ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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カナク・デクシト氏逮捕の事実経過:ヒマールメディア

CIAA(職権乱用調査委員会)に逮捕されたカナク・マニ・デクシト氏側は,この逮捕の事実経過につき,次のように説明している。
 *Editors, “Fact Sheet on Kanak Mani Dixit’s Arrest,” Himal, 23 Apr. 2016

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職権乱用調査委員会によるヒマール創刊編集者カナク・マニ・デクシト逮捕・勾留に関する事実経過(要旨要約)
[1] 2013年,ロックマン・シン・カルキ氏をCIAA委員長に選任する動きがあったとき,カナク・デクシト氏は,カルキ氏が人民運動弾圧容疑でラヤマジ委員会により告発されていたことを理由に,それに反対した。これは,十分に根拠のあるカルキ氏選任に対する公的な抗議であった。[しかし,それにもかかわらずカルキ氏はCIAA委員長に選任された。]  
 カルキ氏は,デクシト氏により公的に批判された人物であり,デクシト氏との関係においては個人的な利害関係をもっている。こうした場合,個人的な利害関係のある事件の捜査や審判には関与しないのが法学の根本原理だが,カルキ氏はそれを無視しデクシト氏の調査を続けている。

[2] デクシト氏逮捕は,体制派がデクシト氏を黙らせたいと願っていると思われるとき,行われた。デクシト氏は,国境封鎖に強く反対し,またマオイストや政府側の戦争犯罪を追及し紛争被害者の権利回復に努力してきた。氏の逮捕は,体制派が氏の努力を挫きたいと願っていると思われるとき,行われたのである。
 民主社会では,異なる意見や考え方とは言論の場で闘うべきであり,このような調査権限の不当使用によって相手を黙らせようとするようなことは,すべきではない。

[3] CIAAは,デクシト氏が調査に協力しなかったので,逮捕・勾留はやむを得ないと主張している。
 しかし,すでにデクシト氏はCIAAに出向き質問に答えたばかりか,資産細目を記した文書も提出した。また,デクシト氏は,CIAA調査が根拠のない悪意によるものであることを最高裁に訴え,これに対し最高裁もCIAA調査が所定の手続きなしに始められたことを認め,CIAAに対し法の支配の原理に則るよう命令していた。
 この最高裁命令を根拠に,デクシト氏は今回のCIAA出頭要請への疑問を記した文書を提出し,出頭要請には応じなかった。ところが,CIAAは,この疑問に答えることなく,デクシト氏を逮捕した。

[4] CIAA調査の目的は,デクシト氏がサジャ・ヤタヤタ交通会長としての地位を悪用して不正蓄財をしたか否かを解明することのはずだ。ところが,告発は会長就任のはるか以前の財産についてのものと思われ,したがってその告発に基づくCIAA調査も管轄権の範囲外のそうした財産が対象となっていると思われる。
 また,デクシト氏の設立したいくつかの団体への寄付金等も調査されているようだが,それらの団体の調査はCIAAの管轄ではない。それらの団体は,法に基づき会計監査され,結果は援助機関やネパール政府に報告されている。

[5] CIAAは,デクシト氏が逃亡するので自宅で逮捕したと主張している。しかし,デクシト氏は著名人であり,逮捕前の数日も,公然と,カトマンズ開催の国際セミナーに参加していた。
 しかも,逮捕されたのは自宅においてではなく,多くの客でにぎわっていたドカイマ・カフェにおいてであった。

[6] CIAAは,裁判所など役所が閉まる金曜午後にデクシト氏を逮捕,勾留した。そのため,デクシト氏は裁判所に人身保護を訴えられなかった。また,CIAAも休みとなり,取り調べもなかった。

[7] CIAAは,不正蓄財容疑でデクシト氏を逮捕したにすぎず,有罪が確定するまでは無罪が推定されなければならない。それなのに,CIAAは,立証もされていない調査情報を漏らしている。

[8] CIAAは,デクシト氏の健康状態を無視して逮捕・勾留し,氏の生命を危機に陥れた。このような逮捕・勾留の仕方を見ると,CIAA調査の真の目的は何か,疑わざるをえない。
  デクシト氏は著名人であり,逃亡したり,法の適正手続きに則ったものであれば,調査を免れようとしたりするはずがない。

