ネパール評論 Nepal Review

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安倍首相の国連演説とカタカナ英語の綾

安倍首相が9月25日,国連で,また英語演説をした。英語は,ほとんどの日本人にとってチンプンカンプンの外国語であり,母語ではない。その異国の言語を,日本国元首たる首相が,国連という公の場で日本国民を代表し演説する場合,なぜ使わなければならないのか?

140928 ■国連演説(官邸HP)

1.取り戻すべきは日本語
安倍首相は,「日本を取り戻す」を信条とする愛国主義者だ。では,その取り戻すべき「日本」とは何か? 答えは様々でありうるが,もっとも核心的なものは「日本」をして「日本」たらしめている「日本文化」であり,その核心の核心が「言語」,つまり「日本語」だ。多くの日本人にとって,日本語は祖先から連綿として受け継がれてきたかけがえのない「母語」なのだ。

むろん,蛇足ながら誤解なきよう述べておくと,日本語以外の言語を母語とする日本人も,権利義務において,日本語を母語とする日本人と完全に平等であり,何ら差別されるはずはない。それを当然の前提とした上で,日本国元首たる首相が国連や他の公の場で日本国民を代表して発言する場合,便宜的にどの言語を選択し使用すべきかといえば,それは圧倒的多数の日本人の母語であり首相自身の母語でもある日本語をおいて他にはありえない。ほとんどの日本人が理解しえない外国語で,自分たちの代表たる首相が国連や他の国際会議の場で演説する――国民にとって,これほど卑屈で惨めなことはあるまい。

2.内外二枚舌の危険性
安倍首相は,国内向けには「日本を取り戻す」を信条とするコワモテ愛国主義者だが,一歩,外に出ると,英語帝国主義国に「日本を差し出す」お人好しの従属的「国際主義者」に豹変する。首相には,国内向けの舌と外国向けの舌がある。内外二枚舌!

世界各地において,少数派文化集団・言語集団が,自分たちの文化=言語=魂を守るため,長年にわたって艱難辛苦,どれほど苦しい闘いを強いられてきたか? 「国際派」の安倍首相が知らないはずはあるまい。

にもかかわらず,安倍首相は,自ら進んで,嬉々として,自らの母語=魂を英語帝国主義国に差し出す。国際社会で自国の母語すら使えない情けない国が,安保理常任理事国のイスを要求する? チャンチャラおかしい。日本国元首(=首相)たるもの,堂々と日本語で演説し,有能な専門家に国連公用語に正確に通訳してもらうのが,筋だ。(現在の国連公用語は差別的であり,国連自身の多文化共生理念に反するが,この問題については別途論じる。)内容のある演説なら日本語でも(通訳を通して)傾聴され,無内容なら英語でも居眠りされる。

安倍首相の内外二枚舌は,国内政治的には,十分に計算されたものだ。今回の国連演説でも,たとえば――
  [英語演説]    [政府日本語訳]
 ”war culture” ⇒⇒ 「ウォー・カルチャー」
 Proactive Contribution to Peace ⇒⇒ 積極的平和主義

国連英語演説の”war culture”が,国内向けの日本語訳では「ウォー・カルチャー」。これは断じて日本語ではない。なぜカタカナ英語にしているのか?

“war culture”は,いうまでもなく本来の「積極的平和(positive peace)」主義において使用されてきた概念である。ガルトゥングらは,平和の反対概念を「暴力(violence)」と捉え,その暴力には「直接的」「間接的(構造的)」「文化的」の三層があると考えた。これらのうちの「文化的暴力」は,最も基底的なものであり,戦争ないし暴力を容認したり是認したりする文化,つまり「平和の文化(culture of peace)」の反対概念たる「暴力の文化(culture of violence)」ないし「戦争の文化(culture of war)」のことである。では,もしそうなら,なぜ日本政府は「戦争文化」ないし「戦争容認文化」と訳さないのか?

