ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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違憲選挙と「法の番人」としての最高裁

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棄権は危険だが,現状では投票よりはましだと考え,昨日は投票所で選挙区・比例区とも投票拒否を宣言し,最高裁国民審査にだけ参加した。

むろん国民審査も,無印を信認と見なす,姑息な投票方法を採用している。それは,無知な国民には難しい裁判のことなど判りはしないから,無印を信認と考えてやるのが国民のためだとする,鼻持ちならぬ法曹エリート主義によるものだ。

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法は,他の文化圏と同様,日本でも,権威が創り下々に下賜されるものであった。最高の権威はいうまでもなく神だから,法は神が創り人間に啓示されたものである。

しかし,神は人間の理性を超越した絶対者,あるいは悠久の歴史とともに在る者だから,神意としての法を下々の庶民が直接読み,解釈し,適用することは不可能である。そこで,神法を職業として学び,解釈し,庶民に伝える特権的身分が生まれた。それが,法曹である。だから司法は,伝統的に,良くいえば温情主義的・父権主義的であり,実際には度しがたい愚民観に立っているといわざるをえない。

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最高裁国民審査も,こうした父権主義ないし愚民観に立つものではあるが,それでも昨今の政治状況を見ると,残念ながら,われわれは「×」印または無印投票によりこの国民審査には参加し,もって司法への期待を表明し,その助力を仰がざるをえない事態に立ち至っていると考えざるをえない。

われわれは,自分自身のために,自らへりくだり,司法を立てる。法曹を神意の解釈者だとおだて,エリート意識をくすぐり,「法の番人」としての聖職・天職(Beruf, profession)を思い出してもらうのだ。

裁判官は,時の政府にも,ときどきの「民意」にも服従するものではない。神聖な「法」にのみ耳を傾け,「法」を客観的に解釈し,時の政府や「人民」に法の真意=神意を示す。それが法曹中の法曹たる裁判官の使命だ。

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日本国憲法も,こうした観点から,裁判官の独立を宣言している。「すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職務を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条3)。

ここでいう「良心」や「独立」が,神の前のものであることはいうまでもない。人は,神にのみ従うとき,はじめて他人への依存から脱却し,自由・独立たりうる。裁判官は,首相や大臣にも国民にも服従しない。「国民の声」も「天の声」ではない。「天の声」は,個々の裁判官がそれぞれ神と直面し無心に(良心をもって)耳を傾けるときにのみ,聴き取れるものなのだ。

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いまの日本は,神頼みと誹られようと,裁判所なかんずく最高裁判所に期待せざるをえない事態に立ち至っている。われわれは,裁判官が日本国憲法を通して語りかける神の声を聴き取り,国民に伝えてくれることを願っている。たとえば,違憲状態での選挙は無効であると,おそらく神は語られるのではないか? 特権的「聖職者」たる裁判官には,その神の声を聴き取り,われわれに伝えてほしいのだ。

むろん,こうした司法への期待は,世俗民主主義にとっては不幸なことだ。民主主義が正常に機能していないからこそ,われわれは非民主的機関たる司法に依存せざるをえないのだ。民主主義の時代においてもなお,司法に大きな特権が与えられているのは,このような非常事態に対処するためだ。いまこそ司法は,その本来の崇高な任務を果たすべきである。

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ところで,こうした司法への期待という点では,いまの日本は,ネパールとよく似ている。ネパールでは,民主的暫定憲法はつくられているものの,憲法通りの政治が行われておらず,多くの重要問題が最高裁に持ち込まれ,審理され,次々と裁決が下されている。門前払いや,統治行為論による逃げはない。

たとえば,「公益訴訟(public interest litigation)」も広く受理されているし,最近では2012年5月,議会任期延長を違憲と裁決し,議会を解散させてしまった。非民主的な最高裁がこれほど政治に深く関与することは決して「民主的」ではないが,たとえ非民主的であろうと,憲法が定めている以上,最高裁はその憲法にのみ従い,粛々と裁決を下さざるをえないのである。その意味では,ネパールの最高裁は,不幸なこととはいえ,良く機能しているといってもよいであろう。

