ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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老々介護(16): アナログ回帰

高齢認知症者介護は,日々新たな問題への挑戦であり,たいへんは大変だが,面白くもある。どうして,こんな突拍子もないことをするのだろう? なぜ,こんな風になるのだろう? などなど。常識をはるかに超える行為や変化に驚き,考えさせられる毎日である。

その一つが,デジタルからアナログへの認識方法の変化。これに最初に気づいたのは,日時を電光数字で表示する置時計があるのに,それを使わず,針で時刻表示する目覚まし時計を持ち歩くようになった時のこと。

ベッドの横にデジタル数字電光表示時計があり,夜間もよく見えるのに,寝るときにはわざわざ針付き時計をもってくるようになった。テレビの横にもデジタル数字電光表示時計が置いてあるが,それでもやはり針付き時計を持ってくる。

当初,これは認知症が進み,なじみの旧式アナログ時計へのこだわりが昂進したため,それを持ち歩くようになったのだ,と思っていた。しかし,様子を観察していると,どうもそうではないらしいことに気づいた。実際には,デジタル時計の表示する数字が,いま現在の時刻としては認識されなくなったからのようだ。

母は高齢だが,カナや数字はむろんのこと,相当難しい漢字であっても,ほぼ問題なく読解できる。テレビも,字幕――難聴のため文字表示設定――をみて,楽しんでいる。だからデジタル表示時計の数字が読めないはずはない。数字は読め,理解できている。

ところが,それにもかかわらず,デジタル時計が刻々表示する電光数字を,いま現在の時刻としては認識できていないらしい。観念的なデジタル数字を生活の場で使う具体的なアナログ時刻へと変換する神経回路が,どこかでプツンと切れてしまったらしい。

他方,針式のアナログ時計は,時刻を具体的な図形として表示するからなのか,何の問題もなく使用できている。「時間」の観念それ自体はまだ健在であり,生活は時間によりほぼ規律できている。これから先も,生活に必須のこの時間認識が何とか維持できればよいのだが。

というわけで,100円ショップに行き,針付きアナログ時計を数個,買ってきて,家のあちこちにおいている。いずれも正確無比! いまや時刻は100円時計でお手軽に知ることが出来るのだ。

⇒⇒
 ■デジタル数字表示時計/アナログ針式時計(100円)

Written by Tanigawa

2018/08/22 at 14:27

カテゴリー: 健康

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老老介護(15):過食から寡食へ

高齢認知症の母は,つい先日まで典型的な過食だった。三度のご飯,お菓子,果物など,とにかく手あたり次第,一日中,何かを食べている。食べ物が見当たらないと,いたるところを探し回る。

たまったものではないので,食品は全部隠し,冷蔵庫は鎖で縛り鍵をかけた。そして小型冷蔵庫を別に買い,食べてよいものだけ,その中に入れるようにした。

ところが,一転,今度はあまり食べなくなった。食事を出すと,以前なら,餓鬼のごとく,すぐむさぼり食べた。量も恐ろしく多かった。ところが,最近は,食事を出しても,おやつを出しておいても,なかなか食べない。しかも,量が減った。以前の半分から三分の一。

体調は悪くない。それなのに,以前のようには食べない。食べ物への関心はあるので,食事を拒否する「拒食」ではない。「ごはん」「ごはん」と言うので食事を出しても,なかなか手を付けない。そして,ちょっと食べたかと思うと,すぐ席を離れ,別のことをする。その結果,結局,ご飯を食べ残すことになる。状況からみて,これは「遅食」であり,結果として「寡食」となっている。

原因不明。とりたててどこが悪いわけでも,痛いわけでも,苦しいわけでもない。年齢相応に,いまのところ健康。病気ではないので,無理に食べさせる必要はあるまい。誰でも年とともに食は細くなる。過食は異常だが,これは自然。その自然に任せるのが,人間の本性=自然にかなうことになるであろう。

 認知症ONLINE

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/08/14 at 11:14

カテゴリー: 健康

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老老介護事始め(15):疲弊し荒廃する介護者の心身

高齢認知症の母の介護をしていて「これは危ないなぁ」という思いを日々強くしているのが,介護者たる私自身の心身の疲弊と荒廃である。このままいくと,いずれ崩壊するのではないか?(認知症も介護事情も様々。以下はあくまでも私自身の場合である。)
 【参照】老老介護事始め(1~14)

