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老老介護事始め(15):疲弊し荒廃する介護者の心身

高齢認知症の母の介護をしていて「これは危ないなぁ」という思いを日々強くしているのが,介護者たる私自身の心身の疲弊と荒廃である。このままいくと,いずれ崩壊するのではないか?(認知症も介護事情も様々。以下はあくまでも私自身の場合である。)
 【参照】老老介護事始め(1~14)

1.正常・異常混在の難しさ
高齢の母には,記憶のまだらな忘却と混乱があり,言動も正常と異常が混在している。この記憶のまだらな忘却と混乱や言動の正常・異常の混在が,介護者には悩みの種。もし完全な記憶喪失・常時異常行動であれば,それはそれで大変には違いないが,対応方法はほぼ限られており,迷いは少ない。外から見ても,すぐそれとわかるので理解されやすく,誤解の恐れも少ない。

ところが,記憶のまだらな忘却と混乱,判断の正常と異常の混在の場合,介護の方法について介護者自身,つねに適切か否か悩み,部外者には多かれ少なかれ誤解される恐れがある。これが,介護者には精神的につらい。

2.日常で異常,非日常で正常
認知症者は,自分の記憶や行動は正しいと断固思いこんでいる。そして,自宅で日常生活をしているときは,リラックスしているためか,混乱した話や異常行動が出やすく,それらを際限もなく繰り返す。日常生活では異常行動が常態なのだ。

ところが,自宅に誰か他の人が来たときや,通所介護施設(いわゆる「デイケアセンター」*)などに行ったりすると,異常な言動は少なくなる。そうしたときには,自宅での日常生活についても,断片的な記憶をあれこれ取り出し,つなぎ合わせ,それなりに理路整然と説明することが出来る。介護支援相談員(いわゆる「ケアマネージャー」ないし「ケアマネ」*)や医者ですら,コロリとだまされてしまう。そのため,介護者は日々の介護対応に迷うばかりか,他の人々の理解も得られず孤立し,悩み苦しみ疲弊していくことになる。
 *老人福祉分野では,なぜか意味不明の珍妙なカタカナ語が多用される。高齢者はとりわけ理解困難。日本語通訳をつけるべきである。

3.観察・記憶・実行の断片的正確さ
母の場合,例えば食べ物。典型的な認知症過食症で,食べ物を置いておくと,食べては下痢,食べては下痢を繰り返す。仕方なく,保存可能なものは手の届かないところに隠し,他は冷蔵庫に入れ,開けられないよう扉をロープで縛っていた。そうしないと,食べ散らかし,庫内のものを外に出し放置するからだ。

ところが,ひと月ほど前のある日,帰ってみると,冷蔵庫を縛っていたロープが包丁で切られ,食べ散らかされていた。危険なので刃物はすべて隠しているが,包丁を使ったとき,隠すのをこっそり見られていたらしい。こだわりがあることには異様に敏感で,抜け目なく,記憶も確かだ。

4.適切な実力行使の必要性
いま冷蔵庫は鎖で縛り,大きな錠前でカギがかけてある。それでも,日に何度も,開けようとする。包丁やハサミは手の届かないところに隠したので,今度は洗面所で見つけた安全カミソリで鎖を切ろうとしたり,錠前や鎖を引っ張りこじ開けようとしたりする。やめさせようとしても,食べ物がないと困る,開けて確かめるのがなぜいけない,と正論を吐き,やめようとはしない。結局,根負けし,手首や肩をつかみ,実力で冷蔵庫から引き離さざるをえない。

冷蔵庫が開けられないと,今度は食べ物を買いに外に出ようとする。外出すれば,迷子はほぼ確実。交通量の多い道路もあるので,大事故の恐れもある。危険なので,玄関ドアも鎖で縛り,鍵がかけてある。ところが,それでも出ようとし,鎖を引っ張ったりドアをたたいたりする。ドアが壊れるし近所迷惑でもあるので,やめさせようとしても,やはり「食べ物がない」「買いに出てなぜいけない」と正論を吐き,いうこと聞かない。そこで,仕方なく,腕や肩をつかみ,力づくでドアから引き離すことにならざるをえない。