一般に,行政がカタカナ英語を使うのは,ズバリ,本来の意味を誤魔化したり微妙にずらしたりして,国民を行政の望む方向に誘導するためである。「ウォー・カルチャー」もしかり。安倍首相が,「戦争容認文化」「戦争是認文化」の旗手たることは,国内では誰一人知らない人はない。それなのに国連演説では,世界世論に迎合するため――

Japan has been,is now, and will continue to be a force providing momentum for proactive contributions to peace.Moreover,I wish to state and pledge first of all that Japan is a nation that has worked to eliminate the “war culture” from people’s hearts and will spare no efforts to continue doing so.(国連演説英語原文)

と,大見得を切ってしまった。正確に訳せば,「人々の心から“戦争文化(戦争容認文化・戦争是認文化)”を除去する」となる。が,そう訳してしまうと,国内ではまさしく「戦争文化」の旗手たる安倍首相が困ったことになる。明々白々,丸見えの自己矛盾,自己否定だ。そこで知恵者・日本行政は例の手,カタカナ英語を繰り出した――

「日本とは、これまで、今、この先とも、積極的な平和の推進力である。しかも人の心から『ウォー・カルチャー』をなくそうとし、労を惜しまぬ国であると、まずはそう申し上げ、約束としましょう。」(国連演説政府訳)

「ウォー・カルチャー」は英語でも日本語でもない。それは,”war culture”でも「戦争文化」でもない。そして,その限りでは,それは「誤訳」ではない。

しかし,このようなカタカナ英語による内外二枚舌の使い分けは,いずれ必ず露見する。日本政府の信用は根底から失墜し,世界社会からも日本国民からも見放されてしまうであろう。

もう一つ,今回国連演説でも,「積極的平和主義」の誤魔化しが繰り返された。
 [国連演説] a force providing momentum for proactive contributions to peace
    ⇒⇒[国内向け政府訳] 積極的な平和の推進力
 [国連演説]Proactive Contribution to Peace
    ⇒⇒[国内向け政府訳] 積極的平和主義
この点については,すでに批判したので,参照されたい。
 [参照]自称「右翼軍国主義者」の「積極的平和主義」:安倍首相の国連演説

3.英語帝国主義国の精神に支配される日本国の身体
今回の国連演説で,安倍政権の危険性がさらに明白となった。国内では「日本を取り戻す」コワモテ愛国主義者,外国では英語帝国主義にひれ伏し日本の魂=日本語を売り渡すよい子ちゃん。

西洋合理主義によれば,情念や身体は魂(精神・理性)により支配されなければならない。とすれば,日本の身体も,当然,魂を売り渡した英語帝国主義国の意思により支配されねばならないことになる。カネだけではなく軍隊も出せといわれれば,はいはい分かりました,と国民の身体を差し出す。この屈辱の論理を誤魔化しているのが,英語演説とカタカナ英語と誤魔化し翻訳。

このままでは,「日本を取り戻す」どころか,いずれ日本は精神的にも身体的にも真の独立を失い,ヘラヘラ,カタカナ英語をしゃべる軽薄卑屈な三流従属国家に転落してしまうであろう。「日本を取り戻す」のであれば,まず日本語から始めよ! 

谷川昌幸(C)

中国「文化大革命」を見習え:ガルトゥング教授

カンチプールが,創刊20周年記念として,ガルトゥング教授の長文インタビュー記事を掲載している。
  ■「ネパールは専門家支配に向かっている」ekantipur, Feb.18.

記事はよくまとまっているが,内容は先の「ヒマラヤン・タイムズ」記事と大差ない。特に驚くべきは,教授の議論の非歴史性。

1.文化大革命を見習え
ガルトゥング教授は,ネパールは過去の紛争や革命から何も学んでいない,と厳しく批判し,こう述べている。

「中国は,文化革命後,開かれた。皆が文化革命を罵倒した。しかし,党にはいたるところに女性と若者がいた。中国は反乱を役立てることができたが,ネパールはできなかった。ネパールは[旧弊に]固着したままだ。」

しかし,この議論は変ではないか? 中国が大きく変わりえたのは,革命(破壊)が徹底していたからだ。犠牲者数は,抗日戦争で2~3千万人,革命後の大躍進政策失敗で約5千万人,文化大革命で数千万人ともいわれている。死者数ははっきりしないが,想像を絶する数であることは間違いない。それだけの犠牲により中国共産党は中国社会を革命的に変えたのだ。

これに対し,マオイスト紛争も悲惨にはちがいないが,1万3千の犠牲者数は,絶対的にも相対的にも中国の比ではない。しかし,その割には,わずか10年で女性や下位カースト/民族の解放は大きく前進した。ネパール・マオイスト,そして彼らと交渉した議会派諸政党の政治的能力は,むしろ高く評価されべきだ。ところが,ガルトゥング教授には,そうした歴史的評価の視点がまるでない。

