ネパール評論 Nepal Review

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権威と風刺:ガイジャトラに学ぶ

風刺は権威に比例する。権威が強大であればあるほど,風刺も鋭さを増す。たとえば,ネパールのガイジャトラ(牛祭)における風刺。

1.権威的秩序としてのヒンドゥー教王国
ネパールがまだヒンドゥー教王国であったころ,社会は権威により秩序づけられていた。ヒンドゥー教は国教であり,国王はビシュヌ神の化身,つまりは現人神であった。

この聖俗二大最高権威の下に,王妃や王族,首相と大臣,役人,そして実業家や社会の様々な有力者らも,すべて階層的に秩序づけられていた。ヒンドゥー教王国は,権威の秩序であり,庶民には聖俗二大権威を疑うことは許されなかった。そこでは,近代的な個人の自由や権利は,原理的には認められていなかったのである。

2.ガイジャトラの風刺
ところが,年に一度,ガイジャトラ(牛祭)の数日間は,いわば無礼講,国王・王妃から,首相・大臣,政府高官,そして街の有力者らまで,ありとあらゆる権威が風刺の対象とされていた。上品な機知に富む洗練された風刺もあれば,下品なエログロ風刺まで,何でもあり。街中,風刺だらけ。大権威,小権威のお歴々は,恥ずかしくて,新聞・雑誌を開くことも,街に出ることもできないのでは,と心配するほどのすごさ。この有様を初めて見たときは,こんなことをしでかして本当に大丈夫なのか,とビックリ仰天したものだ。

しかし,少し考えればわかることだが,これは権威の側の自信と余裕のなせることに他ならない。日常生活において,人々は大小さまざまな権威に服従している。(権威については,なだ・いなだ『権威と権力』参照) しかし,それだけでは庶民の間に不満が鬱積していき,いずれ爆発し,権威が攻撃され,権威的秩序は崩壊してしまう。そこで権威の側は,日常生活で庶民が権威に服従する代わりに,非日常の時空を設定し,これをお祭りとし,その期間中は,ありとあらゆる権威を風刺してもよい,ということにしたのだ。しかも,権威の側からすれば,自由な風刺を通して,庶民の「本音」や日頃の不平不満を探ることもできる。一石二鳥。

ガイジャトラ風刺は,だから風刺をすらも許容するという権威の偉大さ,度量の大きさを示すものに他ならない。そして,庶民の側も,非日常的なガイジャトラ風刺の無礼講は,日常生活における礼の尊重=権威信従の代償であることを十二分にわきまえていたのである。

3.民主化による風刺衰退
ところが,ガイジャトラ風刺は,ネパールが世俗的な共和国になり,民主化が進むと,急速に衰退していった。今もあることはあるが,質量ともに,かつての風刺には,はるかに及ばない。

世俗化と民主化により,あらゆる権威が地に落ち,本気で風刺するに値するほどの権威がいなくなってしまった。風刺は非日常的なタブーやぶり。タブーなきところ,風刺もない。
  [参照] 国王隠棲とガイジャトラ漫画の低調

4.中心的権威の側からの「風刺の自由」擁護?
こうした観点からみると,フランスにおける反テロ運動には,どこか違和感を感じざるをえない。ムハンマド風刺画関係者殺害については,許されないことは言うまでもないことだから,言わない。

私が違和感を覚えるのは,現在のフランスの反テロ運動からは,「中心」ないし「権威」の側にいるという自覚ないし反省がほとんど感じられないからである。たとえば,フランス政府ホームページの「反テロ行進」記事(1月12日)には,次のような写真が大きく掲示されている。
   
「世界の中心パリ」,あるいは「世界の首都パリ(The capital of the world)」(仏政府HP,1月12日)。自分たちこそが「中心」であり「権威」だと,世界に向かって誇示しているように見える。地理的あるいは社会的な「周縁」にいる人々には,「中心」からの非難攻撃と受け止められても仕方あるまい。こうした強者の側の自己中心主義こそが,テロを招く要因の一つとなっているのではないだろうか?
  [参照] 表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/19 at 14:56