1.正常・異常混在の難しさ
高齢の母には,記憶のまだらな忘却と混乱があり,言動も正常と異常が混在している。この記憶のまだらな忘却と混乱や言動の正常・異常の混在が,介護者には悩みの種。もし完全な記憶喪失・常時異常行動であれば,それはそれで大変には違いないが,対応方法はほぼ限られており,迷いは少ない。外から見ても,すぐそれとわかるので理解されやすく,誤解の恐れも少ない。

ところが,記憶のまだらな忘却と混乱,判断の正常と異常の混在の場合,介護の方法について介護者自身,つねに適切か否か悩み,部外者には多かれ少なかれ誤解される恐れがある。これが,介護者には精神的につらい。

2.日常で異常,非日常で正常
認知症者は,自分の記憶や行動は正しいと断固思いこんでいる。そして,自宅で日常生活をしているときは,リラックスしているためか,混乱した話や異常行動が出やすく,それらを際限もなく繰り返す。日常生活では異常行動が常態なのだ。

ところが,自宅に誰か他の人が来たときや,通所介護施設(いわゆる「デイケアセンター」*)などに行ったりすると,異常な言動は少なくなる。そうしたときには,自宅での日常生活についても,断片的な記憶をあれこれ取り出し,つなぎ合わせ,それなりに理路整然と説明することが出来る。介護支援相談員(いわゆる「ケアマネージャー」ないし「ケアマネ」*)や医者ですら,コロリとだまされてしまう。そのため,介護者は日々の介護対応に迷うばかりか,他の人々の理解も得られず孤立し,悩み苦しみ疲弊していくことになる。
 *老人福祉分野では,なぜか意味不明の珍妙なカタカナ語が多用される。高齢者はとりわけ理解困難。日本語通訳をつけるべきである。

3.観察・記憶・実行の断片的正確さ
母の場合,例えば食べ物。典型的な認知症過食症で,食べ物を置いておくと,食べては下痢,食べては下痢を繰り返す。仕方なく,保存可能なものは手の届かないところに隠し,他は冷蔵庫に入れ,開けられないよう扉をロープで縛っていた。そうしないと,食べ散らかし,庫内のものを外に出し放置するからだ。

ところが,ひと月ほど前のある日,帰ってみると,冷蔵庫を縛っていたロープが包丁で切られ,食べ散らかされていた。危険なので刃物はすべて隠しているが,包丁を使ったとき,隠すのをこっそり見られていたらしい。こだわりがあることには異様に敏感で,抜け目なく,記憶も確かだ。

4.適切な実力行使の必要性
いま冷蔵庫は鎖で縛り,大きな錠前でカギがかけてある。それでも,日に何度も,開けようとする。包丁やハサミは手の届かないところに隠したので,今度は洗面所で見つけた安全カミソリで鎖を切ろうとしたり,錠前や鎖を引っ張りこじ開けようとしたりする。やめさせようとしても,食べ物がないと困る,開けて確かめるのがなぜいけない,と正論を吐き,やめようとはしない。結局,根負けし,手首や肩をつかみ,実力で冷蔵庫から引き離さざるをえない。

冷蔵庫が開けられないと,今度は食べ物を買いに外に出ようとする。外出すれば,迷子はほぼ確実。交通量の多い道路もあるので,大事故の恐れもある。危険なので,玄関ドアも鎖で縛り,鍵がかけてある。ところが,それでも出ようとし,鎖を引っ張ったりドアをたたいたりする。ドアが壊れるし近所迷惑でもあるので,やめさせようとしても,やはり「食べ物がない」「買いに出てなぜいけない」と正論を吐き,いうこと聞かない。そこで,仕方なく,腕や肩をつかみ,力づくでドアから引き離すことにならざるをえない。

