります。どこでも米軍と軍属による犯罪、不祥事、交通事故が問題となっています。そして、安保条約にもとづく取り決めによって、米軍と軍属が日本で問題を起こしても、日本の警察が調査・逮捕できない事例が、あいかわらず多発しています。経ケ岬には米兵と軍属が160名配備されようとしています。この不安も拭い去ることはできません。

京都に米軍基地はいりません!

住民のくらしと自然を守るため、「京都に米軍基地はいらない」の声を一層大きくしましょう。

2013年6月15日

京都に米軍基地いらない6・15丹後集会参加者一同

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1時間あまりの集会では,米軍Xバンドレーダー基地の概要が説明され,いくつもの危険性が厳しく指摘された。現地で,現場を前にした説明は,やはりリアリティがある。とくに,地元の平と袖志の方,そして「宇川有志の会」の方の発言は,具体的であり,地元の切実さがひしひしと感じられた。

2.組織主導と運動の広がり
この集会には500人ほど参加しており成功と言えなくはないが,私のように横から参加した者から見ると,労組など団体が目立ち,やや広がりに欠けるように見えた。運動には,それを担う様々な実行組織が不可欠であり,労組などが重要な役割を果たすのは当然だ。しかし,それが前面に出すぎると,運動は一般へと拡大しにくくなるのではないだろうか。

米軍基地は,地元の人びとの日常生活を大きく変えてしまう恐れがある。米軍の事故・犯罪,電磁波被害,騒音,水不足などから,攻撃目標にされる不安と恐怖,そして軍事機密とそれにつきものの住民の思想・信条・行動監視。まさに平穏な日常生活の破壊である。その現実の危険を,地域の人びとに,どう説明し訴えていくのか? これは難しい課題だが,その危険の十分な理解なくして,地元の反対運動は広がらないだろう。

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 ■丹後集会(6/15)

3.平の海岸美と公害被害
ところで,「6・15丹後集会」が開かれたのは,米軍基地予定地の西方,平海岸駐車場においてである。平は,白砂青松の美しい海岸で,夏には多くの海水浴客でにぎわう。そのため,広い駐車場もつくられている。

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 ■平海岸(6/15) 

しかし,この海岸にもプラスチックなど,廃棄物が無数流れついている。特に驚いたのが,砂浜の可憐な野草の上に黄色い網がかかっていたこと。はじめ遠くから見たときは,てっきり黄色い花が一面に咲いているのだと思った。ところが,浜に出てみると,それは花ではなく,捨てられ流れ着いた黄色の網だった。これはヒドイ。無残だ。

米軍基地問題とは無関係と思われるかもしれないが,決してそうではない。このような自然破壊についても,真剣に取り組み,漁業,観光など,地元産業を守り発展させていかないと,基地依存経済への誘惑を断ち切れないだろう。

130616d ■平海岸:野草を覆う廃棄網(6/15)

4.廃校と道路建設
平の半島内陸側は,急峻な山地で平地はほとんどない。しかも日本有数の豪雪地帯。かつては小さな集落が点々とあったが,離村で無人となったところも少なくない。

平から車で20~30分登った三山地区もそのような集落。家や畑の世話はされているが,住んでいる人はいないようだ。谷間にひっそりとカトリック教会の集会所とマリア像があった。信者が多かったのだろう。別の険しい山道をさらに登ると,ごく小さな集落があったが,ここは完全な廃村となっていた。

このように,丹後半島の内陸部の生活は厳しい。当然,道路建設への要望は切実だ。そうした強い要望もあり,いま丹後半島の各地で大規模な道路建設が始まっている。

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 ■三山のカトリック教会/深山の廃屋(6/15)

130616a ■山村のバイパス工事(6/15)

米軍基地反対運動が難しいのは,一つには,こうした地域開発への切実な要望があること。アメリカは日本を,日本の都市部は地方を,地方は僻地を,文字通り「周縁化」し,搾取してきた。しかも,この問題は,ひとり1票の多数決民主主義では解決できない。

このような構造的暴力を温存し,そこから利益を得ている限り,都市住民には地方開発を云々する資格はない。原発と同様,地域住民は危険覚悟で米軍基地を受け入れるつもりかもしれないからだ。背に腹はかえられない。

これも難しい問題だが,目を背けていては,反対運動は地域への広がりを期待できないであろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/06/17 at 14:16

