ネパール評論

ネパール研究会

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プラ袋禁止,カトマンズ盆地

ネパール新年の4月14日,「カトマンズ盆地プラ袋禁止」が宣言され,盆地内ではプラスチック袋の使用が禁止されることになった。(日本では「ポリ袋」が一般的だが,ネパールでは「プラスチック袋」と呼ばれているようなので,略して「プラ袋」と記す。)

根拠は,「プラ袋規制令2068(2011)」。原典がないので報道からの孫引きだが,これが3月に改正され,4月14日からの施行となった。
 ・カトマンズ盆地内:厚さ40ミクロン未満のプラ袋禁止
 ・カトマンズ盆地外:厚さ30ミクロン未満のプラ袋禁止
 ・罰則:5万ルピー以下の罰金または/および2年以下の投獄

いつもの通り,大胆かつ先進的な取り組みだ。近隣のインドは2002年,20ミクロン以下のプラ袋製造禁止。中国は2008年,極薄プラ袋使用禁止。ネパールでも,2011年には前述の「プラ袋規制令(2068)」が制定され,以後何回か施行が試みられたものの,そのつど業界団体などが反対,2012年(2013年?)には最高裁が「プラ製造業協会(NPMA)」の施行停止請求を認め,禁止命令は停止されてしまった。

これに対し,議会の環境委員会は2014年8月25日,2015年新年(4月14日)からのプラ袋禁止実施を決め,関係機関に通達を出した。今回も「プラ製造業協会」は2015年3月26日,最高裁に施行停止請求を出したが,最高裁は4月7日,この請求を棄却し,その結果,プラ袋禁止が4月14日から実施されることになったのである。

「プラ袋禁止」の管轄は,「科学技術環境省」で,大臣はコイララ首相が兼任している。直接実施に当たるのは,「環境局」。なかなか元気がよい。新年初日には,はなばなしく「プラ袋禁止行進」を敢行し,スンダラやニューロード沿道の人々に代替紙袋を配布した。また,環境局と警察の合同監視団が巡回し,違反を摘発し始めた。
 ・カリマティでプラ袋280kg押収(3月11日)
 ・アサン,ラリトプル,カリマティの23卸売店等からプラ袋400kg以上押収
 ・盆地入口のタンコット等で検問,プラ袋200kg押収

たしかに,ネパールのプラ袋ゴミ問題は深刻だ。様々な数字が報告されている(数値は記事のまま)。
 ・カトマンズのゴミの10%はプラ袋
 ・ネパールのプラ袋使用量300トン/日(?),カトマンズ470万袋/日
 ・プラ袋製造所300~500,プラ袋3万トン製造
 ・バクマバティ川清掃運動でプラ・ゴミ5千トン回収

ネパールのゴミ問題については,このブログでも繰り返し取り上げてきた。自然素材のゴミなら,道ばたや川に捨てても,しばらくすれば腐り自然に戻っていく。ところが,プラスチックはいつまでも分解せず,堆積し,環境を悪化させる。都市部もそうだが,むしろ悲惨なのは郊外。ちょっと人通りのあるところは,プラ・ゴミが散乱し,美観を著しく損ね,衛生状態を悪化させている。

特にショックだったのは,市街でも郊外でも,聖牛たちが生ゴミと混ざったプラ袋をあちこちで食べているのを見たとき。あまりの悲惨,バチ当たりに涙せざるをえなかった。インドが2002年にプラ袋を禁止した理由の一つも,聖牛が食べて病気になったり死んだりしたからだった。この問題については,参照:ゴミと聖牛火に入る聖牛の捨身救世ゴミのネパールゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズゴミまみれのカトマンズ

121130cゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ

150420a■プラ袋ゴミを食べる聖牛

しかしながら,プラ袋禁止の実行はなかなか難しい。政府は,紙袋,布袋,ジュート袋を使用せよと呼びかけているが,使用勝手とコスト(5~70ルピー)に難がある。これらの袋では,肉や魚,あるいは水分の多い他の物品を包み保存したり運んだりするのは難しい。また,コストの面で商店や買い物客にとって負担が大きいのは,いうまでもない。

さらに,環境に対して,本当によいのかどうかも,議論の余地がある。特に紙は,製造に多くの水やエネルギーを必要とし,耐久性もなく,ゴミとして処分するとき大気を汚染する。

日本でも,たしか20年ほど前,ゴミ袋をポリから紙に替える運動があり,自治体が配布したりもしたが,ほんの1年ほどしか続かず,またもとのポリ袋に戻ってしまった。十分な説明なし。それほど,ポリ袋廃止は難しい。

