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集団の権利のための闘争と,その限界
構造的暴力の見本のようなネパールにおいては,長年にわたって差別・抑圧されてきた人々が,「国家」や「国民」よりも自分たち自身の「集団の権利」を掲げ,体制側と闘うのは当然だ。なぜなら,「国家」や「国民」は,自分たちのものではなく,少数の特権身分がそれらの名,それらの正義により彼らを支配し搾取するためのイデオロギーに過ぎないからである。
たとえば,天皇が「朕」というと,それは「国民」を代表しているから,人民はすべからく「朕」の命令に絶対服従すべし,とされた。しかし「朕」は「朕」であり,人民ではない。あるいは,国王が「われわれ」というとき,それは人民のことではなく,実際には国王自身のことである。
このカラクリに気づかず,やれ「国家」の品格だの「国民」の統一だのと,お題目を唱えるのは,あまりにも純朴であり,おめでたい。被抑圧人民は,そんなものは無視し,自分自身の「非国民的」特殊利益を主張してよいし,主張すべきである。
いまも忘れないが,中学で英語を習い始めた頃,”man”は「人間」という意味ですよ,と例文を使い繰り返し教え込まれた。当時,教師は大変な権威をもっていたから,「そうか,先進国英米では”man”は人間なんだ,人間は”man”なんだ」と,男生徒も女生徒も大いに納得させられたものだ。
しかし,これはもちろん,女は男によって代表されるから,男=man=人間(人類)なのだ,という女性差別思想に基づいている。したがって,こうした「人間」概念のイデオロギー性に気づかず,「人権(rights of man)」を主張するのは,あまりにもおめでたい。女性は,「人間」の権利など無視し,「女」の権利を主張してよいし,主張すべきなのだ。(各地の「女性センター」がつぎつぎと「人権センター」に衣替えさせられたのは,もちろん「男」の陰謀であり,女が「女」の権利を主張しないかったから。)
だから,天皇が「朕は」といい,国王が「われわれは」といっても,それはあんたのことでしょ,と冷たくシカトすればよい。あるいは,バフンやチェットリや有力ネワールが,「国家」とか「国民」といっても,それはあなたたち特権カーストのことでしょ,と相手にせず,まずは自分自身の,あるいは自分の集団の「非国家的」「非国民的」個別利益を主張してよいし,主張すべきなのだ。
この単純明快な真理を最もうまく代弁したのが,マオイストだ。マオイストは,「国家」「国民」のイデオロギー性を余すところなく暴露し,被差別カーストや被差別諸民族に向かって,あなたたち自身の「集団の権利」を主張してよいし,主張すべきだ,と呼びかけた。
これは難しい理屈ではなく,単純明快な真理だから,勇気をもって語りかけられると,すぐにその正しさが理解され,被差別・被抑圧諸集団はこぞってマオイスト支持に回り,国王や支配カーストの「国家」や「国民」を粉砕してしまったのである。
ネパール人民は,根は仏様のように優しいから,ソ連や中国などのようなすさまじい暴力革命にはならなかったが,マオイスト人民戦争の前と後とでは,ネパール社会は文字通り「革命的に」変化した。これはマオイストの偉大な功績である。
しかし,である。マオイストは,マルクス=レーニン=毛沢東主義であり,本来なら,「プロレタリアート」あるいは「労働者・農民」という普遍的な階級の利益を第一の目標とすべきはずの政党である。「万国の労働者よ,団結せよ」とまではいわなくても,少なくとも「ネパールの労働者・農民よ,団結せよ」とは,訴えるべきであろう。
むろん,マオイストも,繰り返し「ネパールの労働者・農民」とは唱えてきたが,それはお題目であり,実際には個別カーストや諸民族の集団としての特殊利益に火をつけ,党勢拡大に利用することしかやってこなかった。典型的な二重基準,二枚舌であり,安易な闘い方である。
個別は個別だけでは成立しない。何らかの形で普遍と関係することによって初めて,個別は成立する。あるいは,難しい議論もあろうが,やはり権利は何らかの義務なしには成立しない。たとえ自然権(natural rights)といえども,それは自然法(natural law)と対応しているとみるのが妥当だろう。
とすると,被差別カースト・被差別諸民族の「集団の権利」の主張それ自体は正しいが,その権利主張は,その権利をどう成立させるか,その権利を尊重する義務(法)を担う社会ないし国家をどう構築するか,という問題と不可分の関係にあるといってよい。各個人,各集団は,自分の個別的権利を主張してもよいが,それだけでは権利は享受できないということである。
