ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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ガディマイ祭:動物供犠と人間の業(8)

5.ガディマイ祭批判の皮相性
ガディマイ祭は非人道的だという批判は,祭の近現代的部分,つまり興行化・商業化した部分については妥当するが,祭の本質たる伝統的宗教的供犠部分については的外れである。神々への敬虔な動物供犠は,非人道的であるどころか,むしろそれこそが信仰をもつ人々にとっては動物の生命の尊厳を真に尊重する最も誠実な生き方である。

(1)人間の「手段」としての動物
そもそも西洋では,古代ギリシャにおいてもキリスト教においても,さらには近代西洋哲学においても,人間と動物は明確に区別されていた。アリストテレスによれば,動物は,その自然において,すなわち生まれながらにして本質的に(by nature),人間とは別のものであり,理性的な人間のためにつくられた非理性的存在であるにすぎない。

キリスト教では,神が万物を創造し,「神の似姿」たる人間に,地上の他の生物すべてを支配する権限を与えた(「創世記」,トマス・アクィナスなど)。

近代になっても,動物は,デカルトにとっては「複雑な機械」にすぎなかったし,カントにとっては人間のための単なる「手段」に他ならなかった。

このように,西洋では動物は人間とは全く別のカテゴリーのものであり,魂や自意識などあるはずもなく,人間によって自由に支配され利用されてよいものであったのである。

(2)動物愛護運動の拡大
ところが,18世紀末から19世紀にかけて,欧米で快苦を動物一般に共通のものと見なし善悪の判断基準とする功利主義が勃興し,新興ブルジョア階級に支持を広め始めると,ブルジョア社会において動物愛護が唱えられるようになった。ちなみに貴族のたしなみは狩猟,労働者階級の娯楽は「クマいじめ」,「牛いじめ」など。

そして,この動物愛護に,資本主義による自然破壊が拡大するとエコロジーの観点からの動物保護の訴えも加わり,動物愛護運動はさらに勢いを強め,欧米から世界へと広がり,いまや動物保護がドイツなどで国家の憲法にまで書き込まれるようになった。この動物愛護運動の発展の概要は以下の通り。

1822(英):「家畜虐待禁止法(マーチン法)」。動物福祉のための世界初の議会制定法。違反は罰金または3か月以下の拘禁刑。
1824(英):「動物虐待防止協会(SPCA)」設立。のちにビクトリア女王援助の「王立動物虐待防止協会(RSPCA)」に発展。
1871(独):刑法で動物虐待禁止。
1911(英):「動物保護法」制定。動物に「不必要な苦痛」を与えると,罰金または6か月以下の拘禁刑。
1925(英):「動物使用規制法」制定。以後,英国で「愛玩動物法」(1951)など関係法令多数制定。
1933(独):ナチスの動物保護政策。「温血動物屠殺法」=屠殺前の麻酔の義務づけ(ユダヤ教の麻酔なしコーシャ屠殺の禁止が目的とされる)。「動物保護法」=広範かつ詳細な動物保護法で,違反は罰金または2年以下の拘禁刑。
1972(独):「改正動物保護法」(改正1972,1982,1986.1998)。以後,多数の動物保護法令制定。
1979(欧):「屠殺動物保護協定」
1979(欧):「アムステルダム協定」で動物を「意識をもつ存在(sentient beings)」と規定。これを「リスボン条約」(2009)で条文化。
2002(独):基本法(憲法)改正。「第20a条(自然的生活基盤の保護義務)国は,・・・・自然的生存基盤および動物を保護する。」
2012(EU):「動物福祉計画(Animal Welfare Strategy)2012-2015」制定。
現 在:「世界動物保護協会(WSPA)」などが,上記「動物福祉計画」のような広範な動物保護を,国連において「動物福祉宣言(Universal Declaration on Animal Welfare=UDAW)」として採択し世界に動物福祉を拡大するよう,国連や世界社会に強力に働きかけている。「宣言」の要旨は以下の通り。
 ・動物は「意識をもつ(sentient)」生物。
 ・動物の人道的(humane)取り扱い。
 ・動物への5つの自由の保障:飢餓からの自由,恐怖からの自由,不快からの自由,苦痛・疾病からの自由,自然な生存の自由。
 ・人間と動物の共生。
 ・すべての国の「宣言」遵守義務。

