ネパール評論 Nepal Review

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憲法改正案,審議入りか

政府が2016年11月29日に議会に提出していた憲法改正案が,UML等の反対はあるものの,いよいよ審議入りとなりそうな雲行きだ。

現行2015年憲法は,それに基づく国政選挙や地方議会選挙も行われておらず,実質的にはその基幹部分がほとんど具体化されていない。その意味では,憲法はまだ形だけといっても言い過ぎではない。

ところが,それにもかかわらず,政府はその憲法の重要部分7か所を早々と改正するのだそうだ。しかも,その政府提出改正案ですら,反対派との泥沼交渉により,またまた修正ということになるかもしれない。この調子では,憲法改正案の改正案の,そのまた改正案の・・・・といったことになりかねない。

というわけで,あまり気は進まないが,重要問題ではあるので,一応,正式の政府提出憲法改正案の概要を紹介しておく。ただし,諸要求をつぎはぎしたため,複雑にして難解なため,誤読があるかもしれない。不審な部分があれば,原文でご確認ください。

第6条 ネパールで話されるすべての母語は,国民言語(national language) である。
改正案⇒第6条 ネパール政府は,言語委員会の勧告に基づき,すべての母語を憲法の付表に掲載する。

第7条(2) ネパール語に加え,各州は,州法に則り,州民の多数の話す1つまたはそれ以上の国民言語を公用語とする。
改正案(第7条(2)に(a)追加)⇒第7条(2)(a) 政府は,言語委員会の勧告に基づき,公用語とされたすべての言語を憲法の付表に掲載する。

第11条(6) ネパール人と結婚した外国人女性は,希望するなら,連邦法の定めるところにより,ネパールの帰化国籍を取得することが出来る。
改正案⇒第11条(6) ネパール人と結婚した外国人女性は,希望するなら,外国籍放棄手続き開始後に,連邦法に則り,ネパール帰化国籍を取得できる。

第86条(2)a 56議員は,州議会議員,村会の議長と副議長,および市の市長と副市長からなる選挙人団の中から選出される。投票には,それぞれ重みを配分する。各州から8議員を選出し,その中には少なくとも女性3人,ダリット1人,および障害者または少数者集団に属する者1人を含まなければならない。
改正案⇒第86条(2)a 56議員は,州議会議員,村会の議長と副議長,および市の市長と副市長からなる選挙人団の中から選出される。投票には,それぞれ重みを配分する。各州から3議員以上を選出し,その中には少なくとも女性3人,ダリット1人,および障害者または少数者集団に属する者1人を含まなければならない。それ以外の35議員は,各州の人口に基づき選出する。ただし,連邦法に則り,各州から人口比に基づき選出される35議員のうち14議員は女性とする。

第287条(6)a 公用語の要件を決め,ネパール政府に勧告する。
改正案(第287条(6)aに1)を追加)⇒第287条(6)(a) 1) 第6条に則り,ネパールで話されるすべての母語の表をつくり,ネパール政府に提出する。

付表(4)
第5州 ナワルパラシ(ススタ・バルダガート以西),ルパンデヒ,カピルバストゥ,パルパ,アルガカンチ,グルミ,ルクム(東部),ロルパ,ピュタン,ダン,バンケ,バルディヤ
改正案⇒第5州 ナワルパラシ(ススタ・バルダガート以西),ルパンデヒ,カピルバストゥ,ダン,バンケ,バルディヤ

第4州 ゴルカ,ラムジュン,タナフ,カスキ,マナン,ムスタン,パルバト,シャンジャー,ミャグディ,バグルン,ナワルパラシ(ススタ以東)
改正案⇒第4州 パルパ,アルガカンチ,グルミ,ルクム(東部),ゴルカ,ラムジュン,タナフ,カスキ,マナン,ムスタン,パルバト,シャンジャー,ミャグディ,バグルン,ナワルパラシ(ススタ・バルダガート以西),ロルパ,ピュタン

161225a■2015年憲法の州区画(Wikimedia Commons)

*1 “Govt registers 7-point constitution amendment bill,” Republica, November 30, 2016
*2 “SC gives nod for Constitution amendment bill,” Business Standard, 2 Jan. 2017
*3 “Govt preparing to table constitution amendment bill tomorrow,” Republica, January 7, 2017