日本の最高裁は,いまこそネパール最高裁のこの勇気を学ぶべきである。憲法上の位置づけは異なるが,いずれの最高裁も法を通して語りかける神の声を聴くことを天職としていることに変わりはない。「違憲状態」の選挙は違憲であり無効であるというのが神の声なら,民の声も政府の声も無視し,神の声にのみ従うべきである。

それが特権的法貴族たる裁判官の義務である。予言者は荒野に叫ぶもの,世に受け容れられないことを恐れてはならないだろう。

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 ■ネパール最高裁/ネパール弁護士会館

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/12/18 at 00:08

集団の権利のための闘争と,その限界

構造的暴力の見本のようなネパールにおいては,長年にわたって差別・抑圧されてきた人々が,「国家」や「国民」よりも自分たち自身の「集団の権利」を掲げ,体制側と闘うのは当然だ。なぜなら,「国家」や「国民」は,自分たちのものではなく,少数の特権身分がそれらの名,それらの正義により彼らを支配し搾取するためのイデオロギーに過ぎないからである。

たとえば,天皇が「朕」というと,それは「国民」を代表しているから,人民はすべからく「朕」の命令に絶対服従すべし,とされた。しかし「朕」は「朕」であり,人民ではない。あるいは,国王が「われわれ」というとき,それは人民のことではなく,実際には国王自身のことである。

このカラクリに気づかず,やれ「国家」の品格だの「国民」の統一だのと,お題目を唱えるのは,あまりにも純朴であり,おめでたい。被抑圧人民は,そんなものは無視し,自分自身の「非国民的」特殊利益を主張してよいし,主張すべきである。

いまも忘れないが,中学で英語を習い始めた頃,”man”は「人間」という意味ですよ,と例文を使い繰り返し教え込まれた。当時,教師は大変な権威をもっていたから,「そうか,先進国英米では”man”は人間なんだ,人間は”man”なんだ」と,男生徒も女生徒も大いに納得させられたものだ。

しかし,これはもちろん,女は男によって代表されるから,男=man=人間(人類)なのだ,という女性差別思想に基づいている。したがって,こうした「人間」概念のイデオロギー性に気づかず,「人権(rights of man)」を主張するのは,あまりにもおめでたい。女性は,「人間」の権利など無視し,「女」の権利を主張してよいし,主張すべきなのだ。(各地の「女性センター」がつぎつぎと「人権センター」に衣替えさせられたのは,もちろん「男」の陰謀であり,女が「女」の権利を主張しないかったから。)

だから,天皇が「朕は」といい,国王が「われわれは」といっても,それはあんたのことでしょ,と冷たくシカトすればよい。あるいは,バフンやチェットリや有力ネワールが,「国家」とか「国民」といっても,それはあなたたち特権カーストのことでしょ,と相手にせず,まずは自分自身の,あるいは自分の集団の「非国家的」「非国民的」個別利益を主張してよいし,主張すべきなのだ。

この単純明快な真理を最もうまく代弁したのが,マオイストだ。マオイストは,「国家」「国民」のイデオロギー性を余すところなく暴露し,被差別カーストや被差別諸民族に向かって,あなたたち自身の「集団の権利」を主張してよいし,主張すべきだ,と呼びかけた。

これは難しい理屈ではなく,単純明快な真理だから,勇気をもって語りかけられると,すぐにその正しさが理解され,被差別・被抑圧諸集団はこぞってマオイスト支持に回り,国王や支配カーストの「国家」や「国民」を粉砕してしまったのである。

ネパール人民は,根は仏様のように優しいから,ソ連や中国などのようなすさまじい暴力革命にはならなかったが,マオイスト人民戦争の前と後とでは,ネパール社会は文字通り「革命的に」変化した。これはマオイストの偉大な功績である。

しかし,である。マオイストは,マルクス=レーニン=毛沢東主義であり,本来なら,「プロレタリアート」あるいは「労働者・農民」という普遍的な階級の利益を第一の目標とすべきはずの政党である。「万国の労働者よ,団結せよ」とまではいわなくても,少なくとも「ネパールの労働者・農民よ,団結せよ」とは,訴えるべきであろう。