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 ■クマいじめ(Public Garden & Grounds)/奴隷船内(New Heaven Colony Historical Society)

(3)動物愛護運動の皮相性
西洋の動物愛護運動は,この略史を見ても分かるように,自然と人間を対置し,自然を単なる手段として利用しようとしてきた人間中心主義の皮相な裏返しにすぎない。

[1]西洋の人間中心主義
西洋の人間中心主義は,人間以外の動物を単なる手段と見るにとどまらなかった。外見は人間であっても理性なき者は動物と同等(有声の道具)とみなすという古代ギリシャ以来の人間観を根拠に,西洋は人間をすらもおおっぴらに狩り立て,貨物船に詰め込み,満足に食事すらさせず「新大陸」に運び,競売にかけ,奴隷として酷使・虐待した。黒人差別が制度的に廃止されたのは,ほんの数十年前のこと。あるいはまた,非文明的・非理性的を理由として,非西洋世界を植民地化し,「未開原住民」を酷使・虐待した。植民地がほぼ解放されたのも,つい数十年前のことにすぎない。

[2]動物愛護運動による動物虐待
このような誤った理性中心主義や自然の過度の搾取は,改められるべきだが,だからといって動物愛護運動のような動物愛護の仕方は皮相かつ行き過ぎであり,より冷酷な別の形の動物虐待を際限なく拡大する恐れがある。

ペット動物は,愛玩すればするほど動物の本性=自然を奪うことになり,語の正確な意味において,動物虐待である。

また肉食については,菜食主義者が肉食を断つのは自由だが,だからといって肉や魚を食べる人々を「非人道的」といって非難するのは,行き過ぎである。人間が動物の肉や魚を食べるのは,ごく自然なことであり,倫理的に非難されるべきことではない。

屠畜についても,苦痛なき運搬や屠殺は,現実にはもっぱら経済効率の観点から推進されているにすぎない。動物でも魚でも,健康なものを苦痛なく手早く処理しなければ,経費がかかる上に,食品としての商品価値も下がるからだ。

誤解を恐れずあえていうならば,人間は自分の食べる動物や魚が殺され苦しむ姿を出来るだけ直視すべきだ。

近代的・衛生的工場での流れ作業による効率的な苦痛なき屠殺と食肉処理――これは,動物自身ではなく,経済効率を最優先させ,死の苦痛を見たくも見せたくもないエゴイスティックな人間のための工夫だ。

動物や魚にとって,殺され苦しむ姿をブラックボックス内に隠され,美しい「パック肉」や「パック切身」となった姿だけを見られ,”おいしそう!” といって買われ食われるのは,本望ではあるまい。いやそれどころか,それは人間エゴによる最悪の動物虐待とさえいわざるをえないだろう。

[3]人間の業の直視
人間が生きる上で不可避の業については,多くの人々が語っているが,ここでは二つだけ紹介しておこう。

●血への渇望 Himal Southasian, Dec.2009
動物の権利擁護運動家が直視しようとしない問題が,一つある。ガディマイ信者は,少なくとも正直に,包み隠すことなく,自分たちの動物供犠を行ってきた。では,処理場の壁の内側で日々何百万もの動物が殺されていることは,どうなのか? 屠殺の衛生化が,世界中の非ベジタリアンたちに,人道主義者の仮面を付けさせてきたのではないか? アメリカの感謝祭で4千万羽もの七面鳥が殺されることは,どうなのか? ガディマイ信者は,その動物供犠の公開性のゆえに処罰されなければならないのか?

