ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Posts Tagged ‘水村美苗

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(4)

谷川昌幸(C)
3.奇跡としての日本語と日本文学
(1)日本語・日本文学の世界的意義
パトリオットにしてナショナリスト,憂国の志士・水村氏は,日本語をフランス語に優るとも劣らない世界史的意義を持つ言語と確信している。そして,その日本語で書かれた日本文学も,世界史的価値を持つ。これはブリタニカも認めているところだとして,著者はその部分を翻訳し引用している。
 
その質と量において、日本文学は世界のもっとも主要な文学(major literatures)の一つである。その発展のしかたこそ大いにちがったが、歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいては、英文学に匹敵する。現存する作品は、七世紀から現在までに至る文学の伝統によって成り立ち、この間、文学作品が書かれなかった「暗黒の時代」は一度もない……。(p102,下線部分は原著傍点)
 
(2)奇跡としての日本語・日本文学
これは,非西洋世界にあっては奇跡的なことだ,と著者は力説する。
 
日本のようにはやばやとあれだけの規模の近代文学をもっていた国は、非西洋のなかでは、見あたらないということである。そして、さらに、たしかなのは――たしかである以上に重要なのは、たとえ世界の人には知られていなかったとしても、世界の文学をたくさん読んできた私たち日本人が、日本近代文学には、世界の傑作に劣らぬ傑作がいくつもあるのを知っているということである。/そのような日本近代文学が存在しえたこと自体、奇跡だと言える。(p103)
 
日本が近代以前から成熟した文学的な伝統をもっていたおかげ――まさに、漢文も含めた長い文学の伝統、しかも、市場を通じて人々のあいだに広く行き渡っていた文学の伝統をもっていたおかげである。日本の文学は、「西洋の衝撃」によって、〈現実〉の見方、そして、言葉そのもののとらえかたに「曲折」を強いられた。世界観、言語観のパラダイム・シフトを強いられた。だが、日本の文学はその「曲折」という悲劇をバネに、今までの日本の〈書き言葉〉に意識的に向かい合い、一千年以上まえまで遡って、宝さがしのようにそこにある言葉を一つ一つ拾い出しては、日本語という言葉がもつあらゆる可能性をさぐっていった。そして、新しい文学として生まれ変わりながらも、古層が幾重にも重なり響き合う実に豊かな文学として花ひらいていったのである。/・・・・これほど多様な文字と文学の伝統とをまぜこぜにし、しかもそれぞれの歴史の跡をくっきりと残した文学――そのような文学は私が知っている西洋の文学には見あたらない。(p225-226)
 
日本人が日本語という言葉に向かい合ううちに、日本近代文学は波のうねりが高まるように、四方の気運を集め、空を大きく駆けめぐったのである。そして、それは、歴史のいくつもの条件が重なり、危うい道を通り抜けて初めて可能になったことであった。日本近代文学というものがこの世に存在するようになったこと――れ自体が、日本近代文学の奇跡なのである。(p227)
 
(3)日本語・日本文学の固有性
しかも、著者によれば,日本語・日本文学は単に優れているばかりか,他をもってしては代え難い固有の存在価値を持っている。
 
日本文学の善し悪しがほんとうにわかるのは、日本語の〈読まれるべき言葉〉を読んできた人間だけに許された特権である。/強調するが、いくらグローバルな〈文化商品〉が存在しようと、真にグローバルな文学など存在しえない。グローバルな〈文化商品〉とは、ほんとうの意味で言葉を必要としないもの――ほんとうの意味で翻訳を必要としないものでしかありえない。(p264)
 
かなりキワドイ発言だ。日本文化は日本人にしか分からないという,すでに論破されたと信じられている議論スレスレだ。たしかに挑発的発言であり危ういが,しかし,今はやりの多文化主義は,結局,このことをいっているのではないか。
 
著者と違って,議論を詰めもせず呑気にグローバル化時代の多文化共生(異文化と仲良くしましょう!)などといっている人々には,文化の固有性の主張がいかに危険か,まるで分かっていない。著者は,それを十分に分かった上で,つまり普遍性との緊張関係・相互作用のもとで,文化の固有性を断固守り抜こうとしているのだ。
 
(4)人類文化のための日本語擁護
結局,日本語・日本文学が守られなければならないのは,日本人だけでなく世界全人類のためでもある。
 
これは本書の結論部分であり,パトリオット水村氏の悲壮な「日本語宣言」といってもよい。結論の先取りになるが,全体の流れがわかりやすくなるので,ここで引用しておこう。  
 
