ネパール評論 Nepal Review

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ゴビンダ医師のハンスト闘争(37)

10 参考資料
(1)マンジート・ミシュラ「希望と恐怖の物語」リパブリカ,2018年8月1日
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ゴビンダ医師のハンスト闘争を,ガンディーやネルソン・マンデラのサティアグラハを継承するものとして高く評価。著者はラジビラジ在住の講師。リパブリカ紙にコラム等執筆。
Manjeet Mishra, “Tale of hope and fear,” Republica, August 1, 2018
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KC医師が力づくで拉致され,[KAHS] 病院が破壊された。これは,サティアグラハ[真理追求,非暴力抵抗]に対する攻撃に他ならない。

7月18日は,ネルソン・マンデラの生誕記念日。この数年と同様,今年も関心はあまり高くはなかった。トランプ,プーチン,エルドアン[トルコ大統領]のような力を振りかざす権力者たちが見出しを独占するような時代においては,マディバ[マンデラ愛称]のような平和と和解への訴えは,無力・無意味で時代遅れのように見える。世界は,もっと先へと進んでしまったように見える。

彼の訴え方は現在では現実離れしているように見えるかもしれないが,実際にはそれは間違いなくわれわれを勇気づけてくれるのであり,いまこそ,それは思い起こされてしかるべきである。……

マティバは親切で度量が大きく人々の中に入り込む力を持っており,これこそが彼の指導力の特質であった。むろん失敗――主に経済に関して――もあったが,それにもかかわらず彼が彼の国と世界にとって大きな希望となっていることは,紛れもない事実である。

そのマティバに,たとえ形だけであっても,敬意を表すべき時に,断食をしていたゴビンダ医師が,ジュムラの病院から「拉致」された。これ以上あからさまな皮肉な仕打ちはあるまい。サティアグラヒ[真理追求者・非暴力抵抗者]の強制的拉致と病院の破壊が,非暴力を象徴する人の誕生日に行われる――これはサティアグラハそのものに対する攻撃と見ざるをえない。……

私が初めてKC医師を遠くから目にしたのは,彼が2016年洪水のとき,私の故郷であるサプタリ郡ティラティ村の医療キャンプに来た時であった。村は洪水で破壊されてしまっていたが,彼は冷静沈着そのものだった。彼は余計なことをせず仕事そのものに取り組んでいた。その姿を見て私は感激し,すぐ彼を尊敬するようになった。

おそらく彼のそうした資質が,その無私の態度と相まって,彼をして[サティアグラハの]象徴としたのだろう。ハンストをジュムラで始めることにしたのも,見事な決定であった。政府は彼を強制的に「拉致」せざるをえなくなり,それが市民社会やメディアに衝撃を与え,彼らの大きな共感を呼び起こすことになったのだ。

これこそサティアグラハの力である。無私の人物が改革改善を深く確信し,断固とした毅然たる態度をとるとき,権力は暴力的手段に頼らざるをえなくなる。今回の稀有の勝利は,KC医師にして初めて獲得しえたものだ。彼の闘いは,一言でいえば,まさしくマハトマ・ガンディーのいったことに他ならない――「初め彼らはあなたを無視する,次に彼らはあなたのことをあざ笑う,そして次に彼らはあなたを攻撃する,そしてあなたが勝つ」。

■M・ミシュラ「ツイッター」(2018年8月2日)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2019/05/13 at 10:07

ガンジーは「企業お抱えNGO」元祖: アルンダティ・ロイ

アルンダティ・ロイが,またまたガンジー(ガンディー,ガーンディー)を批判し,猛反撃を受けている。

120903 ■ロイ

ロイは,以前からガンジーの非暴力不服従運動には懐疑的であった。ロイによれば,ガンジー主義は,観衆を前提とする劇場型抵抗であり,たとえばチャッティスガルの村でのように,完全に包囲され外部から遮断された状況ではまったく無力だというのだ。

これは,ガンジーに対するロマン・ロランの批判と原理的には同じである。すなわち,たとえ観衆がいても,聞く耳を全く持たないヒトラーのような支配者には,ガンジー主義は無力だ,ということ。

【参照】
ガンディー劇場型抵抗の限界:A.ロイ
Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(1)
2010/04/23 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1) 