むろん,マオイストも,繰り返し「ネパールの労働者・農民」とは唱えてきたが,それはお題目であり,実際には個別カーストや諸民族の集団としての特殊利益に火をつけ,党勢拡大に利用することしかやってこなかった。典型的な二重基準,二枚舌であり,安易な闘い方である。

個別は個別だけでは成立しない。何らかの形で普遍と関係することによって初めて,個別は成立する。あるいは,難しい議論もあろうが,やはり権利は何らかの義務なしには成立しない。たとえ自然権(natural rights)といえども,それは自然法(natural law)と対応しているとみるのが妥当だろう。

とすると,被差別カースト・被差別諸民族の「集団の権利」の主張それ自体は正しいが,その権利主張は,その権利をどう成立させるか,その権利を尊重する義務(法)を担う社会ないし国家をどう構築するか,という問題と不可分の関係にあるといってよい。各個人,各集団は,自分の個別的権利を主張してもよいが,それだけでは権利は享受できないということである。

マオイストは,「国家」や「国民」のイデオロギー性を暴露し,その破壊には成功したが,それらに代わる新しい法共同体の構築には,少なくともこれまでは真摯に向き合ってはこなかった。破壊して戦果を幹部で山分けし,後は野となれでは,あまりにも無責任である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/05/30 at 15:26

マオイストの憲法案(10)

4(3)自由権(6)

[6]個人に対する著しい不正,暴行および搾取に対する最後の手段としての反逆の自由(23条(2)g)

これは,個人の抵抗権の規定。「但し書き」による制限はない。このような抵抗権の保障は,1962年憲法にはむろんのこと,1990年憲法にも2007年暫定憲法にもない。マオイスト憲法案の目玉の一つといってよい。

1)抵抗権の実定法化としての憲法
近代国家は,もともと旧体制に対する革命ないし抵抗の結果,生み出されたものである。たとえば,「アメリカ独立宣言」や「フランス人権宣言(1789)」にそのような宣言がある。

アメリカ独立宣言(1776)
「われわれは,自明の真理として,すべての人は平等に造られ,造物主によって,一定の奪いがたい天賦の権利を付与され,そのなかに生命,自由および幸福の含まれることを信ずる。また,これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと,そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども,もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には,人民はそれを改廃し,彼らの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし,また権限の機構をもつ,新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。・・・・

連続せる暴虐と簒奪の事実が明らかに一貫した目的のもとに,人民を絶対的暴政のもとに圧倒せんとする企図を表示するにいたるとき,そのような政府を廃棄し,自らの将来の保安のために,新たなる保障の組織を創設することは,彼らの権利であり,また義務である。」(斉藤真訳,岩波文庫,114-115頁)

フランス人権宣言(人および市民の権利の宣言)(1789)
「あらゆる政治社会形成の目的は,人の自然的で時効消滅することのない権利の保全である。その権利とは,自由,所有権,安全,圧政への抵抗である。」(高橋和之訳,岩波文庫,316頁)

近代国家の憲法の規定する自由や権利は,こうした革命や抵抗の成果を憲法条文に実定法化したものだといえる。換言するなら,近代憲法の保障するどの自由や権利にも,憲法をつくり出した人民の革命権や抵抗権が堅固な基盤として埋め込まれているといってよいだろう。

しかし,その一方,革命ないし抵抗が成功し,その成果が憲法の中に書き込まれてしまうと,自由や権利は憲法が保障する実定法上の自由や権利となり,憲法の定める方法で主張され守られるべきものとなってしまう。

2)法実証主義による抵抗権の否定
この考え方を徹底させたのが法実証主義(legal positivism)である。この立場に立つと,実定法に優位する自然法のようなものの法的効力は認められない。悪法も法である。したがって,現に有効(valid)な実定法への抵抗を権利として認める抵抗権は,憲法においても規定することはできない。悪政や悪法への抵抗はあり得ても,それは事実としての抵抗であり,実定法としての憲法の規定する権利ではありえない,という考え方だ。