ガルトゥング提案の観念性と危険性

訪ネ中のガルトゥング教授のインタビュー記事を「ヒマラヤン・タイムズ」(2月14日)が掲載している。教授は平和学の権威であり,国際社会の平和政策にも絶大な影響力をお持ちだが,もし記事が教授の発言を正しく伝えているとするなら,教授のネパール政治分析と政策提案には落胆せざるをえない。いやそれどころか,ネパールにこれまで深く関与されてきたことを考えると,教授の諸提案はいささか無責任なような印象さえ禁じ得ない。

1.政党利己支配(partyocracy)
ガルトゥング教授によれば,ネパール政治は,マオイストの国政参加後も「政党利己支配(partyocracy)」の強化を除けば,他は何も変わっていない。

「一国家,二軍隊,王制と[国王の]直接専制支配はもはや存在しない。しかし,事態は以前と同じだ。憲法制定の見込みはなく,議会もなく,選挙された政府もなく,和平プロセスを担う機関もなく,不平等の改善もない。民主主義はなく,あるのは政党利己支配(少数の政党が議会制民主主義の諸制度を危険に陥れる政治的疾病)のみだ。」

この現状認識は,一般に広く共有されている。常識といってもよい。

2.アイデンティティ連邦制
そこで次に,少し具体的な話になる。まず連邦制だが,ガルトゥング教授は,以前からアイデンティティ(カースト/民族)による州区画を説かれていた。

教授は,そのアイデンティティ連邦制がいまも望ましいといいつつも,ここでは世界の25の連邦国家のうちアイデンティティ州区画をしているのは4カ国(印,マレーシア,ベルギー,スイス)だけだと認め,「ネパールにとって参考になる別のモデルは,マレーシアとインドの連邦制の組み合わせであろう」と提案されている。

意味不明。ひょっとすると,これは,インドもマレーシアも英植民地であったから,植民地時代の区画(スルタンやラージャの領地)を州区画とせよ,ということかもしれない。しかし,ネパールは,両国とちがい,有史以来独立国であり,植民地にはならなかった。あるいは,プリトビナラヤン・シャハ王の頃の小王国領を州区画にせよとでもいうのであろうか? まさか! よく分からない。

そもそも,マレーシアは立憲君主制のイスラム教国であり,中央権力が強い。また,インドもユニオン(連邦)権力が強く,単一制に近い連邦国家として知られている。ガルトゥング教授は,両国のどこがネパール連邦制のモデルになるといわれているのか,さっぱりわからない。

3.「カトマンズ・ゲーム」
中央政府権力の強いマレーシアやインドをモデルとせよと提案される一方,ガルトゥング教授は,カトマンズ中心主義(Kathmandu-game)を打破せよ,と主張される。

教授によれば,国王,ラナ家,封建領主らはみな,「カトマンズ・ゲーム」に明け暮れてきた。そしていま,政党が同じことをしている。制憲議会解散も憲法制定失敗も,カトマンズが地方を支配するための陰謀だ。「国王もラナ家も封建領主も一つのことではほぼ同じ考えだった――人民を搾取せよ。」

教授は,これは悪質なガンのようなものであり,直ちに治療しないと「新しい暴力」が始まるだろう,と警告される。

「もし治療するつもりなら,人民の三分の二の下層の人々を引き上げる必要がある。」

中央集権国家をモデルとせよといいつつも,カトマンズ中心主義がガンであり,治療しないと再び暴力紛争が始まると警告される。いったい,どうすればいいのだろうか?

そもそも人民の三分の二の生活を引き上げることができるのなら,誰も苦労はしない。ネパール人民の三分の二,つまり1800万もの人々の生活を,いったいどのような方法で向上させるのか? 強力な中央権力なしにそんなことができるのか? 教授からは,具体的な提案は何もない。

4.人民投票による連邦制
ガルトゥング教授の提案は,矛盾と観念論に留まらず,とんでもない危険へと人々を導いていく。つまり,政党は「草の根」に働きかけよ,と扇動されるのだ。

「どの政党も組織も政府も,草の根の人々とは結びついていなかった。」

連邦制は,少数の政党だけで決められるものではない。人民にはかり決めるべきだ。つまり「人民投票が方法としてはよいだろう」という。

しかし,これは変ではないか? 多数決では決められないから,あるいは決めてはいけないから,という理由でカースト/民族自治の連邦制を提案しておきながら,結局は,数で決めよ,というのだ。

たかだか601人の議会で決められなかったことが,どうして膨大な数(2千万以上?)の有権者人民によって決められるのだろうか? 決められるとすれば,手品か奇跡だ。具体的な州区画も権限分配も決めずに,「連邦制に賛成・反対」といった観念論投票をやるのだろうか? やってやれないことはないが,実際には,このような投票は無意味なばかりか,限りなく白紙委任に近く,危険でもある。