また,カースト制についても,ロイは2014年7月17日のケララ大学での講演において,「理想的バンギ(The Ideal Bhangi)」(1936)を引き合いに出し,ガンジーを「カースト主義者」と批判し,ガンジーの名を冠した大学などの機関は改名すべきだと述べ,告訴騒ぎを引き起こしていた(*3-5)。

【参照】Gandhi,”The Ideal Bhangi,” Harijan,28 November,1936
The ideal Bhangi of my conception would be a Brahmin par excellence, possibly even excel him. It is possible to envisage the existence of a Bhangi without a Brahmin. But without the former the latter could not be. It is the Bhangi who enables society to live. A Bhangi does for society what a mother does for her baby. A mother washes her baby of the dirt and insures his health. Even so the Bhangi protects and safeguards the health of the entire community by maintaining sanitation for it. The Brahmin’s duty is to look after the sanitation of the soul, the Bhangi’s that of the body of society. But there is a difference in practice; the Brahmin generally does not live up to his duty, the Bhangi does, willy-nilly no doubt. Society is sustained by several services. The Bhangi constitutes the foundation of all services. [….]

このように,ロイのガンジー批判は周知のことだったが,今回は,それらに加え,ガンジーを「企業NGO」元祖と断罪したのだ(*1-2)。

3月21日,ロイは「第10回 ゴラクプル映画祭」に出席し,開会スピーチを行った。ロイはこう述べた。インドでは,タタなど大財閥がほとんどすべてを支配し,言論表現も例外ではない。アメリカで,フォード財団やロックフェラー財団が「資本主義プロパガンダ」を支援しているのと同じこと。ところが,この映画祭は企業支援を受けず,人々の寄付で10年間にわたり運営されてきた。これは高く評価される。

そもそもガンジーは,「この国の最初の企業お抱えNGO」である。「彼(ガンジー)は,ダリット,女性,貧者について実にひどいことを書いているのに,この国では彼を崇め礼拝している。これは,この国の最大の誤りの一つだ。」

以上のようなロイの発言に対し,会場からは,偉大な国父ガンジーを「企業の手先」などと呼ぶべきではない,といった激しい反論が出された。これに対しロイは,「私は,彼(ガンジー)についてよく研究し,彼が1909~1946年に書いたものに基づき,こう述べたのだ」と答えた。ロイのガンジー批判は筋金入りだ。

ロイは,おそらく現代の最も過激で行動的な反体制知識人の一人であり,そして何より素晴らしいのは,本質を突く鋭い議論を巧みなレトリックで表現し提供してくれる,その有り余るばかりのサービス精神。こんな面白くて為になる危険な過激派知識人は,現代ではまれといってよいだろう。

*1 Abdul Jadid, “Mahatma Gandhi was first corporate sponsored NGO of the country: Arundhati Roy,” Hindustan Times, Mar 22,2015
*2 Pratishtha Khattar,”Striking Sparks: Arundhati Roy On Gandhi, Again,” 23 Mar,2015 (http://economydecoded.com/2015/03/striking-sparks-arundhati-roy-on-gandhi-again.html)
*3 Viju B,”Mahatma Gandhi was a casteist, Arundhati Roy says,” The Times of India, Jul 18, 2014
*4 Jason Burke,”Arundhati Roy accuses Mahatma Gandhi of discrimination,”The Guardian, 18 July 2014
*5 “Gandhi Looked Down upon Dalits, Says Arundhati Roy,” Express News Service,18th July 2014

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/03/31 at 14:20

ガルトゥング訪ネと積極的非暴力の理念

平和学の権威ヨハン・ガルトゥング教授(トランセンド平和大学学長)が,ネパール開催の平和集会(2月10~18日)に参加され,また政官民各界有力者と意見交換される。

130209 ■ガルトゥング教授(http://www.transcend.org/)

ガルトゥング教授は,2003年5月,2006年10~11月にも訪ネされ,和平交渉,とくに包括和平協定の締結に重要な役割を果たされたといわれている。

現在,ネパールでは,マオイスト連立政府(バッタライ首相)の無議会統治がずるずると続き,挙国政府設立のための諸党合意がいつになるのか皆目見当もつかない。正式憲法もなく,最高裁など主要国家機関の構成員も減少しており,統治の正統性そのものが日々損なわれていく。国家存立の危機といってよい。