他にも,放置も説得もできないので,力づくで止めさせざるをえないことが,たくさんある。こうした「実力行使」について,認知症や介護の専門家らは,「それはいけない,本人があきらめるまで安全を確保しつつ見守りましょう」とか,「繰り返しやさしく話しかけ,関心を他のことに向けさせるようにしましょう」といった助言をしてくれるが,一般の家族介護では,そんな悠長なことをやってはいられない。本人と家族と社会の安全のため,家族介護者は,必要な場合には,力づくで制止をせざるをえない。それは,適切な「実力行使」である。

5.過度な実力行使へ
しかしながら,家族介護者がそうした「実力行使」をすると,それが様々な問題を引き起こし,介護者をさらに一層悩ませ苦しませることになることもまた事実である。

母の場合,たとえば鎖で縛り錠がかけてある冷蔵庫の扉や玄関ドアを,何回やめさせても,繰り返し繰り返しこじ開けようとする。認知症のためとは理解していても,それでもなお,同じことが繰り返されると,ついカッとなって,乱暴に力づくで止めさせることになりがちだ。過度な「実力行使」である。

無感情な介護ロボットでも高尚な介護解説者でもないのだから,やむを得ないとはいえ,過度な「実力行使」は,むろん「暴力」である。しかも,そんなことをしても無意味と自分でも十二分にわかっているのだから,なおさらのこと,すぐ後で後悔し,自己嫌悪に陥ることになる。

6.白桃の如き傷つきやすさ
さらに,高齢者の場合,ちょっとした外力で転んだり,ケガをしたりすることも少なくない。

その一つが,皮下出血。手や腕,肩などをちょっと強くつかんだり,何かにぶつけたりすると,すぐその部分に皮下出血が起こり,広がり,黒ずんでくる。外から見ると,まるで激しく殴られたかのよう。過度な場合は無論のこと,適正な「実力行使」であっても,そのような皮下出血は起こりうる。

高齢者は,まるで熟れ過ぎた白桃のようだ。触っただけでも傷つく恐れがある。高齢者介護は,文字通りはれ物に触るような細心の配慮をもって当たらねばならない。

7.尽くすほどに嫌われる介護者
一方,介護を受ける側の認知症者は,皮肉この上ないことに,これとは全く逆の受け止め方をしている。

認知症者は,自分が正しいと確信していること(たとえば「冷蔵庫を開ける」「外出する」など)をしようとするたびに,家族介護者にやめさせられている。しかも,力づくで。これが続くと,身近な介護者が自分に意地悪をし,食べ物を食べさせてくれず,したいこともさせてくれず,しょっちゅう自分に暴力をふるう,自分は虐待されている,と思い込むようになる。

家族介護者は,介護を尽くせば尽くすほど,怒られ,嫌われ,憎まれる。毎日,三度の食事は無論のこと,おやつを出し,掃除洗濯をし,何から何までやっていても,認知症者はそんなことは何一つ覚えてはいない。覚えているのは,食べ物を取り上げられ,外出を禁止され,叱られ,「殴られた(と思い込んでいる)」ことだけ。まったくもって不思議千万だが,四六時中世話をしている家族介護者は,嫌われ憎まれることはあっても,感謝されることは全くない。なんたる不条理!

8.自己嫌悪と無理解の二重苦
こした状況のところに,日常介護しているのではない他の誰かが来ると,どうなるか? 認知症者は,これ幸いと,日ごろの恨み辛みや「虐待」を,恐るべき記憶力を発揮し,事細かに次々と訴え,介護者を非難し罵倒し始める。認知症が広く知られるようになってきたとはいえ,認知症者の「虐待」の訴えは確信に満ち具体的であることが少なくなく,そのため多くの人がその話を信じることになる。

しかも,証拠さえある。たとえば先の皮下出血。高齢認知症者の手足や腕や肩など,身体のあちこちに赤黒い皮下出血があれば,「これは大変! 殴られている。老人虐待だ。けしからん! すぐ役所か警察に通報しよう」といったことになりかねない。

高齢認知症者を介護する家族は,過剰になりがちな「実力行使」で自己嫌悪に陥らざるをえない上に,本人からは全く感謝されないどころか嫌われ,憎まれ,世間からは老人虐待と疑われ,それでも介護を続けなければならない。家族介護者が人格荒廃に陥り,あるいは疲弊し燃え尽きてしまうのは当然といえよう。