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2017/01/08 at 04:59

カテゴリー: 議会, 憲法

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信仰の自由と強者の権利

1.強者の権利
自由は,多くの場合,「強者の権利(強者の自由)」である。弱者に自由はない。自由は,一般に,人が何かをしようとするとき妨害や禁止をされず,自分の思い通り行為できる状態を意味する。いわゆる消極的自由(negative freedom)である。この自由は,J.S.ミルが『自由論』(1859年)において論証したように,人間本性の要求であり,この自由により人間とその社会は進歩する。

しかし,その反面,自由が強者の権利であることもまた,疑いえない真実である。自由は,一般に,強者が権益を拡大し確保するため主張される。世界では18世紀末~19世紀の大英帝国や20世紀以降の米帝国,現代日本では大規模チェーン店や宅急便など。強者は,禁止や規制がなければ,自分の力(精神的,物理的,経済的,文化的など)により競争に打ち勝ち得るので,自由を求めるのである。弱者は,自由競争の下では,負けるのみ。

2.弱者のための自由制限
自由は強者の権利であるという「不都合な真実」は,政治や経済においては,あまりにも露骨なので,その「不都合」を軽減するため,様々な自由制限が行われる。たとえば,ネパール暫定憲法では,包摂民主主義の大原則によりクオータ制など,多くの自由制限が設けられている。あるいは,特定産業保護のための規制は,ネパールだけでなく,どの国でも多かれ少なかれ行われている。自由が制限されなければ,平等はないのである。

3.信教の自由と神々の自由競争
この点で難しいのが,精神的自由,特に信教の自由だ。日本国憲法は,次のように定めている。

第19条 思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。
第20条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。

このように,信教の自由は,無条件に保障されているようにみえる。しかし,実際には,これは形式的保障にすぎず,一定の社会的条件が,暗黙の裡に前提とされている。その条件が満たされていなければ,弱者には,実質的な信教の自由はない。

信教(宗教)の前に,精神や魂の本質にかかわるという点ではよく似ている言語について見ておくと,分かりやすい。

ネパールでは,1990年革命以前の開発独裁においては,ネパール語が国語とされ,国語教育が推進された。先進諸国が日本を含め,すべてやってきたことだ。ところが,1990年革命により他の諸言語の自由も認められ,2006年革命によりその自由がさらに手厚く保障されるようになった。いまでは,どの言語を学び使うかは,本人の自由である。

その結果,どうなったか? いうまでもなく,最強言語たる英語の勝利だ。少数言語,いやネパール語ですら,形式的な「言語の自由」は保障されていても,実際には見捨てられ,英語化が着々と進行している。言語には言語をもって闘えなどといわれても,どだい言語圏勢力格差は巨大であり,競争にはならない。言語の自由市場競争には公正はない。

宗教は,魂の救済にかかわるだけに,言語の場合に勝るとも劣らず深刻だ。人間と同様,神々も社会の中で闘争し,自由競争が保障されれば,社会的強者の神が勝つ。言語と同じこと。いまネパールで,その神々の自由市場競争が始まりつつある。

4.キリスト教への改宗急増
ネパールにおける神々の競争において優勢に立つのは,いうまでもなくキリスト教だ。『ゴルカパトラ(ネット版)』(4月12日)は,フェイスブックでの次のような議論を紹介している。

英字紙編集長「1985年,政府は,キリスト教に改宗させたとして,キリスト教徒80名を逮捕・投獄した。」
BBCネパール元記者「20年後の今日,『民主主義』のもとで,政府は,改宗に反対したとして,非キリスト教徒を何人も逮捕・投獄しそうな状況だ。」

この編集長と元記者の名前は記されていないが,議論は宗教をめぐる現状の核心を突いている。記事によれば,キリスト教への改宗急増は,外からの大量援助によるものだ。教会は都市でも地方でも,いたるところで急増,貧困層,とくにダリットやジャナジャーティをカネやモノで釣り,改宗させているという。

「たしかに,世俗国家では,どの宗教を選択しようが,自由だ。しかし,ネパールでは,世俗が,貧しいネパール人をキリスト教に改宗させる目的で,悪用されている。ネパール人をキリスト教に改宗させるために使われるカネがいくらか正確には分からないが,総額は年数十億ルピーにものぼるはずだ。また,政党の中には,キリスト教組織からカネをもらっているものもあるといわれている。