今回のガルトゥング教授訪ネの目的も,講演や意見交換などを通して平和構築への合意形成を促し,平和プロセスを前進させることだという。成果を期待したい。

ところで,ガルトゥング教授の平和学の核心は,平和的手段による紛争転換(トランセンド)による「積極的平和」の実現である。この平和学は,グローバル化時代の平和理念として,広く認められている。また,ネパール人は,「消極的非暴力」は得意だが,「積極的非暴力」は不得手だ,という批判も鋭く的を射ている。

 *消極的非暴力=negative non-violence. 市民的抵抗,デモ,非協力など。非暴力による抵抗
 *積極的非暴力=positive non-violence. 国家構築,平和構築など。制度や組織の積極的構築

しかしながら,その一方,ガルトゥング教授は,積極的平和(積極的非暴力)をどう実現していくか,という点では,やや具体性に欠ける嫌いがある。「平和を求めるなら,飢餓をなくせ」(Nepali Times, #626)といわれても,「では,具体的にはどうのようにして?」ということにならざるをえない。

また,教授の連邦制論は一種の「原理主義」であり,観念論の域を出ない。「各州は,資源と言語等の自決権を持つが,それでも一つの国民・一つの国家の部分として機能する」(同上)といわれても,「では,どのように州を区画するの?」とか,「無資源州はどうするの?」とか,「少数言語必修の生徒の就職は?」などと問われたら,答えようもない。

ガルトゥング教授には,制度としての「王制」と具体的な「国王」個々人とは区別すべきだとか,同性婚は欧米では必要だがネパールでは時期尚早だ,などといった極めて現実的・保守的な主張もある(同上)。各論に入れば,教授も現実主義者とならざるをえないのだ。

ネパールはいま,理念というよりは各論をめぐって議論が錯綜し,収拾がつかなくなっている。そもそも「積極的平和」「積極的非暴力」は,具体的な各論がなければ空虚な観念論にすぎない。それは、「消極的平和」「消極的非暴力」よりもはるかに複雑多様で、高度な政治力を必要とする。現実との妥協も避けられない。難しい課題だが、教授には,あえてその各論に一歩踏み込み,できるだけ具体的な平和構築のための政策提案をしていただきたい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/02/09 at 18:22

ガンディー劇場型抵抗の限界:A.ロイ

1.ガンディー主義批判インタビュー
アルンダティ・ロイが「自由言論討論集会」(2012年1月)のためのインタビューを受け,インタビュアーのManav Bushanの問いにかなり突っ込んだ答えをしている。言論については,いかなる理由にせよ,権力的言論規制には反対である。そして,自由な言論空間を奪われ,観衆を期待できないような状況,つまり劇場なき孤立状況では,攻撃から自分を守るためには暴力の使用も避けられない場合がある,というのである。

ここでロイが批判するのは,ガンディー主義者の非暴力的抵抗である。ロイによれば,ガンディー主義の非暴力的抵抗は,劇場型抵抗であり,もし孤立させられ観衆を完全に奪われてしまうなら,それは全く無力だという。

これは,ロイが繰り返し述べてきた持論だが,ここでの具体的な事例に基づくガンディー主義批判は極めて論理的であり,誰しも見て見ぬふり,聞いて聞かないふりをすることは出来ないだろう。

インタビュー記事は要約とのことだが,要点は正確に記録されているように思われる。

2.劇場なきところでの実力抵抗の正当性:ロイ・インタビューより
「英国植民地時代,先住民は植民地権力により[チャッティスガルの森の中に]囲い込まれていた。独立後は,インド憲法により植民地時代の法律の継承が認められ,先住民の土地は森林省の管轄となった。だから,憲法の認めたこの法が,先住民の生活を犯罪としているのだ。

しかも今日では,先住民は普通の犯罪人からテロリストの地位にまで引き上げられた。もし森から出てこなければ,もしそこにタネでも播けば,もしその村に住み続けるなら,お前らはマオイストのテロリストであり,見つけ次第,射殺されてもよいのだ。