ネパールの今回のプラ袋禁止は,条件付きであり,また禁止基準もあいまいだ。カトマンズ盆地内は40ミクロン未満禁止だが,それ以外では,30ミクロン未満禁止。こんな条件付き禁止の遵守は,実際上,難しいであろう。

事実,コスト高や不便さもあり,いまのところ,プラ袋禁止はほとんど守られていないようだ。政府は,徐々に取り締まりを強化し,禁止の全面実施を実現する計画のようだが,実際には逆に,いつものように,鳴り物入りで華々しく開始されても,あまり守られず,いつしか元に戻ってしまう可能性の方が大きいのではないだろうか。

しかしながら,プラ袋ゴミをこのまま放置しておいてよいわけではない。ゴミの回収・処理を高度化する一方,プラ袋の原材料そのものを植物系に替えていく努力をすべきだろう。もし植物系プラスチック(バイオプラスチック)が普及すれば,たとえ道ばたや川に捨てられても,環境への害は少なく,いずれ分解され自然に戻っていくであろうからである。

150420Plastic bags banned; A tax on some plastic bags; Partial tax or ban (Wiki: Phase-out of lightweight plastic bags)

* Republica,3,11 & 23 Mar,14,16 & 19 Apr 2015
* Nepali Times, #754, 17-23 Apr 2015 & 23 Mar 2015
* Kathmandu Post, 7 Apr 2015
* New Spotlight, 10 Apr 2015
* China daily, 15 Apr 2015

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/04/21 at 10:07

カテゴリー: 経済, 自然, 行政

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ゴミのネパール

ネパールのゴミ問題はさんざん議論されてきたが、改善どころか、悪化する一方だ。カトマンズもひどいが、むしろ郊外や村の方が悲惨だ。ネパールへは、ゴミ見学に行く覚悟なくして、旅行はできない。ヒマラヤや寺院より先に、まずゴミだ。

ネパールのゴミ問題は、廃棄物の質の変化によるところが大きい。かつてのゴミは、丹後のわが村でもそうだったが、大部分が自然素材であり、空き地や川に投棄しても、しばらくすると自然に分解され、土に戻った。むしろゴミ捨て場の方が土地が肥えていて植物はよく育ち、またミミズもたくさんいたので、魚釣り用のミミズはたいていゴミ捨て場で採っていたものだ。だからネパールでも、投棄物が自然素材である限り、ゴミはたいして問題にはならなかった。

ところが近代化とともに、いつまでも分解しない人造物が激増し、ネパールのゴミ問題は一気に深刻化した。とにかくゴミ、ゴミ、ゴミ。ヒマラヤも寺院も、街も村もゴミだらけ。

特にかわいそうなのが、聖牛。いたるところでビニール・ゴミを食べている。あの聖牛たちはどうなるのだろう。天寿を全うするとは、とうてい思えない。聖牛にビニール・ゴミを食わせるとは、なんたるバチ当たり。いずれ天罰が下るに違いない。

とにかくネパールには、悪臭ただようなか、腐敗物とともにビニール袋を食べる悲惨な聖牛を見ても失神しない強心臓の人以外は、来るべきではない。あるいは、ゴミの山を前景にヒマラヤを望み、ビニール・ゴミをかき分け花々を愛で、ゴミとともに神仏に祈る――そう達観した人だけが、ネパールを存分に楽しむことができる。さすが仏陀生誕地、まるで沼の蓮花のような国ではないか。

121130a ■キルティプール西方峡谷のゴミ

121130b 121130c
■バルクー川のゴミと聖牛(1)/同左(2)

121130d 121130e
■カランキのゴミ(1)/同左(2)

121130g 121130f
■バグマティ河原のゴミと高層住宅/バグマティ河原のゴミとカラス

【参照】
世界遺産を流れる川がゴミ処理場状態
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ
ゴミと聖牛
火に入る聖牛の捨身救世
神聖な場所がごみの山──世界遺産ダルバール広場で何が起きているのか?(ニューズウィーク日本版2022/06/13)【追加2022/06/14】
Cleaning up high places, Nepali Times, 2022/07/17 【追加2022/08/03】

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/30 at 19:09

カテゴリー: 社会, 経済

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ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ

谷川昌幸(C)
1.ゴミまみれ
政治の停滞のせいで、カトマンズのゴミが処理されず、街中ゴミまみれ。繁華街タメルの入り口、目抜き通りニューロード、いたるところに生ゴミが放置され、悪臭を放っている。
 
バチ当りなことに、聖牛が強烈な腐敗臭を放つ生ゴミをあさっていても、気にする人は誰もいない。罪深い人間の穢れ(生ゴミ)を身を犠牲にして浄化してくれているというのに・・・・。
 