2.政治的思考の欠如
また中国革命は,中央集権の一党独裁や少数民族(チベットなど)弾圧と一体のものである。中国共産党にとって,「人民」や「人民の意思」は,そうした一党独裁・少数民族弾圧のための名目にすぎない。いや,「人民」とか「人民の意思」とは,もともとそのようなものなのだ。

ところが,ガルトゥング教授は,中央集権や「カトマンズ・ゲーム」を容赦なく非難し地域の「草の根」への奉仕を唱えながら,都合の悪い歴史上の自明の事実は無視し,「ネパールの政治体制は人民(the people)に奉仕さえしていない」と断罪される。「人民の意思」による「人民」奉仕が「チベット弾圧」になる危険性など,まったく眼中にない。教授の議論は,およそ歴史的でも政治的でもない。

3.手段としての暴力の評価の甘さ
ガルトゥング教授は,構造的暴力としての不平等こそが直接的暴力をもたらすと主張され,「最も悲惨なコミュニティに着目し,資源を集中的に投入しそのコミュニティを引き上げよ」と提案される。これは適切な助言である。

ただ,その手段の評価の点で,教授は,一貫していない。中国共産党はいうまでもなく,ネパール・マオイストも,最下層コミュニティの引き上げには,暴力を手段として使用せざるをえないと考え,暴力革命を実行した。そして,暴力行使をより徹底させた中国共産党の方が,より徹底的に旧体制を破壊することができた。

ガルトゥング教授は,手段として暴力を用いることを峻拒される。ところが,革命評価については,ネパール・マオイスト革命よりも中国革命の方をはるかに高く評価される。これは,結果のつまみ食いであり,公平とはいえない。

4.連邦制など
その他の論点,すなわち連邦制,政党利己支配(party-o-cracy),専門家支配(technocracy),不平等,中央集権などについては,2月15日の記事をご参照ください。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/02/18 at 21:16

ガルトゥング提案の観念性と危険性

訪ネ中のガルトゥング教授のインタビュー記事を「ヒマラヤン・タイムズ」(2月14日)が掲載している。教授は平和学の権威であり,国際社会の平和政策にも絶大な影響力をお持ちだが,もし記事が教授の発言を正しく伝えているとするなら,教授のネパール政治分析と政策提案には落胆せざるをえない。いやそれどころか,ネパールにこれまで深く関与されてきたことを考えると,教授の諸提案はいささか無責任なような印象さえ禁じ得ない。

1.政党利己支配(partyocracy)
ガルトゥング教授によれば,ネパール政治は,マオイストの国政参加後も「政党利己支配(partyocracy)」の強化を除けば,他は何も変わっていない。

「一国家,二軍隊,王制と[国王の]直接専制支配はもはや存在しない。しかし,事態は以前と同じだ。憲法制定の見込みはなく,議会もなく,選挙された政府もなく,和平プロセスを担う機関もなく,不平等の改善もない。民主主義はなく,あるのは政党利己支配(少数の政党が議会制民主主義の諸制度を危険に陥れる政治的疾病)のみだ。」

この現状認識は,一般に広く共有されている。常識といってもよい。

2.アイデンティティ連邦制
そこで次に,少し具体的な話になる。まず連邦制だが,ガルトゥング教授は,以前からアイデンティティ(カースト/民族)による州区画を説かれていた。

教授は,そのアイデンティティ連邦制がいまも望ましいといいつつも,ここでは世界の25の連邦国家のうちアイデンティティ州区画をしているのは4カ国(印,マレーシア,ベルギー,スイス)だけだと認め,「ネパールにとって参考になる別のモデルは,マレーシアとインドの連邦制の組み合わせであろう」と提案されている。

意味不明。ひょっとすると,これは,インドもマレーシアも英植民地であったから,植民地時代の区画(スルタンやラージャの領地)を州区画とせよ,ということかもしれない。しかし,ネパールは,両国とちがい,有史以来独立国であり,植民地にはならなかった。あるいは,プリトビナラヤン・シャハ王の頃の小王国領を州区画にせよとでもいうのであろうか? まさか! よく分からない。

そもそも,マレーシアは立憲君主制のイスラム教国であり,中央権力が強い。また,インドもユニオン(連邦)権力が強く,単一制に近い連邦国家として知られている。ガルトゥング教授は,両国のどこがネパール連邦制のモデルになるといわれているのか,さっぱりわからない。

