ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Posts Tagged ‘権威

大統領の政治利用と権威失墜

バンダリ大統領が12月16日,UDMF(統一民主マデシ戦線)の反対を押し切り,強引にジャナクプルを訪れ,ジャナキ寺院を参拝したため,大混乱となり,大統領としての権威を大きく損なうことになってしまった。(大統領はヘリでカトマンズ‐ジャナクプル往復。)

151228d■大統領とジャナキ寺院(大統領府HP,12月28日)

ネパール憲法(2015年9月20日公布施行)は,大統領について,次のように定めている。
 ・大統領(रास्ट्रपति)は,ネパールの国家元首(राष्ट्राध्यक्ष)。
 ・大統領には,憲法の「遵守・擁護(पालन र संरक्षण)」義務がある。
 ・大統領は,「国家統一(राष्ट्रिय एकता)」を促進。
 ・大統領は,原則として内閣の同意と勧告に基づき行為する。
 ・大統領は,連邦議会議員(および州議会成立後はその議員)から構成される選挙人団により選出。
 ・大統領の任期は5年。

ネパールの大統領は,国家元首としての「権威」は持つが,実質的な「権力」の行使はできない。いわゆる儀式的大統領制である。

ところが,その大統領が12月16日,地元住民の反対を無視し,ジャナクプルのジャナキ寺院訪問を強行した。お伴は,R.チェットり軍総監,GD.ヤダブ副議長,RK.スッバ土地改革相,K.ヤダブ議員(NC)ら。警備には,国軍,武装警察,警察,中央調査局などが大量動員された。

151228b 151228c■国軍総監/中央調査局

この大統領の国民統合の象徴らしからぬ振る舞いに対し,UDMFや地元住民は烈火のごとく怒った。主な理由は,以下の通り。
 (1)政府要人,憲法賛成署名議員らのジャナクプル訪問には絶対反対を宣言していた。
 (2)寡婦の寺院参拝は不浄として禁止されている。(大統領の夫は故マダン・バンダリ)
 (3)犬が近づいた花を献花した。(治安要員が警備犬多数を寺院内に入れていた。)
 (4)治安要員が革靴を履いたまま寺院内に入った。

大統領一行は,黒旗の抗議を受け,火炎瓶や石を投げつけられた。ジャナキ寺院付近は治安部隊との衝突で大混乱に陥り,インド人参拝者を含む数十人(60名以上?)が負傷した。

このジャナクプル事件につき,オリ内閣のパンディ大臣が12月20日,反政府派の「無秩序で乱暴な行為」を非難した。「国民統一の象徴にして憲法の擁護者たる大統領に対するそのような誤った行為は,国家全体,民主主義,共和制に対する攻撃である。」(*7)

さらにオリ首相自身も,「犯人たちを法の裁きに服させるためのあらゆる手段をとる。だれであれ,信仰を理由に攻撃されてはならず,大統領の信仰も非難攻撃されてはならない」と,一段と強い調子で宣言した(*1)。

しかし,このマデシ非難は,いささか政治的に過ぎる。そもそも,国民統合の象徴としての大統領を,地元の激しい反対運動を無視して派遣したのは,「同意と勧告」を与える内閣である(内閣の明示の意思表示がなくとも,あったものと理解されねばならない。)内閣は「権威」とは区別されるべき「権力」を行使するのであり,したがって「権威」を担う大統領のこのような露骨な「政治的利用」は厳に避けるべきである。

政治において権威と権力を分離するのは,本質的に弱く邪悪な人間が,自らの限界を自覚しているからである。それは人間の政治的慎慮(prudence)といってもよい。

歴史的にみると,権威の源泉ないし根拠は,多くの場合,血統,すなわち王制や天皇制であった。これは神話的・神秘的であり不合理だが,それゆえ権威への人為的恣意的介入を許さず,かえって強力であった。弱い人間からなる政治共同体の統合の権威的象徴としては,よくできている。これとは対照的に,民主的大統領制には,そのような人為的介入を許さない神話的・神秘的な権威の根拠がない。民主的大統領制は,成熟した強い自律的市民の存在を前提としており,その運用は権威的王制よりもはるかに難しいといわざるをえない。