表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

フランスのムハンマド風刺画掲載紙(シャルリー・エブド)襲撃事件(2015年1月7日)は,現代民主主義社会の根幹に関わる難しい問題である。「表現の自由は無限定だ」とか「言論には言論で」といった形式論理の「正論」で応えても,それは空論というよりはむしろ,より根源的な問題の隠蔽に他ならず,決して問題の真の解決にはならないであろう。
150117 ■仏政府HPより

現代社会においても,言論や表現は無制限どころか,実際には法的あるいは社会的規制が無数にある。名誉毀損,プライバシー侵害,危険行為煽動など,言論・表現の自由の乱用は許されない。これは常識だ。またヘイトスピーチやナチス賛美のような言論・表現も,多かれ少なかれ禁止している国が少なくない。では,もしそうであるなら,なぜ信者に耐えがたい苦痛を与えるようなムハンマド風刺は,許されなければならないのか?

言論・表現の自由は,本来,弱者や少数派が強者や多数派に対して抵抗するための武器である。力は強者・多数派のものであり,弱者・少数派は力では勝ち目はない。だから,弱者や少数派には,言論・表現をもって強者や多数派に抵抗する自由や権利が認められているのである。他方,強者や多数派には,言論・表現の自由をことさら保障するに及ばない。彼らは,事実として,自分たちの考えや意見を押し通す優越した力をもっているからである。

このように,本来,主張され守られなければならないのは弱者・少数派の言論・表現の自由であるが,しかし,この自由は民主化とともにますます保障が困難になってきている。なぜなら,民主社会では,多数派が権力を握り,多数意見が「正義」「正論」とみなされているからである。

いや,そればかりか,「言論・表現の自由」という場合の「自由」の概念それ自体からして,現代社会では強者・多数派によって形づくられてしまっており,彼らはその自分たちの「自由」概念を使って弱者・少数派を抑圧支配するのである。

そのことは,強者・多数派には意見を形成し宣伝普及させるための様々な前提条件(教育・資金・メディア等々)が十分に整っているのに,弱者・少数派にとってはそうではない,という事実をみれば,一目瞭然である。

現代社会の強者・多数派が「言論・表現の自由」を大上段に振りかざし,「自由を守れ!」と叫ぶとき,それはたいてい社会の弱者・少数派を抑圧し黙らせるためである。トクヴィルやJ・S・ミルが警告した「世論の専制」「社会的専制」である。

もっとも,強者/弱者,多数派/少数派といっても,それはあくまでも相対的な区別である。社会や人間関係は多元的・複層的であり,ある人が同時に社会関係Aでは強者・多数派,社会関係Bでは弱者・少数派ということも少なくない。言論・表現の自由が守られなければならないのは,この相対的弱者・少数派に対してである。

では,今回のムハンマド風刺画事件は,どう見るべきであろうか? 問題は単純ではない。現代の世界社会全体から見ても,ヨーロッパ社会から見ても,掲載週刊紙は強者・多数派の側に立っているか,あるいはそちらに近いように思われる。しかし,もしイスラム教原理主義により抑圧されている人々の側に立っているといえるとするならば,掲載週刊紙は弱者・少数派を代弁しているということにもなる。

掲載週刊紙は,実際には,おそらくこれら両側面を併せ持っているのであろうが,これまでの報道を見ると,その限りでは,この週刊紙は現代世界の強者・多数派の側からムハンマド風刺画を掲載したという印象は否めない。先進国・日本の一市民たる私ですらそう感じるのだから,ましてや途上国や周縁化された地域のイスラム教徒たちがそう感じたとしても,それはやむをえないであろう。

言論を暴力で封じることは,もちろん許されない。が,その「暴力」とはなにか? 現代平和学の権威,ガルトゥング博士は,暴力には「直接的暴力」と「構造的暴力(間接的暴力)」があるといっている。暴力は許されない,という場合の「暴力」は,これら二つの暴力のいずれも許されないということである。そして,「平和」とは,この直接的暴力と構造的暴力のいずれもがない状態のことに他ならない。この平和概念,暴力概念は,いまでは国連でも西洋でも広く認められている。

