ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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老老介護,事始め(3):天恵としての認知症

高齢の母を自宅そばのアパートに呼び寄せ介護を始めて3か月余。当初,自分のためにも日々の出来事を整理し要点を備忘録風に書き留めておくつもりだったが,すぐ,それがいかに甘い考えであったかを思い知らされることになった。

母は中程度の認知症(痴呆症)。たいていは,はほぼ平穏に暮らし,特に危険なことをするわけではない。だから在宅介護でも大丈夫と考えたのだが,ときたま,しかもちょっと目を離したすきを狙いすますかのように,放置できないようなことをする。鍵をこじ開け外出したり,スイッチや蛇口をいじったり,引き出しや冷蔵庫をひっかきまわしたり,等々。まるで,こちらの方が監視され,わずかのスキを狙われているかのよう。まったくもって不思議?

そのため,平穏そうであっても常に気配に注意し,変なことをしないか見張っていなければならない。これは疲れる。四六時中,気が休まるときがなく,何をしようとしても集中できない。焦り,いら立ち,徒労感にさいなまれる。

とはいえ,在宅介護を始めた3か月前と比べると,認知症対応に少し慣れてきたこともまた事実だ。他のことも,集中はできないが,それでも途切れ途切れに時間を使い,ある程度やれるようになってきた。そこで,この「老老介護,事始め」も,とりあえず再開してみることにした。

***** ***** *****

母の認知症(痴呆症)は,アルツハイマー型。記憶障害,判断力低下,見当識障害(日時,場所,人物などの認知障害)が,教科書通り,ネット情報通り,出ている。家族による介護は困難を極めるが,病気自体は,高齢者には多かれ少なかれ数人に一人はみられる,ごくありふれたものだ。

が,しかし,加齢に伴う認知能力の低下を「病気」と呼び,必要以上に恐れ,治療しようとする今の行き方は,根本的な誤りのような気がする。それは,「病気」ではなく,自然な老化現象の一部なのではないか?

というよりもむしろ,認知能力低下は,正気では到底直視できない恐ろしい「死」を見つめることなく,穏やかに「死」を迎えるための神の恩寵かもしれない。

人間は,はるか昔のあるとき,神の命令に背き,「認識の木の実」を食べ,認知能力を取得した。これは罪であり,罪は処罰される。人は,罪の意識に恐れおののきつつ認知し,どうしても認知できない,あるいは認知したくない物事,特に死に直面した時には,認知の罪を告白し,神の許しを請うた。人は,認知を断念することによりはじめて,罪を許され,救われ,「永遠の平和」に立ち戻ることができたのである。

ところが,近代に入ると,人間は原罪を忘れ,人間の力で万物を認知し支配したいと考えるようになった。知はそれ自体善であり,力である! 人間は,認知能力を高め自然(物理的自然と人間的自然)を理解すれば,それを存分に使いこなし,より豊かな,より幸せな生活を実現することができる。

この近現代合理主義を前提にすると,たとえ加齢によるものでも認知能力喪失は悪であり,治療すべき「病気」となる。人は,最後の最後まで正気で生き,死苦を直視し認知しつつ死ななければならない。何たる残虐! そんな近現代社会は,社会の方が倒錯し病んでいるのではないか?

加齢とともに認知能力が低下するのは,自然な成り行きであり,神の恩寵である。高齢者が,認知能力を喪失しても,そのあるがままの自然な姿で平穏に暮らしていける諸条件を整えた社会――日本はそうあってほしいと願っている。

▼認知症の人数と割合
MUFGホームページより

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/04/29 at 17:24

カテゴリー: 社会, 宗教, 文化

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渥美資子さんとNBSAのユニークな支援活動

渥美資子さんが,2014年8月10日,休養帰国中の東京で亡くなられた。まだ60歳すこしのはず,まったくもって惜しまれる。

140919a ■渥美さんとグワッチャさん:広島講演会(AICAT=中国新聞2002/5/18)