もしゴミが穢れなら、出さないか、出したら処理すべきなのに、そうはしない。かつて地域共同体が強力であったころは、カースト差別の問題はあったにせよ、少なくともゴミ処理はきちんと行われていた。その頃は、カトマンズも村々も美しかった。
 
ところが、共同体の弱体化、カースト差別の減少によりゴミ処理が政治の責任となってきたのに、政治は機能せず、ゴミを誰も処理しなくなってしまった。かくて、街も村もゴミまみれの穢れに陥ってしまったのだ。
 
 
ニューロード入口(ラトナ公園方面より)     ニューロード(遠景は旧王宮)        
 
 ゴミを浄化する聖牛2頭(旧王宮付近)
 
2.移動トイレ
もうひとつ、カトマンズに増えたのが、移動トイレ。人が多く集まるラトナ公園付近や旧王宮などに設置されている。
 
かつてネパールには公衆トイレはなく、村ではもちろん、カトマンズでも人々は物陰や路地で用を足していた。人の数が少なく、糞尿は自然処理され、大して問題にはならなかった。
 
ところが、いまやカトマンズは数十万人の大都市。公衆トイレなしでは済まない。
 
もし政治がまともに機能しておれば、人の集まるところには不可欠の公衆トイレを設置するはずである。ところが、ここでも政治の貧困のせいで、常設型トイレが設置されず、移動トイレを持ってきて急場しのぎをしている。
 
「神々の住む街」から「ゴミと糞尿の街」へ。欧米知識人にそそのかされ、モダン(近代化)を時代遅れとバカにし、ポストモダン政治を夢想するネパール政治の、これが現実である。
 
 バス停の移動トイレ(ネパール航空ビル前)
 
 旧王宮の移動トイレ

【参照】
ゴミのネパール
ゴミと聖牛
火に入る聖牛の捨身救世

Written by Tanigawa

2010/08/25 at 12:17

カテゴリー: 社会, 文化

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ゴミと聖牛

谷川昌幸(C)
このテーマについては、昨年も書いたが、状況はさらに悪化し、聖牛たちのあまりの哀れさに不覚にも涙を禁じえなかった。牛を食う罰当たりなキリスト教国でさえ、牛の権利はもっと尊重されている。(少し前、アメリカで、へたり牛をフォークリフトで突付き屠殺場へ追いやろうとした従業員が、牛権侵害で囂々たる世間の非難を浴びた。かの国では、牛を殺すにも、「牛道的」に殺すことになっているのだ。人道的殺人を規定する国際人道法と同じ論理だ。)
 
1.ケガレとしてのゴミ
この国では、ゴミはケガレであり、忌避の対象。伝統的カースト社会では、ケガレを下送りし、最下層の人々にゴミ処理を押し付けていた。このケガレ下送りシステムが、宗教的に聖化され正当化されていたときは、町も村も清潔であった。
 
ところが、民主化とともに、そのケガレ下送りシステムが機能しなくなる一方、政治的混乱の長期化で新しい近代的民主的ゴミ処理システムの構築が出来ないため、カトマンズはいまやゴミだらけ。不潔・不快きわまりない。
 
ゴミは路上に捨てられる。いたるところで道幅の半分以上を生ゴミ、不燃ごみが占拠し、交通渋滞となる。強烈な腐敗臭の中、すし詰めバス乗客や通行人はひたすら我慢を強いられる。ケガレ観念を残したまま、それを処理する伝統的社会制度を破壊したつけが、これだ。
 
さらにグロテスクなのは、悪臭・汚物まみれの道路に面して、ハイカラ高級ブランド店や超豪華マンション等が続々と建設されていることだ。生ゴミ腐敗臭にまみれつつ、ブランド店で優雅にお買い物。
 
これは、むろん伝統的清掃人の責任ではない。これまでケガレを下送りされ、ゴミ処理を押し付けられてきた人々が、議会に代表を送り、自分たちの権利を主張し始めたのは、当然なことだ。彼らには、冷房の利いた快適なオフィスで働く特権社員と同等以上の給与が支払われて当然だ。責任は、自分たちの利己的都合で伝統的社会制度を破壊しながら、それに代わる新制度を作ろうとしない為政者たちにある。
 
2.階級と民族のすり替え
ここで警戒すべきは、2006年4月政変で権力を得た人々が、階級問題を民族問題にすり替える動きが見られることだ。科学的調査などしなくても、カトマンズで貧富格差が急拡大していることは明々白々だ。特権階級による搾取は激化している。
 