この実定法の考え方は明快ではあるが,その反面,形式的に合憲的な権力による自由や権利の実質的な侵害に対し,憲法を根拠として抵抗することが困難になるという問題がある。悪法も法であり,改正されるまでは,国民には遵守義務がある。たとえ悪法と思われても,法を破る抵抗行為を法的権利として主張する余地はない。

これは、自由や権利にとっては危険な考え方であり、事実、たとえばナチスはこれを巧妙に利用し、残虐非道な全体主義支配を行うことに成功した。

3)抵抗権の憲法規定
こうした行き過ぎた法実証主義への反省から、自然法や抵抗権が再評価され、憲法の中にも抵抗権が書き込まれるようになった。代表的なものとしては、ドイツ基本法がある。

■ドイツ基本法第20条
「すべてドイツ人は、この秩序(合憲的秩序)を排除することを企図する何人に対しても、その他の救済手段を用いることが不可能な場合には、抵抗する権利を有する。」(『世界憲法集』岩波文庫)

アジアでは、タイ王国憲法(1997)に抵抗権の規定がある。

■タイ王国憲法65条
「何人も、本憲法が規定していない方法により、国家統治権の収奪につながる行為に、平和的に抵抗する権利を有する。」(『アジア憲法集』明石書店)

4)日本国憲法の抵抗権
日本国憲法には「抵抗権」の文言はないが、内容的に抵抗権と考えられる規定はある。

■日本国憲法第12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

ここには「抵抗」の文言はないが、自由と権利の保持義務が定められており、そこからは当然、それらの侵害に対する抵抗の義務、つまり抵抗権が導き出される。

しかし、この自由や権利の保持努力は、先述のように、憲法秩序のあるところでは、合法的手段によるものに限定されるという見方もある。実定法としての憲法は、有効な実定法に違反する行為を法的権利として正当化することはできないという論理である。

もちろん、自由や権利が侵害され、実定法による救済が全く期待できないような場合はあり得る。そうしたときの抵抗は、自然法を認める立場に立てば、自然法上の権利(自然権)となり、自然法を認めない立場に立てば、事実としての抵抗となる。しかし、いずれにせよ、それは実定法としての憲法上の権利ではない、という考え方である。

この問題、すなわち抵抗権は憲法上の権利か否かは、難しい問題であるが、結局、それは憲法の究極的解釈権が誰にあるかによって決まると考えられる。憲法は、制定後は、もっぱら憲法の定める手続きによって立法・行政・司法を通して解釈・適用されると考えるなら、その国家統治に反する抵抗行為を法的権利として正当化することは、憲法それ自体にはできない。

しかし、憲法が、立法・行政・司法による、あるいは国家の実定法による救済が不可能と国民が判断する場合は、自由や権利を保持するためそれらに抵抗する権利がある、と規定しているのであれば、抵抗権は憲法上の権利と言うことになるであろう。

たしかに、憲法設置の立法・行政・司法が形式的には合憲でも実質的には憲法実序を著しく侵害し、しかも合法的手段ではそれを阻止できない場合は、ありうる。そうした場合、憲法自体が抵抗権を認めておれば、違憲的統治への抵抗は憲法上の権利ないし義務となり、抵抗は合憲化・正当化され抵抗が容易となる。

しかし、具体的に、誰が、いつ、どのような形で抵抗権を行使できるかとなると、これは難しい。抵抗権行使の条件を緩くすると、憲法の定める合法的手続きが空洞化し、統治が不安定化する。悪法は法ではないから服従義務はないということになれば、恣意的解釈による法律無視が横行し、アナーキーになりかねない。逆に、要件を厳しくすると、結局、抵抗権を発動できなくなり、憲法に規定する意味が無くなってしまう。これは、近代的抵抗権理論の始祖ジョン・ロック以来、つねに問われ続けてきた難問である。

抵抗権発動の要件は難問であるが、それでもやはり憲法あるいは自由や権利が根底から破壊されそうなとき、人民には抵抗権がある、と憲法に規定することの意義は大きい。それは、そのような規定がない場合と比較してみれば、自明である。

