ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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老老介護(17):蟻地獄に落ち込む前に

老老介護には様々な困難があるが,最も深刻なものの一つが,介護者の精神的・身体的疲労の蓄積の結果,介護者自身が介護の蟻地獄に落ち込んでしまうことだ。

老老介護は,介護される側も介護する側も,ともに高齢者。しかも,老化は両者ともに不可逆的に進行する。介護負担が日々重くなる一方なのに,それに反比例し,介護者の介護能力は落ちていく。

この状況では,介護者が介護を続けようと頑張れば頑張るほど,介護者には必然的に疲労が増大し蓄積していく。そして,疲労が蓄積すればそれだけ介護能力が落ちるので,介護者はさらに頑張ろうと無理をする・・・・。まさに悪循環,底無しの老老介護の蟻地獄だ。

この11月中旬,福井で71歳の妻が自分一人で介護してきた義理の父(93歳,要支援2)と母(95歳,要介護1)と夫(70歳,足不自由)の3人を殺害してしまった事件も,おそらくそうした老老介護による精神的・身体的疲労の蓄積の結果,引き起こされてしまった惨事であろう。

この妻は,3年ほど前から働きながら3人の介護をしてきた。もともと明るくて優しく,家族の世話をよくする「よい嫁」であったという。その妻による介護は,老老介護である上に,1人で3人をも介護する多重介護であった。その老老多重介護が,彼女にとって,「よい嫁」であろうとすればするほど,いかに過酷なものとならざるをえなかったか,まったくもって察するに余りある。同情を禁じ得ない。
*福井新聞「敦賀3遺体、夫殺害容疑で妻を逮捕」(11月18日),「敦賀高齢3遺体、介護の苦労漏らす」(11月18日),「敦賀殺人容疑の妻、介護うつ状態か」(12月6日)

これと比べ,私の母介護は,はるかに楽である。適当に手を抜き,息抜きをし,続けてきた。しかし,それでも,はっきりとは自覚はしていなくても,私自身の老化進行もあって,疲労は蓄積してきているようだ。

たとえば,このブログ。以前は毎日のように投稿していたのに,徐々に減少し,最近はせいぜい月数本となってしまった。関係情報を集め,読み,分析し,文章にまとめることが難しくなってきた。

といっても,私の場合,自由時間が極端に少なくなったわけではない。時間は,いまのところ,まだそこそこにはある。が,時間はあっても,介護のためそれが不規則に分断され,集中して何かをすることが出来なくなってしまった。そのため,イライラが募り,あせればあせるほど悪循環,それだけますます集中できない。これはブログ投稿だけでなく,他のことについても,多かれ少なかれ言えることである。

この状況は,身体よりも先に精神の疲労をもたらす。そして,それが少しずつ,だが着実に,蓄積していくと,眠る時間はあっても,実際にはよく眠れなくなる。そして,安眠できなければ,それは身体の不調をもたらし,不可避的に身体的な疲労をも蓄積させていくことになる。

私の場合,このような精神的・身体的疲労の蓄積は,いまのところ,まだそれほど深刻ではない(と自己診断している)。が,楽観は禁物,老老介護の底無しの蟻地獄に落ち込む前に,何か良い打開策を見つけたいと考えている。うまくいくとよいのだが・・・・。

[参照]厚生労働省「グラフでみる世帯の状況 平成30年国民生活基礎調査(平成28年)の結果から
▼要介護者等の年齢階級別にみた同居している主な介護者の年齢階級別構成割合

▼年齢別にみた同居の主な介護者と要介護者等の割合の年次推移

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2019/12/10 at 18:14

カテゴリー: 社会, 健康

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老老介護事始め(15):疲弊し荒廃する介護者の心身

高齢認知症の母の介護をしていて「これは危ないなぁ」という思いを日々強くしているのが,介護者たる私自身の心身の疲弊と荒廃である。このままいくと,いずれ崩壊するのではないか?(認知症も介護事情も様々。以下はあくまでも私自身の場合である。)
 【参照】老老介護事始め(1~14)