だが、これから先、日本語が〈現地語〉になり下がってしまうこと――それは、人類にとってどうでもいいことではない。・・・・[世界の人は]〈普遍語〉と同じ知的、倫理的、美的な重荷を負いながら、〈普遍語〉では見えてこない〈現実〉を提示する言葉がこの世から消えてしまうのを嘆くはずである。 人類の文化そのものが貧しくなると思うはずである。 少なくとも、日本語をよく知っている私たちは、かれらがそう思うべきだと思うべきである。 この先、〈叡智を求める人〉で英語に吸収されてしまう人が増えていくのはどうにも止めることはできない。大きな歴史の流れを変えるのは、フランスの例を見てもわかるように、国を挙げてもできることではない。だが、日本語を読むたびに、そのような人の魂が引き裂かれ、日本語に戻っていきたいという思いにかられる日本語であり続けること、かれらがついにこらえきれずに現に日本語へと戻っていく日本語であり続けること、さらには日本語を〈母語〉としない人でも読み書きしたくなる日本語であり続けること、つまり、英語の世紀の中で、日本語で読み書きすることの意味を根源から問い、その問いを問いつつも、日本語で読み書きすることの意味のそのままの証しとなるような日本語であり続けること――そのような日本語であり続ける運命を、今ならまだ選び直すことができる。(p322-323)
 
マルクスの「共産党宣言」は,やけに元気で明るいプロパガンダであった。これに対し,水村氏の「日本語宣言」には悲壮感が漂う。前回書いたように,「今ならまだ選び直すことができる」といいつつも,インターネット英語の「普遍語化」による日本語の死はもはや押しとどめようがない,と観念されているからに違いない。

Written by Tanigawa

2009/06/12 at 09:57

カテゴリー: 文化,

Tagged with , ,

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(3)

谷川昌幸(C)
2.愛国者の「憂国の書」
水村美苗氏はパトリオット(愛国者)であり,『日本語が亡びるとき』は祖国愛に突き動かされた「憂国の書」である。彼女自身,こう述べている。  
 
 憂国の士たちは、自らのために動いているわけではない。世のため人のためと思って、動いている。私もこの本は、我が国、我が同胞、そして我らが言葉、日本語のためと思って、書いたのである。
 海に囲まれた島国に住み、〈自分たちの言葉〉が亡びるかもしれないなどという危機感をもつ必要もなく連綿と生きてきた日本人。それが今、英語という〈普遍語〉がインターネットを通じ、山越え海越え、世界中を自在に飛び交う時代に突入した。二十一世紀、英語圏以外のすべての国民は、〈自分たちの言葉〉が、〈国語〉から〈現地語〉へと転落してゆく危機にさらされている。それなのに日本人は、文部科学省も含め、「もっと英語を」の大合唱の中に生きているだけである。
 この日本語が亡びてしまったらどうするか。百年後も〈話し言葉〉としての日本語はもちろん、〈書き言葉〉としての日本語も残るであろう。だが、真に〈叡智を求める人〉たちが、日本語で読み書きしなくなったらいったいどうするのかーーと、私の「憂国の書」は問いかける。(「著者からのメッセージ」筑摩書房HP,http://www.chikumashobo.co.jp/pr_chikuma/0812/081202.jsp
 
水村氏が憂国の志士であることは間違いない。しかし,にもかかわらず彼女はアメリカに20年間も住み,英語で話し読み書きできる,そのような憂国の志士なのだ。著者は本書をこう結んでいる。
 
それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。/自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証であるように。(p323)
 
これは,貴族でありながらアメリカを旅し、民主主義の本質を見抜き,その勝利を予見せざるをえなかったアレクシス・ド・トクヴィルを思わせる語り口だ。トクヴィルは,貴族として,高貴な貴族政治の亡び行くのを直視した。
 
水村氏は,たしかに,パトリオットとして,亡びつつある日本語だが「今ならまだ選び直すことができる」(p323)と,情熱的に訴えかけている。しかし,それにもかかわらず,彼女もまたトクヴィルと同じく歴史の逆転の不可能を痛いほど自覚され,いかに抵抗しようとも日本語が亡びるのは運命だと観念されているようだ。そして,本物のパトリオットであるがゆえに,少なくとも亡び行く日本語からは目を背けず,恐れおののきつつも,その死に様を正視していようと,そう覚悟されているように思われる。
 
