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早春の野草と野獣
3月中旬,野草が一斉に小さな花をつけ,ウグイスがさえずりの練習を始めた。心なしか浮き浮きする。
ところが,野草といっても,このところ勢力を急拡大しているのは,外来種。写真のスミレらしき花も,どこかから飛んできて根づき,いち早く花を咲かせた外来種だろう。とにかく,外来種は,やたらと強い。少々のことでは枯れない。しかも,たいてい美しい花をつける。困ったような,うれしいような。
動物もそうだ。畑は三重に網を張ったが,イノシシやサルに加え,生命力あふれ悪知恵にたけた外来動物も増えており,専守防衛で防御できるかどうか,心許ない。ここはやはり,集団的自衛権を行使し,村民一丸となって,外来動物テロ攻撃を撃退せざるをえないだろう。
春到来はうれしくもあり,ゆううつでもある。
谷川昌幸(C)
鈍足ネットと快足動物
丹後の我が村は,まだ3G。それもチョー遅い鈍足。ツイッターに接続してから畑に行って,ひと仕事して帰ってくると,やっと画面が出ているときすらある。有線なら速いのだろうが,面倒なので,我慢している。
これに反比例して,村の野生動物は快足,敏速ぞろい。防御の網や柵などものともしない。好物のサツマイモやトウモロコシなどは,一晩で全滅。
山や耕作放棄田畑にエサが無いわけではない。かつては山の木1本の所有をめぐり泥沼の境界争いさえ珍しくなかったというのに,いまでは山に入る人はほとんどいない。山林の正確な境界など,誰にもわかりはしない。山野は自然に戻り,エサも豊富。それなのに,野生動物もグルメになり,耕作田畑の野菜や果物を狙う。
自宅から数分の山裾にいつの日か野生栗の木が生え,いまや大木となった。以前なら子供たちが競って拾い,食べたものだ。野生栗は栽培栗より小さいが,はるかに美味しい。
ところが,いまでは拾う人もいない。そこに大きな足跡。おそらくクマであろう(イノシシかもしれない)。栗の木の下は,クマの格好の餌場となっているのだ。
この近くに富有柿の木があるが,これも,クマかサルが登って食べたらしい。上方の枝が折られていた。ネットの自由と動物の自由は反比例する。
谷川昌幸(C)
出荷用と自宅用を区別,ネパール農家も
昨日,日本農家は出荷用と自宅用を区別して栽培していたと書いたが,事情はネパールでも同じだ。
「商品野菜を栽培している農家のほとんどは,農地を二つに分けている――出荷用農地では,殺虫殺菌剤,ホルモン剤,化学肥料を使って野菜を作り,自家用農地では,有機肥料だけを使い,農薬は使わない。」(Himalayan,22Jul)
そう,商品農作物生産の資本主義農業においては,自家用/出荷用別栽培は,どこでも見られる,きわめて合理的な農作物生産方式なのだ。日本だけでなく,ネパールでも。そして,おそらくは農産物輸出大国の某国,某々国においても。だから――
「このようなことをする農家は不道徳であり,全くのペテン師であり,消費者の健康をもてあそぶものだ。」(Ibid)
などと,農家を非難してみても,全くの的外れ,お門違いだ。農家には,何の非もない。農薬まみれ野菜は,ネパールの近代的消費者自身が暗黙裏に求めたものに他ならないから。
農薬汚染が高いのは,カトマンズ,バクタプル,カブレ,ダディン,チトワン,バラなどの都市近郊農地だ。その結果,当然,都市部の野菜の残留農薬が高くなる。
カトマンズ野菜市場では,トマト,ナス,カリフラワー,トウガラシ,ササゲ豆,ヒョウタン,ジャガイモなどの野菜類の45%から残留農薬が検出され,特にササゲ豆の場合,なんと97.17%から検出されたそうだ(ekantipur,29 Jul)。
あるいは,ネパール農家は,DDTなど15種類の禁止農薬を使用しているとか,カリマティ市場のほぼすべての野菜からWHO許容基準の3倍の残留農薬が検出されたといった,恐ろしい報道もある(Himalayan,22 Jul)。
しかし,繰り返すが,これは農家の責任ではない。「商品」農作物を求めたのは消費者自身である。だから,ネパールでも,こう言うべきだ――
安全な農作物が食いたければ,農業労働に見合うだけのカネをだせ!
カネも出さず,農薬規制しても,誰がそんなもの守るものか!