9.「シジフォスの岩」の如く
高齢認知症者家族介護は,心臓を動かし続けることを至上命題とする現代人に対する天罰,現代の「シジフォスの岩」のようなものである。まったく報われることのない苦役を毎日,四六時中,ただひたすら繰り返さざるをえない。底無しの自己嫌悪の淵に沈み行く自己を為す術もなく傍観しつつ。

■認知症(WHO HPより)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/07/18 at 17:28

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老老介護,事始め(11):ネパールの反面教師,日本[3]

ネパールでも,高齢者扶養,特に認知症高齢者介護が,当事者にとっては深刻な問題となり始めた。多少重複するが,前回に続き論文や記事をいくつか紹介する。

A・ジャー,N・サプコタ「ネパールにおける認知症評価処遇プロトコル」(*2)
「認知症の人の多くは長期介護が必要であり,[ネパールでは]いまは家族がそれを担っている。彼らが必要としている介護支援は,ない。政府は,長期介護サービスの提供も介護者支援もしていない。介護者の心理的・経済的負担は,家族介護の様々な仕組みがまだ残っているとはいえ,先進諸国と同じくらい大きくて重い。・・・・ネパールは,国民が必要とする認知症介護のための備えが全くできていない。」( p293)

プラミラ・B・タパ「忘れないために」(*5)
「ネパールでは,ますます多くの高齢者が様々な問題に苦しむようになっている。長寿は社会的にはめでたいが,保健分野にとっては負担が重いからである。ネパール社会は現代化しつつあり,家族の誰かが首都や国外に出てしまうこともあって,伝統的な家族支援の仕組みが機能しなくなってきた。自宅に残された高齢者は,健康上や社会生活上の様々な問題に苦しんでいる。今日の高齢者の多くは,孤立して生活し,孤独や抑鬱にさいなまれがちなばかりか,認知症のような退化的疾病や他の身体疾病にもなりやすい。」

「認知症は加齢の結果ではなく,病気である。アルツハイマー型認知症は,記憶や思考や行動に様々な問題を引き起こす。ネパール社会は,アルツハイマー型や他の型の認知症のことをまだよく知らない。多くの人が,認知症は加齢痴呆だと信じている。一般の人々に,アルツハイマー症のことをもっと知ってもらう必要がある。」

[以下,「忘れないために」要点列挙]
・「高齢者法2006年」で60歳以上を「高齢者」と規定したが,長寿化で平均余命が男68歳,女70歳となっている。60歳を超えても健康な人が多く,60歳[WIKIでは58歳]停年制は実態に合わない。健康な人には働く場が保障されるべきだ。高齢者にも,認知症予防のためにも,健康で有意義な社会生活を保障せよ。
・認知症は恐れられ,汚名を着せられ,烙印を押されている。認知症者の孤立を招かないよう,正しい認知症理解のための啓蒙活動を推進せよ。
・保健省は認知症者に10万ルピーの支援金を割り当てているが,手続きが煩雑なため多くの家族が受け取っていない。簡略化せよ。また,認知症者と介護者の生活改善のための総合的保健政策を推進せよ。
・認知症者とその家族は,仕事が困難になる一方,生活費や治療費がかさみ,経済的に苦しい。年金や保険を準備し,経済的に支えよ。
・認知症者の諸権利を制度的に保障すれば,それは認知症の正式な認定となり,様々な差別もなくなっていくであろう。
・各地域に,専門的介護が受けられる送迎付き通所型および居住型介護施設を開設せよ。
・認知症専門病院および認知症介護専門家養成校の開設。
・認知症治療薬は月8千~1万ルピーかかる。政府は2007年,多くの薬の無償化を決めたが,認知症治療薬は対象外。認知症は経済的に最も負担の大きい病気の一つ。治療薬を無償化せよ。

以上,ネパールの認知症に関する論文と記事をそれぞれ1つずつ紹介したが,これらからだけでも,ネパールにおける認知症問題の加速度的深刻化が避けられそうにないことが見て取れる。

日本は少子高齢化の超先進国。その日本の対認知症諸政策から――特に,その失敗から――ネパールが学びうるものも少なくないのではないかと思う。


 ■「高齢市民の声」2017年11月号/シディシャリグラム老人ホーム(シディ記念基金FB)