3.「カトマンズ・ゲーム」
中央政府権力の強いマレーシアやインドをモデルとせよと提案される一方,ガルトゥング教授は,カトマンズ中心主義(Kathmandu-game)を打破せよ,と主張される。

教授によれば,国王,ラナ家,封建領主らはみな,「カトマンズ・ゲーム」に明け暮れてきた。そしていま,政党が同じことをしている。制憲議会解散も憲法制定失敗も,カトマンズが地方を支配するための陰謀だ。「国王もラナ家も封建領主も一つのことではほぼ同じ考えだった――人民を搾取せよ。」

教授は,これは悪質なガンのようなものであり,直ちに治療しないと「新しい暴力」が始まるだろう,と警告される。

「もし治療するつもりなら,人民の三分の二の下層の人々を引き上げる必要がある。」

中央集権国家をモデルとせよといいつつも,カトマンズ中心主義がガンであり,治療しないと再び暴力紛争が始まると警告される。いったい,どうすればいいのだろうか?

そもそも人民の三分の二の生活を引き上げることができるのなら,誰も苦労はしない。ネパール人民の三分の二,つまり1800万もの人々の生活を,いったいどのような方法で向上させるのか? 強力な中央権力なしにそんなことができるのか? 教授からは,具体的な提案は何もない。

4.人民投票による連邦制
ガルトゥング教授の提案は,矛盾と観念論に留まらず,とんでもない危険へと人々を導いていく。つまり,政党は「草の根」に働きかけよ,と扇動されるのだ。

「どの政党も組織も政府も,草の根の人々とは結びついていなかった。」

連邦制は,少数の政党だけで決められるものではない。人民にはかり決めるべきだ。つまり「人民投票が方法としてはよいだろう」という。

しかし,これは変ではないか? 多数決では決められないから,あるいは決めてはいけないから,という理由でカースト/民族自治の連邦制を提案しておきながら,結局は,数で決めよ,というのだ。

たかだか601人の議会で決められなかったことが,どうして膨大な数(2千万以上?)の有権者人民によって決められるのだろうか? 決められるとすれば,手品か奇跡だ。具体的な州区画も権限分配も決めずに,「連邦制に賛成・反対」といった観念論投票をやるのだろうか? やってやれないことはないが,実際には,このような投票は無意味なばかりか,限りなく白紙委任に近く,危険でもある。

5.マオイストは地域を変革せよ
ガルトゥング教授は,政党は「カトマンズ・ゲーム」ではなく「草の根」と結びつくべきだという考えから,マオイストに対しても「草の根」への働きかけを提案される。

「マオイストへの私の提案は,ネパールを全体として変えようとするな,地域社会に焦点を当てよ,ということにつきる。」

教授は,マオイストがこれまで村や町で何をしてきたか,よくご存じのはずである。地域の「草の根」の人々は,マオイストが中央政界に活動の重点を移してくれたので,やっと一息ついているところだ。

それなのに,教授は,そんな「カトマンズ・ゲーム」はやめ,村や町の「草の根」の人々の生活に介入し,変革せよ,と提案される。

「草の根」民主主義が,ノルウェーや欧米の国々,あるいはひょっとすると日本でも重要なのはよく分かる。しかし,状況を無視して理念を押しつけるのは,「原理主義」であり,危険である。かつて各地に設立された「人民政府」こそが,マオイストにとっては「草の根」民主主義ということになるのではないだろうか? その原点に立ち戻れということなのだろうか?

6.最高裁長官の首相任命に反対
ガルトゥング教授は,最高裁判所長官の暫定首相への任命にもまた,人民の直接表明した意思によらないとして,真っ向から反対される。それは,「専門家(エリート)支配(technocracy)への動き」であり,「政党利己支配への反発(reaction)」にすぎないというのである。

しかし,この議論も,現実を見ない観念論である。第一に,「草の根」から「人民意思」がどう形成されるのか,そして,現在のネパールでそれがどこまで可能か,といった基礎的な議論がない。まさか,選挙(投票)により「人民」の「意思」が表明されるなどといった楽観論はおとりではあるまい。

選挙がある程度有効に機能するには,多くの前提条件が満たされている必要がある。アメリカやその意を体する国連は,選挙すれば「人民意思」が発見され,それに基づく統治は民主政治だなどと無責任なことをいい,それを途上国に押しつけてきたが,これは根拠なき「選挙民主主義(electoral democracy)」である。選挙過信や「人民意思」の実体化ほど危険なことはない。ガルトゥング教授には,「草の根」民主主義と「選挙」民主主義の間の十分な架橋がないように思われる。