マオイストは,「国家」や「国民」のイデオロギー性を暴露し,その破壊には成功したが,それらに代わる新しい法共同体の構築には,少なくともこれまでは真摯に向き合ってはこなかった。破壊して戦果を幹部で山分けし,後は野となれでは,あまりにも無責任である。
谷川昌幸(C)
アイデンティティ政治の観念性と現実性
いまネパールで猛威を振るっているアイデンティティ政治は、それ自体は観念的だが、いったん始まると、その否定が観念的となり、そこに参加することこそが現実的となる。まったくもって、やっかい。
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たとえば、「民族州」要求。それぞれのカースト、ジャーティ、先住民族などが、自らの州や自治区を構成し、民族自治をやる。そんなことは不可能であり観念論に過ぎないことは明白であり、民族州を要求している人々自身にもそれはよくわかっているはずである。
しかし、他のカーストやジャーティが民族自決や民族の権利を要求しているのに、自分たちがそれをしないのは、権利の放棄であり自殺行為である。他の集団が集団としての自治や権利を要求したら、すかさず、それ以上の力をもって同様の要求をするのが、現実的である。こうして、アイデンティティ政治は、いったん火がつくと燃え広がる一方で、消しようがない。
このアイデンティティ政治においては、自己のアイデンティティ、つまり集団としての結束が強ければ強いほど、多くの権益を獲得できる。個々人が普遍的な「正義」や「人権」に訴え権利主張しても、ほとんど無意味。正義や人権も、アイデンティティにより集団化されてしまっているからだ。
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たとえば、イスラム教徒。彼らは「全国イスラム闘争同盟(NMSA)」を結成し、イスラム共同体としての権利要求を突き付け、5月20日、政府にその要求をほぼのませた(Republica, May21)。
・新憲法に「イスラム共同体アイデンティティ」を明記。イスラムは、独立した集団としての存在と権利を持つ。
・「憲法設置機関として「イスラム委員会」を設置。
・「マドラサ教育委員会」設置。
・常設「ハジ委員会」設置。
・国家全機関に人口比に応じたイスラム職員枠設定。
・イスラム家族法の承認。
・憲法人権規定に「イスラムの権利」を明記。
・タライの州には、イスラム・アイデンティティを表現する名称を付ける。
たしかに、ネパールのイスラム教徒は、長らく差別されてきた。したがって彼らがイスラム教徒として、あるいはイスラム共同体として、権利要求をするのは当然とはいえる。彼らの権利は、このような方法でしか、実際には獲得されないであろう。その意味で、「イスラム共同体」としての権利要求は現実的であり、現に、先の対政府交渉において、満額回答に近い回答を勝ち取ったのだ。
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しかし、そのことはよくわかるのだが、その一方、こうした集団の権利要求を他の集団も始めたらどうなるか、あるいは「イスラム州」内の他集団はどうなるのか、と心配せざるを得ない。
「全国イスラム闘争同盟」のザキル・フセイン氏は、こう述べている。「もし本日の合意が実行されなければ、断固たる運動を全国で展開する。」
アイデンティティ政治においては、このような「断固たる運動」が取れない集団は敗退する。結局、「各集団の各集団に対する闘争状態」となる。闘うのが集団のため、ホッブズ個人主義の「万人の万人に対する戦争状態」よりもたちが悪い。
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この集団アイデンティティ戦争からどう抜け出すか? 時代遅れを承知で言えば、やはり「普遍」への回帰しかない。「平等な個人」の権利を、国家ないし世界社会が普遍的正義としての法により保障する。ホッブズ復興だ。
今のネパール政治に必要なのは、西洋NGO押し売りの、グロテスクなポストモダンではなく、「近代復興」ではないのだろうか。
谷川昌幸(C)
マオイストの憲法案(24)
4(18) 社会的正義に関する権利,社会保障に関する権利