1.NBSAの活動
渥美さんが,NBSA(Nepal Blind Support Association,ネパールの視覚障害者を支える会)を本格的に立ち上げられたのは,2002年3月。以来,12年の長きにわたり,しかも人民戦争とその後の大混乱の中で,NBSAの様々な支援活動を現地ネパールにおいて精力的に続けてこられた。主な活動は以下の通り。
 *視覚障害者訓練所兼集会所の開設・運営
 *点字情報誌『タッチ』発行
 *カセットライブラリー,トーキングブック(大学教科書,小説などの音読録音ライブラリー)の作成・発行
 *音声パソコン講習会
 *「子供クイズ大会」を毎年夏の「子供の日」に実施
 *点字講習会
 *裁縫,アイロンがけなどの家事訓練
 *つめ切り,顔剃りなどの身だしなみ訓練
 *「白杖の日」行事参加
 *各種障害者団体との連携事業
 *日本でのNBSA活動報告会(年1回開催)
 [参照]NBSAホームページ

140919c 140919d ■裁縫訓練/爪切り訓練(渥美2008年9月)

2.ユニークな自立支援
私は,これらの活動のほんの一部を拝見したにすぎないが,それでも渥美さんのユニークな支援方法に強い印象を受け,多くを教えられた。

第一に,渥美さんには,視覚障害者支援に強い関心をもち,信念を持って取り組んでいたが,それにもかかわらず,支援者が陥りがちな「押しつけ支援」的なところは全く見られなかった。視覚障害者の自立が支援目的なので,はたから見ていると冷たくさえ感じるほど,障害者自身の努力に任せていた。

最も印象的だったのは,毎年夏に開催の「子供クイズ大会」。大会の運営はすべてネパール側に任されていたし,また,視覚障害者のクイズ問答も驚くほど高度なものであった。
 [参照]視覚障害児クイズ大会

第二に,渥美さんもNBSA活動の宣伝はされていたが,それでも,あえて組織を大きくしようとはせず,視覚障害者個々人の自立努力を見守ることが出来る範囲にとどめられていた。カトマンズにほぼ通年居住し,活動されているのに,この自己抑制。見習おうとしても,なかなか出来ない規律ある態度である。

このように,渥美さんの活動は,専門外の私が年一度の訪ネの際,垣間見る程度にすぎなかったが,それでも強い印象を受けるユニークなものであった。この渥美さんの信念,活動への献身は,そもそも何に由って来たるものであったのだろうか?

3.死生観
ネパール視覚障害者支援の動機について,直接,渥美さんにお伺いしたことはない。視覚障害者問題は専門外なので,渥美さんとの議論は,ネパールの文化や政治に関するものが多かった。

そうした議論の中で,最も興味深かったのが,死に関する渥美さんの考え方。

ネパールは,死に満ちあふれていた。出生率は高いが,母子死亡率も高かった。平均余命は短く,特に医療不備の地方では,人はあっけなく死んだ。死はごく身近な現象であった。(最近は大幅に改善されているが,まだまだ不十分。)

人が死ぬと,遺体は川岸のガートの火葬場で荼毘に付される。薪を積み,遺体を乗せ,焼き,灰は川に流す。即物的であり,身体が焼け,灰となっていくのが,丸見えだ。その限りでは,サンマやブタの丸焼きと,何ら変わりはない。その光景は,よそ者の目には,厳粛,非日常とはほど遠い。人間も,生ある無数のものの一つとして生まれ,死ぬにすぎない。やるせない無常観,そこはかとない寂寥観に囚われざるをえない。

カトマンズに居住しネパールのそのような死を日々目にしていたであろう渥美さんの死生観は,極めて即物的であり,死は自然現象の一つにすぎない,というものであった。しかもその上,渥美さんは唯物論者であり,ヒンドゥー教や仏教の信仰はない。したがって,輪廻転生を信じることにより,自然現象としての死を意味づけ受け入れるという逃げ道もない。死は死であり,ただそれだけ。

140919b ■日常の中の死:パシュパチナート(Ekantipur)

4.評価峻拒の支援活動
私が聞きえた限りでは,渥美さんの死生観は,このようなものであったが,もしそうだとすると,NBSA活動の動機は何であり,それをどう意義づけられていたのであろうか? 