もしそうだとするなら,言論・表現を「直接的暴力」で封じるのが許されないのと同様,それを「構造的暴力」で間接的に封じることもまた許されないはずである。ところが,先進諸国の「表現の自由」大合唱は,彼ら自身も認めている「構造的暴力」の問題にご都合主義的に目をふさぎ,もっぱら「直接的暴力」のみを非難攻撃しているように見えて仕方ない。直接的暴力は残虐だが,構造的暴力はそうではない,とでも強弁するつもりだろうか? 

[参照]
宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件
文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動
前田朗,「私はシャルリではない。テロの挑発をやめよ」-2015年をどう闘うか(『関西共同行動』ニュース67号2015年1月31日)

谷川昌幸(C)

宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件

1.信仰と「表現の自由」
世界ヒンドゥー協会(WHF)のネパール急進派・ヘムバハドール・カルキ(Hem Bahadur Karki)派が,9月11日カトマンズ市内の画廊に押しかけ,ヒンドゥーの神々を冒涜したとして,画家マニシュ・ハリジャン(Manish Harijan)を殺すと脅迫した。

「表現の自由」は世界的に確立された権利であり,ネパール暫定憲法第15条でも明確に保障されている。カルキ派によるハリジャン脅迫は,「表現の自由」への暴力による攻撃であり,それ自体,許されるべきものではないが,一方,「表現の自由」も無制限ではなく,他の自由や権利を侵害しないための規制ないし権利間の調整が避けては通れないこともまた事実である。

これは,今回のような宗教との関係においては,特に難しい,やっかいな問題となる。人が熱心に,誠実に信仰すればするほど,信仰対象は神聖なものとなり,みだりに論評してはならないもの,タブーとなる。一方,表現は,様々な形で隠れているもの,隠されているものを顕わにすることをもって,その本質とする。したがって,宗教についても,信仰により信仰対象が神聖化されればされるほど,表現はそこに関心を持ち,秘密の暴露ないし顕在化への意欲をそそられることになる。

これは,本質的な対立である。不可知なもの,あるいは知るべきではないものへの心情的な「不合理な」信仰と,タブーをタブーであるからこそ暴こうとせざるをえない世俗的な「合理的な」表現の自由とは,結局は,両立しないと考えざるをえない。

2.イスラム教と「表現の自由」
現在,信仰と「表現の自由」が最も激しく対立しているのが,イスラム教に関してである。『悪魔の詩』(1988)事件では,著者ラシュディはホメイニ師により死刑宣告を下され,いまでも330万ドルの報奨金がかけられている。日本語版訳者の五十嵐筑波大学助教授は1991年,大学内で何者かに殺害されてしまった。

2005年には,デンマーク紙掲載のムハンマド風刺画がイスラム教冒涜とされ,デンマーク大使館などが襲撃された。

そして,この9月には,アメリカで制作されたムハンマド風刺映像がネットに掲載され,世界中で大問題になっている。中東,東南アジアを中心に世界各地で反米デモが拡大,リビアのベンガジでは米領事館が襲撃され,米大使が殺害された。戦争にすらなりかねない深刻な事態である。

そのさなか,フランスでもムハンマド風刺画が雑誌に掲載され,激しい反フランス・デモが世界各地で勃発,フランス政府は,在外公館や仏人学校の閉鎖に追い込まれている。

信仰と理性,聖なるものへの服従とタブーなき批判の自由――これら二者は,いずれも人間存在にとって不可欠のものであり,いずれがより根源的,より重要ともいえない。比重の置き方は人それぞれ,生き方の問題というしかない。イスラム教と「表現の自由」の対立は,その人間性の根源にある問題の現代における最もラジカルな顕在化であり,解決は容易ではないと覚悟せざるをえない。