160428c■ドカイマ・カフェFB。参照⇒グーグルマップ写真

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/04/28 at 11:55

プライバシーと「忘れられる権利」

1.「忘れられる権利」判決
EU司法裁判所が5月13日,スペイン男性の「忘れられる権利(rights to be forgotten)」を認め,グーグルに対し,過去の新聞掲載債務関係公告へのリンク削除を命令した。問題発生時の公告掲載は適法でも,時間の経過により「忘れられる権利」が成立する,という理屈だ。

以前であれば,新聞等で報道されても,小さな問題や事件はすぐ忘れられ,よほどのことがなければ,知るのは難しい。また,知ろうとも思わない。

ところが,インターネットの普及により,ネット上の記録は半永久的となり,容易に検索・発見することができるようになった。世界の誰でも,知りたいと思う人の名前や関連用語を入力し検索すれば,記録の有無,あればその内容が瞬時に表示される。いったんネットに記録されてしまえば,世界万民監視,一生,いや死後ですら,過去の束縛から逃れられない。

それは,いくらなんでもヒドイ,というのが良識,とくに保守主義の本場ヨーロッパの常識だ。EU司法裁判所が,今回,「忘れられる権利」を認めたのは当然と言ってよいであろう。

140617 ■Google検索

2.「知る権利」との関係
一方,「忘れられる権利」の適用には,現実には,難しい問題もある。以前であれば,時間が自然に「忘れられる権利」を成立させてくれた。ところが,ネット時代になると,誰かが人為的に「忘れられる権利」の成立を認定せざるをえない。殺到するであろう消去要求をどうさばくか? 削除基準をどうするか? 有力者や有力機関の権力や金力をバックとする削減要求から市民の「知る権利」をどう守るか? いずれも難しい問題である。が,もはや,その問題との格闘を避けて通ることはできない。

3.「プライバシーの権利」との関係
この「忘れられる権利」とは別だが,実際には不可分の関係にあるのが,どこまでプライバシーをネット上に掲載できるか,という問題。たとえば,グーグルのストリートビュー。

ストリートビューについては,何度か批判した。解像度が劇的に向上し,撮影場所も路地裏にまで入り込みつつある。プライバシー侵害は,すでに許容範囲を超えているのではないか?

たとえば,自宅前で洗濯物を干している女性,玄関で誰かと話している男性,車で誰かと出かける青年等々。申し訳程度にぼかしが入れてあるが,知人,地元民なら,すぐだれか判別できる。

ストリートビューでは,まだ名前検索はできないが,地名入力すれば場所の検索は可能。地域の個々人の生活や人間関係が具体的にわかる。グーグルにプライバシーを暴かれ,半永久的に保存され,世界中にばら撒かれたくなければ,トイレにでも隠れて生活せざるをえない。

また,グーグルに許されるのなら,私たちも車にカメラを装着し,あるいは自宅軒下に監視カメラを設置し,手あたり次第撮影し,ネット上に掲載してもよいことになる。自宅トイレなど密室を一歩出たら,プライバシーなきものと覚悟せよ!

4.神の域に近づくグーグルや百度
私たちは,神の前では一切の隠し事はできない。神は,寝室も風呂もトイレも,すべて見ておられる。そして,すべてを永遠に記憶され,いつでも呼び出し現前せしめられる。グーグルや百度は,着実に神の域に近づきつつある。

140617b ■百度検索

[参照]
京都の米軍基地(41):住民監視の現状
京都の米軍基地(37):丸裸の監視社会
自衛隊員の「つぶやき」:万人監視社会への警鐘
京都の米軍基地(32):捨て石としての沖縄・グアム・京丹後
京都の米軍基地(23):特定秘密としてのXバンドレーダー

谷川昌幸(C)

万人監視国家,ニッポン

『世界』5月号の公募グラビア,佐藤淳平「監視」が不気味だ。監視カメラが,駅でも,団地でも,歩道でも,店先でも,ベンチの上からも,公園の木陰からも,そして,どこかわからないが,そこからも,人々を常時監視している。

東京都内には,街頭「防犯カメラ」が,警察設置195台,自治体設置4959台もあるそうだ。市民は,プライバシーより「安心,安全」を重視し,もはや慣れっこになっている。が,「防犯カメラ」の防犯効果は,実際には,まだ実証されていないという(p.303)。人々は,漠たる不安に駆られ,効果も定かでない「防犯カメラ」設置に走っているのだ。