第二に,現在のネパールの三権のうち,正統性をかろうじて残しているのは,大統領と最高裁判所長官だけである。議会(立法権)はなく,政府(内閣,行政権)は次の政府へのつなぎ役にすぎない。政党はもちろん,2008年4月選挙に基づくものにすぎず,現在の人民の意思など代表してはいない。2012年5月末以来の無議会政治によりバタライ首相が正統性をあらかた失ってしまったことは,これまたいうまでもない。

この状況で,選挙をするとすれば,結局,大統領の下での選挙か,それができないのであれば,次善の策として,最高裁長官あるいはその選任する者を「破綻国家の管財人」のようなものとして選挙を実施するしか,選択肢はあるまい。しかしながら,最高裁長官の場合,司法権・行政権分離の原則からすると難しい問題もあるので,やはり国家元首としての大統領の下での選挙が最善であろう。民意を代表しない諸政党の談合首相任命よりも,大統領の下での選挙の方が,正統性と透明性ははるかに大きい。

ガルトゥング教授は「専門家(エリート)支配」と批判されるが,政治の場では,大統領委任独裁や,それに準ずるエリート統治が選挙民主主義よりもはるかに安全で効果的なことが決して少なくない。

議会はなく,政党も民意を代表していないとすれば,現行憲法で正統性を持つ大統領が選挙管理政府を率いらざるをえないのではないだろうか。

7.政官民有力者とのカトマンズ会談
ガルトゥング教授は,滞在中に,カトマンズで,大統領閣下をはじめとする政府高官,政党指導者,市民社会リーダー,専門職団体リーダーらと会談されるという。地方の村や町での「草の根」の人々との対話の有無については,記事には記載されていない。

――以上は,あくまでも「ヒマラヤン・タイムズ」のインタビュー記事に基づく批評である。おそらく,記事は,ガルトゥング教授の発言を正確には伝えていないのであろう。後日,大幅な訂正記事が出るにちがいない。もしそうなら,改めて,教授の正確なお考えを紹介することにする。

【参照】ガルトゥング教授関連記事

谷川昌幸(C)

ガルトゥング「ネパールの危機」(再掲)

J・ガルトゥング氏のレポート「ネパールの危機:好機+危険」(2003年5月22日)を読んだ。4頁ほどの短文だが,ネパール・トランセンドの概略はつかめる。

1.ネパール・ワークショップ
ネパールでのトランセンドは,2002年7月,PATRIR/TRANSCENDによって始められ,全国へ展開され,その一環としてガルトゥング氏(G氏)も2003年5月16-20日,訪ネした。

2.8プログラムの実施
G氏の日程は,国家人権委員会(NHRC)により完璧に準備され,8プログラムが実施された。

No.1,7=リシケシ・シャハ記念講演。知識人,ネパール世界問題協会対象
No.2-6=主要当事者との対話。政党幹部,NHRC関係者,人権活動家,和平仲介者,政府要人,軍・警察幹部,政府和平交渉団,マオイスト和平交渉団。

3.直接暴力・構造的暴力・様子見
G氏によれば,紛争に対しては,大別すると,3つの態度がある。

(1)直接暴力を行使する党派
(2)構造的暴力の現状維持を図る党派
(3)「高貴な」,アパシーによる,あるいは無気力な様子見の多数派

4.M,K,TP
ネパール紛争の主要当事者は,マオイスト(M),国王=国軍(K),第三勢力(TP)の三者である。

G氏は,もしMとKの2者対立なら状況はいっそう悪かっただろうと考え,紛争解決への大きな役割を第三勢力のTPに期待する。

TP(Third Party)=主要政党(PP),市民社会(NGOなど),人民(People)

5.対話による平和
つまり,TPが一致協力して,MとKを交渉テーブルにつけ,Mとともに暫定政府を設立し,憲法を改正する。この方向に向け,人民(People)は街頭に出て圧力をかけ,また市民社会も強力に圧力をかける。Mには議会制民主主義を,Kには立憲君主制を宣言させる。