もしそうだとするならば,世界で最も民主的な共和制憲法を制定したネパールであればこそ,大統領の権威をよくよく尊重し,その政治的利用は厳に慎まなければならない,ということになるであろう。

 151108■オリ首相
【参照】
*1 Christopher Sharma,”Nepal’s tribal block President from entering Hindu temple: She is a widow,” Asia News, 12/24/2015
*2 “Morcha announces fresh protests,” Nepali Times, December 18th, 2015
*3 “UDMF ‘CLEANSES’JANAKI TEMPLE AFTER WORSHIP BY ‘WIDOW PREZ’,” Republica,18 Dec 2015
*4 SURESH YADAV,”PROTEST AGAINST PREZ BHANDARI’S VISIT DISRUPTS RAM JANAKI MAHOTSAV,” Republica, 16 Dec 2015
*5 “Madhesis target President,” Nepali Times, December 16th, 2015
*6 “Protests, clashes mar President’s Janakpur visit,” The Himalayan Times, December 17, 2015
*7 “Govt endorses three-point roadmap,” The Himalayan Times, December 21, 2015

谷川昌幸(C)

 

Written by Tanigawa

2015/12/28 at 18:27

権威と規律:学校と国家

権威主義の国ネパールでは,学校教育も権威主義により規律されている場合が多い。校長以下,権威のヒエラルヒーが明確であり,生徒は権威に服従する。権威のお手本を習う=まねるのが勉強である。

下の写真は,典型的な学校朝礼の様子。この学校では,太鼓の合図で全生徒が校庭に整列し,国歌斉唱,校長か先生の訓話,生徒代表の決意やスローガンの表明,そして,それらが終わると再び太鼓の合図で全生徒が整然と行進し教室に戻っていく。軍事教練とそっくり。

お見事! 社会生活における前近代的利己主張が強烈なお国柄だけに,「権威」を強調しなければ,学校運営も教育も成り立たないのだろう。

150207e

その前近代的ネパールを統制してきた絶対的権威としての国王=ビシュヌ神化身を放棄してしまったネパールは,今後,国王に代わるどのような「権威」を戴き,社会の規律と秩序を維持することになるのだろうか? 

日本の天皇は,前近代的・非民主的だが,天皇に代わる民主的「権威」を戴く覚悟を日本人はまだ持ちえていない。現代日本において,民主的「権威」は,前近代的・非民主的な天皇の権威よりも,はるかに危険なのだ。想像もしてみよ,安倍首相を最高「権威」として戴く日本――近代的・民主的には違いないが,安全と言えるのか?

もしネパールが,新憲法を制定し,民主的にしてかつ安全な「権威」の創出・維持に成功するなら,ネパールは政治的に日本を超克し,日本より先進的な現代民主主義国家に飛躍するであろう。可能性はある。が,限りなく難しい課題であることは,いうまでもない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/02/07 at 19:32

カテゴリー: 社会, 教育, 民主主義

Tagged with , ,

権威と風刺:ガイジャトラに学ぶ

風刺は権威に比例する。権威が強大であればあるほど,風刺も鋭さを増す。たとえば,ネパールのガイジャトラ(牛祭)における風刺。

1.権威的秩序としてのヒンドゥー教王国
ネパールがまだヒンドゥー教王国であったころ,社会は権威により秩序づけられていた。ヒンドゥー教は国教であり,国王はビシュヌ神の化身,つまりは現人神であった。

この聖俗二大最高権威の下に,王妃や王族,首相と大臣,役人,そして実業家や社会の様々な有力者らも,すべて階層的に秩序づけられていた。ヒンドゥー教王国は,権威の秩序であり,庶民には聖俗二大権威を疑うことは許されなかった。そこでは,近代的な個人の自由や権利は,原理的には認められていなかったのである。

2.ガイジャトラの風刺
ところが,年に一度,ガイジャトラ(牛祭)の数日間は,いわば無礼講,国王・王妃から,首相・大臣,政府高官,そして街の有力者らまで,ありとあらゆる権威が風刺の対象とされていた。上品な機知に富む洗練された風刺もあれば,下品なエログロ風刺まで,何でもあり。街中,風刺だらけ。大権威,小権威のお歴々は,恥ずかしくて,新聞・雑誌を開くことも,街に出ることもできないのでは,と心配するほどのすごさ。この有様を初めて見たときは,こんなことをしでかして本当に大丈夫なのか,とビックリ仰天したものだ。