このままでは,寺院の街カトマンズは,すぐに教会の街となる。さらに,改宗急増は,社会の平和と調和を乱すことになるだろう。雌牛や雄牛を殺し牛肉を出す店も増えてきたが,これは雌牛をラクシュミ女神の化身と信じているヒンドゥー教徒との対立をもたらすにちがいない。

多くのレストランやホテルは,すでに牛肉を大っぴらに売り始めた。ほんの10年前までであれば,信じられないような光景だ。マハボーダ付近で売られている1皿10ルピーのモモは,牛肉だといわれている。

・・・・偉大な聖者たちは,様々な宗教やそれらの目標に何の相違も認めていない。もしそうなら,改宗しても,たいした違いはない。ところが,それにもかかわらず,多くの人々が続々とキリスト教に改宗しており,これが聖者や修行者や知識人らを心配させている。しかし,彼らには,改宗急増を食い止める手立ては何もないのだ。」(上掲ゴルカパトラ)

130415  ■聖牛の国,ネパール

5.経済外強制と経済的強制
この記事を掲載しているゴルカパトラは,体制メディアだから,ヒンドゥー教王国懐旧記事を掲載しても不思議ではない。しかし,それを留保しても,この記事がグローバル市場競争社会化の本質を突く真実を簡潔明快に剔出していることは,事実である。

人は,自由,特に魂や精神の自由を求める。それは人間存在の本質であり,それに反対することは出来ない。建前としての正義は,信仰の自由を掲げる側にある。

しかし,その信仰の自由といえども,社会内での自由であり,たとえ経済外強制はなくとも,経済的強制は,歴然として,ある。もしそうなら,経済外強制は認められないのに,経済的強制は許されるのは,なぜなのか? 経済活動・市場経済は自由だからだ,というのは資本主義社会の強者の強弁にすぎない。経済的弱者は,経済的強制により,事実上,信教の自由をすらも奪われている。

ゴルカパトラ記事がいいたかったのは,ヒンドゥー教は,キリスト教というよりは,資本主義教・自由市場信仰に,抵抗のすべもなく無残にも敗退しつつある,ということであろう。ネパール語や他の民族諸言語と同様に。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/04/15 at 16:54

マオイストの憲法案(20)

4(14)教育権・言語権・文化権

(1)教育権
マオイスト憲法案 第37条 教育権
 (1)基礎教育権の保障
 (2)初等教育は無償義務教育。無償後期中等教育まで受ける権利の保障。
 (3)困窮階層には,法律の定めにより無償高等教育を受ける権利の保障。
 (4)国内各社会共同体は,母語による教育をおこなう学校や学術機関を設置運営する権利を有する。

教育権については,暫定憲法では,第17条(1)(2)で規定されている。ここでは「中等レベルまでの無償教育を受ける権利」の保障であり,「義務教育」は規定されていない。実効性がどこまであるか疑問だが,「義務教育」明記そのものはマオイスト憲法案が始めてであり,注目される。

困窮階層への無償高等教育保障は,現行の大学におけるジャナジャーティ優遇策の拡充と見てよいであろう。

(2)言語権・文化権
マオイスト憲法案 第38条
 (1)母語使用権を各人,各社会共同体に保障
 (2)社会共同体の社会活動への参加権
 (3)各社会共同体の言語,文字,文化,文化遺産を保護・振興する権利
 (4)芸術や文化を創造し発展させる権利,知的財産権の保障

この言語権・文化権規定は,あれもこれも詰め込んだ感じで,整理されていない。内容的には,暫定憲法第17条(2)と同じ。

言語権については,このような権利保障では守りきれない現実がある。少数言語は,たとえ学校で学んだとしても,社会では実際には利用価値が低い。流動性の少ない伝統的村落社会では自分たちの言語を学び保存することは可能であろうが,社会的流動性が拡大し経済活動が活発になってくると,それに反比例して少数言語の利用価値は低下し,結局は,利用価値のより高い言語,つまりネパール語や英語が自主的に選択されることになる。どうしようもない。