他にも,放置も説得もできないので,力づくで止めさせざるをえないことが,たくさんある。こうした「実力行使」について,認知症や介護の専門家らは,「それはいけない,本人があきらめるまで安全を確保しつつ見守りましょう」とか,「繰り返しやさしく話しかけ,関心を他のことに向けさせるようにしましょう」といった助言をしてくれるが,一般の家族介護では,そんな悠長なことをやってはいられない。本人と家族と社会の安全のため,家族介護者は,必要な場合には,力づくで制止をせざるをえない。それは,適切な「実力行使」である。

5.過度な実力行使へ
しかしながら,家族介護者がそうした「実力行使」をすると,それが様々な問題を引き起こし,介護者をさらに一層悩ませ苦しませることになることもまた事実である。

母の場合,たとえば鎖で縛り錠がかけてある冷蔵庫の扉や玄関ドアを,何回やめさせても,繰り返し繰り返しこじ開けようとする。認知症のためとは理解していても,それでもなお,同じことが繰り返されると,ついカッとなって,乱暴に力づくで止めさせることになりがちだ。過度な「実力行使」である。

無感情な介護ロボットでも高尚な介護解説者でもないのだから,やむを得ないとはいえ,過度な「実力行使」は,むろん「暴力」である。しかも,そんなことをしても無意味と自分でも十二分にわかっているのだから,なおさらのこと,すぐ後で後悔し,自己嫌悪に陥ることになる。

6.白桃の如き傷つきやすさ
さらに,高齢者の場合,ちょっとした外力で転んだり,ケガをしたりすることも少なくない。

その一つが,皮下出血。手や腕,肩などをちょっと強くつかんだり,何かにぶつけたりすると,すぐその部分に皮下出血が起こり,広がり,黒ずんでくる。外から見ると,まるで激しく殴られたかのよう。過度な場合は無論のこと,適正な「実力行使」であっても,そのような皮下出血は起こりうる。

高齢者は,まるで熟れ過ぎた白桃のようだ。触っただけでも傷つく恐れがある。高齢者介護は,文字通りはれ物に触るような細心の配慮をもって当たらねばならない。

7.尽くすほどに嫌われる介護者
一方,介護を受ける側の認知症者は,皮肉この上ないことに,これとは全く逆の受け止め方をしている。

認知症者は,自分が正しいと確信していること(たとえば「冷蔵庫を開ける」「外出する」など)をしようとするたびに,家族介護者にやめさせられている。しかも,力づくで。これが続くと,身近な介護者が自分に意地悪をし,食べ物を食べさせてくれず,したいこともさせてくれず,しょっちゅう自分に暴力をふるう,自分は虐待されている,と思い込むようになる。

家族介護者は,介護を尽くせば尽くすほど,怒られ,嫌われ,憎まれる。毎日,三度の食事は無論のこと,おやつを出し,掃除洗濯をし,何から何までやっていても,認知症者はそんなことは何一つ覚えてはいない。覚えているのは,食べ物を取り上げられ,外出を禁止され,叱られ,「殴られた(と思い込んでいる)」ことだけ。まったくもって不思議千万だが,四六時中世話をしている家族介護者は,嫌われ憎まれることはあっても,感謝されることは全くない。なんたる不条理!

