ネパール評論 Nepal Review

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特定秘密保護法と一老人の繰り言

講演会「希代の悪法『秘密保護法』を許さない」に行ってきた。

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「戦争は『秘密』から始まる 希代の悪法『秘密保護法』を許さない」
▼講演
 羽柴修氏(弁護士、弁護士9条の会事務局長)「戦争は『秘密』から始まる」
 鳥越俊太郎氏(ジャーナリスト)「希代の悪法『秘密保護法』を許さない」

▼対談
 羽柴修氏×鳥越俊太郎氏
 司会:小山乃里子氏(ラジオパーソナリティー、元神戸市市議会議員)

・日時 2013年1月18日(土)14:00~16:10
・場所 神戸文化ホール(神戸市中央区)
・主催 NHK問題を考える会(兵庫)
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主催団体のことはまったく知らない。講師や司会者も,お名前を聞いたことがあるくらいのこと。テーマが堅く,しかも入場料千円なので,参加者は少ないだろうと考え会場に行ったら,何と場外にまで長蛇の列,入場者約1000人,あぶれ入れなかった人,数百人以上という。もう少し遅かったら入場できなかっただろう。これには驚いた。

講演と対談はたいへん分かりやすく,問題点もよく理解できた。よい集会であった。

それはそうとして,一つ気になったのが,参加者の一様性。土曜午後というのに,ホールを埋め尽くしたのは老人ばかり,青年層はほとんどいない。これにもまた驚いた。いや,正直に言うと,こちらの方が驚きは大きかった。

いうまでもないことだが,現在の危険な右傾化に,若い世代の責任はない。現在の社会や政治は,戦中派や戦後第一世代の人々がつくり出したものだ。

未曾有の敗戦の悲惨を背に,彼らは豊かな生活を夢み,「働き蜂」となり,あるいは「社蓄」としてがむしゃらに働いてきた。その結果,物質的な豊かさをそこそこ手にし,そこで生産活動・経済活動の現役から引退し,「老後」生活に入った。しかし,遠からず訪れる死を前に自分の人生を振り返り,あるいは周囲を見回すと,その光景はあまりにも貧しく,殺伐としていることに気付き始めた。

こんなはずではなかった。これで終わりたくはない。老人の多くは,そう考え,失われた時を取り戻そうと焦り,いま,あちこちで意地汚く遊び始めた。駅や空港に行ってみよ。物見遊山旅行の老人どもでいっぱいだ。小綺麗なレストランをのぞいてみよ。老人どもが,小賢しい蘊蓄を垂れ流し,美食をつついている。喫茶店もそうだ。孤独な老人どもが三々五々集まり,ぐだぐだ世間話をし,何とか社交の喜びを手にしてみたいとあがいている。先は短い。何をしても手遅れ,面白いはずはない。焦れば焦るほど惨めになるだけだ。老醜に気づかないのが老人,自業自得なのだ。

これに比べ,「特定秘密保護法」反対集会などへの老人の参加は,すべてとはいわないが,多くの場合,もう少し屈折している。かつて自分たちが多少なりとも権力と闘ったことへのノスタルジー。ただし,惨めに敗北し,その結果,現在があることは,都合よく忘れている。

老人は先が短いのだから,文字通り生命を賭して前線に出て闘えばよいのに,老齢を理由に自分では大して闘わず,その代わり「いまの若者は自分の目先のことにしか関心がなく政治意識が低い」とか「こんな若者ばかりでは日本の将来が心配だ」などといって,都合よく責任転嫁し,自己満足にふけっている。

失われし時を求め遊び呆ける老人と,懐旧にふけり現在と若者に悲憤慷慨する老人。そして,その老人どもにおしみなく経済的支援と精神的慰謝を恵み続けている若者たち。いつの時代にあっても若者は美しく,老人は醜い。老人がいくらあがこうが,未来は若者たちのものだ。死に行く老人にはどうしようもない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2014/01/19 at 19:05

カテゴリー: 情報 IT, 人権

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肉体文学としての「ハシシタ 奴の本性」

「ハシシタ 奴の本性」(週刊朝日10月26日号)掲載中止に関する著者の見解が発表された。佐野眞一「見解とお詫び」朝日新聞出版HP(2012-11-12)。失笑、幻滅。全く話にならない。

1.責任倫理の欠如
そもそも佐野氏には、著者としての自覚、当事者意識が希薄だ。朝日側が何を言おうが、「ハシシタ 奴の本性」は佐野氏の名前で発表された佐野氏自身の作品である。「ハシシタ」を「奴の本性」と見事喝破されたのだから、その論理からしても、「ハシシタ 奴の本性」という作品は、Authorたる佐野氏の本性の発現と考えるほかあるまい。だとしたら、当然、 自分の名を冠した作品の第一の責任は朝日にではなく自分にある、と堂々と宣言されるべきであった。それが作家たるものの矜持であろう。

ところが、佐野氏はそうはされなかった。今後、佐野氏がどのような作品を発表されようが、読者は「どうせ誰かに書かせたのでしょ」と、疑ってかかる。著者には、自分の名を冠した作品に対する第一の責任がある。著者としての「責任倫理」を自覚せず、作品に対する「結果責任」をとらない作家は、誰からも信用されないだろう。