本当の言語問題は,ここにある。言語権,文化権の主張は,もちろん正当だが,しかし残念ながら少数言語や少数文化は,多文化主義者やマオイストの提唱するような方法では守りきれない。彼らの主張は的外れ。

少数言語を守るには,個人の言語選択の自由を制限し,社会集団の言語強制に服従させなければならない。そんなことが出来るだろうか? マオイストに出来るのか? 出来るとすれば,その方が,かえって恐ろしいことになるであろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/06/30 at 17:16

マオイストの憲法案(3)

第1編は総則的な「序(Preliminary)」。憲法,主権,国民,国家,国語,国旗,国歌,国章が定義されている。

(1)憲法(第1条)
憲法が国家の最高法規。それはよいが,このマオイスト憲法案の最大の特徴の一つが,憲法の本質を完全に誤解していること。

憲法は,マオイストの嫌悪する中世封建制の頃から,権力を制限し人民の権利を守ることをもって本質としてきた。憲法を遵守すべきはまず国家権力の側なのだ。ところが,マオイスト憲法案では,むしろ人民の側に憲法遵守義務が課せられている。

「この憲法を擁護し憲法に従い責任を果たすのは,すべての人の義務である。」

権利よりも義務を優先させるのが,マオイスト憲法案の特徴。日本の改憲論者は,ネパール・マオイストに教えを請うべきだろう。

(2)国民国家(第3条)
「多民族,多言語,多宗教,多文化であり,かつネパール国民の独立・統合・国益・繁栄を希求しそれらへの忠誠の絆で結ばれているすべてのネパール人は,全体として,国民(the Nation)を構成する。」

これは暫定憲法と同じ。願いは分かるが,アイデンティティ政治を煽りつつ,国民統合を唱えるのは,火をつけながら消し回る(マッチポンプ),あるいはアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなものであり,綱渡り的冒険である。

国家国民(the state nation)と国内諸国民(nations 諸民族)の関係が,整理されていない。

(3)ネパール国家(第4条)
「ネパールは独立・不可分・主権的・世俗的・不可触民禁止・全包摂的・社会主義志向・共和的・多国民的な国家である。」

あふれるばかりの盛りだくさん。特筆すべきは,やはり社会主義。人民民主主義だから,社会主義を目標として掲げるのは当然だ。

(4)国民の言語(第5条)
ネパールで話されている母語はすべて国民の言語。「国民の諸言語を平等に保護し奨励し発展させることは,国家の義務である。」

これも願いは分かるが,実際には不可能だ。そもそも少数民族自身が母語教育など希望していない。少し余裕ができれば,競って,敵性言語の英語を習わせているではないか。

本気で母語教育を目指すなら,英語帝国主義を粉砕し,資本主義を放棄すべきだ。英語学校乱立を放任しながら,母語教育など,笑止千万。

(5)国旗(第6条)
「ネパール国旗は多民族・多言語・多宗教・多文化・多地域の特徴をもつ連邦構造を表現するものとする。」

どこまで本気か? 偶像崇拝宗教と偶像否定宗教を一つの国旗に表現することなど,不可能だ。できもしないことを憲法に書き込んではいけない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/03/03 at 10:06

カテゴリー: マオイスト, 憲法, 人権

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8)

谷川昌幸(C)
 9.日本語の選び直しは可能か?
以上,速読・粗読気味であったが,水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』を読んできた。もとより専門外の素人の読書ノートにすぎず,誤読もあろうが,そうした点は訂正しながら,お読みいただければ幸いである。
 
本書は,政治学一般の観点から読んでも面白いが,私の場合,最近,ネパール政治に凝っているので,とりわけ興味深く,身につまされる思いであった。
 
ネパールは,サンスクリットの豊穣な伝統に属し,植民地支配されることもなかったが,近代化が遅れたため,ネパール語の国語としての成熟以前に,英語帝国主義に席巻されてしまった。
 
ネパールでは,ネパール語が国語であり,1959年憲法以来,憲法でも「国語」と定められてきた。ところが,1990年民主化革命により自由化が一気に進むと,皮肉なことに,ネパール語を守ってきた様々な防壁が次々に取り除かれ,特にこの数年はインターネットを通して,英語が洪水のようにネパールに押し寄せてきた。
 