5.マオイストは地域を変革せよ
ガルトゥング教授は,政党は「カトマンズ・ゲーム」ではなく「草の根」と結びつくべきだという考えから,マオイストに対しても「草の根」への働きかけを提案される。

「マオイストへの私の提案は,ネパールを全体として変えようとするな,地域社会に焦点を当てよ,ということにつきる。」

教授は,マオイストがこれまで村や町で何をしてきたか,よくご存じのはずである。地域の「草の根」の人々は,マオイストが中央政界に活動の重点を移してくれたので,やっと一息ついているところだ。

それなのに,教授は,そんな「カトマンズ・ゲーム」はやめ,村や町の「草の根」の人々の生活に介入し,変革せよ,と提案される。

「草の根」民主主義が,ノルウェーや欧米の国々,あるいはひょっとすると日本でも重要なのはよく分かる。しかし,状況を無視して理念を押しつけるのは,「原理主義」であり,危険である。かつて各地に設立された「人民政府」こそが,マオイストにとっては「草の根」民主主義ということになるのではないだろうか? その原点に立ち戻れということなのだろうか?

6.最高裁長官の首相任命に反対
ガルトゥング教授は,最高裁判所長官の暫定首相への任命にもまた,人民の直接表明した意思によらないとして,真っ向から反対される。それは,「専門家(エリート)支配(technocracy)への動き」であり,「政党利己支配への反発(reaction)」にすぎないというのである。

しかし,この議論も,現実を見ない観念論である。第一に,「草の根」から「人民意思」がどう形成されるのか,そして,現在のネパールでそれがどこまで可能か,といった基礎的な議論がない。まさか,選挙(投票)により「人民」の「意思」が表明されるなどといった楽観論はおとりではあるまい。

選挙がある程度有効に機能するには,多くの前提条件が満たされている必要がある。アメリカやその意を体する国連は,選挙すれば「人民意思」が発見され,それに基づく統治は民主政治だなどと無責任なことをいい,それを途上国に押しつけてきたが,これは根拠なき「選挙民主主義(electoral democracy)」である。選挙過信や「人民意思」の実体化ほど危険なことはない。ガルトゥング教授には,「草の根」民主主義と「選挙」民主主義の間の十分な架橋がないように思われる。

第二に,現在のネパールの三権のうち,正統性をかろうじて残しているのは,大統領と最高裁判所長官だけである。議会(立法権)はなく,政府(内閣,行政権)は次の政府へのつなぎ役にすぎない。政党はもちろん,2008年4月選挙に基づくものにすぎず,現在の人民の意思など代表してはいない。2012年5月末以来の無議会政治によりバタライ首相が正統性をあらかた失ってしまったことは,これまたいうまでもない。

この状況で,選挙をするとすれば,結局,大統領の下での選挙か,それができないのであれば,次善の策として,最高裁長官あるいはその選任する者を「破綻国家の管財人」のようなものとして選挙を実施するしか,選択肢はあるまい。しかしながら,最高裁長官の場合,司法権・行政権分離の原則からすると難しい問題もあるので,やはり国家元首としての大統領の下での選挙が最善であろう。民意を代表しない諸政党の談合首相任命よりも,大統領の下での選挙の方が,正統性と透明性ははるかに大きい。

ガルトゥング教授は「専門家(エリート)支配」と批判されるが,政治の場では,大統領委任独裁や,それに準ずるエリート統治が選挙民主主義よりもはるかに安全で効果的なことが決して少なくない。

議会はなく,政党も民意を代表していないとすれば,現行憲法で正統性を持つ大統領が選挙管理政府を率いらざるをえないのではないだろうか。

7.政官民有力者とのカトマンズ会談
ガルトゥング教授は,滞在中に,カトマンズで,大統領閣下をはじめとする政府高官,政党指導者,市民社会リーダー,専門職団体リーダーらと会談されるという。地方の村や町での「草の根」の人々との対話の有無については,記事には記載されていない。

――以上は,あくまでも「ヒマラヤン・タイムズ」のインタビュー記事に基づく批評である。おそらく,記事は,ガルトゥング教授の発言を正確には伝えていないのであろう。後日,大幅な訂正記事が出るにちがいない。もしそうなら,改めて,教授の正確なお考えを紹介することにする。

【参照】ガルトゥング教授関連記事

谷川昌幸(C)