しかし,少し考えればわかることだが,これは権威の側の自信と余裕のなせることに他ならない。日常生活において,人々は大小さまざまな権威に服従している。(権威については,なだ・いなだ『権威と権力』参照) しかし,それだけでは庶民の間に不満が鬱積していき,いずれ爆発し,権威が攻撃され,権威的秩序は崩壊してしまう。そこで権威の側は,日常生活で庶民が権威に服従する代わりに,非日常の時空を設定し,これをお祭りとし,その期間中は,ありとあらゆる権威を風刺してもよい,ということにしたのだ。しかも,権威の側からすれば,自由な風刺を通して,庶民の「本音」や日頃の不平不満を探ることもできる。一石二鳥。

ガイジャトラ風刺は,だから風刺をすらも許容するという権威の偉大さ,度量の大きさを示すものに他ならない。そして,庶民の側も,非日常的なガイジャトラ風刺の無礼講は,日常生活における礼の尊重=権威信従の代償であることを十二分にわきまえていたのである。

3.民主化による風刺衰退
ところが,ガイジャトラ風刺は,ネパールが世俗的な共和国になり,民主化が進むと,急速に衰退していった。今もあることはあるが,質量ともに,かつての風刺には,はるかに及ばない。

世俗化と民主化により,あらゆる権威が地に落ち,本気で風刺するに値するほどの権威がいなくなってしまった。風刺は非日常的なタブーやぶり。タブーなきところ,風刺もない。
  [参照] 国王隠棲とガイジャトラ漫画の低調

4.中心的権威の側からの「風刺の自由」擁護?
こうした観点からみると,フランスにおける反テロ運動には,どこか違和感を感じざるをえない。ムハンマド風刺画関係者殺害については,許されないことは言うまでもないことだから,言わない。

私が違和感を覚えるのは,現在のフランスの反テロ運動からは,「中心」ないし「権威」の側にいるという自覚ないし反省がほとんど感じられないからである。たとえば,フランス政府ホームページの「反テロ行進」記事(1月12日)には,次のような写真が大きく掲示されている。
   
「世界の中心パリ」,あるいは「世界の首都パリ(The capital of the world)」(仏政府HP,1月12日)。自分たちこそが「中心」であり「権威」だと,世界に向かって誇示しているように見える。地理的あるいは社会的な「周縁」にいる人々には,「中心」からの非難攻撃と受け止められても仕方あるまい。こうした強者の側の自己中心主義こそが,テロを招く要因の一つとなっているのではないだろうか?
  [参照] 表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/19 at 14:56

コケにされる大統領、天の声は印から

ヤダブ大統領が、諸党合意による首相候補の選出期限を12月22日(土)まで延期した。11月23日の初回から、これで延期4回目。まるでバナナのたたき売りだ。

ネパールの諸政党には、統治の当事者能力がない。王制の頃も、諸政党は同じようなことを繰り返した。仕方なく、国王が天の声を発し、首相を決めた。

ところが、民主化とともに国王の権威が衰弱すると、そっと耳打ちのような介入では効き目がなくなり、介入はあからさまな強権的なものになった。しかし、国王がやむなく強権的な介入をすると、当の諸政党はそしらぬ顔で責任転嫁し、国王専制を非難した。そして、結局は、王制を廃止し、めでたく「完全(絶対)民主制」を実現したのである。

この完全民主制は、完全だから、他に責任を転嫁することはできない。だが、責任をとれないのに責任を引き受けると、どうなるか? 2010-2011年には、諸政党は多数派を形成できず、首相選17回の堂々たる世界記録を達成した。今後100年は破られない、大記録だ。

政党政治の未熟は、いまも同じだが、以前とは状況がかなり変わってきた。以前は、まだ国連や国際社会がネパール民主化に熱意を持ち、あれこれ介入し、圧力をかけていた。ところが、もはや世界社会は、ネパール民主化へのかつてのような関心を失い、冷たく突き放すようになった。