*1 Sapkota, N., “The World is graying: Dementia is an alarming issue,” Health renaissance 2015: 13(3)
*2 Jha, Arun & Nidesh Sapkota, “Dementia assessment and Management Protocol for Doctors in Nepal,” JNMA, Vol 52 No 5, Issue 189, Jan-Mar 2013
*3 Kwok, Kenji, “Remembering dementia,” Nepali Times, #752, 3-9 Apr 2015
*4 中村律子「ネパールにおける『Sewaの場』と老人ホームの位置」,『現代福祉研究』第11号,2011年3月
*5 Thapa, Pramila B., “Lest we forget,” Kathmandu Post, 22 Sep 2017

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/15 at 17:11

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老老介護,事始め(10):ネパールの反面教師,日本[2]

認知症の増加は,世界的傾向である。WHO報告(2012年)によれば,65~75歳の5%,75~80歳の10%,80歳以降はそれ以上が認知症と見られており,世界の認知症者総数は2010年の3,560万人が2030年には2倍になるという。しかも,認知症の人は,中・低所得国(LMIC)でも増加している。現在,認知症者総数の58%がLMICにいるが,これが2050年までに71%に達すると予測されている。(*1,2)

ネパールでも平均余命が伸びていることもあり,認知症者の急増が予想されている。
 平均余命(*1)
  1981年:男49.6,女48.1⇒⇒2011年:男66.6,女67.9
 認知症者(*1,3)
  2015年:7万8千人⇒⇒2030年:13万4千人⇒⇒2050年:28万5千人
ネパールでは,認知症高齢者の問題が先進諸国以上に深刻化する恐れがあるのである。

この問題を考える上で参考になるのが,認知症高齢者には限定されていないが,2011年発表の中村律子著「ネパールにおける『Sewaの場』と老人ホームの位置」(*4)。著者は,ネパールの高齢者扶養の現状と課題を次のように説明している。

ネパールでは,Sewaという言葉が日常的に使用されている。「Sewaは,ひとの生・老・病・死に至るプロセスにおける世話(扶養や介護),配慮,儀礼などの私的な行為から相互扶助的で社会的かつ宗教的なかかわりを意味する概念である。」(p125) 「その『Sewaの場』は,宗教的,文化的ならびに伝統的な慣習や価値,家族観や社会規範と密接に関連しながら,主として家族や近隣,コミュニティを主体とするもの(例えば,家族,コミュニティ,グティ,Sewa会)によって歴史的に形成され連綿と続いている。これまでも,高齢者の生(および死)はそれらの営みのなかで保持されてきたし,いまも多くの高齢者がこの営みのなかで生かされている。」(p126)

ところが,その一方,ネパール社会では「高齢者人口の増加,核家族化により高齢者へのSewaの揺らぎから生じた諸問題が同時進行しており,『近代的/現代的な』高齢者福祉サービスや法制度構築とその体系化が急務になっている」(p125)。2006年には「高齢者法」が初めて制定された。そして,最近では「Sewaの場」の代替あるいは補完として,「老人ホーム(Briddashram)」がつくられるようになった(p126)。政府登録の老人ホームは,2010年報告書によれば,約70か所(1つを除き民営)ある(p134)。

中村は,ネパールの老人ホームを「発展途上型の『前近代的老人ホーム』」とする一方,そこで「『Sewa』の社会性・共同性が展開されていること」に注目,そこに老人ホームの新たな可能性への期待を寄せている。(p139,140)。

ネパールのSewa型老人ホームの評価は今後の推移に待たねばならないが,ネパールでも少子高齢化,非婚化,小家族化が進行し,伝統的な様々なSewa型高齢者扶養をそのまま維持していくことが困難になってきたことは確かである。

パシュパティ・ブリッダアシュラム(同FB)

*1 Sapkota, N., “The World is graying: Dementia is an alarming issue,” Health renaissance 2015: 13(3)
*2 Jha, Arun & Nidesh Sapkota, “Dementia assessment and Management Protocol for Doctors in Nepal,” JNMA, Vol 52 No 5, Issue 189, Jan-Mar 2013
*3 Kwok, Kenji, “Remembering dementia,” Nepali Times, #752, 3-9 Apr 2015
*4 中村律子「ネパールにおける『Sewaの場』と老人ホームの位置」,『現代福祉研究』第11号,2011年3月