現世での世間的評価を全くといってよいほど気にかけていなかったことは,先述の通りだ。現世的成功は目的ではない。では,死後の評価はどうか? ネパール人民,人類,歴史など,何でもよいが,そのような個々人の存在を超えて存続すると想定されるものへの貢献と,その結果としての評価。これについても,渥美さんははっきりと否定された。そのような超個人的なものによる意義づけは無用だというのだ。

世評にも,何らかの普遍的理念や価値にも訴えないとすると,残るは,働きかけるネパール視覚障害者との関係だけだが,ここでも渥美さんは,彼らからの感謝や評価を特段期待しているようには,少なくとも私には見えなかった。淡々と,しかし本気でもって献身的に,NBSA活動に打ち込むだけ。

このような評価峻拒の支援活動そのものへの献身を12年の長きにわたって続けることが,どうして出来たのか? まったくもって凡人には解きがたい,大きな謎である。

5.没後の評価
渥美さん本人はNBSA活動の評価を峻拒ないし超越していたが,没後の現在,世間がそれをしていけないわけはない。専門外の私が年一回の訪ネで垣間見ただけでも,NBSAの活動はユニークであり,指導者養成など,ネパール視覚障害者自立運動にいくつもの重要な貢献をしている。これは,今後,日ネ両国において正当に評価されるべきであろう。

――以上は,渥美さんの訃報を聞き,私が感じたこと,思ったことを,あやふやな記憶を頼りに書き記したにすぎない。事実関係や解釈の間違いが多々あるかもしれないが,それらは,もし天国というものがあり,そこで再びお目にかかる機会があれば,お叱りいただき,訂正させていただくことにしたい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/09/19 at 13:52

国家世俗化とキリスト教墓地問題

キリスト教墓地問題は,一応の決着がついたかに見えたが,いつものように政府の約束は言葉だけで,実行は棚上げらしい。
  レグミ内閣とキリスト教墓地問題
  キリスト教墓地要求,ハンストへ
  キリスト教墓地問題検討委員会発足
  クリスマスと墓地問題
  墓地紛争:キリスト教vsヒンドゥー教
 ▼キリスト教墓地問題一覧

1.深夜の無断埋葬
カトマンズ・ポストのアンキト・アディカリ「拒絶された墓地」(8月23日)によれば,ネパールのキリスト教徒は,墓地を拒否され,死者の埋葬ができず,切羽詰まったぎりぎりの事態に追い詰められている。

ある日,カトマンズで信者2人(男性82歳,女性62歳)が病死したが,カトマンズには墓地はない。そこで深夜,ひそかにジープでヌワコットのトリスリ川沿いの人里離れた森まで運び,すばやく穴を掘り,2人を埋め,急ぎカトマンズに戻った。地元民には,もちろん内緒。

このような方法での信者埋葬は,ヌワコット以外にもダディング,ラウタート,シンドバルチョーク,カブレなどあちことで行われており,時にはスルケットまでも運ぶこともあるという。「よくないに決まっているが,ではどうすればよいのか? 他に方法はないのだ。」(BG.ガルトラジ全国キリスト教連盟[FNCN]議長)

2.ゴティケル墓地の棚上げ
カトマンズ盆地のキリスト教徒が,このような深刻な事態に追い込まれたのは,政府が約束を実行せず,墓地問題を棚上げにしているからだ。

従来,カトマンズ盆地のキリスト教徒(及びキラント諸民族)は,パシュパティ寺院のシュレスマンタク・バンカリの森への埋葬を黙認されていた。ところが,2006年革命の結果,国家世俗化が実現し,これによりヒンドゥー教側もかえってアイデンティティを明確化させていき,2011年1月,「パシュパテ地区開発トラスト(PADT)」が寺院敷地内のバンカリの森への埋葬を拒否する決定を下した。

この埋葬拒否により深刻な事態に陥ったキリスト教会は,2011年4月,ハンストを決行,政府に「墓地問題検討委員会」を設置させた。そして,そこでの交渉の結果,政府はラリトプル郡ゴティケルに2000ロパニのキリスト教墓地をつくることを約束した。ビノド・パハディ委員長によれば,すでにゴティケルの住民やラリトプルの郡庁と郡森林局の同意も得てあるという。

ところが,この約束は実行されないまま,委員会が任期切れとなってしまった。ゴティケル墓地は棚上げ。抗議すると,政府は造るというが,口約束だけ。「もし今度も空手形なら,強力な抗議運動を全国に呼びかける」(ガルトラジFNCN議長)

3.国家世俗化とキリスト教
2006年革命により,ネパールはヒンドゥー教国家から世俗国家に転換した。ヒンドゥー教にとっては,これは大敗北であり,他宗教,とくにキリスト教への敵愾心を強めている。パシュパティの森の墓地問題は,その最も極端な実例である。