■資本主義農業(写真:philosophers-stoneより)
谷川昌幸(C)
ネパールの農薬汚染,中国が報道
1.ネパール野菜の高濃度残留農薬
中国の新華社通信記事(7月18日)によれば,カトマンズの野菜の14%から,WHO基準を大幅に超える農薬が検出された。胡椒,ニガウリ,ほうれん草,ジャガイモ,トマト,タマネギなど。検査したのはネパール農業開発省。
農業開発省のJM.カナル氏は,新華社記者インタビューに,「ネパールの農業が化学製品依存になってしまったのは,実に残念だ。・・・・消費者を守るため,厳しい対策をとることにした」と語っている。
ネパール農作物の農薬汚染については,以前から問題にされていた。農薬輸入はこの10年で7倍になっている(Gorkhapatra,1 Jan.2014)。しかし,むろんネパール全土が農薬汚染されているわけではない。農薬多用は,伝統農法の地方貧農ではなく,消費者向け商品農作物を作っている,多少とも資本主義化した農家だ。生活の都市化と,農業の近代化・資本主義化が,農薬まみれ農作物を生み出しているのだ。
2.自然離反の農業近代化
農業の近代化・資本主義化は,一般に,農業の自然からの離反,化学肥料・農薬依存をもたらす。この自明の理をわきまえず,上から目線で,優越感にむせびながら,たとえば「上海福喜食品」事件など,中国の食品問題を一方的に非難するのは,天に唾するもの,小国の小児,みっともないことこの上なし。
論より証拠,八百屋やスーパーの生鮮食品売り場にいけば,品定めに余念がない多くの買い物客を目にすることができる。品定めの基準は,(1)安い,(2)大きくて形が良い,(3)新鮮で美しい。(「味」はむろん重要だが,これは食った後でなければ,分からない)。
これが農作物の「商品」としての評価基準であることに間違いはなく,そうであるなら,商品生産者たる農家が,その基準に合わせて,「商品」としての農作物を作るのは当然ではないか。
3.自業自得の日本消費者
かつて高度経済成長期の日本では,すべてとはいわないが相当数の農家が,出荷用と自宅用を分けて栽培していた。出荷用には,化学肥料をたっぷり施し,農薬をふりかけ,大きくて美しい「商品」としての農作物を作った。自宅用は,有機肥料で,無農薬か低農薬で育てた。当然,自宅用は,形が悪く,虫に食われ,切ると中から青虫などが出てくることもあった。それでも農家は,自宅用には,そうした農作物を作り食べていた。安全だと知っていたから。
近くの町の人々も,日々の農作業が見えるので,できるだけ自然な農作物を買って食べようとし,農家もそれが分かっているので,近くの人々には自家用かそれに近い農作物を売るようにしていた。
が,遠くの都市住民の健康のことなど,知ったことではない。都市住民は,農作業のことには関心がなく,目の前の「商品」としての農作物をただ買いたたくだけ。農家としては,消費者の品定め3基準に合わせなければ,農作物は売れない。かくして,日本の農業も化学肥料・農薬依存となった。これは全部,消費者自身が求めたこと。
4.食の安全はカネで買え
食の安全をいうなら,カネをだせ! 形が悪くても,虫食いでも,青虫が出てきても,文句言うな!