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/14 at 14:09

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老老介護,事始め(9):ネパールの反面教師,日本[1]

日本の認知症高齢者介護の現状は,少子高齢化に向かい始めたネパールにとって,多くを学びうる格好の反面教師である。

日本でも,高齢者認知症は,私の生まれ育った地方の村々では,平成に入るころまでは,あまり問題とはされていなかった。少子高齢化や小家族化はまだそれほど進んでおらず,認知症高齢者も相対的に少なく,たとえ認知症になっても地域共同体の見守りなど様々な支援を受け,家族交代で面倒を見ることが出来たからである。地方は,他の地域でも同様であったであろう。

いまのネパールは,まだそれに近い状況にある。2012年10月~2013年1月の実地調査に基づき執筆された論文,伊関千書ほか「ネパールにおける高齢者と認知症」(『国際保健医療』 29(2), 2014)では,次のように説明されている。

「ネパールの医療現場の特に地方においては,認知症に対する認識が乏しかった。・・・・高齢者の家族を含め,ネパール人は加齢や認知機能の低下に対して楽観的,寛容的で,それを障害と捉えない傾向を示した。」(p.59)

「ネパールの高齢者では,会話によるコミュニケーションが日本以上に盛んであった。・・・・ネパール人は,・・・・高齢者に限らず屋外で時間を過ごすことを好む。地方では,日中,家の外の茣蓙の上や縁側のような場所・・・・に居ることが多く,ここを通りがかる家族や近所の人と会話を交わしている様子がしばしば観察された。地方ではテレビもなく,近所人間関係がさらに多いので,日本の一部の高齢者のように,一日中テレビを相手にしている生活はない。近所との関係が強いことが,地域在住の住民の健康によい影響を与えるということが,社会疫学分野から報告されている。」(p.66)

「ネパールの伝統的な家族構成は,多世帯同居家族であり,一家族に3~5世帯が同居していることも稀ではない。・・・・高齢者の世話や介護を,高齢者の子供以外にも甥や姪,孫世代までの多人数が交代で行う習慣が観察された。このような習慣では,高齢者が認知症であっても,介護の担い手1人当たりの負担が少なくなると考えられる。」(p.65-66)

ネパールの特に地方では,認知症になっても,「家族・地域内で解決されていたり,『祈祷師に相談する』という解決策をとられていたりする」(p.65)。

以上のようなネパール社会の現状は,少子高齢化や小家族化が加速し始める前の日本,特に高度経済成長本格化以前の日本の地方の状況とよく似ている。

たとえば,私の生まれ育った村は,1960年頃までは自給自足に近い農村であり,農繁期を除けば,時間や暇が有り余るほどあった。村人たちは仕事や村行事や趣味の場で日常的に交流し,おしゃべりを楽しんでいた。村には,半強制的な組に加え,様々な講のようなものもあり,たとえ誰かが近隣と無関係で生活したいと思っても,事実上,それは困難であった。たしかに息苦しくはあるが,高齢者認知症予防には最適であり,たとえ不幸にして認知症になっても地域社会の自然な支援が期待できた。いまのように少人数の家族だけで介護に明け暮れ,社会から孤立し,介護疲れで燃え尽きるといったことは少なかった。こうした村の状況については,以前,別の観点から少し紹介したことがあるので,参照されたい。
 ▼「郷里とネパール:失って得るものは?」2007年1月3日

ところが,そのネパールでもいま,少子高齢化が始まる一方,伝統的な大家族や地域社会の解体も進み始めた。高齢者認知症への備えが,ネパールでも必要になってきたのである。


 * ネパール高齢者(60歳以上)人口分布( Arun Jha, Nidesh Sapkota, “Dementia Assessment and Management Protocol for Doctors in Nepal,” JNMA, Vol 52 No 5, Issue 189, JAN-MAR, 2013)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/11 at 15:47