1.正常・異常混在の難しさ
高齢の母には,記憶のまだらな忘却と混乱があり,言動も正常と異常が混在している。この記憶のまだらな忘却と混乱や言動の正常・異常の混在が,介護者には悩みの種。もし完全な記憶喪失・常時異常行動であれば,それはそれで大変には違いないが,対応方法はほぼ限られており,迷いは少ない。外から見ても,すぐそれとわかるので理解されやすく,誤解の恐れも少ない。

ところが,記憶のまだらな忘却と混乱,判断の正常と異常の混在の場合,介護の方法について介護者自身,つねに適切か否か悩み,部外者には多かれ少なかれ誤解される恐れがある。これが,介護者には精神的につらい。

2.日常で異常,非日常で正常
認知症者は,自分の記憶や行動は正しいと断固思いこんでいる。そして,自宅で日常生活をしているときは,リラックスしているためか,混乱した話や異常行動が出やすく,それらを際限もなく繰り返す。日常生活では異常行動が常態なのだ。

ところが,自宅に誰か他の人が来たときや,通所介護施設(いわゆる「デイケアセンター」*)などに行ったりすると,異常な言動は少なくなる。そうしたときには,自宅での日常生活についても,断片的な記憶をあれこれ取り出し,つなぎ合わせ,それなりに理路整然と説明することが出来る。介護支援相談員(いわゆる「ケアマネージャー」ないし「ケアマネ」*)や医者ですら,コロリとだまされてしまう。そのため,介護者は日々の介護対応に迷うばかりか,他の人々の理解も得られず孤立し,悩み苦しみ疲弊していくことになる。
 *老人福祉分野では,なぜか意味不明の珍妙なカタカナ語が多用される。高齢者はとりわけ理解困難。日本語通訳をつけるべきである。

3.観察・記憶・実行の断片的正確さ
母の場合,例えば食べ物。典型的な認知症過食症で,食べ物を置いておくと,食べては下痢,食べては下痢を繰り返す。仕方なく,保存可能なものは手の届かないところに隠し,他は冷蔵庫に入れ,開けられないよう扉をロープで縛っていた。そうしないと,食べ散らかし,庫内のものを外に出し放置するからだ。

ところが,ひと月ほど前のある日,帰ってみると,冷蔵庫を縛っていたロープが包丁で切られ,食べ散らかされていた。危険なので刃物はすべて隠しているが,包丁を使ったとき,隠すのをこっそり見られていたらしい。こだわりがあることには異様に敏感で,抜け目なく,記憶も確かだ。

4.適切な実力行使の必要性
いま冷蔵庫は鎖で縛り,大きな錠前でカギがかけてある。それでも,日に何度も,開けようとする。包丁やハサミは手の届かないところに隠したので,今度は洗面所で見つけた安全カミソリで鎖を切ろうとしたり,錠前や鎖を引っ張りこじ開けようとしたりする。やめさせようとしても,食べ物がないと困る,開けて確かめるのがなぜいけない,と正論を吐き,やめようとはしない。結局,根負けし,手首や肩をつかみ,実力で冷蔵庫から引き離さざるをえない。

冷蔵庫が開けられないと,今度は食べ物を買いに外に出ようとする。外出すれば,迷子はほぼ確実。交通量の多い道路もあるので,大事故の恐れもある。危険なので,玄関ドアも鎖で縛り,鍵がかけてある。ところが,それでも出ようとし,鎖を引っ張ったりドアをたたいたりする。ドアが壊れるし近所迷惑でもあるので,やめさせようとしても,やはり「食べ物がない」「買いに出てなぜいけない」と正論を吐き,いうこと聞かない。そこで,仕方なく,腕や肩をつかみ,力づくでドアから引き離すことにならざるをえない。