●大 漁 金子みすず
 朝焼小焼だ
 大漁だ
 大羽鰮[おおばいわし]の
 大漁だ。

 浜は祭りの
 ようだけれど
 海のなかでは
 何万の
 鰮のとむらい
 するだろう。

[参照資料]
 * “Animal Welfare.” http://www.politics.co.uk/reference/animal-welfare
 * Ben Isacat,”How to Do Animal Rights,”Aug.2013. http://www.animalethics.org.uk/about.html
 * 中川亜紀子「ドイツにおける動物保護の変遷と現状」四天王寺大学紀要54(2012)
 * 藤井康博「動物保護の憲法改正(基本法20a条)前後の裁判例」早稲田法学会雑誌60-1(2009)
 * 内澤旬子『世界屠畜紀行』2007
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[参照](2015-05-25追加)
ドイツ動物保護法(翻訳:浦川道太郎)
2001年4月12日の危険な犬を撲滅するための法律(連邦官報第1部530頁)第2条により変更された1998年5月25日公示の正文における(連邦官報第1部1105頁、1818頁)
第1条〔法律の目的〕
 この法律は、同じ被造物としての動物に対する人の責任に基づいて、動物の生命及び健在を保護することを目的とする。何人も、合理的な理由なしに、動物に対して痛み、苦痛又は傷害を与えてはならない。
第4a条〔温血動物の屠殺〕
 (1)温血動物は、血抜きを始める前に気絶させる場合にのみ、屠殺することができる。
 (2)前項の規定にかかわらず、次の場合には、気絶させることなく屠殺することができる。
 1 緊急屠殺する際、所与の状況下で気絶させることが不可能なとき。
 2 主務官庁が、気絶させずにおこなう屠殺(典礼に従う蓄殺[Schachten])のための例外的認可を与えるとき。この場合、この法律の施行区域内において、強制力ある教令により典令に従う蓄殺を定め、又は典礼に従って蓄殺されていない動物の肉の食用を禁止している特定の宗教団体の所属員の要求に応じる必要性があるときに限り、主務官庁は例外的認可を与えることができる。
 3 第4b条第3号に従い法規命令により例外として気絶させずにおこなう殺害が定められているとき。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/11/24 at 15:14

ハシシ1トン、中国へ

ネパール麻薬取締局(NDCLEU)は11月2日、運び屋3人を逮捕し、未精製ハシシ1080kgを押収した。

1トンとは大胆、大きな袋に梱包され山積みされていた。相場は、1kg1万5千ドルと言うから約1500万ドル、途方もない大金だ(ちょっと眉唾だが、そう新聞には書いてある)。

密輸先は中国。マクワンプール経由(詳細不明)で運び込む計画。中国では麻薬需要が急増、ネパール製は安価・高品質で好評だという。大金の成功報酬で運び人を集めているらしい。

この方面の知識はほとんど無いが、ハシシはネパールではかつては宗教儀式などで日常的に用いられていた。伝統文化、伝統社会は、ハシシをうまくコントロールし、有用に利用してきたのだ。

ところが、進歩し理性的となったはずの近代社会は、ハシシに限らず、人間の欲望を、本能に近ければ近いほど、コントロールできなくなっている。生存欲、性欲、金銭欲、権力欲など、全体としてみると、伝統的社会の方がはるかにうまくコントロールしていた。というか、人間的にしかコントロールできなかった。

進歩とは、理性により本能(感情)をコントロールすることだそうだが、この基準からしても、人間は退化している。

1トン、1500万ドルの大麻は途方もないが、それでも世界人類の命運を左右しうる米大統領や、1%の米国大富豪に比べるならば、まだしも人間的とはいえるであろう。

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 ■ キルティプール南西の田園風景(本文記事とは無関係)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/15 at 18:18

カテゴリー: 社会

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宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件

1.信仰と「表現の自由」
世界ヒンドゥー協会(WHF)のネパール急進派・ヘムバハドール・カルキ(Hem Bahadur Karki)派が,9月11日カトマンズ市内の画廊に押しかけ,ヒンドゥーの神々を冒涜したとして,画家マニシュ・ハリジャン(Manish Harijan)を殺すと脅迫した。

「表現の自由」は世界的に確立された権利であり,ネパール暫定憲法第15条でも明確に保障されている。カルキ派によるハリジャン脅迫は,「表現の自由」への暴力による攻撃であり,それ自体,許されるべきものではないが,一方,「表現の自由」も無制限ではなく,他の自由や権利を侵害しないための規制ないし権利間の調整が避けては通れないこともまた事実である。

これは,今回のような宗教との関係においては,特に難しい,やっかいな問題となる。人が熱心に,誠実に信仰すればするほど,信仰対象は神聖なものとなり,みだりに論評してはならないもの,タブーとなる。一方,表現は,様々な形で隠れているもの,隠されているものを顕わにすることをもって,その本質とする。したがって,宗教についても,信仰により信仰対象が神聖化されればされるほど,表現はそこに関心を持ち,秘密の暴露ないし顕在化への意欲をそそられることになる。