こうして,村は千人の治安部隊に包囲され,火を放たれ,女は強姦され,人々は虐殺されていく。そして,もしこれに抵抗でもしようものなら,テロと呼ばれ,暴力と呼ばれるのだ。

チャッティスガルの森には,すでに20万人の治安部隊がいる。インドは,いまや超大国だと誇っている。そのインドの政府が,今度は,世界でもっとも貧しい人々に対し,陸軍と空軍を差し向けようと計画している。これは,まさしく戦争なのだ。

ガンディー主義的抵抗は,都市では有効だろう。私は決してそれに反対はしない。しかし,ガンディー翁自身が示したように,それは観衆を必要とする。それは中流階級,共感してくれる中流階級を必要とするのだ。もし観衆がいなければ,バティ鉱山かどこかで人々がいくらハンガーストライキをやろうが,誰も気づかない。誰も気にしない。メディアが必要だ。中流階級が必要だ。そう,観衆が必要なのだ。」

3.逃げられない問い
ガンディーには,たしかにいつでも観衆がいた。アフリカでもインドでも。それは,ガンディーがそのたぐいまれな才能と魅力と努力で引きつけたものではあるが,しかし時代がガンディーに味方していたことも事実だ。

これに対し,ロイは,現代インドではメディアも権力に巧妙に統制され,先住民は外界から遮断され,虐殺されていると訴える。非暴力的抵抗を有効化する観衆がおよそ期待できないのだ。

ロイはリアリストとして,そのようなときどうするか,とガンディー主義者に問いかける。これは重い問いだ。逃げてはいけないし,逃げられもしない。難しい問題だ。

* Interview with Arundhati Roy, Revolutionary Journalists Needed, Revolution in South Asia, February 12, 2012
■ロイについての関連記事は,右欄検索窓に「Roy」または「ロイ」を入力し検索。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/02/14 at 21:50

カテゴリー: インド, マオイスト, 平和

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Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(2)

2.安全圏から非暴力を説くなかれ
人を殺さざるをえないギリギリの状況にない者,あるいはその状況を想像すらできない者に,殺人の悪を語る資格はない。同じく,自らは暴力の矢面に立たず,安全圏にいる者に,暴力の悪を説き,非暴力を唱える資格はない。ゲルニカとロイとの迫真の議論はこう展開する。

「ロイ: 私自身に武器を取る決意がなければ,暴力を説くのは不道徳でしょう。同様に,攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのも不道徳です。

ゲルニカ: かつて,あなたはこう書いています。『絶滅の危機には反撃の権利がある,と人々は信じている。いかなる手段によっても。』これに対し,お定まりの非難がなされてきました。そら,ご覧,ロイは暴力を説いているよ,と。

ロイ:私は,こう問いかけたい。もしあなたがチャティスガルの深い森の奥に住む「先住民(adhivasi)」であり,その村が800人の中央予備警察隊に包囲され,次々と家を焼かれ,女性を強姦され始めたとしたら,そのとき,人々はどうすると思いますか? ハンガーストライキをするのか? それはできない。人々はすでに飢え,餓死しつつあるから。商品ボイコットをするか? できない。なぜなら,人々には商品を買うお金がないから。たとえ,それでももし人々があえて断食やダルナ(dharna)をするとしても,いったい誰がそれを見てくれるのか? 誰が関心を示してくれるのか? だから,私にはこう考えるしかないのです――私自身が武器を取る決意がなければ,他の誰かに向かって暴力を説くことは不道徳である,と。そして同じく,自ら攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのは不道徳である,と。」

これは,すさまじい議論である。世のほとんどの非暴力主義は,安全圏の中からのお説教にすぎないということになろう。

3.立ち上がれ,非暴力のために
しかし,ロイは暴力は不可避と考えているわけではない。もしわれわれが不正義に苦しめられている人々に目を向け,共に闘うために立ち上がるなら,彼らは暴力に訴える必要はなくなる。