プライバシー(privacy)とは,「自由な私生活」ないし「私生活の自由」のことであり,public,つまり「公開」「公共」の反対概念だ。換言するなら,私生活の自由(見られない権利)があってはじめて,公的領域(見る権利,見せる権利)があるのであり,公共は公共だけでは存立しえない。

そもそも,人間にとって本当に大切なものは,隠されてある。信仰もストリップショーも,隠されてある「」や「秘所」がなければ,存立しえない。隠すために見せ,見せるために隠す。隠すもののない者は,もはや人間ではない。カミかヒトだ。

それにもかかわらず,いまや日本の国家や社会は,監視カメラ設置で住民の「私生活の自由」を根こそぎ剥奪しようとしている。愚かなことだ。自らの存立根拠を,自ら取り除こうとしている。

そもそも「防犯カメラ」が欺瞞的だ。正しくは,「監視カメラ」,あるいは「スパイカメラ」または「盗撮カメラ」と表現すべきだ。日本は,古来,言霊の国。人間らしい「見られない自由」「隠れる自由」を取り戻すためにも,ことばは,それ本来の意味で誠実に用いられるべきであろう。

▼巷にあふれる「防犯カメラ」(Google)
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谷川昌幸(C)

文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動

1.CPN-Mのインド映画禁止運動
マオイスト左派のCPN-M[バイダ派マオイスト]が,9月26日,「下劣なインド映画」とインド車両の全面禁止を宣言した。すでにCPN-Mは,影響下の自称「タムサリン州」の10郡(チトワン,マクワンプル,ダディン,シンドパルチョーク,カブレなど)において,インド車両の通行を実力阻止し,インド映画・インド音楽の上映や放送を禁止している。26日の発表は,このインド映画・インド車両排除運動の全国への拡大宣言である。

この決定のうち,インド車両の禁止は,分からないわけではない。インド登録車両がどの程度ネパール国内に入り使用されているか正確には分からないが,相当数使用されていると思われ,もしそうなら独立国家ネパールの政治と経済にとって,これはゆゆしき問題であり,何らかの規制は当然といえよう。

2.CPN-Mはアナクロ全体主義か?
これに対し,インド映画禁止は,「知る権利」や「表現の自由」の真っ向からの制限であり,賛否が分かれる。CPN-Mのパンパ・ブサル報道担当は,こう述べている。

「インド映画はネパール国家とネパール人民を侮蔑し,卑猥を助長し,文化汚染を広めるものだ。それゆえ,わが党は,インド映画を禁止することにした。」(nepalnews.com, 26 Sep)

これに対し,統一共産党(CPN-UML)は,「幼児的敵対行為」と批判し,コングレス党(NC)やマデシ諸党派も同様の理由により強く反発している。

たしかに,「表現の自由」や「知る権利」の世界的常識からみると,CPN-Mのインド映画禁止運動は非常識であり,時代錯誤の極左全体主義といわざるをえない。CPN-Mは,各方面からの激しい非難を受け,すべてのインド映画が反ネパール的というわけではないので,「反ネパール的映画か否かを判定する独立機関を設置する」(Republica, 27 Sep)ことにより,有害でないインド映画は上映を許可するようにしたいと説明しているが,これとて権力による「検閲」であり,見方によれば,全面禁止よりも危険といわざるをえない。

こうしたことは今日では自明のことであり,人権論の初歩である。CPN-Mは,そんなことも知らないアナクロ全体主義政党なのだろうか?

 ネパールの映画館

3.権利の形式的保障の弱点
西洋諸国や日本の人々の多くは誤解しているが,ネパール・マオイストは人権論や民主主義論の最新の動向をよく知っており,したがって「表現の自由」や「知る権利」についても十分な知識を持っている。CPN-Mは,そんなことはわかった上でインド映画全面禁止を決定,実力をもってそれを全国実施させようとしているのである。なぜか?