他にも,放置も説得もできないので,力づくで止めさせざるをえないことが,たくさんある。こうした「実力行使」について,認知症や介護の専門家らは,「それはいけない,本人があきらめるまで安全を確保しつつ見守りましょう」とか,「繰り返しやさしく話しかけ,関心を他のことに向けさせるようにしましょう」といった助言をしてくれるが,一般の家族介護では,そんな悠長なことをやってはいられない。本人と家族と社会の安全のため,家族介護者は,必要な場合には,力づくで制止をせざるをえない。それは,適切な「実力行使」である。

5.過度な実力行使へ
しかしながら,家族介護者がそうした「実力行使」をすると,それが様々な問題を引き起こし,介護者をさらに一層悩ませ苦しませることになることもまた事実である。

母の場合,たとえば鎖で縛り錠がかけてある冷蔵庫の扉や玄関ドアを,何回やめさせても,繰り返し繰り返しこじ開けようとする。認知症のためとは理解していても,それでもなお,同じことが繰り返されると,ついカッとなって,乱暴に力づくで止めさせることになりがちだ。過度な「実力行使」である。

無感情な介護ロボットでも高尚な介護解説者でもないのだから,やむを得ないとはいえ,過度な「実力行使」は,むろん「暴力」である。しかも,そんなことをしても無意味と自分でも十二分にわかっているのだから,なおさらのこと,すぐ後で後悔し,自己嫌悪に陥ることになる。

6.白桃の如き傷つきやすさ
さらに,高齢者の場合,ちょっとした外力で転んだり,ケガをしたりすることも少なくない。

その一つが,皮下出血。手や腕,肩などをちょっと強くつかんだり,何かにぶつけたりすると,すぐその部分に皮下出血が起こり,広がり,黒ずんでくる。外から見ると,まるで激しく殴られたかのよう。過度な場合は無論のこと,適正な「実力行使」であっても,そのような皮下出血は起こりうる。

高齢者は,まるで熟れ過ぎた白桃のようだ。触っただけでも傷つく恐れがある。高齢者介護は,文字通りはれ物に触るような細心の配慮をもって当たらねばならない。

7.尽くすほどに嫌われる介護者
一方,介護を受ける側の認知症者は,皮肉この上ないことに,これとは全く逆の受け止め方をしている。

認知症者は,自分が正しいと確信していること(たとえば「冷蔵庫を開ける」「外出する」など)をしようとするたびに,家族介護者にやめさせられている。しかも,力づくで。これが続くと,身近な介護者が自分に意地悪をし,食べ物を食べさせてくれず,したいこともさせてくれず,しょっちゅう自分に暴力をふるう,自分は虐待されている,と思い込むようになる。

家族介護者は,介護を尽くせば尽くすほど,怒られ,嫌われ,憎まれる。毎日,三度の食事は無論のこと,おやつを出し,掃除洗濯をし,何から何までやっていても,認知症者はそんなことは何一つ覚えてはいない。覚えているのは,食べ物を取り上げられ,外出を禁止され,叱られ,「殴られた(と思い込んでいる)」ことだけ。まったくもって不思議千万だが,四六時中世話をしている家族介護者は,嫌われ憎まれることはあっても,感謝されることは全くない。なんたる不条理!

8.自己嫌悪と無理解の二重苦
こした状況のところに,日常介護しているのではない他の誰かが来ると,どうなるか? 認知症者は,これ幸いと,日ごろの恨み辛みや「虐待」を,恐るべき記憶力を発揮し,事細かに次々と訴え,介護者を非難し罵倒し始める。認知症が広く知られるようになってきたとはいえ,認知症者の「虐待」の訴えは確信に満ち具体的であることが少なくなく,そのため多くの人がその話を信じることになる。

しかも,証拠さえある。たとえば先の皮下出血。高齢認知症者の手足や腕や肩など,身体のあちこちに赤黒い皮下出血があれば,「これは大変! 殴られている。老人虐待だ。けしからん! すぐ役所か警察に通報しよう」といったことになりかねない。