天の声は、もはや国連からも世界社会からも降されない。そこで、結局は、もっとも頼りになる宗主国インドに、天の声を懇願せざるをえないことになったのである。

これは大統領の訪印を見れは明らかである。大統領は、諸党合意首相候補の提出期限を3回も無視され、面目丸つぶれ、権威は地に落ちた。大統領の言うことなど、どの政党もきかない。そこで、大統領は12月24日の訪印を決め、インドの権威を借りて、第4回目の候補提出期限を12月22日に定めたのである。もし22日までに首相候補を提出しなければ、訪印し天の声を聞いてくる、というわけだ。

ネパールは、民主主義の成熟以前に権威の源泉たる国王を廃止してしまったため、結局、それに代わる権威の源泉をインドに求めざるをえなくなった。ナショナリストを自慢しながら、訪米し天の声を聴く某国首相よりはましだが、それでもみっともないことに変わりはないだろう。

121219
 ■ヤダブ大統領(The Hindu)

[追加]印外相の口先介入(2012-12-22)
インドのクルシド外相が21日、ネパールの挙国一致政府形成問題について、口先介入した。外相は、ヤダブ大統領の努力を評価し、こう述べている(ekantipur, Dec22)。

「ネパール国家元首として、大統領は、すべての党を話し合いのテーブルに着かせるため、最善の努力をしている。」

「ニューデリーにできることは、挙国一致政府を形成し選挙を実施する努力を、精神的・道徳的に(morally)支援することだけだ。」

控え目な表現ながら、24日のヤダブ大統領訪印直前の口先介入であり、これだけでも十分効果がある。天の声は、やはりインド方面から降るのではないか? 大統領訪印後の展開が注目される。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/12/19 at 20:24

宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件

1.信仰と「表現の自由」
世界ヒンドゥー協会(WHF)のネパール急進派・ヘムバハドール・カルキ(Hem Bahadur Karki)派が,9月11日カトマンズ市内の画廊に押しかけ,ヒンドゥーの神々を冒涜したとして,画家マニシュ・ハリジャン(Manish Harijan)を殺すと脅迫した。

「表現の自由」は世界的に確立された権利であり,ネパール暫定憲法第15条でも明確に保障されている。カルキ派によるハリジャン脅迫は,「表現の自由」への暴力による攻撃であり,それ自体,許されるべきものではないが,一方,「表現の自由」も無制限ではなく,他の自由や権利を侵害しないための規制ないし権利間の調整が避けては通れないこともまた事実である。

これは,今回のような宗教との関係においては,特に難しい,やっかいな問題となる。人が熱心に,誠実に信仰すればするほど,信仰対象は神聖なものとなり,みだりに論評してはならないもの,タブーとなる。一方,表現は,様々な形で隠れているもの,隠されているものを顕わにすることをもって,その本質とする。したがって,宗教についても,信仰により信仰対象が神聖化されればされるほど,表現はそこに関心を持ち,秘密の暴露ないし顕在化への意欲をそそられることになる。

これは,本質的な対立である。不可知なもの,あるいは知るべきではないものへの心情的な「不合理な」信仰と,タブーをタブーであるからこそ暴こうとせざるをえない世俗的な「合理的な」表現の自由とは,結局は,両立しないと考えざるをえない。

2.イスラム教と「表現の自由」
現在,信仰と「表現の自由」が最も激しく対立しているのが,イスラム教に関してである。『悪魔の詩』(1988)事件では,著者ラシュディはホメイニ師により死刑宣告を下され,いまでも330万ドルの報奨金がかけられている。日本語版訳者の五十嵐筑波大学助教授は1991年,大学内で何者かに殺害されてしまった。

2005年には,デンマーク紙掲載のムハンマド風刺画がイスラム教冒涜とされ,デンマーク大使館などが襲撃された。

そして,この9月には,アメリカで制作されたムハンマド風刺映像がネットに掲載され,世界中で大問題になっている。中東,東南アジアを中心に世界各地で反米デモが拡大,リビアのベンガジでは米領事館が襲撃され,米大使が殺害された。戦争にすらなりかねない深刻な事態である。