3.ヒンドゥー教と「表現の自由」
この問題がやっかいなのは,火をつけやすいこと。すぐ火がつき,飛び火し,類焼する。ヒンドゥー教も例外ではなく,ネパールでは先述のハリジャン脅迫事件が起こった。きっかけは,彼の絵画展:

■マニシュ・ハリジャン「コラテラルの出現」 シッダルタ絵画ギャラリー(カトマンズ)8月22日~9月20日

(Siddhartha art gallery HP)

「コラテラル」とは難しい表現だが,何かに何かが加わり何かになる,何かが起こる,という意味だろう。展示作品のうち11作品が,ヒンドゥーの神々を西洋風に戯画化したもの。猿神ハヌマンが酒を持っている作品もある。

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(The Radiant Star HP)

これらの作品は,たしかに,あまり上品とはいえないが,それほど過激ではない。正直,私には,これらの作品の良さがよく分からない。が,それは趣味の問題。ハリジャン自身は,これらの作品は「グローバル化の諸相を通して,東洋と西洋の文化を融合させること」を意図したものだと説明している。

ところが,WHFカルキ派は,これらの絵画をヒンドゥー教冒涜だと激しく非難し,ギャラリーに押しかけ,ハリジャンを殺すと脅し,展示責任者のサンギータ・タパ学芸員に対しても,絵画を焼却しあらゆるメディアを通して謝罪をせよと脅した。

騒ぎが大きくなったので,カトマンズ警察が派遣され,郡長官の命令によりギャラリーを閉鎖させ,ハリジャンとタパを呼びだし,事情聴取した。警察は,逮捕せよというカルキ派の要求までは容れなかったが,ハリジャンとギャラリーの「表現の自由」を守るという明確な態度もとらなかった。

その結果,ハリジャンとタパは,展示2作品(どれかは不明)を撤去し,今後はそのようなヒンドゥー教冒涜絵画は展示しないという文書に署名してしまった。彼らは,ヒンドゥー右派とその意をくむ行政当局の圧力に屈服せざるをえなかったのである。

4.形式的「表現の自由」擁護論の限界
このハリジャン脅迫事件が起こると,ユネスコ・カトマンズ所長のアクセル・プラテ氏が「表現の自由」を尊重せよ,との声明を出した。芸術作品が,たとえ宗教や倫理の価値観に反することがあろうとも,それを理由に暴力をもって反撃することは絶対に許されない。解決は,「自由な議論」によるべきだ,というのだ。

ネパリタイムズ社説(#623, Sep21-27)も同じ立場をとる。表現の自由は,他の自由や権利を侵害してはならないが,その限界は文化ごとに異なる。考慮すべきは,国家の安全,社会の調和,名誉毀損,ポルノ規制などだが,いずれにせよ暴力による脅迫や検閲は認められない。

「マニシュ・ハリジャンに描く自由を認める一方,それにより感情を害されたと感じる人びとには非暴力で抗議する自由を認めなければならない。民主主義では,感情を害されたからといって,殺すと脅すことは許されない。国家は,暗殺脅迫者ではなく,芸術家をこそ守るべきである。」(Nepali Times,#623)

これよりもさらにハト派に徹しているのが,今日の朝日社説「宗教と暴動・扇動者を喜ばせない」(9月26日付)。社説は,「言論の自由があるといっても,特定の宗教に悪意をこめ,はやして喜ぶ商業主義は,品のいいものではない」といいつつも,「他者による批判を自らの尊厳への攻撃と受けとめ,宗教をたてに暴力に訴える。狭量な信徒が陥りがちな短絡が,今回の暴徒たちにもうかがえる」と述べ,言論の自由・表現の自由を寛容に認めている。

こうした「表現の自由」を守れという主張は至極もっともであり,非の打ち所のない正論である。特に,強者の側が弱者の「表現の自由」を力により制限しようとする場合には。しかし,問題は,こうした正論が現代においては多くの場合,形式論ないし高尚なお説教あるいは精神論にとどまり,ムハンマド冒涜の場合と同様,ヒンドゥー教冒涜の場合にも,それだけでは対立の解決にはあまり役立たないという点にある。