それは,CPN-Mが,自由や権利の形式的保障は強者ないし多数派の側に有利であり,実際には弱者や少数派にとっては何の権利保障にもならないことをよく知っているからである。

CPN-Mの支持基盤はジャナジャーティ(少数派民族諸集団)である。これらの民族諸集団は,それぞれ独自の言語や文化をもっているが,それらは1990年革命が成功し自由民主主義体制になっても,多数派言語・文化との自由競争にさらされるばかりで,実際には保護されることなく衰退一方であった。

そして,自分たちの言語や文化の衰退は,その社会での民族としての存在の希薄化と表裏一体であるから,少数派諸民族は1990年憲法体制のもとで実際には民族としての自律性をも喪失していくことになった。言語や文化の自由競争,すなわち「表現には表現をもって」とか「言論には言論をもって」といった自由や権利の形式的保障こそが,少数派民族の危機をもたらしているのである。

4.民族の権利の実質的保障
だからこそ,CPN-Mは,民族の言語や文化,自由や権利は,実質的に保障されなければならないと考えるのである。

たとえば,1990年憲法(第18条)でも2007年暫定憲法(第17条)でも,母語による初等教育が保障されているが,自由な選択と競争に任せておけば,少数派言語を学んでも社会ではほとんど役に立たないから,親たちは,結局は,多数派言語のネパール語か,あるいは可能ならば「世界共通語」の英語を選択することになり,少数民族の言語や文化は衰退してしまう。形式的保障では,少数民族の自由や権利は守られないのだ。

CPN-Mが,ネパール文化を守るためインド映画を禁止する決定をしたことには,したがって十分な根拠がある。自由競争にゆだねると,大国インドの映画やTV番組が弱小国ネパールを席巻してしまい,ネパール語文化や諸民族語文化の衰退は免れないからだ。

CPN-Mは,断じてアナクロではない。むしろ,日本などより先行しているくらいだ。もし少数派諸集団の言語や文化,自由や権利を本気で守ろうとするなら,多数派有利の「表現の自由」や「知る権利」は制限されなければならない。

5.近代市民社会の常識と現代多文化社会
しかし,こう言ったからといって,「表現の自由」や「知る権利」が,民主主義や人格形成にとって必要不可欠の権利であることまで否定するわけではない。権力や多数派の側の情報のウソや偏向を暴き,人権を守り民主主義を前進させるためにも,また個々人の人格形成や文化発展を図るためにも,「表現の自由」や「知る権利」は最大限保障されなければならない。言論・映像・音楽など,あらゆる「表現」については,表現をもって応答し,権力や暴力で黙らせるといったことは許されるべきではない。近代市民社会では,これは常識であって,こんなことを言うのは蛇足にすぎない。

しかしながら,世界社会における少数派,多文化国家における少数派の実情を見ると,「言論には言論をもって」とか「表現には表現をもって」といった市民社会の常識が,深刻な反省を迫られているという感じがしてならない。ネパールでは,多くの少数派言語,少数派文化が,言語・言論・表現の形式的保障による自由競争のもとで衰退し,消滅しつつある。

これは余所事,他人事ではない。たとえば,日本語。以前,水村美苗『日本語のために』の紹介(下記参照)でも述べたが,このままでは日本語は「世界共通語」としての英語との自由競争に敗れ,衰退は免れない。親は日本語よりも世界に通用する英語を学ばせようとし,企業はグローバル競争に勝ち抜くため,英語を企業公用語にしてしまう。こうなると,日本社会において,一流言語=英語,二流言語=標準日本語,三流言語=他の諸言語,といった言語カースト制が成立する。これは魂=精神のカースト制であり,日本社会には深い亀裂が入り,修復は困難となるであろう。

言語・文化の自由市場競争による淘汰は,日本ではまだ緩慢にしか進行せず,激しい自覚症状は現れていないが,日本の100年の変化を数年で経験しているネパールでは,言語も文化も形式的権利保障だけで自由市場競争に投げ出されたため,相対的少数派の言語・文化から次々と衰退し消滅していっている。そして,こうした言語や文化の衰退は,その言語や文化をもつ民族の実質的な社会的地位の没落でもあるのだ。

6.ポストモダンのマオイスト
この少数派諸民族にとって酷な現実を見て,実力をもって多数派の言語や文化と対抗しようとしたのがプラチャンダの旧マオイストであり,旧マオイストの体制内化後は,現在のCPN-Mである。

CPN-Mのインド映画禁止運動は,乱暴ではあるが,多数派が見ようとはしない「表現の自由」や「知る権利」の多文化社会における問題点を鋭く突くものであることは間違いない。時代錯誤のアナクロ極左全体主義と冷笑して済ますことはできようはずがない。マオイストこそ,ポストモダンの前衛なのだ。