そのさなか,フランスでもムハンマド風刺画が雑誌に掲載され,激しい反フランス・デモが世界各地で勃発,フランス政府は,在外公館や仏人学校の閉鎖に追い込まれている。

信仰と理性,聖なるものへの服従とタブーなき批判の自由――これら二者は,いずれも人間存在にとって不可欠のものであり,いずれがより根源的,より重要ともいえない。比重の置き方は人それぞれ,生き方の問題というしかない。イスラム教と「表現の自由」の対立は,その人間性の根源にある問題の現代における最もラジカルな顕在化であり,解決は容易ではないと覚悟せざるをえない。

3.ヒンドゥー教と「表現の自由」
この問題がやっかいなのは,火をつけやすいこと。すぐ火がつき,飛び火し,類焼する。ヒンドゥー教も例外ではなく,ネパールでは先述のハリジャン脅迫事件が起こった。きっかけは,彼の絵画展:

■マニシュ・ハリジャン「コラテラルの出現」 シッダルタ絵画ギャラリー(カトマンズ)8月22日~9月20日

(Siddhartha art gallery HP)

「コラテラル」とは難しい表現だが,何かに何かが加わり何かになる,何かが起こる,という意味だろう。展示作品のうち11作品が,ヒンドゥーの神々を西洋風に戯画化したもの。猿神ハヌマンが酒を持っている作品もある。

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(The Radiant Star HP)

これらの作品は,たしかに,あまり上品とはいえないが,それほど過激ではない。正直,私には,これらの作品の良さがよく分からない。が,それは趣味の問題。ハリジャン自身は,これらの作品は「グローバル化の諸相を通して,東洋と西洋の文化を融合させること」を意図したものだと説明している。

ところが,WHFカルキ派は,これらの絵画をヒンドゥー教冒涜だと激しく非難し,ギャラリーに押しかけ,ハリジャンを殺すと脅し,展示責任者のサンギータ・タパ学芸員に対しても,絵画を焼却しあらゆるメディアを通して謝罪をせよと脅した。

騒ぎが大きくなったので,カトマンズ警察が派遣され,郡長官の命令によりギャラリーを閉鎖させ,ハリジャンとタパを呼びだし,事情聴取した。警察は,逮捕せよというカルキ派の要求までは容れなかったが,ハリジャンとギャラリーの「表現の自由」を守るという明確な態度もとらなかった。

その結果,ハリジャンとタパは,展示2作品(どれかは不明)を撤去し,今後はそのようなヒンドゥー教冒涜絵画は展示しないという文書に署名してしまった。彼らは,ヒンドゥー右派とその意をくむ行政当局の圧力に屈服せざるをえなかったのである。

4.形式的「表現の自由」擁護論の限界
このハリジャン脅迫事件が起こると,ユネスコ・カトマンズ所長のアクセル・プラテ氏が「表現の自由」を尊重せよ,との声明を出した。芸術作品が,たとえ宗教や倫理の価値観に反することがあろうとも,それを理由に暴力をもって反撃することは絶対に許されない。解決は,「自由な議論」によるべきだ,というのだ。

ネパリタイムズ社説(#623, Sep21-27)も同じ立場をとる。表現の自由は,他の自由や権利を侵害してはならないが,その限界は文化ごとに異なる。考慮すべきは,国家の安全,社会の調和,名誉毀損,ポルノ規制などだが,いずれにせよ暴力による脅迫や検閲は認められない。

「マニシュ・ハリジャンに描く自由を認める一方,それにより感情を害されたと感じる人びとには非暴力で抗議する自由を認めなければならない。民主主義では,感情を害されたからといって,殺すと脅すことは許されない。国家は,暗殺脅迫者ではなく,芸術家をこそ守るべきである。」(Nepali Times,#623)

これよりもさらにハト派に徹しているのが,今日の朝日社説「宗教と暴動・扇動者を喜ばせない」(9月26日付)。社説は,「言論の自由があるといっても,特定の宗教に悪意をこめ,はやして喜ぶ商業主義は,品のいいものではない」といいつつも,「他者による批判を自らの尊厳への攻撃と受けとめ,宗教をたてに暴力に訴える。狭量な信徒が陥りがちな短絡が,今回の暴徒たちにもうかがえる」と述べ,言論の自由・表現の自由を寛容に認めている。