そして,MとKの兵士を武装解除し,彼らを保健衛生,学校・道路建設などの共同作業に就かせる。

以上が,停戦,対話,互譲,創造性の下に行われるなら,平和が実現する。

6.ネパール紛争の危険断層
G氏によれば,ネパールにはもともと紛争を引き起こす危険な断層が11カ所あった。

(1)資源枯渇,環境汚染,(2)ジェンダー差別,(3)青少年問題,(4)国王の政治権力,(5)国軍,(6)貧困,(7)少数派文化,(8)ダリット,(9)支配文化,(10)地域格差,(11)外国介入

G氏によれば,これらはすべて人権問題であり,いわゆる「マオイスト問題」ではない。したがって,それらには人権問題として取り組まなければならない。それには,以下のようなことが必要である。

・全党ラウンドテーブル,人権対話を組織し,停戦監視,人権実現を図る。
・スリランカのSarvodaya,インドのDevelopment Alternativesのような経験から学び,そうした活動を組織する。
・平和・人権のための大会議の設立。
・真実・和解のプロセスを進める。

7.いくつかの疑問
G氏のトランセンド提案は,包括的であり,試みるに値するものも多い。その反面,これを読んだだけでは,いくつかの疑問が残るのも事実だ。

(1)TPは平和勢力たり得るか?
G氏は,もしMとKだけなら,事態はもっと悪化していただろうと考えているが,私はむしろ逆だと思う。MとKの2項対立(G氏の最も嫌う構図)であれば,紛争は一方の勝利か両者の妥協でもっと早く解決していたのではないか。

私は,ネパール紛争を泥沼に引き込んだのはTPの無原則,無責任な行為だと考えている。

(2)「人民」の示威行動,市民社会の圧力は有効か?
G氏は,「人民」が街頭に出て圧力をかけ,また市民社会(NGO,労働組合など)が圧力をかけることにより,PP,M,Kを平和に導いていけると考えるが,私はそうではないと思う。

ネパール政治の病巣は,まさに街頭政治,圧力政治,つまり制度不信にある。これ以上,街頭政治,圧力政治に頼ったら,紛争はますます泥沼化し,収拾がつかなくなるだろう。

(3)人権問題か?
G氏は,「人権」を文化中立的,普遍的なものと考えているようだが,それは間違い。「人権」は,明らかに近代西洋的価値であり,ネパール伝統文化とは両立しない。

「人権」強要の痛みを考えず,それを普遍的価値としてネパールに押しつけようとしても,成功はしないだろうし,もし成功しても,それは文化的に望ましいこととは言い切れないと思う。

(4)分権は前進か?
G氏は,分権(devolution)や緩い連邦制(soft federation)を提案するが,それは近代国家を経た北側諸国の発想であり,ネパールには妥当しない。ネパールの課題は,むしろ強力な国家主権の確立である。

ネパールの悲劇は,国家権力が強すぎることにではなく,弱すぎることにある。

(5)母語教育の可能性?
母語教育は,本当に住民自身が望んでいるのか? それはむしろポストモダン西欧諸国のロマンチックな(はた迷惑な)失われた夢の強要であり,現実には少数派民族の差別強化,固定化になりはしないか?

(6)市民社会,NGOは機能するか?
G氏は,わずか5日間の訪ネ中に8つものプログラムが完璧に組織され,時間通り実施されたことにいたく感激されているが,これはセミナーがネパールでは効率的なイベントになっているからである。

その現状を見ると,NGOをさらに組織したり,会議を開催することにあまり多くは期待できない。NGO産業,セミナー興業が繁盛し,庶民には無縁の高級ホテルでの豪華パーティが増えるだけ。むしろ構造的暴力の拡大になるのではないか?

8.疑問を超えて
以上,あえてG氏のレポートへの疑問を述べたが,これはトランセンド法を否定したいがためではない。

ネパール紛争は10年もたつのに,他の方法ではこれを解決できなかったことは,歴然たる事実だ。トランセンド法についてはまだ読みかじった程度なので,まずは思うがままに疑問を提起し,これらを手がかりに,さらに学び,ネパール紛争へのトランセンド法の適用可能性を探っていきたいと思っている。

* Johan Galtung, The Crisis in Nepal: Opportunity + Danger, May 22, 2003. (Report to UNDP, Kathmandu and NHRC, Kathmandu)

(2006/04/03掲載)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/02/15 at 11:14

ガルトゥング訪ネと積極的非暴力の理念

平和学の権威ヨハン・ガルトゥング教授(トランセンド平和大学学長)が,ネパール開催の平和集会(2月10~18日)に参加され,また政官民各界有力者と意見交換される。

130209 ■ガルトゥング教授(http://www.transcend.org/)

