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長崎被爆66周年と平和運動
8月9日午前,平和公園に行き,平和祈念行事に参加した。
1.長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典
長崎市主催の「平和祈念式典」は,例年通り,平和祈念像前の広場で開催された。10時半頃行くと,すでに満員で入場できないとのこと。例年そのような規制はなく,今日も外から見ると,空きスペースがかなり見られた。
入場拒否された人々の噂では,今年は米国主席公使が参列するので警備が強化され,一般参列者が閉め出されたとのこと。あくまでも噂だが,ありそうな話しだ。
入場拒否された参列者たち
そもそも,この公式「平和祈念式典」はケッタイな式典だ。以前にも指摘したように,「平和祈念像」は,多くの人にとって威圧的な偶像としか見えない。その偶像に向かって参列者一同が頭を垂れ,祈る。これは異様だ。
三角形は威圧象徴図形
式典終了後,平和祈念像前の献花を見ると,特等席に各政党や国家機関の名前が並んでいる。なるほど公式行事とは,このようなものなのだ。
平和祈念像前の献花
それと,もう一つ解せなかったのは,おびただしい数のミネラルウォーター(500mlペットボトル)とオシボリを無料で配布していたこと(例年のこと)。タダほど高いものはない。省エネを叫びつつ,なぜこんなムダな大盤振る舞いをするのだろうか?
2.浦上教会「平和祈念祭」
平和祈念像前の平和式典は,あまりに生臭く,騒々しすぎる。被爆犠牲者のことを思い起こし,静かに平和を祈るには,別の場所,たとえば近くの浦上天主堂の方がはるかによい。
浦上天主堂の「平和祈念祭」は,11時少し前から始まり,原爆投下の11時2分,参列者全員が黙祷し,犠牲者の霊の平安と,今後の平和を静かに祈った。
そう,原爆は,キリスト教国アメリカにより,日本カトリックの聖地,浦上の,このカトリック教会の上に投下されたのだ。一瞬にして,多くのカトリック信者が犠牲になった。この教会も破壊された。
カトリック信者ではない私にも,参列されている信者の方々の静かな祈りに秘められた重さと深さが,ひしひしと感じ取れた。祭壇左には,「平和の祈り もっと強く,もっとやさしく」と掲げられていた。祈りとは,本当はこのようなものであるはずなのだ。
浦上天主堂と被爆石像
3.爆心地公園の平和集会
浦上天主堂での「平和祈念祭」終了後,爆心地公園に行った。例年,ここでは様々な団体,グループが平和集会を開いているのだが,その熱意は年々低下し,今年は閑散としていた。
運動の持続には,合理的理性の力だけでは無理であり,心情を深くとらえる情念の支えが不可欠だ。
カトリック教会の強味は,そのような人間の弱さをよく理解し,様々な制度や装置を総動員して心情に訴えかけ,情念の力で人間を支えていくところにある。長い伝統に裏付けられた本物の権威の力と言い換えてもよいだろう。
では,非戦・反核平和運動は,どのようにして人々の心情に訴えかけ,運動を持続発展させていけばよいのであろうか? これは難しい。
一つ確かなのは,「平和祈念像」では無理であろうということである。平和祈念像は,「救い」や「やさしさ」ではなく,上からの「威圧的支配」を思わせる。ましてや,その前に生臭い国家権力機関や政党が麗々しく献花し,会場をおびただしい数の警官が取り囲んでいては,平和祈念像は権力支配の象徴と化しかねない。
非戦・反核平和運動を継続発展させるための持続的情念を生み出しうるもの――「市民宗教」を求めた民主主義者ルソーに習うならば,それは「平和宗教」ということになるのであろうか?
谷川昌幸(C)
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