こうした「表現の自由」を守れという主張は至極もっともであり,非の打ち所のない正論である。特に,強者の側が弱者の「表現の自由」を力により制限しようとする場合には。しかし,問題は,こうした正論が現代においては多くの場合,形式論ないし高尚なお説教あるいは精神論にとどまり,ムハンマド冒涜の場合と同様,ヒンドゥー教冒涜の場合にも,それだけでは対立の解決にはあまり役立たないという点にある。

そもそも「表現の自由」を定めた世界人権規約第19条にも,ネパール暫定憲法第15条にも,多くの留保がつけられており,それらを利用すれば,「表現の自由」は必要な場合にはいつでも制限できる。ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に抗議している人びとは,彼らの重要な自由や権利が侵害されているのに,国家や国際社会は,形式論理のきれい事を言うだけで,そうした留保条項を使って彼らの権利や自由を本気で守ろうとはしていないと考えて怒り,やむなく実力行使に出ている,といえなくもない。自由や権利の形式的な保障は,つねに社会的強者の側に有利である。

朝日社説は,この問題を脳天気に棚上げしている。社説は,表現者側に「品」や「心得」を求めるだけで,「表現」による被害の具体的な救済については何も語っていない。

しかし,「言論の暴力」というように,「表現」も暴力であり,また暴力には直接的暴力だけでなく間接的な構造的暴力も含まれることは,いまや常識である。構造的暴力としての「表現」暴力の規制を自主的な「品」や「心得」に丸投げしておきながら,一方的に,直接的暴力による自力救済を上から目線で声高に断罪してみても,説得力はない。

5.天皇冒涜に堪えられるか
日本人の多くは,朝日社説もそうだが,ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に激昂し激怒する人びとを狂信的とか原理主義とかいって冷笑するが,それは事件が今のところ余所事,他人事だからにすぎない。

しかし,近時の情勢からして,天皇が風刺の対象とされるのもそう遠いことではあるまい。天皇・皇后や他の皇族が,不道徳に,エロチックに,あるいは下劣にカリカチュア化され,メディアで弄ばれるようになったら,日本人はどうするか? あくまでも冷静に表現には表現で,言論には言論で,などと高尚なことをいっていられるだろうか?

たぶんダメだろう。日本人の多くが激昂し,天誅を下せなどと,わめき始めるに違いない。

ムハンマド冒涜事件もヒンドゥー教冒涜事件も,決して他人事ではない。言論には言論で,などといったわかりきった形式論理のオウム返しではなく,「表現の自由」が他の自由や権利と対立した場合,具体的にどうするかを,自分の問題としてもっと真剣に考え,取り組むべきであろう。

【参照資料】
Nepali Times, Sep.12 and Sep.21-27,2012
ekantipur, Sep.12, 2012
UCA News, Sep.13, 2012
The Radiant Star, Sep.15, 2012
Kathmandu Contemporary Arts Centre, http://www.kathmanduarts.org/Kathmandu_Arts/KCAC12-mann.html
Siddhartha art gallery, http://www.siddharthaartgallery.com/cms/index.php

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/26 at 20:47

国王隠棲とガイジャトラ漫画の低調

谷川昌幸(C)
ガイジャトラ(牛祭り)漫画が低調,面白くない。以前なら,王族や有力政治家を徹底的に皮肉った,低俗,悪趣味,毒山盛りのガイジャトラ紙誌が街にあふれていたのに,今年はほとんど見かけない。なぜは?

おそらく国王がバラジュの森に隠棲し,皮肉る権威の総本山がいなくなったからだろう。民主化万歳といいたいところだが,そうともいえない。

このまま共和制になれば,政治家が国家元首になり,権威となる。その権威と権力を合わせ持つ政治家元首が,国王のようにガイジャトラ漫画の猛毒攻撃に耐えられるか?

民衆の人気に依存する政治家の場合,一般にそのような低俗,悪趣味の猛毒攻撃には耐えられず,たいてい弾圧を始める。ネパールの作家,出版社は,早くもそれを察知し,自己規制を始めたのではないか? めでたいような,めでたくないような。

写真(上):ガイジャトラ特集雑誌の表紙。ギリジャ首相が国王、プラチャンダ議長が王妃に擬されている。意味深。
写真(下):ガイジャトラ漫画の一部
 

Written by Tanigawa

2007/09/02 at 16:50

カテゴリー: 国王, 文化, 民主主義

Tagged with , ,