老老介護,事始め(8):そして哲学者の如く

認知症の母との会話は,哲学問答のようであり,常識による説得は不可能である。

会話の大半は,最大関心事の食に関すること。前述のように,食品は目につくとこに置いておくと無茶をするので,食べてよいおやつを除き,すべて隠してある。食事は,朝,昼,夕にその都度準備し,食卓に出す。生活と健康を守るため,これ以外に方法はない。

しかし,母としては,目の前に食べ物,とくにコメとご飯がないことは,一刻の猶予もならない非常事態である。朝起きると,ご飯がないと騒ぐので,すぐ朝食を出す。食べると忘れるが,しばらくすると思い出し,コメがない,ご飯が炊けない,母屋に行きコメを取ってくると言い始める。おやつを出したり,なだめたりして昼になり,昼食を出すと,しばらくは落ち着く。が,そう長くは続かない。また,コメがない,コメがないと言い始める。朝食後と同じようなことを繰り返し,夕食となる。そして,夕食後もまたまた,コメがない。ダミーとして出してある炊飯器を開けては閉め,コメがない! これが深夜まで続くこともある。

認知症の母にとっては,確かに存在するのは,そのとき,そのとき目の前にある現物だけである。目の前にコメがなければ,一大事,いくら要求してもコメが出てこなければ,その緊急事態を解決するための物語が創られ,語られることもある。

もっともリアルで整合性があるのは,うどん屋の話。昔からうどんが大好きなので,村にいたころは,近くの町にうどんを食べに連れて行っていた。これが強烈な印象として記憶されているらしい。

お話は,こうである。いまいるアパートの前の公園の坂を下ると,そこに,いつも行くうどん屋がある。コメがないので,その店に行き,うどんを食べよう。あるいは,うどん屋が商店に入れ替わることもある。坂の下に〇〇商店(いつも買い物をしていた村の商店)があるので,そこに行き,うどんを買ってきて,食べよう。

アパートが公園に囲まれ,小さな坂があり,その下にコンビニがあることは事実である。が,そこには,うどん屋もなければ〇〇商店もない。いまの住居付近のリアルな描写と,過去の記憶の断片とが見事に結び付けられ,首尾一貫したお話となっている。それが,コメがないという眼前の危機を突破するため,いとも易々と,何の苦も無くスラスラ語られる。信じられないほどの創造的想像力!

が,お話はお話なので,日々の生活のためには,コメと炊けたご飯は別室にしまってあるなどと説明し,納得させなければならない。ところが,いくら説明しても,絶対に納得しない。自分で現物を直接,何回も見て,その都度確認しなければ,不安なのだ。ウルトラ・リアリスト!

もちろん,現実には,コメやご飯を自由に見せ触らせることはできない。そんなことをすれば,無茶苦茶,どうにもならない。そこで,「毎日,毎日,3回ご飯を出し,食べさせているではないか」,だから「次のご飯の心配もしなくてよい」と説明し,納得させようとする。が,いくら繰り返しても,たとえご飯を食べている最中や,食べ終わった直後に言って聞かせても,絶対にダメ。

その論理が,スゴイ。「これまでご飯を食べ,いま食べていても,次に炊くコメが見当たらない。次のご飯が食べられない。」つまり,これまでご飯を食べてきたから,次も食べられるとは言えない,という理屈。論理明快!

これを聞くたびに,これまで毎日,太陽が昇るのを見たからと言って,明日も太陽が昇るとは言えない,と喝破したD・ヒュームのことが頭に思い浮かぶ。母は,僻地の村の小さな小学校しか出ていない。ヒュームのことなど,知る由もない。それなのに,ヒューム張りの議論を堂々と展開する。

哲学者の如き論法。恐るべし,認知症!

ネパールの認知症患者,2030年までに2倍に。ネパール人はもっと知るべきだーープラミラ・B・タパ
* Kathmandu Post, 22 Sep 2017

<補足>(5月9日)
認知症(Dementia)は,”Neurocognitive Disorder”とも呼ぶらしい。これは分かりやすい。認識・認知の秩序・順序が乱れる,ということだから。

認知症には様々な形があるのだろうが,このような認識の秩序の乱れが主な場合,秩序だった認識としての常識では思いもよらないような面白い認識が示され,驚かされるのも当然であろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/05/08 at 15:10

カテゴリー: 社会, 健康

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