キリスト教徒は,全人口の1.4%とされている。少数派だが,バックに欧米のキリスト教会が控えており,世俗化の追い風に乗り勢力を急拡大させている。たとえば,この記事を書いたカトマンズポストのアンキド・アディカリ編集委員は,クリスチャンか否か不明だが,出身校は,聖ザビエル校(カトマンズ)である。

聖ザビエル校は,イエズス会系の学校であり,ネパールには5校ある。カトマンズ校は1988年設立で,いまや大学院までもつ超名門エリート学校。アディカリ氏は,この学校で英文学を修め,ジャーナリストとなったようである。

彼のこのような経歴が,おそらく彼をしてキリスト教会への理解を深めさせ,墓地問題を追わせているのだろう。彼の記事そのものは,問題に即して書かれており公平と見えるが,ヒンドゥー教徒の側から見ると果たしてどうなるか? ここが難しいところだ。

130831a ■聖ザビエル校(カトマンズ)

キリスト教会側の攻勢は,教育以外でも様々な形で展開されている。たとえば,これはタルー民族への働きかけ。詳細はわからないが,「はじめに言葉があった」と信じるキリスト教のこと,タルー以外にも様々な少数民族の言葉で布教を進めている。

130831b ■Good News THARU

4.宗教対立激化のおそれ
国家世俗化は,一般に,宗教対立の緩和が目的だが,ネパールでは,少なくとも今のところ,それは宗教アイデンティティの強化→宗教対立の激化という逆の結果をもたらしている。

墓地を取り上げ,死者を埋葬させない! これはセンセーショナルな切羽詰まった問題であり,外部からの干渉も招きやすい。対処を誤ると,ネパールは取り返しのつかない深刻な宗教紛争に陥ってしまうだろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/08/31 at 08:48

過疎化と老齢化と葬儀社の品位

5月連休後半を故郷の丹後で過ごした。快晴で新緑が目に鮮やか。山野はいたるところ生命の息吹に充ち満ちていた。

ところが,自然とは対照的に,地方の生活は過疎化と老齢化で荒涼としている。空き家が増え,耕作放棄地がいたるところ見られる。人が減ると学校や商店などがなくなり,不便となると,また人が減る。悪循環だが,止めようもない。

そうしたなか,おそらく唯一,地方で繁盛しているのが,老人向け産業だ。地方で新しい豪華な建物が目に入れば,たいていそれは老人施設か葬儀場だ。加速度的な老齢化だから,これは当然の成り行きといえよう。

しかし,それはそうとしても,今回驚いたのは葬儀社の派手な宣伝。わが家周辺の町村の総人口はせいぜい数万程度だが,顧客急増の葬儀社はネット電話帳で見ただけでも20社ほどある(支社・営業所等含む)。それらの葬儀社が,死亡者が出ると,新聞に競って死亡通知広告を折り込むのだ。

死亡通知広告には,死亡者の姓名,死亡日,年齢,肩書き,住所,喪主,親族,葬儀会場,葬儀日時,出棺時間など事細かに記載し,そして引き受け葬儀社の各種葬儀商品の説明が地図と共に大きく掲載されている。プライバシーなし。もちろん,黒枠

葬儀社は,死亡者が出ると,いち早く情報をつかみ,葬儀を引き受け,黒枠死亡通知広告を印刷し,それを朝刊(地方は朝刊のみ)に折り込み,各家庭に配達してもらう。

村の人々は,朝起き,新聞を開くと,いやでも黒枠死亡通知広告が目に入る。読者はほとんど老人。「まだ若いのに・・・・」とか「この歳ならしかたないなぁ・・・・」などと,自分と比べ,ため息をつく。自分が顧客になり,広告に載る日のことを,多かれ少なかれ,思わざるをえないのだ。

先週の,たしか5月8日だったと思うが,朝刊を開くと,4人の黒枠死亡通知広告がドサッと出てきた。小さな町村なのに,なんと4人も!