いまネパールに行くと,因襲的カースト制に代わって,新しい言語カースト制が成立しつつあることに気づく。「英語―ネパール語―諸民族語」の,魂までも序列化してしまう言語カースト制である。
 
ネパールでは,就職も昇進も,この言語カースト制により決まるようになってきた。それを見て,親たちは,どんな無理をしてでも,競って子供たちを内外の英語学校に入れようとする。高度な教育は,保育園・小学校から大学まで,英語で行われているからだ。貧乏人は,イヤイヤながら,現地語=ネパール語学校に行く。ネパールでは,誰知らぬものはない公然たる事実だ。マオイストですら,この言語カースト制には拝跪している。悪循環だ。英語帝国主義への隷従だ。分かってはいるが,もはや誰にも止められない。
 
このネパールで,B・アンダーソンが唱えたことを,同じ鈍感さで,かつ大いなる善意をもって実践しているのが,国連諸機関だ。
 
在ネパール国連諸機関は,最新の包摂民主主義を奉じ,少数諸民族の言語の保護育成に躍起になっている。ところが,その際,彼らもまた英語で大キャンペーンを繰り広げているのだ。何たる偽善か!
 
英語帝国主義の国連諸機関やその手先のネパール人たちが,いくら母語教育を喧伝しようが,ネパールの人々は,言語カースト制の現実を日々イヤというほど見せつけられている。誰が,そんな偽善的母語教育の笛で踊るものか。
 
そもそも,ネパール最高の就職先たる国連諸機関に就職するには,高度な英語力を要求される。多言語主義・母語教育主義を唱えるなら,まず国連諸機関が英語帝国主義を率先して放棄し,多言語主義を実践せよ。そうすれば,ネパールでも母語教育が実現できるだろう。もしそれができないのなら,英語で多言語主義を唱えるなどといった恥知らずなことは,直ちに止めるべきだ。
 
ネパール語を国語として成熟させる前に英語を受容してしまったネパールでは,もはや国語としてのネパール語の選び直しは不可能であろう。パソコンの進化で,たしかにデバナガリの使用は容易になった。普通のキーボードから,誰でも簡単に /fi6«efiff (राष्ट्र भाषा) と入力できる。しかし, /fi6«efiff (राष्ट्र भाषा) と書いて,誰が読んでくれるのか。natinal languageであれば,世界中の人々に理解してもらえる。
 
これが国語の成熟を見る前に「英語の世紀」に引きずり込まれてしまったネパールの惨状だ。日本も,こんな悲惨な言語植民地になってしまって,それでよいのか?
 
日本語を選び直す――滔々と進行する「英語の世紀」の中で,それは本当な可能であろうか・・・・。
 
水村氏の『日本語が亡びるとき』は,まさしく「読まれるべき言葉」が書かれた本物の「憂国の書」である。
 

Written by Tanigawa

2009/06/16 at 09:42

カテゴリー: 文化,

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書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7)

谷川昌幸(C)
7.英語の世紀と国語の危機
ところが,著者によると,グローバル化,情報化,大衆社会化などにより,いまや英語が唯一の普遍語となり,それ以外の国語は現地語へと引き下げられ,国民文学は存亡の危機に立たされている。「英語の世紀」が始まったのである。
 
たとえば,著者も指摘するように,日本でも学術論文は英語で書くようになりつつある。日本史や日本文学史の論文ですら,英語で書かされる。世界の多くの人に読んでもらうという高尚な目的よりも,業績評価において英語論文は5点もらえるのに,日本語論文はせいぜい2点,ひどい場合は0点にしかならないからである。 
 
また著者は,日本の大学が翻訳機関たることを止め始めたと指摘しているが,これも加速度的に進行している。優秀な大学,大学院ほど,入試や授業の英語化を進めている。英語授業がウリなのだ。
 
