ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

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信号機、ほぼ全滅(3):「日本に学べ」

1.交通道徳向上キャンペーン
ラトナ公園の北東角、バグバザールの西出口の向かいの公園フェンスに、大きな交通道徳向上キャンペーン看板が出ている。各地からのバスが集まる交通の中心地であり、よく目立つ。この交差点にも、むろん信号はない。

 ■交差点付近(赤印が看板位置、Google)

 
 ■キャンペーン看板
 
2.日本に学べ
私はいそいでいたこともあり、ちょっと見て、この看板は一つのものであり、右側が交通道徳向上キャンペーンのイラスト、左側がその交通道徳を「日本に学べ」と呼びかけるものだ、と思ってしまった。

ところが、ホテルに帰り、写真をよく見ると、右半分には、こう書いてある――
  ちょっと待て!
  下は車が走っている
  上の陸橋を渡れ!
  陸橋を渡る=100%安全
  道路を渡る=100%危険
  自分自身で考えよ。さぁ、どうする?

そして、左半分は、「STUDY JAPAN(日本を学べ)」ではなく、「STUDY IN JAPAN(日本で学ぶ)」となっている。

つまり、これは、右半分が交通警察署・カトマンズ市役所・JJTWC(NGO)の交通安全キャンペーン、左半分が「ネパール日本セワセンター」という日本留学斡旋業者の宣伝であり、左右は一体ではなく、それぞれが独立しものであったのだ。

笑い話のようだが、これは実話であり、興味深くも恐ろしい体験であった。私の頭の中には、「信号を守る日本人、守らないネパール人」という固定観念があり、看板のキャンペーン・イラストと大文字のJAPANを見たとたん、「交通道徳のお手本としての日本」という図式が反射的に出来上がり、「IN」を見なかったのだ。

いや、正確には、私の目は間違いなく「IN」を見ているはずだが、無意識のうちに右のキャンペーン・イラストと関連づけ、左側を「交通道徳を日本で(IN JAPAN)学べ」というメッセージと思い込み、さらにそれが簡略化され「日本を学べ(STUDY JAPAN)」となってしまったのだろう。

私の潜在意識は「STUDY IN JAPAN」の第一の意味(日本留学)を自動的に消去し、状況に適合した先入観に合わせてしまったのだ。われわれはすでに知っていることしか認識しない、とある大哲学者は喝破したが、これはまさにその卑近な実例といえよう。

今回は、写真に撮っていたから、あとで確認し訂正できたが、もしそうでなければ、いまネパールでは「交通道徳を日本に学べ」というキャンペーンが行われているという、とんでもない誤解を持ち続けることになってしまっただろう。

これは、あまりにも軽率な事例だが、異文化を見る場合、多かれ少なかれ、同様のことが起こっていると考えるべきであろう。異文化を見る場合、われわれは自分の立場(観点)から見ざるをえない。立場(観点)なしの認識は、不可能だ。いわゆる存在拘束性である。したがって、認識対象は、多かれ少なかれ歪んだ形でしか認識されない。これは異文化理解の常識だが、えてして忘れられがちだ。大きな「IN」があるのに、見て見なかった――苦い教訓である。

3.「日本で学ぶ」と「日本に学ぶ」
しかし、よく考えてみると、日本留学斡旋業者が交通道徳向上キャンペーンのスポンサーになっているのは、単なる偶然とは思われない。日本留学斡旋業者や一般のネパール人の間に、日本は規則を守る安全な国だ、日本に学べ、という思いがあるからこそ、このキャンペーン看板になったのではないだろうか?

そもそも「日本で学ぶ」のは、多かれ少なかれ、「日本に学ぶ」ことにもなる。日本も「西洋で学ぶ」ことにより、「西洋に学ぶ」努力を続けてきた。あるいはまた、「ネパールで学ぶ」ことにより「ネパールに学ぶ」努力をしている人も少なくあるまい。

とすると、「STUDY IN JAPAN」を「日本に学ぶ」と認識したのは、全くの間違いというわけではなく、あんがい事の深層を直感的に捉えたものということになるかもしれない。少々、弁解がましくはあるが。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/21 at 23:52

カテゴリー: 社会

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第三の性,公認

5月開始のネパール国勢調査で,男女に加え「第三の性」が正式分類項目に加えられるという(International Daily News, 11 Jan)。ネパールでは,先進国では考えられないような速度で社会規範の弛緩が進み,最も強固と見られてきた男女区分も融解し,ついに「第三の性」公認となった。これについては,以下も参照。
 PLAから学ぶ,ジェンダーフリーSDF
 ネパール秘義政治とインド性治学
 アイデンティティ政治実験の愚
 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2e)
 カトマンズ性浄化: Amoral or Immoral

もともと男女間は,あれかこれかの二者択一ではなく,「男らしい男」から「女らしい女」まで,ゆるやかにアナログ変化するものである。それを「男」と「女」にデジタル区分してきたのは,その方が社会の認識・統治にとって便利だからに過ぎない。だから男女二分法をやめ,ネパールのように「男(第一の性)」「女(第二の性)」「いずれでもない(第三の性)」の三区分にしても,その限りでは何ら問題はないわけだ。

しかし,この性の三区分にも合理的根拠があるわけではない。消極的(negative)定義で満足しているうちはよいが,いずれ「第三の性」アイデンティティの積極的(positive)定義に進み,自分たち独自の権利の要求となることは避けられない。そうなったとき,今度は「第四の性」が問題となるであろう。

われわれは,物事に「名前」をつけることによって,それを他から区別し認識する。命名それ自体が他との区別ないし差別を意味しているのだ。

ネパールが「第三の性」を公認し国勢調査項目に入れたり,「第三の性」身分証明書(住民登録証)を発行したりすることは,たしかに人間の因習的定義付けからの解放であり自由の拡大となる。それはそうだが,しかしそれにもかかわらず,「そんなことをやって,どうなるの?」といった疑念が払拭しきれないのもまた事実である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/01/19 at 10:35

カテゴリー: 社会, 人権

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