これを放置すると、困窮者の暴動、革命になるおそれがあるので、権力者たちは問題をたくみに民族問題にすり替え、不満を人為的に創られた「民族」に解消しようとしている。ネパールの被抑圧人民は、「民族」で分断されてはならない。マルクス、毛沢東は、むしろこれから彼らの導きの星となるのだ。
 
3.聖牛から野良牛へ
しかし、これは人間界のこと、聖牛たちはまだ、祖国が世俗国家になったこと、そして自分たちがただの家畜になったことを知らない。
 
あわれ聖牛たちは、過去の威厳そのままに、今日も悪臭ただよう路上ゴミの真っ只中に座り、腐敗ゴミやビニール袋を食べている。泥沼の睡蓮。人間のケガレを一身に引き受け、わが身を犠牲にして、人間を救おうとしている。神々しい、聖牛の最後の姿だ。
 
しかし、こんなことはいつまでも続かない。聖牛たちの訴えはいつかは罪深い人間の心にも届き、ゴミはケガレから開放され、価値中立的な廃棄物となり、近代的に処理されるようになるだろう。清掃人は、清掃局の従業員となる。
 
そのとき、聖牛の人間救済は完成する。聖牛はケガレたゴミを食い、人間に罪を自覚させ、ゴミ処理を近代化させる。清掃人は根深い差別から救われる。しかし、そのとき、聖牛は世俗化され、ただの野良牛となり、飼い主に引き取られ、近代的管理の下で飼育されることになるだろう。聖牛は、自らの聖性を犠牲にすることのより、人間を救済するのだ。
 
しかし、聖牛のこの崇高な自己犠牲により実現される世俗的近代的社会が、人間と牛たちにとって本当に生きるに値するような、意味に満ちた社会となるかどうかは、まだ分からない….。

【参照】
ゴミのネパール
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ

Written by Tanigawa

2008/06/19 at 23:59

カテゴリー: 宗教, 文化

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火に入る聖牛の捨身救世

 1
すさまじい光景を見た(写真参照)。2頭の聖牛がタレジュ寺院参道で、まるで自ら火に入り、焼身自殺を遂げようとしているかのように見えた。聖牛の丸焼き? 終末を暗示する恐ろしい地獄絵だ。
2
即物的に説明すると――朝8時ころタレジュ寺院横の参道。まだ陽は昇らず、寒い。参道の少し広まったところ、小さなシヴァ神祠の横に大量のゴミが捨てられ、焼かれている。ゴミ処理と、暖を取るためだ。
 
その燃え盛る火の中に、2頭の聖牛が入り、ゴミをあさっている。火は一面に燃え広がり、熱いはずなのに、聖牛たちは火の中心へと入っていく。火の周りでは、十数人の善男善女が暖をとっているのに、誰一人これを止めようともしない。
3
牛を食う西洋人ですら、こんな光景を見たら、動物虐待と怒るにちがいない。2頭の牛の8本の足は火傷になっているはずだ。それでも火の中に入っていく。
一般に動物は火を恐れる。おそらく牛もそうだろう。それなのに、自ら火の中に入っていく。食欲が火の恐怖に勝ったのだろう。即物的に説明すればそうなる。
4
しかし、これは深い信仰を集めるタレジュ寺院横の参道であり、悪臭を放ち燃え広がっているのはビニール袋の山、聖牛が口にくわえているのもビニール袋だ。こんな光景を目にして即物的説明で済ますことができる外人はおそらく一人もいないだろう。
大げさだが、これは地獄絵だ。2頭の聖牛が、自らの身を焼きつつ、文明廃棄物を黙々と処理している。ビニールは胃に入り、反芻され、腸に入り、文明毒を身体中にめぐらせ、自らと子孫の生命を危うくするであろうが、それでも人間どもの罪を引き受け、廃棄物を黙々と食べてくれている。捨身救世。まさしく聖牛だ。
5
暖をとっている人々はヒンズー教徒のはずだが、誰一人として聖牛たちのこの犠牲的焼身を止めようともしない。聖なる牛だ。以前なら、おそらくそんなことはなかったはずだ。しかし彼らを責めることはできない。彼らは早朝から露天で働かざるをえない貧しい庶民であり、彼らも文明の犠牲者なのだ。聖牛を思いやる心の余裕すらも、彼らは失ってしまっているのだろう。
6
感傷的に過ぎると批判されるかもしれない。が、この光景を即物的に説明して済ますようなことだけは、したくない。人間性を疑われるからだ。

 cow1 cow2

【参照】

ゴミのネパール
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ
ゴミと聖牛

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2007/11/17 at 22:04

カテゴリー: 文化

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