葬儀社にとって,人が死ぬと,それはビジネス・チャンス。いち早く情報をキャッチし,葬儀一式を売り込み,死亡通知広告を配布する。広告のターゲットは,もちろん死を待つ老人たちだ。顧客老人は多いが,葬儀社も多い。勢い,競争は激しくなる。

これは,まさしく死の商人。峻厳な死への畏れは,いったいどこへ行ったのか? 金儲けの前では,人としてのつつしみ,たしなみ,品位,品格といったものへの配慮は色あせ,蹴散らされ,もはやどこにも見られない。

朝っぱらから黒枠死亡通知広告を一方的に送りつけ,老人たちを脅し,それで商売が成り立つとは,よい時代になったものだ。資本主義は万物を商品化する。死も例外ではない。

地方の過疎化は,人間も倫理もますます疎外しつつある。死すら商品化された地方の人々は,自分自身の死すら奪われ,死ぬに死ねない有様だ。日本の地方は,もうダメだ。

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■朝刊折り込みの死亡通知広告(2013年5月)

【追加2013/5/23】
葬祭関係の方から,次のようなご意見をいただいた。

▼地域コミュニティは,かつては緊密であり,死亡情報も伝令により共有されていたが,生活の変化で困難となり,迅速大量伝達方法として新聞折り込み広告を使うようになった。

▼地域の人びとにとって,新聞紙面の死亡通知欄よりも,配布範囲を限定できる折り込み広告の方が,好都合であった。

▼このような地域の理解と利益により,新聞折り込み広告が使われるようになった。

▼したがって,新聞折り込み広告は,地域社会・葬儀社・新聞販売店の「三方一両得」となり,「地域の独自の文化」となった。

丹後の現状は,このご意見の通りだと思う。新聞折り込み死亡広告は,多かれ少なかれ遺族・関係者の了解のもとに作られ,配布され,それを地域社会も受け入れているということであろう。

では,この新しい慣行をどう考えるか? 便利で必要だと肯定的に考える人もいれば,私のように,いくら何でもやり過ぎだと考える人もいるであろう。これは評価の問題だから,意見が分かれるのは致し方ない。

現代は,万物を商品化する資本主義社会であり,そこでは,多かれ少なかれ,たとえば教師は「知の商人」,画家は「美の商人」,男女は「愛の商人(性の商人)」たらざるをえない。そして,商品化されればされるほど,「知」や「美」や「愛(性)」は,それ本来の在り方・扱われ方から離れ,利潤のための手段とされていく。「死」とて例外ではあるまい。

このような観点から見た場合,人の死や葬儀はどうあるべきか? いま一度,原点に立ち戻って,考え直してみるべきではないだろうか。

【参照】ショッピングモールみたいな日本の葬儀場
「ヨーロッパの教会や、日本の昔ながらのお寺は、ここで最後に送られるんだったらまあいいか、という感じがありますが、今は葬儀場でさえ、イオンモールみたいな感じになってきています。・・・・ 」(死んだ家族が、“戻れない”マンションができるわけ 養老孟司×隈研吾 日本人はどう死ぬべきか? 第3回,『日経ビジネスオンライン』2014/12/18) [2014-12-19追加]

スーパーやネットでお葬式(2016年2月2日追加)
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  ■朝日新聞(2016年2月1日)/価格COM HP(2016年2月2日)

アマゾン「お坊さん便」大繁盛(2016年2月22日追加)[アマゾン閲覧2月22日]
 Amazon [お坊さん便] 法事法要手配チケット (移動なし)
 価格:¥ 35,000  5つ星のうち 3.1 55件のカスタマーレビュー  通常3~5週間以内に発送します。 在庫状況について
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谷川昌幸(C)

 ウェッブ魚拓,削除申し立て済(2013-05/21)。

Written by Tanigawa

2013/05/12 at 21:07

キルティプールのガート:自然に包まれて

1.仏教ゴンパと援助ロープウェー残骸オブジェ
11月21日、キルティプールの西方へ散策に出かけた。丘の西北端、インドラヤニのすぐ下に、援助ロープウェーの巨大な残骸があり、それにブーゲンビリアの大木がからみつき、巧まずして見事なオブジェとなっている。

その左横奥には、大きな美しい仏教ゴンパがある。誰でも入れ、花々が咲き乱れるヒマラヤ展望の名所である。本堂内ではネパール語・英語使用の法話を聴くこともできる。

 
 ■インドラヤニからのヒマラヤ/ゴンパからのヒマラヤ

 
 ■ロープウェー残骸オブジェ/ガート公園と残骸ロープウェー(上方)