そもそも,日本企業は,中国産の食材・食品に,いくらカネを払っているのか? タイから,鶏肉やエビをいくらで仕入れているのか? 安全なものが食べたいなら,自分の目の届く身近なところでつくられる食材・食品を,適正なカネで買い,食べるべきだ。
食材・食品を単なる「商品」と見なして買いたたく資本主義社会の「根無し草」市民なら,多少の農薬,多少の異物,多少の賞味期限切れなど,我慢せよ。すぐ死ぬわけではないのだから。
■農薬汚染風刺画(Nepali Times, 2014-07-28)
谷川昌幸(C)
鳥インフル:無防備な近郊養鶏場
ネパールで鳥インフルが拡大している。バクタプルにつづきラリトプルでも感染が確認された。
カトマンズ近郊には,人口増にともない,養鶏場が急増している。かつては放し飼いで,ニワトリも健康であり,感染してもそう深刻なことにはならなかったのだろうが,いまは無防備な養鶏場にぎっしり詰め込まれ,飼育されている。いったん感染したら急拡大することは,素人目にも明らかだ。
鳥インフルは日本や韓国でも防止しきれない。ましてやネパールでは,鶏舎の予防対策も,拡大防止行政能力も,不十分である。急速な都市化に,交通,水道,電力などの基礎インフラ同様,養鶏・畜産業もついて行けないのだ。
鳥インフルがいつ終息するか? 長引けば,養鶏農家だけでなく都市住民にも大打撃となるであろう。
[参照]農業現代化と動植物の権利
谷川昌幸(C)
野生動物軍団と専守防衛農業
丹後の村は盛夏,野山に生命があふれ躍動している。動物たちも元気だ。
クマは桃の木に登り桃色に熟した実をほおばり,イノシシは牙でサツマイモを掘り起こし,一家で食べ尽くす。やがて秋になれば,猿軍団が山から下りてきて,庭の柿の木に登り,柿を食べてしまうだろう。コメも野生動物たちの好物だが,さて今秋はどうなることやら。
日本国民は,北方某国など,外国に対しては,防衛には先制攻撃が必要だなどと勇ましいが,自国農業についてはもっぱら専守防衛,欧米の「動物の権利」擁護団体から表彰状がもらえそうなほど平和主義に徹している。
日本農業は,TPP以前に,野生動物連合軍の波状攻撃で崩壊するのではないだろうか。
■イノシシにより一夜で壊滅したサツマイモ畑。国道側。電気柵も効果なし。(2013.7.28)
■自宅横の畑(防獣網設置)。イノシシによりサツマイモ壊滅後,小豆を播き,芽が出た(2013.7.28)。撮影日夜,今度はタヌキかアライグマに掘り起こされた(2013.7.29)。
谷川昌幸(C)
競争的共存の優しさ:農民とスズメ
下の写真をご覧いただきたい。これはブンガマティの寺院前広場。一面に籾が広げられ,天日干しが行われている。そのただ中に,一人の女性が先にビニールをつけた長い竹竿をもって,じっと立っている。これは,いったい何をしているのだろうか?
あまりにも不思議な光景だったのでしばらく観察していたら,その女性は,籾をついばみにきたハトやスズメを追っ払っているのだということが分かった。とくにスズメはすばっしこいので,このような長い竹竿を持っているらしい。
これは印象的な情景だ。11月中旬のカトマンズ周辺では,いたるところで籾が干されており,見張り番(たいてい女性)がついている。この女性のような個性的な道具をもっている人は少ないが,スズメ,ハト,ニワトリなどを追っ払うのが仕事であることに変わりない。
しかし,これは仕事としては実に不効率,不経済である。籾を干している間中,見張っていなければならない。ちょっとでも持ち場を離れると,すぐ鳥たちが寄ってきて籾をついばむ。事実,いたるところで籾がついばまれているのを目撃した。
■仏陀の慈愛の下で籾をついばむハトとスズメ / 籾をついばむニワトリ(ブンガマティ,11-22)
いくらネパールでも,ちょっと工夫し,網を張るなどすれば,そのような被害は防止できるはずだ。女性たちも見張り番から解放される。そんな簡単なことも分からないのかな? そう思って,少々,ネパール農業を軽く見ていた。
しかし,浅はかなのは,私の方であった。ネパール農民も,本気になれば,スズメ,ハト,ニワトリの完全シャットアウトなど,簡単に出来るはずである。それは,まちがいない。ところが,彼らはそうはしない。できるのに,しない。なぜか?