そもそも「表現の自由」を定めた世界人権規約第19条にも,ネパール暫定憲法第15条にも,多くの留保がつけられており,それらを利用すれば,「表現の自由」は必要な場合にはいつでも制限できる。ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に抗議している人びとは,彼らの重要な自由や権利が侵害されているのに,国家や国際社会は,形式論理のきれい事を言うだけで,そうした留保条項を使って彼らの権利や自由を本気で守ろうとはしていないと考えて怒り,やむなく実力行使に出ている,といえなくもない。自由や権利の形式的な保障は,つねに社会的強者の側に有利である。

朝日社説は,この問題を脳天気に棚上げしている。社説は,表現者側に「品」や「心得」を求めるだけで,「表現」による被害の具体的な救済については何も語っていない。

しかし,「言論の暴力」というように,「表現」も暴力であり,また暴力には直接的暴力だけでなく間接的な構造的暴力も含まれることは,いまや常識である。構造的暴力としての「表現」暴力の規制を自主的な「品」や「心得」に丸投げしておきながら,一方的に,直接的暴力による自力救済を上から目線で声高に断罪してみても,説得力はない。

5.天皇冒涜に堪えられるか
日本人の多くは,朝日社説もそうだが,ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に激昂し激怒する人びとを狂信的とか原理主義とかいって冷笑するが,それは事件が今のところ余所事,他人事だからにすぎない。

しかし,近時の情勢からして,天皇が風刺の対象とされるのもそう遠いことではあるまい。天皇・皇后や他の皇族が,不道徳に,エロチックに,あるいは下劣にカリカチュア化され,メディアで弄ばれるようになったら,日本人はどうするか? あくまでも冷静に表現には表現で,言論には言論で,などと高尚なことをいっていられるだろうか?

たぶんダメだろう。日本人の多くが激昂し,天誅を下せなどと,わめき始めるに違いない。

ムハンマド冒涜事件もヒンドゥー教冒涜事件も,決して他人事ではない。言論には言論で,などといったわかりきった形式論理のオウム返しではなく,「表現の自由」が他の自由や権利と対立した場合,具体的にどうするかを,自分の問題としてもっと真剣に考え,取り組むべきであろう。

【参照資料】
Nepali Times, Sep.12 and Sep.21-27,2012
ekantipur, Sep.12, 2012
UCA News, Sep.13, 2012
The Radiant Star, Sep.15, 2012
Kathmandu Contemporary Arts Centre, http://www.kathmanduarts.org/Kathmandu_Arts/KCAC12-mann.html
Siddhartha art gallery, http://www.siddharthaartgallery.com/cms/index.php

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/26 at 20:47

国王隠棲とガイジャトラ漫画の低調

谷川昌幸(C)
ガイジャトラ(牛祭り)漫画が低調,面白くない。以前なら,王族や有力政治家を徹底的に皮肉った,低俗,悪趣味,毒山盛りのガイジャトラ紙誌が街にあふれていたのに,今年はほとんど見かけない。なぜは?

おそらく国王がバラジュの森に隠棲し,皮肉る権威の総本山がいなくなったからだろう。民主化万歳といいたいところだが,そうともいえない。

このまま共和制になれば,政治家が国家元首になり,権威となる。その権威と権力を合わせ持つ政治家元首が,国王のようにガイジャトラ漫画の猛毒攻撃に耐えられるか?

民衆の人気に依存する政治家の場合,一般にそのような低俗,悪趣味の猛毒攻撃には耐えられず,たいてい弾圧を始める。ネパールの作家,出版社は,早くもそれを察知し,自己規制を始めたのではないか? めでたいような,めでたくないような。

写真(上):ガイジャトラ特集雑誌の表紙。ギリジャ首相が国王、プラチャンダ議長が王妃に擬されている。意味深。
写真(下):ガイジャトラ漫画の一部
 

Written by Tanigawa

2007/09/02 at 16:50

カテゴリー: 国王, 文化, 民主主義

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