2.ガート公園(仮称)
そのゴンパの隣に小学校があり、その横の小道を下りていくと、谷底の小川の側に小さな寺院インドラヤニ・サムサンがあり、その川岸がどうやらこの付近のガート(火葬場)となっているようだ。一昨日近くを通ったとき葬儀参列者が集まっていたし、今日も30人ほど集まり火葬の準備をしていた。かなりの人が、ここで荼毘に付されるのだろう。

この谷は、キルティプールの丘と西向かいの丘の狭間で、垂直に近い角度で切れ込んでいる。上からのぞくと足がすくむほどだ。キルティプール側は、公園として整備されているらしく、斜面には桜が植えられ、小道も造られ、あちこちに鉄製ベンチが置いてある。

このガート公園(仮称)は放牧が認められているらしく、牛や羊があちこちで草をはんだり、寝そべったりしている。ガート側の小川では、女性たちが洗濯し、洗った布を周辺の草地に広げ干している。その側では子供たちが遊び回り、近くの田では刈り取り・脱穀後の稲藁を広げて干したり束ねて運んだりしている。小春日和の、のどかな田園風景である。

このいつもと変わらない自然な風景の中で、この地方の荼毘は執り行われているようだ。

ネパールの火葬場としては、パシュパティナートが有名だ。寺院は立派だし、川岸の火葬施設も整備されている。しかし、その反面、寺院は制度としてのヒンドゥー教の権威の具現であり、良く言えば荘厳、逆に言えばケバケバしいこけおどし。ここでの葬儀は、死者と縁者のためというよりは、権威と見栄のためのよう思えてならない。

 
 ■公園の桜と羊/寺院と葬儀参列者(左上)

 
 ■ガートと牛/ガートで洗濯

2.日本の葬式産業
このことは、日本の葬式について、特に強く感じる。葬式はますます形式化し、寺と業者の商売となり、とんでもない金がかかるようになった。特に悲惨なのが、地方。

いま日本の地方では、高齢化が進み、当然、結婚や誕生は少なく、葬式が多くなる。その結果、驚くべきことに、田舎では、葬儀業者がアンテナを張り巡らせ、誰かが死ぬと、いち早くキャッチし、競って新聞チラシに死亡情報を掲載する。次の顧客――死亡待機者――を獲得するためである。いま田舎の朝は、新聞を広げ、死亡広告チラシを見るのが、日課となっている。

おかげで、田舎の「死の商人」は景気がよい。大きて立派な建物は、有料老人ホームか葬儀催事場と見て、まず間違いない。

私は、こんな葬儀はいやだな。自分の死を寺や僧侶や葬儀社の金儲けの種にされたくない。死は本来自然なものだ。死とともに、自然の中に自然に帰っていくのが理想だ。

3.死して自然に帰る
自然に帰るという点では、このキルティプール・ガートでの荼毘は理想に近い。伝統社会の葬儀は、一般に多くの儀礼に縛られるから、キルティプールでも死後の儀礼は多数あるであろうが、少なくともこの火葬場での荼毘に限れば、ごく自然だといってよい。参列者の多くは平服であったり、ごく質素な喪服だし、ケバケバしい飾り物があるわけではない。

荼毘そのものは見ていないが、ここでの火葬は、花々が咲き、牛や羊が草をはみ、女たちが洗濯し、子供たちが遊び、農民が稲藁集めをする、その自然な風景の中で、自然に執り行われるものであるに違いない。近親者の悲しみは、遠くからでも、よく感じ取れる。それすらも、自然は優しく受け入れ、自然のうちにいやしてくれているようだ。

私の葬儀も、このような自然に抱き包まれるような、自然なものであることを願っている。

  
 ■対岸のチョータラとヒマラヤ/峡谷と新興住宅街

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/23 at 15:43

カテゴリー: 社会, 文化

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キリスト教会,「宗教省」設置要求

ネパール・キリスト教連合(UCAN)が2月4日,政府に対し,非ヒンドゥー諸宗教の権利実現のため「宗教省」を設置することを求める声明を出した(ekantipur, Feb6)。

先述のように,パシュパティ地区開発トラスト(PADT)がパシュパティの森への非ヒンドゥーの埋葬を拒否したため,埋葬できなくなったキリスト教徒や非ヒンドゥー諸民族が,政府に対し,代替墓地を保障するよう要求し始めた。UCANの「宗教省」設置要求は,直接的にはこの墓地問題が契機であるようだ。

たしかに墓(死)は誰にとっても深刻な問題だ。何とか,墓(死)を政治問題化せず,穏便に解決できないものだろうか?