8.自己嫌悪と無理解の二重苦
こした状況のところに,日常介護しているのではない他の誰かが来ると,どうなるか? 認知症者は,これ幸いと,日ごろの恨み辛みや「虐待」を,恐るべき記憶力を発揮し,事細かに次々と訴え,介護者を非難し罵倒し始める。認知症が広く知られるようになってきたとはいえ,認知症者の「虐待」の訴えは確信に満ち具体的であることが少なくなく,そのため多くの人がその話を信じることになる。

しかも,証拠さえある。たとえば先の皮下出血。高齢認知症者の手足や腕や肩など,身体のあちこちに赤黒い皮下出血があれば,「これは大変! 殴られている。老人虐待だ。けしからん! すぐ役所か警察に通報しよう」といったことになりかねない。

高齢認知症者を介護する家族は,過剰になりがちな「実力行使」で自己嫌悪に陥らざるをえない上に,本人からは全く感謝されないどころか嫌われ,憎まれ,世間からは老人虐待と疑われ,それでも介護を続けなければならない。家族介護者が人格荒廃に陥り,あるいは疲弊し燃え尽きてしまうのは当然といえよう。

9.「シジフォスの岩」の如く
高齢認知症者家族介護は,心臓を動かし続けることを至上命題とする現代人に対する天罰,現代の「シジフォスの岩」のようなものである。まったく報われることのない苦役を毎日,四六時中,ただひたすら繰り返さざるをえない。底無しの自己嫌悪の淵に沈み行く自己を為す術もなく傍観しつつ。

■認知症(WHO HPより)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/07/18 at 17:28

カテゴリー: 社会, 健康

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老老介護,事始め(2):「生物的余生」の悲哀

高齢の母の在宅介護を始めてすぐ痛切に感じられたのは,人間の「生物的余生」の悲哀である。あまりにも哀れで悲しく,直視にたえない。なぜ,こんな悲惨な余分の生が人間にはあるのか? 

1.現代の宿命としての認知症
物わかりの良い認知症専門家は,それは素人の偏見・誤解だ,認知症患者にもそれぞれの意思や幸福があり,それらを最大限尊重し生活させてやるのが家族の義務だと説教される。それはそうかもしれないが,そんなことができるなら,家族は悩み苦しみはしない。

むろん,認知症にも多種多様なものがあるのだろうし,発症や進行を防止したり遅らせたりできる場合もあるであろう。あるいは,発症・進行しても,それを受け入れ日常生活がそれなりに継続できるような家族や地域社会もありうるだろう。しかしながら,そうした可能性ないし希望を認めたうえでもなお,発症・進行を止められない場合が多数あると思われるし,また認知障害者を受容できる家族や地域社会も現実には多くはない。数世代同居ないし近住の大家族も,緊密な共同体的近隣社会――村的社会――も,もはやない。あるいは,共同体的見守り介護を行政に期待しても,財政的にも人材的にもそれは困難で,当面,多くは期待できそうにない。

もしこれが今の現実なら,少子高齢化社会に生きる私たちは,たとえ専門知識がなくても,痴呆や認知障害を家族の問題として,いや自分自身の問題として考え,覚悟しておかなければならない。

私にも生物学や医学の知識はないが,自分自身を納得させるための論点整理として,以下,母介護をしていて素人なりに思うことを書き留めておきたい。

2.生物的余生50年
植物や動物など生物は,子孫繁殖のために生命・身体を与えられている。生殖こそが生きる目的であり,その天命を全うすれば,自然界の生物は死んでいく。生殖終了後の余生は,無くはないが,長くはない。

人間も,近代化以前は,他の動物と同様,一般に「生物的余生」は短かった。人間の生殖可能年齢はせいぜい40代まで,それ以降は,生物的には無用で無意味。だから長らく人間も50代に入ると寿命が尽きる場合が多かった。俗にいう「人生50年」は,そのころの人々には生活の実感であったに違いない。まさしく天寿を全うし死んでいく。

ところが,近代化とともに栄養・衛生など生活環境が改善され,医学も発達し,人間は生殖可能年齢を過ぎても,なかなか死ななくなった。いまや「人生100年」,生物としての想定生存年数の2倍も長生きするようになったのだ。

しかしながら,人間も50歳を過ぎると耐用年数を超えた身体諸器官が次々と機能低下し,そのままでは生存が難しくなり始める。そこで人間は,栄養補給や服薬や機能回復手術などによって,ときには機能不全となった自分の器官を他人の中古器官や新品の人造器官と取り換えることによって,それを克服し,死を先へ先へと先延ばししてきた。「人生100年」は,その成果である。生物的余生50年!