高齢認知症者を介護する家族は,過剰になりがちな「実力行使」で自己嫌悪に陥らざるをえない上に,本人からは全く感謝されないどころか嫌われ,憎まれ,世間からは老人虐待と疑われ,それでも介護を続けなければならない。家族介護者が人格荒廃に陥り,あるいは疲弊し燃え尽きてしまうのは当然といえよう。

9.「シジフォスの岩」の如く
高齢認知症者家族介護は,心臓を動かし続けることを至上命題とする現代人に対する天罰,現代の「シジフォスの岩」のようなものである。まったく報われることのない苦役を毎日,四六時中,ただひたすら繰り返さざるをえない。底無しの自己嫌悪の淵に沈み行く自己を為す術もなく傍観しつつ。

■認知症(WHO HPより)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/07/18 at 17:28

カテゴリー: 社会, 健康

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老老介護,事始め(14):人口ピラミッドの日ネ比較

論より図,ネパールが日本ほど極端ではないにせよ高齢化社会に向かい始めたことは,人口ピラミッドを見れば一目瞭然である(下図参照)。ほんの四半世紀前,1990年ころまでは先の鋭くとがったスマートな若々しい三角形だったし,2000年になってもまだ最下部(最若年層)が少し減り始めたくらいだったのに,2010年になると下部が大きくへこみ,三角形が台形に変わり始めている。平均余命の急伸で中高年層が増えているのに,子供の数は相対的に減り始めたからだ。ネパールでも,高齢者扶養負担増は避けられない。

ネパールの老齢年金は,支給年齢の引き下げと支給額の引き上げが段階的に行われてきた。
ネパールの老齢年金
 1994-96支給開始:75歳以上,100ルピー/月
 1999/00改定:75歳以上,150ルピー/月
 2008/09改定:70歳以上(ダリット,カルナリ住民60歳以上),500ルピー/月
 2011/12改定:70歳以上(ダリット,カルナリ住民60歳以上),1000ルピー/月
 2015/16改定:70歳以上(ダリット,カルナリ住民60歳以上),2000ルピー/月
  *開始年度等に一部不明確な部分がある。

このように,ネパールの老齢年金は,まだまだ不十分とはいえ,いままでのところ近年の日本の年金引き下げとは逆に,拡充に向かって動いてきた。しかし,そのネパールでも,このまま高齢化が進めば,憲法や高齢市民法が保障している「高齢市民の権利」の実現のはるか手前で,逆転・逆行が始まるのは避けられそうにない。ネパールは日本以上に高齢者問題が深刻になる恐れがある。

ネパールと日本の人口ピラミッドWorld Life Expectancyより作成)

* DEMOGRAPHIC CHANGES OF NEPAL: Trends and Policy Implications, National Planning Commission, Government of Nepal & United Nations Children’s Fund (UNICEF). KATHMANDU, MARCH 2017

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/24 at 10:24

老老介護,事始め(7):科学者の如く

斑状の記憶喪失の母は,残存の記憶や何らかの拍子に蘇った記憶をつなぎ合わせ,いまの物事を理解し行動しようとしている。常識外れの,奇想天外な話や行動が,次から次へと繰り出されるのは,そのためであろう。世間の常識にこだわらず,思いもよらないようなことを試みるのは,科学者であり哲学者。その意味で,母は科学者であり哲学者である。

たとえば,最近のシャワー事件。風呂のシャワーには,取手に湯を出したり止めたりする手元押しボタンがある。シャワーを持つと,手のすぐ上に位置するかなり大きなボタン。これまでは,このボタンを押して湯を出したり止めたりし,シャワーを使ってきた。何の問題もなし。

ところが,先日,風呂から出たので片付けに入ってみると,シャワーのホースが根元から外され,湯が給湯配管の口から噴出するようにされていた。びっくり仰天。何だ,これは!