これは,本質的な対立である。不可知なもの,あるいは知るべきではないものへの心情的な「不合理な」信仰と,タブーをタブーであるからこそ暴こうとせざるをえない世俗的な「合理的な」表現の自由とは,結局は,両立しないと考えざるをえない。

2.イスラム教と「表現の自由」
現在,信仰と「表現の自由」が最も激しく対立しているのが,イスラム教に関してである。『悪魔の詩』(1988)事件では,著者ラシュディはホメイニ師により死刑宣告を下され,いまでも330万ドルの報奨金がかけられている。日本語版訳者の五十嵐筑波大学助教授は1991年,大学内で何者かに殺害されてしまった。

2005年には,デンマーク紙掲載のムハンマド風刺画がイスラム教冒涜とされ,デンマーク大使館などが襲撃された。

そして,この9月には,アメリカで制作されたムハンマド風刺映像がネットに掲載され,世界中で大問題になっている。中東,東南アジアを中心に世界各地で反米デモが拡大,リビアのベンガジでは米領事館が襲撃され,米大使が殺害された。戦争にすらなりかねない深刻な事態である。

そのさなか,フランスでもムハンマド風刺画が雑誌に掲載され,激しい反フランス・デモが世界各地で勃発,フランス政府は,在外公館や仏人学校の閉鎖に追い込まれている。

信仰と理性,聖なるものへの服従とタブーなき批判の自由――これら二者は,いずれも人間存在にとって不可欠のものであり,いずれがより根源的,より重要ともいえない。比重の置き方は人それぞれ,生き方の問題というしかない。イスラム教と「表現の自由」の対立は,その人間性の根源にある問題の現代における最もラジカルな顕在化であり,解決は容易ではないと覚悟せざるをえない。

3.ヒンドゥー教と「表現の自由」
この問題がやっかいなのは,火をつけやすいこと。すぐ火がつき,飛び火し,類焼する。ヒンドゥー教も例外ではなく,ネパールでは先述のハリジャン脅迫事件が起こった。きっかけは,彼の絵画展:

■マニシュ・ハリジャン「コラテラルの出現」 シッダルタ絵画ギャラリー(カトマンズ)8月22日~9月20日

(Siddhartha art gallery HP)

「コラテラル」とは難しい表現だが,何かに何かが加わり何かになる,何かが起こる,という意味だろう。展示作品のうち11作品が,ヒンドゥーの神々を西洋風に戯画化したもの。猿神ハヌマンが酒を持っている作品もある。

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(The Radiant Star HP)

これらの作品は,たしかに,あまり上品とはいえないが,それほど過激ではない。正直,私には,これらの作品の良さがよく分からない。が,それは趣味の問題。ハリジャン自身は,これらの作品は「グローバル化の諸相を通して,東洋と西洋の文化を融合させること」を意図したものだと説明している。

ところが,WHFカルキ派は,これらの絵画をヒンドゥー教冒涜だと激しく非難し,ギャラリーに押しかけ,ハリジャンを殺すと脅し,展示責任者のサンギータ・タパ学芸員に対しても,絵画を焼却しあらゆるメディアを通して謝罪をせよと脅した。

騒ぎが大きくなったので,カトマンズ警察が派遣され,郡長官の命令によりギャラリーを閉鎖させ,ハリジャンとタパを呼びだし,事情聴取した。警察は,逮捕せよというカルキ派の要求までは容れなかったが,ハリジャンとギャラリーの「表現の自由」を守るという明確な態度もとらなかった。

その結果,ハリジャンとタパは,展示2作品(どれかは不明)を撤去し,今後はそのようなヒンドゥー教冒涜絵画は展示しないという文書に署名してしまった。彼らは,ヒンドゥー右派とその意をくむ行政当局の圧力に屈服せざるをえなかったのである。

4.形式的「表現の自由」擁護論の限界
このハリジャン脅迫事件が起こると,ユネスコ・カトマンズ所長のアクセル・プラテ氏が「表現の自由」を尊重せよ,との声明を出した。芸術作品が,たとえ宗教や倫理の価値観に反することがあろうとも,それを理由に暴力をもって反撃することは絶対に許されない。解決は,「自由な議論」によるべきだ,というのだ。