「ロイ: 先住民(adhivasi)の強制移住や窮乏化に対する闘いを誰も支援しないのであれば,彼らにガンディー主義を期待することはできないということ,これは事実です。しかしながら,森の外にいる人々,メディアが関心を示す裕福な中流階級の人々が,その抵抗運動を支援することはできます。もし彼らが支援に立ち上がっておれば,森の中の人々もおそらく武器を取る必要はなかったでしょう。もし森の外の人々が支援に立ち上がらないのであれば,戦いの犠牲者のことを考えよといった道徳を説いてみても,あまり意味はありません。」

4.哀れみを請う犠牲者たるなかれ
ロイが一貫して唱えているのは,イエーリングのいう「権利のための闘争」である。哀れみを請うのではなく,自ら権利を闘いとれ,とロイは訴える。

「特権階級の人々をいらだたせているのは,私が単なる犠牲者ではないこと,私が単なる犠牲者の振りをしないことです。彼らは哀れな犠牲者を愛し,犠牲者救済を愛しています。私の著作は貧しい人々への援助のお願いでもなければ,哀れみ深い慈善のお願いでもありません。NGOや慈善活動や援助基金を求めているのではありません。そんなものは,金持ちが自分のエゴをくすぐり,端金で自分の良心を満足させるためのものにすぎません。」

インドには,たしかに慈善があふれている。企業は競って社会貢献事業を宣伝している。しかし,ロイは,そんなものは偽善であり,自己満足にすぎない,と一蹴してしまう。過激派ロイの面目躍如といったところだ。

5.公的なものが私的に,私的なものが公的に
ロイは,このようなラディカルな立場をとってきたため,「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまったという。

「私は,たいへん不安定な,しかし,静かでないこともない生活を送っています。が,ときどき,皮膚が,つまり私と,私の住む世界とを区別する或るものが,無いのではないかと感じることがあります。この皮膚の欠如は危険です。私の生活のあらゆるところに,それはトラブルを招いています。それは公的なものを私的に,私的なものを公的にします。それはときどき大きな心的負担をもたらします――私だけでなく,私の近くにいる人々にとっても。」

文学的な表現だが,これは,マオイスト・シンパと激しく攻撃され,またカシミール自決支持発言で反国家扇動罪で告発されるなど,まさしく「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまった,ロイの偽らざる心境であろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/02/24 at 16:12

Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(1)

「銃をもつガンディー」――あまりにも挑発的で神をも恐れぬ不遜な言葉だ。2009年12月、オバマ大統領がノーベル平和賞受賞演説でこれに近いことを述べた。彼は誠実で偉大な大統領ではあるが、アフガンなど世界各地で無防備な人民を多数殺しているアメリカの大統領であり、この呼称の域にはまだはるかに及ばない。
 (参照)ガンジーを虚仮にしたオバマ大統領 広島・長崎「平和宣言」批判 オバマ大統領の新軍国主義と朝日の海自派遣扇動 オバマ核廃絶発言と長崎の平和運動 オバマ大統領と国益と南アジア オバマ大統領の新軍国主義と朝日の海自派遣扇動 無節操なオバマあやかりイベント

「銃をもつガンディー」――あるいは、ひょっとしてこの呼称で呼ばれてもよいかもしれないと思わせるギリギリの域にいるのが、われらがアルンダティ・ロイだ。鋭利な言葉を縦横無尽に駆使して不正義と果敢に戦う作家、インド体制派にとってもっとも危険な知識人。そのロイが、『ゲルニカ』のインタビューにおいて、ガンディーを尊敬するにもかかわらず、なぜ銃を取らざるをえないか、このギリギリの問いに真正面から向き合い、誠実に答えようとしている。
 ■Arundhati Roy, “The Un-Victim,” Guernica, Feb. 2011

1.愚劣な質問
『ゲルニカ』のインタビュアー(Amitava Kumar)は、まず多くのインタビューを受けてきたロイに対し、愚劣な質問(stupid questions)と思ったのはどのような質問か、と問いかける。

「ロイ: かつて私はチャーリーローズ・ショー(Charlie Rose Show)に招かれ出演したことがある。彼はこう質問した。『アルンダティ・ロイさん、インドは核兵器を持つべきだと考えますか?』 そこで私はこう答えた。『インドは核兵器を持つべきだとは思いません。イスラエルも核兵器を持つべきだとは思いません。アメリカも核兵器を持つべきだとは思いません。』 『いいえ、そうではなく、インドは核兵器を持つべきだと思いますか、と質問したのです。』 私は全く同じように答えた。4回ほども・・・・。ところが、それは全く放送されなかった!」