常識に囚われていては,毎日使っていた一番近くの目につきやすい,一番簡単な手元ボタンをなぜ押してみないのか,まったく理解できないはずだ。が,その常識をいったんカッコに入れ,科学の目で見るならば,それは合理的な行為であることがわかる。湯が出ない原因を次々と確かめていき,その結果,ホースを根元から外すことにより,湯を出すという目的を達成することが出来たのだ。

同様のことが,ほかにもたくさんある。もう一つだけ紹介すると,たとえばポット事件。村の家でも転居後のアパートでも,居間の,ほとんど一日中使っている机の上に電気ポットを置いてきた。高齢になると喉が渇くので,しょっちゅうポットから湯を出し,お茶を飲む。操作は2つ。「ロック解除」ボタンを押し,「給湯」ボタンを押すだけ。長年,十数年以上,毎日,この操作を幾度となく繰り返し,お茶を飲んできた。

ところが,昨年暮れ,ボタンを二つ押す操作が出来なくなった。見ていると,すべての操作ボタンをあれこれ押すが,「ロック解除」⇒「給湯」の組み合わせはできない。もちろん,何回も,この操作方法を教えやらせてみたが,一人ではできなくなってしまった。仕方なく,旧式の魔法ビンを出してきて,使わせていた。

数日後,居間に行くと,びっくり仰天! 電気ポットの上蓋を開けて傾け,熱湯を急須に注ごうとしているのだ。魔法ビンの湯が無くなっていたのだろう。

この行為も,ボタン二つを押すという操作をカッコに入れるなら,危険ではあるが,目的合理的である。科学は,与えられた条件の下で,可能な限り単純明快たろうとする。電気ポットからの直そそぎは,科学の精神に合致している。(世間でも,このところ電気ポットは,機能過剰型から沸かして傾け注ぐだけの単機能型に移行しつつある。)

母のこの「科学的」な電気ポット使用法は,幸か不幸か,その後,記憶がよみがえったため取りやめとなり,以前の「ロック解除」⇒「給湯」の方法に戻ってしまった。ほっとしたような,ちょっと残念なような。

このように見てくると,母の他の行為の多くも,困り危なくはあるが,理解できないものではないことがわかる。認知症の母は,常識をカッコに入れた上で,他のあらゆる可能性を試そうとする科学者の如き存在である。

▼アルツハイマー病による死亡,ネパールは日本より深刻(死因判定方法の相違不明)
 
 *ネパール=2番目に高い緑色,日本=最も低い灰色(World Health Rankings)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/07 at 14:12

カテゴリー: 社会, 健康

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老老介護,事始め(5):「餓鬼」の如く

高齢の母は,認知力が減退するにつれ,全般的に意欲が低下し,まったく無関心の領域も虫食い状に広がっていった。

自分の身なりや家の掃除・整頓をあまり気にしなくなり,近隣との付き合いも減っていった。近くの畑での野菜や花の栽培は,かつては仕事であり,農業をやめた後は最大の趣味であったのだが,それも徐々に興味を失い,やめてしまった。

新聞は,毎朝,読むのが日課だったが,徐々に読むのではなく,ページを開き,眺めるだけとなった。テレビも,画面を眺めるだけ,番組を見て楽しんでいるようには見えなくなった。

新聞やテレビは,それらを見ているとき話しかけると,その都度,都度の記事や番組の断片的な内容は理解しており,話すことが出来た。ところが,それにもかかわらず,記事や番組を全体として理解しているようには見えない。おそらく記憶が持続せず,通して読んだり見たりして記述や出来事の相互関係を把握し,それらの意味を理解して楽しむことが出来なくなったのだろう。

こうして,ほとんどの物事への関心が減退していく中にあって,唯一,変わることなく持続しているのが,食べることへの意欲。他の物事への関心が薄れているので,食欲だけが目立つ。むしろ,食欲が異常に昂進しているようにさえ見える。