ネパリタイムズ社説(#623, Sep21-27)も同じ立場をとる。表現の自由は,他の自由や権利を侵害してはならないが,その限界は文化ごとに異なる。考慮すべきは,国家の安全,社会の調和,名誉毀損,ポルノ規制などだが,いずれにせよ暴力による脅迫や検閲は認められない。

「マニシュ・ハリジャンに描く自由を認める一方,それにより感情を害されたと感じる人びとには非暴力で抗議する自由を認めなければならない。民主主義では,感情を害されたからといって,殺すと脅すことは許されない。国家は,暗殺脅迫者ではなく,芸術家をこそ守るべきである。」(Nepali Times,#623)

これよりもさらにハト派に徹しているのが,今日の朝日社説「宗教と暴動・扇動者を喜ばせない」(9月26日付)。社説は,「言論の自由があるといっても,特定の宗教に悪意をこめ,はやして喜ぶ商業主義は,品のいいものではない」といいつつも,「他者による批判を自らの尊厳への攻撃と受けとめ,宗教をたてに暴力に訴える。狭量な信徒が陥りがちな短絡が,今回の暴徒たちにもうかがえる」と述べ,言論の自由・表現の自由を寛容に認めている。

こうした「表現の自由」を守れという主張は至極もっともであり,非の打ち所のない正論である。特に,強者の側が弱者の「表現の自由」を力により制限しようとする場合には。しかし,問題は,こうした正論が現代においては多くの場合,形式論ないし高尚なお説教あるいは精神論にとどまり,ムハンマド冒涜の場合と同様,ヒンドゥー教冒涜の場合にも,それだけでは対立の解決にはあまり役立たないという点にある。

そもそも「表現の自由」を定めた世界人権規約第19条にも,ネパール暫定憲法第15条にも,多くの留保がつけられており,それらを利用すれば,「表現の自由」は必要な場合にはいつでも制限できる。ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に抗議している人びとは,彼らの重要な自由や権利が侵害されているのに,国家や国際社会は,形式論理のきれい事を言うだけで,そうした留保条項を使って彼らの権利や自由を本気で守ろうとはしていないと考えて怒り,やむなく実力行使に出ている,といえなくもない。自由や権利の形式的な保障は,つねに社会的強者の側に有利である。

朝日社説は,この問題を脳天気に棚上げしている。社説は,表現者側に「品」や「心得」を求めるだけで,「表現」による被害の具体的な救済については何も語っていない。

しかし,「言論の暴力」というように,「表現」も暴力であり,また暴力には直接的暴力だけでなく間接的な構造的暴力も含まれることは,いまや常識である。構造的暴力としての「表現」暴力の規制を自主的な「品」や「心得」に丸投げしておきながら,一方的に,直接的暴力による自力救済を上から目線で声高に断罪してみても,説得力はない。

5.天皇冒涜に堪えられるか
日本人の多くは,朝日社説もそうだが,ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に激昂し激怒する人びとを狂信的とか原理主義とかいって冷笑するが,それは事件が今のところ余所事,他人事だからにすぎない。

しかし,近時の情勢からして,天皇が風刺の対象とされるのもそう遠いことではあるまい。天皇・皇后や他の皇族が,不道徳に,エロチックに,あるいは下劣にカリカチュア化され,メディアで弄ばれるようになったら,日本人はどうするか? あくまでも冷静に表現には表現で,言論には言論で,などと高尚なことをいっていられるだろうか?

たぶんダメだろう。日本人の多くが激昂し,天誅を下せなどと,わめき始めるに違いない。

ムハンマド冒涜事件もヒンドゥー教冒涜事件も,決して他人事ではない。言論には言論で,などといったわかりきった形式論理のオウム返しではなく,「表現の自由」が他の自由や権利と対立した場合,具体的にどうするかを,自分の問題としてもっと真剣に考え,取り組むべきであろう。

【参照資料】
Nepali Times, Sep.12 and Sep.21-27,2012
ekantipur, Sep.12, 2012
UCA News, Sep.13, 2012
The Radiant Star, Sep.15, 2012
Kathmandu Contemporary Arts Centre, http://www.kathmanduarts.org/Kathmandu_Arts/KCAC12-mann.html
Siddhartha art gallery, http://www.siddharthaartgallery.com/cms/index.php

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/26 at 20:47