かくして日本語・日本文学の祝祭の時代は終わりを告げつつある。次の文章には,著者の悲壮な憂国の情が溢れている。少し長いが,力強い文章なので,引用しよう。  
 
 今、その〈国語の祝祭〉の時代は終わりを告げた。
 一度火を知った人類が火を知らなかった人類とちがうよう、あるいは、一度文字を知った人類が文字を知らなかった人類とちがうよう、一度〈国語〉というものの存在を知った人類は、〈国語〉を知らなかった人類とはちがう。美的のみならず、知的、倫理的な重荷を負うものとして〈自分たちの言葉〉で読み書きするのを知った人類は、地球規模の〈普遍語〉が現れたといっても、即、深い愛着をもつに至った〈国語〉に、知的、倫理的、美的な重荷を負わせなくなることはないであろう。だが、〈普遍語〉と〈普遍語〉にあらざる言葉が同時に社会に流通し、しかもその〈普遍語〉がこれから勢いをつけていくのが感じられるとき、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれていってしまう。それは、春になれば花が咲き秋になれば実が稔るのにも似た、自然の動きに近い、ホモ・サピエンスとしての人間の宿命である。
 悪循環がほんとうにはじまるのは、〈叡智を求める人〉が、〈国語〉で書かかなくなるときではなく、〈国語〉を読まなくなるときからである。〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれてゆくとすれば、たとえ〈普遍語〉を書けない人でも、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉を読もうとするようになる。ふたたび強調するが、読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものであり、〈普遍語〉のような〈外の言葉〉を読むのは、書くのに比べてはるかに楽な行為である。すると、〈叡智を求める人〉は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます〈国語〉で書こうとは思わなくなる。その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、〈叡智を求める人〉はいよいよ〈国語〉で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、〈叡智を求める人〉にとって、英語以外の言葉は、〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく。〈叡智を求める人〉は、〈自分たちの言葉〉には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいしだいに求めなくなっていくのである。(p253-4)
 
まったくもって水村氏は愛国者(パトリオット)であり憂国の志士だ。漱石の苦悩を自らの苦悩として追体験したいと願っていられるようでさえある。しかし,その願いはもはや叶えられそうにない。
 
果たして漱石ほどの人物が、今、大学を飛び出して、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。今、日本語で小説を書いている人たちの仲間に入りたいと思うであろうか。いや、それ以前に、問わねぽならない問いがある。果たして漱石ほどの人物が、もしいたら今、日本語で書かれている小説を読もうなどと思うであろうか。/悲しいことに悪循環はとうにはじまり、日本で流通している〈文学〉は、すでに〈現地語〉文学の兆しを呈しているのではないだろうか。(p261)
 
*参照:内田樹「日本の外国文学が亡びるとき」 (http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
 
8.「英語の世紀」の英語教育と日本語教育
(1)英語帝国主義の鈍感と偽善
憂国の志士,水村氏は「英語の世紀」の到来に悲壮な闘いを挑まれている。「英語帝国主義」などといった俗な表現は使用されていないが,内容的には氏の主張は英語帝国主義批判に他ならない。本書で,この関係で私にとって特に印象的であったのは,氏のB・アンダーソン批判である。
 
著者は,アンダーソンが著書『想像の共同体』において国家を「想像の共同体」とし,それと「国語」との関係を解明したことを高く評価しつつも,「英語に関する考察がまったく欠落している」という点を厳しく批判する。 著者によれば,アンダーソンは2005年,早稲田大学で講演し,最後をこう締めくくったそうだ。
 
学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。/英語ではだめなのです。保証しますよ。(p116)
 
これに対し著者は,そんなことをいっても,それじゃと,インドネシア語やフィリピン語を学ぶ人がどれだけいるか,と批判する。アンダーソンは,多言語主義が実際には英語ができることを大前提にしていることに,まったく気づいていない。
 
アンダーソンには英語が<普遍語>であることの意味を十分に考える必然性がなかっただけではない。考えないまま、多言語主義の旗手となる必然性ももっていたのである。(p119)
 
この部分の注で,著者はアンダーソンもあとで普遍語としての英語の力に気づくようになったと補足しているが,しかし,英語圏の人々が英語の特権的地位に鈍感なことは,紛れもない事実だ。
 
弱小言語の大切さを最強普遍語の英語で述べ伝える。「英語ではだめなのです」と英語で言う。何たる鈍感,何たる偽善か! これぞ英語帝国主義の真骨頂だ。著者はこんな下品な表現はされていないが,ここでの批判は,まさにこのようなことであろう。
 