5)市民的抵抗
それともう一つ、悪政や悪法に対する抵抗には、HD・ソローやガンディー、ML・キングらが唱え実践した市民的抵抗(civil disobedience)がある。これは、悪政や悪法への服従を拒否して抵抗するが、服従拒否に対する処罰は甘受するというところに特徴がある。

悪法を破り、有罪判決を受けたら、その判決に従い投獄される。その服従拒否・裁判・投獄の過程を通して、悪政や悪法の実態を暴き、これを世間に広く知らしめ、統治者に反省を迫り、悪政を改めさせる、という考え方である。

非力なユートピア思想のように見えるが、強い信念と適切な戦略・戦術があれば、これもきわめて有効な抵抗方法である。ガンディーのインド独立運動やキング牧師の黒人公民権闘争がそれを如実に実証している。

この市民的抵抗も、抵抗権の一種といってよい。市民的抵抗は憲法に抵抗権の規定がなければ、一種の自然権として行使される。もし抵抗権の規定が憲法にあれば、それは憲法上の抵抗権行使の一つとして正当に行使されるであろう。たとえば、ドイツ基本法は抵抗方法を限定していないので、実力による抵抗も可能であろう。これに対し、タイ王国憲法は「平和的に抵抗する権利」と限定しているので、これは市民的抵抗の規定といってよいであろう。

6)マオイスト憲法案の「反逆の自由」
では、マオイスト憲法案の「反逆の自由(freedom to revolt)」については、どのように考えたらよいのか? 

マオイスト憲法案の「反逆の自由」は、抵抗権ではあるが、他の憲法のそれとはかなり異なる。ドイツ基本法は、憲法秩序の破壊に対して抵抗する権利をすべてのドイツ人に認めている。抵抗方法の限定がないので、必要なあらゆる手段で抵抗する権利と見てよいであろう。

タイ王国憲法は、違憲な方法による国家統治権奪取(簒奪)に対し平和的に抵抗する権利を、すべての人に認めている。先述のように、「平和的」と限定しているので、非暴力的な抵抗に限定される。市民的抵抗のような抵抗権行使である。

日本国憲法は「国民の不断の努力」と規定するだけなので、自由や権利を守るため、どのような抵抗方法をとることができるか、ここからだけでは明確ではない。しかし、日本国憲法の根本原理の一つは平和主義であり、非戦非武装を前文と9条で規定しているので、自由や権利を守るためのギリギリの抵抗も非暴力的抵抗と考えなければならない。市民的抵抗である。

これに対し、マオイスト憲法案は、「個人に対する著しい不正、暴行および搾取」に対する「最後の手段としての反逆の自由」を規定している。抵抗権発動の目的が、ドイツ基本法とタイ王国憲法では憲法秩序の破壊から憲法を守ることであるのに対し、マオイスト憲法案では実質的には個人の権利を守ることであり、これは日本国憲法第12条とほぼ同じである。しかし、抵抗の手段の限定がないので、ドイツ基本法と同じく、必要なあらゆる手段を執りうると見てよいであろう。

しかも、注目すべきことに、この「反逆の自由」には「但し書き」による限定がない。したがって、他に手段がないと判断したら、誰でも「最後の手段」としてこの「反逆の自由」を行使できるのだ。これは、アナーキーの容認といってよいほどの驚くべき規定である。マオイストは、どうしてこのような「革命的」な規定を憲法案に入れたのであろうか?

ここでもやはり、マオイストは憲法を攻撃の道具として使うことばかり考え、自分たちが権力に就いたときのことには考えが及んでいないと断じざるをえない。コングレス党や統一共産党(UML)が権力にあるとき、この「反逆の自由」は強力無比の政府攻撃の武器となる。しかし、もしマオイスト政権となれば、今度は、マオイストがこの「反逆の自由」により攻撃されることになる。そこのところに、マオイストの考えは及んでいないらしい。制憲議会で大勝利し、議会第1党になっているにもかかわらず。

マオイスト憲法案の「反逆の自由」は、ドイツ、タイ、日本の抵抗権規定に比べ、はるかにずさんといわざるをえない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/03/27 at 17:25