 

Written by Tanigawa

2009/06/11 at 10:52

カテゴリー: 文化,

Tagged with , ,

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(2)

谷川昌幸(C)
1.A Novelist Writing in the Japanese Language
水村氏の日本語・日本文学への思いは,深く屈折している。彼女自身は,日英両語の「二重言語者」であり「バイリンガル」である。おそらく英語は読み書きも会話も完璧であろう。著者の日本語ナショナリズムは,英語が出来ない者のルサンチマン的国語国粋主義とはまったく別物なのだ。
 
たとえば,インターネットによる英語の普遍言語化を憂いながら,著者は自ら英語中心のホームページ(http://minae-mizumura.com/default.aspx) を開設している。タイトルは:
  水村美苗 ・ MINAE MIZUMURA ・ Website
  日本語で近代日本文学を書く小説家
  A Novelist Writing Modern Japanese Literature in the Japanese Language
何たるイヤミか! 国語ナショナリストの著者が,自分の氏名を英語に合わせて転倒させ,しかも「日本語で近代日本文学を書く小説家」と自己規定している。英語も英米文学も大抵のアメリカ人以上に理解するが,にもかかわらず自分は日本語で書く,という自信と矜持。ヒガミ日本国粋主義とは雲泥の差だ。
 
この「にもかかわらず」,ウェーバー流にいえばdennoch(脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫,p106)こそが,私にとっては著者の最大の魅力だ。イヤミたらたら,表音主義ニホンゴ化論やカタコト小学校英語を皮肉り倒す。英語なんか選択科目にしてしまえ(p289)――著者にそういわれると,たしかにそうだと納得する。英語は選択科目でよいのだ。
 
英語はペラペラだが,にもかかわらず母語ではない。英語への著者の思いは,日本語へのそれと同じく,深く屈折している。そのことは,著者自身も告白している。
 
ご存じのかたもいるかもしれないが、私は十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかり読み日本に恋いこがれ続け、それでいながらなんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴の持主である。(p15)
 
「それでいながら」アメリカと英語の中で20年も暮らし,にもかかわらず母語であるが故に日本語を選択し亡び行く日本語で書く。その著者の幾重にも屈折した文化的格闘に基づき展開される日本語論,日本文学論が面白くないはずがなかろう。
 

Written by Tanigawa

2009/06/10 at 11:22

カテゴリー: 文化,

Tagged with , ,

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(1)

 谷川昌幸(C)
遅ればせながら,水村美苗『日本語が亡びるとき:英語の世紀の中で』(筑摩書房,2008)を読んだ。実に面白く,感動的。日本語への著者の深い愛情と危機感,国語政策への怒りとどうしようもない絶望がひしひしと感じられる。魂を揺さぶられる本物の評論だ。
 
水村氏は,いわば国語ナショナリストであり国語保守主義者だ。日本の植民地化を阻止し,「国家国民」を形成し維持してきたナショナリズムを,その限りで高く評価し,「国語」としての日本語のかけがえのない価値(フランス語以上!)を称賛してやまない。
 
このようなナショナリズムや国語保守主義については,あと知恵で批判する人も少なくないが,想像力の欠如も甚だしい。つい百数十年前の幕末維新の頃のこと,例えば福沢諭吉の危機感や夏目漱石の苦悩に思い至らないのだ。水村氏のようなナショナリズムや保守主義であれば,私はこれに満腔の賛意を表したい。そう,英語帝国主義にたいし,日本語は断固保守されなければならない。
 
むろん,私の専門は政治学であり,言語学や文学からの評価は出来ない。専門的観点から見ると,あるいは本書にはいくつか誤りや独断があるかもしれない。しかし,たとえそうであっても,この本が問題の本質を鋭く突き,格闘していること,したがって真に読むに値する本であることに変わりはない。
 
著者は,漱石を深く読み込み,さらには福沢諭吉や丸山眞男もきちんと読んでいる。だから,この本は近年のどの政治学の本よりも面白い。国語学者や文学者が評価しないのなら,私はこの本を政治学の必読書として学生諸君に推薦したいとさえ思っている。
 
こうした観点から,以下では読書ノート風に要点を抜き書きし,紹介してみよう。直接引用部分はゴシックで表記する。
 

Written by Tanigawa

2009/06/09 at 20:41

カテゴリー: 文化,

Tagged with , ,