あらかじめ想定していた回答を引き出すための質問、これはたしかに愚劣だ。次に、前後関係を棚上げにし、想定した回答を引き出そうとする質問。

「ロイ: 『マオイストは学校を破壊し、子供たちを殺している。こんなことが許されますか? 子供たちを殺すのは正しいことですか?』」

マオイストだろうが誰だろうが、子供を殺すのが悪であることは自明だ。その自明なことを答えさせることによって、質問者は、子供を殺すことは悪→子供を殺すマオイストは悪→ロイのマオイスト支持は誤り、という三段論法でロイをやりこめようとしているのだ。

これも愚劣な質問だ。人殺しは悪か、と問われたら、誰だって「人殺しは悪だ」と答えるに決まっている。しかし、現実にわれわれが直面する真の問題は、状況により人を殺さざるをえないときがあるのではないのか、という問いである。これなら本物の質問だ。ところが、腹に一物ある質問者は、状況も前後関係も棚上げして人を殺すのは悪かと質問し、悪だと答えさせ、それをもって人を殺さざるをえなかった人々を一方的に断罪しようとするのである。これも愚劣な質問である。

「ロイ: 愚劣な質問に答えるのは難しい。とてもとても難しい。愚劣は特有の方法で人を打ち負かす。とくに時間がなく、時間が貴重なときは。」

たしかに、そうだ。愚劣な質問は、本物の問題に対峙する勇敢な人々の誠意を踏みにじるものである。

(C)谷川昌幸

Written by Tanigawa

2011/02/23 at 08:18

ガンジーと高畠通敏の平和論

谷川昌幸

市民派政治学者・高畠通敏の平和論が出版された。立教大学での講義を起こしたもので,読みやすく,示唆に富む好著だ。
 
高畠は行動的な政治学者であった。インドのガンジー塾に1カ月参加し,裸足で歩き,断食し,アウトカーストの家に泊まって蚊責めに遭い(蚊も不殺生),こうして非暴力抵抗の運動を身をもって体得した。

 ベトナム戦争が始まると,反戦平和運動を立ち上げ,これを「ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)」と名付けた。イデオロギーや組織主導ではない,市民の反戦平和運動である。

 高畠は「運動の政治学」において,運動とは「身体を運び動かすことによって相手の心を動かすこと」と定義した。これは厳しいパシフィズムである。権力者,指導者らは,「自分の身体は少しも動かさず,高いところに座って口先だけで人の身体を左右する」。これに身体をもって抵抗するのが,平和運動だという。事実,ガンジーは,自分の身体をもって,イギリスの心を動かした--

 「私(総督)はガンジーを何回も投獄した。しかしガンジーは私の心を征服した。ガンジーが(獄中で)つくったサンダルは私の一家,子々孫々に伝える記念品である。」

 高畠の参加したガンジー塾では,学生たちに全員が一斉に戦車の前に飛び出し寝ころぶ訓練をしていたという。バラバラだとひき殺されるが,集団で一斉に寝ころべば,それは出来ない。非暴力抵抗は,観念論のように聞こえるが,殺すよりも殺される方がましだという信念を抵抗運動にまとめることが出来さえすれば,それはガンジーやML・キングが実証したように,巨大な暴力にも打ち勝ちうる大いなる現実主義となる。

 しかし,いまの日本では,こうしたパシフィズムは嘲笑の種にしかすぎない。テレビ討論番組は,平和のためには暴力が必要との似非リアリストに占領され,開戦前夜のように威勢がよい。国会は共産党,社民党など,ごく一部を除けば,与野党とも軍隊容認派,軍事的平和貢献論者ばかりになった。9条改悪,本格的海外派兵,参戦は,目前だ。

 安全のための軍隊! 平和のための戦争! これは正気か狂気か? 派兵,戦勝でちょうちん行列が始まる前に,今一度,頭を冷やして,よく考えてみるべきだろう。

 ●高畠通敏『平和研究講義』岩波書店,2005年,¥2,100

151106

Written by Tanigawa

2005/10/12 at 10:03

カテゴリー: 平和

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