マオイスト憲法案の第48条は社会的正義に関する権利,第49条は社会保障に関する権利を規定している。
第48条 社会的正義に関する権利
(1)社会的に低開発の人々は,比例的包摂原理に基づき,国家諸組織に参加する権利を有する。社会的低開発の人々=女性,ダリット,マデシ,先住民族(アディバシ,ジャナジャーティ),少数派および周縁化された人々,ムスリム,性的少数派,心身障害者,青少年,後進階級,農民および労働者,被抑圧集団。
(2)(1)に関しては,経済的貧窮市民が優先される。
(3)貧窮階級,心身障害者,限界社会共同体の市民は,保護,育成,開発を図るため,教育,健康,住居,雇用,食料,社会保障において,特に優先される。
(4)農民の権利=耕地への権利,伝統的に使用されてきた地域の種苗への権利,農産物の適正価格と市場アクセスへの権利。
(5)アディバシ,ジャナジャーティの権利=アイデンティティへの権利,言語および文化の維持・発展への権利,開発における優先特権,自決権原則に基づく自治への権利。
(6)少数者社会共同体は,自己のアイデンティティおよび自己の社会的文化的権利を享受する特権を有する。
(7)マデシ社会共同体は,自決権原則に基づく自治権,経済的・社会的・文化的機会の平等配分権,ならびに共同体内の貧窮階級および女性の保護・開発への優先特権を有する。
(8)被抑圧地域は,保護,開発および基本的必要充足への優先特権を有する。
(9)心身障害者は,その個性を尊重され尊厳を持って生きる権利および社会生活への権利を有する。
(10)青少年の権利=教育,健康および雇用において優先される権利,人間開発への権利,国家開発全般へ貢献する機会の権利。
(11)人民運動,人民戦争およびマデシ運動における犠牲者,行方不明者および負傷者の家族は,すべての国家組織に参加する権利,ならびに公共サービス特別措置,教育,健康,雇用,居住,社会保障,救済および年金への権利を有する。
(12)アディバシ,ジャナジャーティおよび地域共同体は,土地と自然資源への優先権を有する。
第49条 社会保障に関する権利
次の人々は法の定めにより社会保障の権利を有する。貧窮階級,扶養者のいない心身障害者,扶養者のいない独身女性,心身障害者,子供,老人,自活できない人々,限界民族。
――マオイスト憲法案の最大の特徴の一つは,弱者への配慮である。その際,弱者は属性ごとの集団として把握される。つまり,自由や権利の多くは,各個人に個人の自由や権利として保障されるのではなく,集団の一員の権利として保障される。
近代の人権論からいえば,個々人に自由と権利を最大限保障するのが国家の目標となるはずだが,共産主義+多文化主義のネパール・マオイストは,集団の権利をすべてに優先させるのである。
集団の権利は,欧米でもたとえば積極的格差是正措置(affirmative action)などにおいて認められているが,これはあくまでも人権保障の例外である。欧米や日本の人権保障の原則は,あくまでも個人の権利保障である。
ところが,ネパールでは積極的に格差是正すべき集団が無数に存在する。集団の権利を例外扱いするわけには行かない。誰もが、何らかの集団アイデンティティを申し立て,「集団の権利」として自己の権利を主張する。いわばアイデンティティ集団人権の主張だ。
したがって,ネパールにおいて「集団の権利」が主張されざるをえない状況は十二分に理解できる。が,しかし,それは近代民主主義における文化否定の逆の危険をもたらす恐れがあることを忘れてはならない。
一つは,アイデンティティ政治の激化。あらゆる権利が集団化され,集団間の紛争が激化する。
そして,その一方,集団内では,個人の自由や権利が抑圧される。たとえば,集団の母語教育権を主張すればするほど,集団内の個人の言語選択権は直接的または間接的に制限されることになる。
しかも,この「集団の権利」を次々に認めていくと,権利保障が際限もなく複雑化し,理解不能のものになってしまう。たとえば,性的少数者の権利。ゲイ,レズ,バイ,第三の性,第四の性・・・・・。きりがない。こんなことをやっていってよいのだろうか?
何度も繰り返すように,権利と自由を手当たり次第書き込んでも,実効性が担保されなければ,無意味である。いや,単に無意味というより,憲法そのものへの信任が失われ,立憲政治が根底から瓦解してしまうだろう。
[参照]
第三の性,公認
ネパール秘義政治とインド性治学
谷川昌幸(C)