3.高機能身体と機能不全脳
ところが,困ったことに,いまもって脳だけは,取り換えはおろか,修繕さえままならない。脳が耐用年数を過ぎ故障し始めると,多少の手当てはできるものの,他の器官のような大きな治療効果は期待できない。多くの場合,自然の成り行きに任せざるを得ない。

この脳は,人間にとって,人格形成の場であり精神活動の中枢である。人間は,その時々のバラバラの体験を脳で関係づけ経験化して記憶(保存)し,それに基づき自己の意思を形成し,それを実行に移す。コンピュータ(電脳)でいえば,CPU(中央演算装置)のようなもの。

その脳が耐用年数を過ぎ,あちこち故障し機能不全に陥り始めると,記憶の喪失や混乱が始まるのは避けがたい。その結果,一般常識(社会的記憶・規範)からすれば「異常」な,様々な逸脱行動が始まり,拡大・激化していく。

近代化以前だと,脳がこのような経年機能不全に陥っても,身体の方の耐用年数も大差なかったので,大きな社会問題とはならなかった。人間の生殖可能年齢以降の「生物的余生」は,あっても,一般には短かった。脳寿命は身体寿命――これが「人生50年」の現実であった。

ところが,いまや「人生100年」。脳機能不全の下での「生物的余生」は長く,いやでもその過ごし方を考えざるをえなくなった。しかも,栄養や衛生や医学の向上発達により,脳以外の諸器官の機能は高いまま長期間維持されていく。

脳も,他の器官と同様,一部または全部を中古または新品の脳と,いや一層のこと超高性能CPUと取り換えてしまえば,問題は解決するのだが,倫理という人間的な,あまりにも人間的な“こだわり”のため,当面,それは実現しそうにない。

4.認知症と生命倫理
高機能身体を機能不全脳で操縦し生きていく。さぞかし難しく,もどかしく,苦しく,つらいことであろう。介護者にとっても,高機能身体を暴走させ自他に危害を及ぼさせないように見守ることは,筆舌に尽くしがたい忍耐と献身が求められる苦行である。いずれも哀れで悲しく見るに堪えないというと,認知症専門家には叱られるだろうが,介護を始めたばかりの素人には,その思いはどうしても禁じ得ない。

これは,天命に背き自然を征服してきた人間への,現代における一種の天罰ではないだろうか? 人は何のために人を生かし続けるのか? 自明? そうでもあるまい。生命倫理にかかわる危険きわまりない問いだが,もはや見て見ぬふりをし,避けて通ることはできないであろう。技術的には無限の生存ですら可能とされそうな現代だからこそ。(*1)

*1 「治る認知症を見逃さないために早期の診察は必要である。しかし,それ以外の認知症の治療効果に過度の期待はしない方がよかろう。認知症にならないようにするにはどうすればよいか。あれがよい,これがよいと言われているが,残念ながら,その効果はあまり期待できない。確実にいえる予防法は,過激ではあるが,認知症になる前に死ぬことである。長寿は美徳ということがあまりに強調されてきた。認知症になって生きながらえて,本人も周りも楽しいだろうか? 認知症の最大のリスクファクター(危険因子)は加齢である。今こそ,単純な長寿よりも,『ピンピンころり』をどう成し遂げるかを真剣に考えるべきであろう。」(丸山敬[埼玉医大教授]『これだけは知っておきたい認知症』ウェッジ選書,2014,160頁,強調引用者)

【紹介】三好春樹・多賀洋子『認知症介護が楽になる本』講談社2014
ハウツー本のようなタイトルだが,内容は優れた介護ドキュメンタリ。著者・多賀さんの夫は,京都大学教授だったが,退職後,認知症が進行,73歳で亡くなった。著者は感情過多にも解釈過多にも走ることなく,事実に即して経過を描こうとされている。読みやすく,教えられることも多い。
 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/02/20 at 16:43

カテゴリー: 社会, 人権

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