とにかく四六時中,食べることの心配ばかり。最大の関心事は,ご飯。コメと炊飯器は台所に置いてあったが,もう大変。コメは,次々に米櫃から出し,洗ってしまう。炊飯器は,しょっちゅうスイッチに触り,ふたを開け,中を見る。炊けているか確認するのであろうが,こんなことをすれば中のご飯はいたみ食べられなくなってしまう。炊飯器も故障する。仕方なく,コメを隠したが,そうすると「コメがない,コメがない」と大騒ぎし家中を探し回る。炊飯器も隠すと,パニック。仕方なく,古い炊飯器をダミーとして出してある。配線の一部を切り,電源は入らない。ひっきりなしに触れ,ふたを開閉するが,騒がしいだけで,実害はなくなった。

他の食品も大変。冷蔵庫をひっきりなしに開け,ひっかきまわし,食品があるかどうか確認する。そして,たとえば沢庵漬けを見つけると,1本丸ごと切り,食卓に出す。他の食品も同様。とても食べられはしないが,それでも見つけると,大量に出し,食卓に並べようとする。もう無茶苦茶。仕方なく,冷蔵庫はロープで縛り,鍵をかけた。

食事は,毎日,3食準備し,きちんと食べさせている。おやつのお菓子や果物も十二分に出してある。それなのに,なぜ食べ物にこれほど執着するのか? たしかに,認知症のため,食べたことをすぐ忘れ,次々と食べる,ということはある。いわゆる「認知症過食」。が,単に忘れたから,また食べる,ということだけではなさそうだ。

食へのこれほどのすさまじい執着。それは,生物としての最も根源的な生存本能によるものではないだろうか? 他の物事への関心が低下し,次々と失われて行っても,自己保存の本能的欲求だけは残る。その自己保存本能が食へのあくなき執着をもたらし,まるで「餓鬼」であるかのような行動をとらせているのではないだろうか?
 *餓鬼=餓鬼道に落ち,飢えとかわきに苦しむ亡者。[がつがつ食べるというので,俗に子供の意にも用いられる](新明解国語辞典)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/04 at 17:34

カテゴリー: 社会

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休耕田と向日葵

農村では,過疎化と老齢化で,休耕田が増えている。雑草が茂り,原野に戻りつつある田畑も少なくない。

というわけで,ということであろうか,田畑に四季の花々を植えているところが,あちこちにある。あるいは,村おこしのため,という場合もあろう。

田畑のお花畑を愛でつつも,心境は複雑とならざるをえない。

▼丹後の向日葵(2016年8月)
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▼駒ヶ根の水仙(2016年4月)
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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/08/10 at 10:51

カテゴリー: 社会, 経済, 農業

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野生動物軍団と専守防衛農業

丹後の村は盛夏,野山に生命があふれ躍動している。動物たちも元気だ。

クマは桃の木に登り桃色に熟した実をほおばり,イノシシは牙でサツマイモを掘り起こし,一家で食べ尽くす。やがて秋になれば,猿軍団が山から下りてきて,庭の柿の木に登り,柿を食べてしまうだろう。コメも野生動物たちの好物だが,さて今秋はどうなることやら。

日本国民は,北方某国など,外国に対しては,防衛には先制攻撃が必要だなどと勇ましいが,自国農業についてはもっぱら専守防衛,欧米の「動物の権利」擁護団体から表彰状がもらえそうなほど平和主義に徹している。

日本農業は,TPP以前に,野生動物連合軍の波状攻撃で崩壊するのではないだろうか。

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 ■イノシシにより一夜で壊滅したサツマイモ畑。国道側。電気柵も効果なし。(2013.7.28)

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 ■自宅横の畑(防獣網設置)。イノシシによりサツマイモ壊滅後,小豆を播き,芽が出た(2013.7.28)。撮影日夜,今度はタヌキかアライグマに掘り起こされた(2013.7.29)。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/07/31 at 12:26

カテゴリー: 社会, 経済

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