もちろん,推測にすぎないが,ネパールの農民は,収穫を鳥たちと分かち合い,共存を図っているのではないだろうか? 籾については,鳥たちと農民は競争関係にある。しかし,鳥たちも生きているし,また,たとえばスズメは害虫を食べ,ニワトリは卵を産み,あるいは人間の食料となってくれる。ハトは,実益はほとんどないが,そのかわり「平和」を伝えてくれる(食用になるハトもいるが)。だから農民は,食べられすぎないように追っ払いはするが,鳥たちの食い分は大目に見ているのだ。
つまり,農民の籾番は,鳥たちとの競争的平和共存が目的であり,農民の生きとし生きるものへの限りなき優しさの発現なのである。
経済的には,このネパール式農業は不効率きわまりない。一日がスズメ追いに費やされ,しかも時々はついばまれてしまう。しかし,その代わり,経済効率を追求してきた私たちが,無慈悲に見捨て,切り捨ててきたものが,ネパールではまだいたるところで受け継がれ,大切にされている。
推測,憶測かもしれない。読み込みすぎかもしれない。しかし,籾をついばむ鳥たちと,それを追い払いつつも容認している農民を見ていると,ほっと心和み,深く癒やされることはたしかである。よそ者の勝手な感傷にはちがいないが,自然との競争的平和共存の時代がかつてあったし,現にいまもネパールにはあることは,まぎれもない事実である。
谷川昌幸(C)
田園に降り立つ神
2012年11月9日午後,キルティプール西方,バルクー川をさかのぼり,サラスワティ寺/マハデブ寺付近の茶店の外で茶をすすり,何となく田園風景を眺めていた。風もなくポカポカ,快適な小春日和。
ちょうど稲の取り入れ。あちこちで稲刈り,脱穀,稲藁たばねが行われている。稲作以外の田畑や空き地には,菜の花,マリゴールド,ブーゲンビリア,ラルパテなど,花々が咲き乱れている。その向こうには,「秋霞」にぼんやりと,煉瓦工場の煙突が浮かんでいる。幻想的な田園風景。
と,そのとき突然,何の前触れもなく,目の前の田圃で農作業をする女性二人のそばから,稲藁がふぁふゎと浮き上がり,頭上付近を舞い,やがて空高く飛び去っていった。女性たちはあっけにとられ,呆然と,ただ眺めるだけ。これは神風だ! 稲の収穫をご覧になった神が,田圃に降り立ち,農民を祝福し,再び天空へと舞い上られたにちがいない。
いまどき,こんなことを言うと,「非科学的」,「神がかり」などとバカにされるだろうが,小春日和の幻想的な田園風景の中に神を見ない者こそ,不幸である。局地的な小さな上昇気流が発生した――そんな「科学的」説明には,何のリアリティもない。
谷川昌幸(C)
農業現代化と動植物の権利
11月9日、奇跡の家を見学したついでに、キルティプールの南西の山麓を散策すると、農業の現代化(近代化)が急速に進行していることに驚いた。
これはトマトのビニールハウス栽培。他に、キャベツ、花などもハウス栽培。日本以上にぎっしり密集して植えている。
これは鶏舎。こちらも驚くほど多くの鶏を詰め込み、飼育している。
ネパールといえば、かつては自然粗放農業。米や野菜は雑草と競争しつつ共生していたし、鶏は庭先や畑を勝手に走り回り、卵を産み、そして肉となっていた。豚も、ビシュヌマティ川の川岸などで放牧されていた。いずれも生産性は低く、農民の生活が苦しかったことは容易に想像がつく。
ところが、写真に見るように、ネパールはその前近代的自然農法から一足飛びに現代的な高度集約農法に大飛躍。大丈夫だろうか?
農業専門家ではなく調査もしていないので推測にすぎないが、野菜にせよ鶏や豚にせよ、ビニールハウスや鶏舎・畜舎にこんなに詰め込めば、化学肥料・人工飼料に頼らざるをえないだろうし、殺虫剤・殺菌剤も欠かせないだろう。抗生物質やホルモン剤も使用されているかもしれない。
動物や植物にも、自然に生き、自由に育つ「権利」があるはずだ。たしかリンボウ先生の本に出ていたと思うが、イギリスでは豚にも自由と独立を認め、清潔な一戸建て豚舎をそれぞれの豚家族に割り当てているそうだ。
西洋の動物愛護団体は、動物の権利を理由に、水牛や山羊や鶏などの供犠に猛反対しているが、神の前で聖別され首を切り落とされるのと、鶏舎や豚舎に閉じこめられ、抗生物質入り人工飼料や殺菌剤まみれで飼育され、食肉工場で機械的に殺されていくのと、どちらがより残酷かは言うまでもあるまい。動物愛護団体の動物供犠反対の偽善は、惨めなまでに浅薄であり、愚劣だ。
ここで大切なことは、動植物の権利を守ることは、人間の権利を守ることでもある、ということだ。権利を奪われた不健康な動植物を食べると、当然、人間の健康も保たれない。日本の農村では、化学肥料・農薬まみれの作物は出荷用、自然農法作物は自宅用と、区別して作られている。これは、田舎の常識だ。
ただ、日本や先進諸国の場合、農薬規制がある程度きいており、短期的な被害は目立たない。しかし、ネパールの場合、そのような規制はあまり期待できない。だからこそ、ネパールでは、ヒステリックな偽善的動物供犠反対ではなく、動植物の自然な権利の擁護が、先進国以上に強く主張されなければならないのである。
郊外を散策していると、近代以前から近代以後への近代抜き飛躍が、とんでもない無理を引き起こしていることを、いたるところで目にすることができる。
谷川昌幸(C)
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