こうしたことは,グーグルの図書デジタル化計画についても認められる,と著者は指摘している。たしかに,各国語の図書のデジタル図書館化は可能であろうが,英語はそれらとはまったくレベルが異なる。そのことに英語圏の人々はまったく無自覚だ。
 
それらの[非英語]〈図書館〉のほとんどは、その言葉を〈自分たちの言葉〉とする人が出入りするだけなのである。/唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな〈普遍語〉となりつつある英語の〈図書館〉であり、その〈図書館〉だけが、英語をく外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする〈図書館〉なのである。/英語を〈母語〉とする書き手の底なしの無邪気さと鈍感さ。(p246)
 
まさにその通り。こうした英語母語者の無邪気と鈍感こそが,「英語の世紀」の最大の脅威であり,憂国の志士,水村氏と共に「日本語宣言」を高く掲げ,断固闘い抜かねばならないのである。
 
(2)英語エリート教育のすすめ
「英語の世紀」はもはや押しとどめられない。では,この時代において,どのような英語教育を行い,どのようにして日本語を守っていくか? これが水村氏のこれからの切実な課題となる。
 
「英語の世紀」の英語教育には,次の三つの方針が考えられる。
  Ⅰ <国語>を英語にしてしまう。
  Ⅱ 全国民をバイリンガルにする。
  Ⅲ 国民の一部をバイリンガルにする。
 
 ①英語エリート教育
結論から言うと,著者はⅢの英語エリート教育を採用するよう要求する。
 
Ⅲを選ばなくては、いつか、日本語は「亡びる」。(p278)
 
日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きでこと足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。・・・・/かれらは、英語を苦もなく読めるのは当然として、苦もなく話せなくてはならない。発音などは悪くともいいが――悪い発音で流通するのが〈普遍語〉の〈話し言葉〉の特徴である――交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない。それだけではない。読んで快楽を与えられるまでの、優れた英語を書ける人もいなくてはならない。優れた英語を書くことこそ、インターネットでプログが飛び交い、政治そのものが世界の無数の人たちの〈書き言葉〉で動かされるこれからの時代には、もっとも重要なことだからである。(p276-7)
 
この英語エリート教育に,私は賛成だ。国際交渉の場で堂々と意見が述べられないのは英語だけのせいとは思わないが,それでも英語圏の人々と同等以上に英語に通じた練達の英語プロ集団をもつことは,「英語の世紀」における日本国益のためにも,絶対に必要なことだ。戦車や戦艦などなくても,英語プロ軍団は不可欠だ。
 
②片言英語教育の愚劣
では,日本は実際にはどのような英語教育を行っているのか? Ⅰの英語を日本国語とする案は,かつて森有礼が唱えたことがあるが,いまではこれの支持者はほとんどいない。
 
いま目標とされているのは,Ⅱである。学校教育を通して,「国民総バイリンガル社会」を実現し,英語を(第二)公用語にしてしまおうというのだ。
 
しかし,著者は,そんなことは不可能だし必要でもないと批判する。この先,在日外国人が少々増えようと,日常会話は片言で用が足り,皆がバイリンガルになる必要はさらさらない。
 
ところが,日本の学校教育は,英語ができなければ乗り遅れるといった世間の英語強迫観念にも押され,不必要かつ不可能な「国民総バイリンガル社会」を目標としている。
 
小学校では,「片言でも通じる喜びを教える」ため,英語が導入された。見当外れも甚だしい(p287)。 インターネットの時代,もっとも必要になるのは,「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは,世界中で通用する<普遍語>を読む能力である(p289)。
 
③英語は選択科目に
「英語の世紀」に求められる英語プロ集団を育成するには,学校での英語は選択科目とすべきなのである。
 
(3)日本語教育
著者は,「英語の時代」の英語教育をこのように英語エリート教育に改めることにより,国語を守っていくことが可能になると考える。
 
もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、Ⅲという方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。(p284-5)
 
 だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリソガルになる必要などさらさらないという前提すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。しかも、そうすることによってのみしか、〈国語〉としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念として掲げることはできない。
 人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い〈書き言葉〉の伝統をもった日本語なのである。
 〈国語>こそ可能な限り格差をなくすべきなのである。 (p290)
 

Written by Tanigawa

2009/06/15 at 14:17

カテゴリー: 文化,

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