[参考資料]
・”CPN-Maoist declares nationwide ban on Hindi movies, Indian plate vehicles,” nepalnews.com, 26 Sep.
・”CPN-Maoist’s anti-India rant earns severe criticism,” The Himalayan Times, 26 Sep.
・”CPN-Maoist bans Hindi movies, Indian plate vehicles,” Republica, 27 Sep.
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8), 2009/06/16
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7), 2009/06/15
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(6), 2009/06/14
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(5), 2009/06/13
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(4), 2009/06/12
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(3), 2009/06/11
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(2), 2009/06/10
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(1). 2009/06/09

谷川昌幸(C)

マオイストの憲法案(18)

4(12)情報権とプライバシー権

マオイスト憲法案第33条は「情報権(情報への権利)」を保障している。

第33条 情報権
自分自身または公衆に関わる情報を請求し取得する権利。ただし,法律により秘密とされるものは除く。

これは,いわゆる「知る権利」ないし「情報開示権」であり,内容は90年憲法とほぼ同じ,暫定憲法とは全く同じである。

この情報権に対しては,他方では,当然,プライバシーが守られなければならない。

第34条 プライバシーの権利
個人の人格,住居,文書・記録,統計,通信,評価結果は侵害されない。

このプライバシーの権利規定も,90年憲法とほぼ同じ,暫定憲法とは全く同じである。

情報権と表現の自由
この情報への権利は,いうまでもなく表現の自由と密接な関係にある。言論の自由や表現の自由が制限されれば,情報権の意義は大きく損なわれ,特にメディアの場合,情報を得ても報道できないことになってしまう。

この表現の自由については,前述のように,マオイスト憲法案でも90年憲法や暫定憲法でも,「但し書き」により制限が認められている。マオイスト案では,国民性,主権,統合,邦間関係,カースト・部族・共同体等の関係,法廷侮辱,犯罪教唆,公序良俗,封建制や帝国主義を利する行為等を理由に,表現の自由は制限される。

つまり,その気になれば,政府はこの「但し書き」を使って表現の自由を思いのままに制限し,その結果,知る権利も制限してしまうことが出来るのである。

インド憲法と表現の自由制限
これは決して杞憂ではない。同様の規定をもつインドでは,憲法の「但し書き」を使って言論・表現の自由がしばしば制限されてきた。

インド憲法第19条(1)a 言論・表現の自由の保障
(2) インドの主権および統合,国家の安全,外国との友好関係,公序良俗,法廷侮辱ならびに犯罪教唆を理由とした「合理的規制」の承認。

たとえば,ニューヨークタイムズ記事(2011.4.28)によれば,最近,インド政府はガンディーの名誉を傷つけるという理由で,ガンディーの伝記の出版を禁止した。

また,同記事によれば,このところインド政府が特に力を入れているのが,インターネット規制。インド情報技術省は,公序良俗や共同体関係を理由として,ウェッブサイトやSNSを次々と閉鎖させ,あるいは記事の削除を命令している。

ムンバイ・テロ事件後には,「2008年情報技術法」が制定され,治安を理由とした通信傍受が認められた。そして2011年には「2011年情報技術規則」が制定され,政府でも市民でも「合理的理由」があれば,ネットサイトに対し削除を要求できるようになった。

このニューヨークタイムズ記事を転載したマオイスト系メディアによれば,インド政府のネット規制強化の主要ターゲットはマオイストである。

たしかに,マオイストはネパールでもインドでも,さかんにネットを利用し,プロパガンダを展開している。南アジアでネットをもっとも効果的に利用している政治勢力は,マオイストといってもよいであろう。

そのマオイストにとって,憲法「但し書き」による言論・表現の自由の制限は,自由主義者と同様,許しがたいことなのである。

しかし,自由主義者がそうした「但し書き」による表現の自由制限の危険性に対し警鐘を鳴らし一貫して反対するのとは対照的に,マオイストは一方では「但し書き」による表現の自由制限を最大限認めておきながら,他方では,表現の自由制限に真っ向から反対する。マオイストによる言論・表現の自由の制限は善,敵による制限は悪ということだろう。

何とも手前勝手な独善的ご都合主義。自己矛盾も甚だしい。マオイストは,法は自らの手を縛るためのものだ,という憲法論のイロハの学習から始めるべきだろ。

* “India Puts Tight Leash on Internet Free Speech,” NY Times, 2011-04-28

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/05/10 at 21:27