私にはネパール・キリスト教会の事情はよく分からないが,通りすがりに見た教会やキリスト教系諸施設のなかには,かなり広い敷地をもつものがいくつもあった。PADTが埋葬を受け入れるかしばらく黙認してくれればそれでよいが,もしそうでない場合は,そうした教会や教会系諸施設の敷地にとりあえず信者を埋葬し,時間をかけて適切な墓地を自分たちで工面するということは出来ないのだろうか? それとも,パシュパティの森に埋葬されるような信者は受け入れられない何らかの理由があるのだろうか? 微妙な問題であり,そこの所は私には分からない。

いずれにせよ,宗教とくに「死」を政治問題化することは危険である。何とか知恵を出し合い,非政治的な方法で解決を見いだしてほしいと願っている。

墓地紛争,ヒンドゥー惨敗か?
墓地紛争:キリスト教vsヒンドゥー教

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/02/07 at 14:20

カテゴリー: 宗教, 憲法, 人権

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墓地紛争:キリスト教vsヒンドゥー教

国家世俗化は,墓地まで政争の具とし始めた。死にかかわることであり,こじれると宗教紛争になりかねない。

これまでクリスチャンはパシュパティナートの森(Sleshmantak)を墓地として使用してきた。一遺体の埋葬1600ルピー。ところが,パシュパティナート寺院当局が,そこは寺院のものであるとして,1月から使用禁止としてしまった。

墓地を失ったクリスチャンたちは,政府が救済策をとらないなら,遺体を制憲議会前,あるいはシンハダルバール(官庁街)に並べる,と宣言した。

このクリスチャンの墓地要求運動を支援しているのが「キリスト教会新憲法提案委員会」。国家世俗化を求めるキリスト教会が,国家にキリスト教会墓地の提供を要求する。なんたる皮肉か! これまで私は,キリスト教会がこんな政治圧力団体をつくっていることを全く知らなかった。宗教と政治――これはやっかいだ。

ネパールのキリスト教会が政治に介入すれば,当然,世界中のキリスト教会がそれへの支援に回る。墓地問題は,ネパール宗教紛争の引き金になりかねない。

そもそもキリスト教とヒンドゥー教では,死生観が全く異なる。クリスチャン,特にカトリックにとって,遺体は死後の復活に不可欠のものであり,遺体は可能な限り完全な形で墓地で保存しなければならない。自分の身体がないと,最後の審判のとき,復活し神のもとで永遠の命をえることができないからだ。イエスは,その身体のまま復活した。イエスを信じるクリスチャンは,イエスにならい自分たちも生前の身体をもって復活できると信じているのだ。

これに対し,ヒンドゥーは,一部の人を除き墓をつくらない。亡くなったら,パシュパティナートかどこかで荼毘に付され,遺灰はガンジスに流してもらう。これにより,身体は自然に帰り,魂は輪廻転生するか解脱することになる。

このようにキリスト教とヒンドゥー教では,遺体の位置づけが全く異なる。遺体は,クリスチャンにとっては聖なるものであるのに対し,ヒンドゥーにとっては死でケガレたものであるにすぎない。ケガレた遺体など,ヒンドゥーは保存したいと思いもしないだろう。両者の相互理解は絶望的だ。

キリスト教会憲法提案委員会がクリスチャンの埋葬の権利をキリスト教諸国に訴え,諸外国が「人権」を理由にネパール政治に介入しはじめたら,どうなるか? 遺体をシンハダルバール前に並べる――これはショッキングな光景であり,世界世論は沸騰,ネパール政府は激しいバッシングを浴びるだろう。

これに対し,ヒンドゥー教も激高し原理主義が支持を拡大,キリスト教会への反撃が始まるだろう。

これは,キリスト教にもヒンドゥー教にとっても不幸なことである。何とか,政治問題化させずに解決できないだろうか? たとえば,しばらくはクリスチャンの墓地使用をこれまで通り黙認し,その間に代替墓地を探し徐々に移転する,といったやり方である。死は人生の最大関心事。これを政治問題にしてはならない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/01/31 at 09:08

カテゴリー: 宗教, 文化, 人権

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