2.肉体文学: 作品性の欠如
第二の問題は、佐野氏は「配慮を欠いたこと」を反省されているが、これは世間への配慮の問題ではない。佐野氏には、作品を書くということへの理解が根本的に欠如している。

いま手元にないので詳しくは引証できないが、「ハシシタ 奴の本性」は、丸山眞男のいう「肉体文学」にほかならない。

フィクションはいうまでもなく、ノンフィクションも、作者が生の素材を加工して作り出す「作品」である。取材した素材を生のままさらけ出すのは、クソ実証主義であり、作品性のない単なる「肉体文学」であるにすぎない。

佐野氏は、「取材の自由は保障されなければなりません」などと繰り言をいっているが、それは当然のことであって、いまさら言われるまでもないことだ。また、「まさに言論と表現の自由の危機です」とも述べているが、実際には、そんな高尚なことが問題になっているのでもない。問題の核心は、取材した素材が生煮えで、作品化されていないということなのだ。

もし作家が佐野氏の反省に習い、世間や権力に配慮し書くべきことを書かなかったり、筆を曲げてしまっては、作家失格である。佐野氏は「慎重な上にも慎重な記述を心がけます」などと、誰かに書かされたかのようなことも書いておられるが、作家にはそのような世間を意識した「慎重さ」など、全く不要である。書くべきことを自由に書けばよい。

ただし、そこでは当然、事柄の真実に迫る、換言するなら、作品としての完成を目指す、という内在的規範が厳しく作家を規制する。素材をそのままさらけ出す安易低俗な肉体文学ではなく、素材を徹底的に吟味し事柄の本質に迫る本物のフィクション、本物のノンフィクションこそが作家の目標でなければならないのである。

3.結果責任の欠如
佐野氏の取材の自由は誰も制限しないし、すべきでもない。また、作品を書くに当たって、佐野氏は世間に配慮や遠慮をする必要はないし、すべきでもない。ただただお願いしたいのは、作品としての完成度を高めること、そして、それでももし不十分として批判されたら、「配慮を欠いた」などといった無様な言い訳をせず、潔く力不足を認め、作家としての責任倫理に基づき、結果責任を堂々と果たして行かれることである。

「ハシシタ 奴の本性」――それは断じて世間への「配慮」や「慎重さ」の問題ではなく、ノンフィクションとしての作品自体の質の問題である。

[参照]
2012/10/23 ゴシップで売る朝日と佐野眞一氏の名前
2012/10/22 佐野氏の執筆責任放棄と朝日の表紙かくし
2012/10/21 朝日と佐野氏の優生思想:「ハシシタ 奴の本性」の危険性

 ■週刊朝日表紙

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[参考資料]

見解とお詫び

 報道と人権委員会の厳しい評価と重い処分が出たことを深刻に受け止めています。この件に関する私の意見を申し述べたいと思います。
 まず初回で連載打ち切りの事態になり、日本維新の会代表の橋下徹氏を通じて現在の未曾有の政治的停滞状況と言論の置かれた危機的状況を描きたいという筆者の真意が読者の皆様にお伝えできなかったことが残念でなりません。人物評伝を書く場合、私には鉄則があります。テーマとする人物の思想や言動は、言うまでもなく突然生まれたわけではありません。
 生まれ育った環境や、文化的歴史的な背景を取材し、その成果を書き込まなくては当該の人物を等身大に描いたとはいえず、ひいては読者の理解を得ることもできない。それが私の考える人物評伝の鉄則です。ましてや公党の代表である公人中の公人を描く場合、その人物が生まれ育った背景を調べるため、家族の歴史を過去に遡って取材することは、自分に課したいわば私の信念です。
 取材で得た事実をすべて書くわけではありませんが、取材の自由は保障されなければなりません。それが許されなければ、まさに言論と表現の自由の危機です。
 こうした手法を取るのは、当該の人物を歴史の中に正確にポジショニングして描くためであって、差別や身分制度を助長する考えは毛頭ありません。
 しかしながら、ハシシタというタイトルが、不本意にも橋下氏の出自と人格を安易に結び付ける印象を与えてしまい、関係各位にご迷惑をかけてしまいました。
 人権や差別に対する配慮が足りなかったという報道と人権委員会のご指摘は、真摯に受け止めます。また記述や表現に慎重さを欠いた点は認めざるを得ません。
 出自にふれることが差別意識と直結することは絶対あってはならないことです。差別に苦しめられながら、懸命に生きてきた心から尊敬できる人は数多くいます。
 そのことが重々わかっていたつもりだったにもかかわらず、それら心ある人たちのひたむきな努力や痛みに思いを致せない結果となってしまいました。
 私の至らなかった最大の点は、現実に差別に苦しんでおられる方々に寄り添う深い思いと配慮を欠いたことです。その結果、それらの方々をさらなる苦しみに巻き込んでしまったことは否めません。今後はこのようなことがなきよう、慎重な上にも慎重な記述を心がけます。関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします。

2012年11月12日 佐野眞一

(http://publications2.asahi.com/3.html)
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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/13 at 02:04