ガルトゥング教授は,2003年5月,2006年10~11月にも訪ネされ,和平交渉,とくに包括和平協定の締結に重要な役割を果たされたといわれている。

現在,ネパールでは,マオイスト連立政府(バッタライ首相)の無議会統治がずるずると続き,挙国政府設立のための諸党合意がいつになるのか皆目見当もつかない。正式憲法もなく,最高裁など主要国家機関の構成員も減少しており,統治の正統性そのものが日々損なわれていく。国家存立の危機といってよい。

今回のガルトゥング教授訪ネの目的も,講演や意見交換などを通して平和構築への合意形成を促し,平和プロセスを前進させることだという。成果を期待したい。

ところで,ガルトゥング教授の平和学の核心は,平和的手段による紛争転換(トランセンド)による「積極的平和」の実現である。この平和学は,グローバル化時代の平和理念として,広く認められている。また,ネパール人は,「消極的非暴力」は得意だが,「積極的非暴力」は不得手だ,という批判も鋭く的を射ている。

 *消極的非暴力=negative non-violence. 市民的抵抗,デモ,非協力など。非暴力による抵抗
 *積極的非暴力=positive non-violence. 国家構築,平和構築など。制度や組織の積極的構築

しかしながら,その一方,ガルトゥング教授は,積極的平和(積極的非暴力)をどう実現していくか,という点では,やや具体性に欠ける嫌いがある。「平和を求めるなら,飢餓をなくせ」(Nepali Times, #626)といわれても,「では,具体的にはどうのようにして?」ということにならざるをえない。

また,教授の連邦制論は一種の「原理主義」であり,観念論の域を出ない。「各州は,資源と言語等の自決権を持つが,それでも一つの国民・一つの国家の部分として機能する」(同上)といわれても,「では,どのように州を区画するの?」とか,「無資源州はどうするの?」とか,「少数言語必修の生徒の就職は?」などと問われたら,答えようもない。

ガルトゥング教授には,制度としての「王制」と具体的な「国王」個々人とは区別すべきだとか,同性婚は欧米では必要だがネパールでは時期尚早だ,などといった極めて現実的・保守的な主張もある(同上)。各論に入れば,教授も現実主義者とならざるをえないのだ。

ネパールはいま,理念というよりは各論をめぐって議論が錯綜し,収拾がつかなくなっている。そもそも「積極的平和」「積極的非暴力」は,具体的な各論がなければ空虚な観念論にすぎない。それは、「消極的平和」「消極的非暴力」よりもはるかに複雑多様で、高度な政治力を必要とする。現実との妥協も避けられない。難しい課題だが、教授には,あえてその各論に一歩踏み込み,できるだけ具体的な平和構築のための政策提案をしていただきたい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/02/09 at 18:22

ガルトゥングの王制擁護論

1.ガルトゥングの訪ネ前インタビュー
ヨハン・ガルトゥングといえば,「積極的平和」や「トランセンド法」で知られる平和学の世界的権威だ。そのガルトゥングが,来年1月のネパール訪問をまえにインタビューに応じ,いくつか興味深い指摘をした。インタビューは下記ネパリタイムズに掲載。

▼Johan Galtung,Interview, “If you want peace, abolish hunger,” Nepali Times, #626, 12-18 Oct, 2012

2.王制の正統性
第一に注目すべきは,王制(君主制)についてだ。ガルトゥングの祖国ノルウェーは王国であり,立憲君主制・議院内閣制をとっている。ネパールについても,ガルトゥングは,このような立憲君主制の方が適切だと考えているようだ。

ガルトゥング:王制(君主制)についていうならば,正しい(正統性がある Legitimate)か否かは,ひとえに王制の在り方による。王制だから正しくないとは思わない。専制(despotism)こそが不正なのだ。国王個々人と王制そのものとは区別されなければならない。

ネパール人の多くは,王制そのものは支持していたと思われる。立憲君主制は,王制の象徴性と憲法による規制を両立させるものだ。マオイスト紛争期に,私はカトマンズのある警察署長と話したことがある。彼が言うには,マオイストの40項目要求のうちの39項目には賛成であり,したがってマオイストの断固取締には躊躇するほどであったが,それでも他の1項目,王制廃止には賛成できなかった。

マオイストの王制廃止要求は,一般の人々の思いからは外れるものであったと考えられる。」(Ibid)

ここでガルトゥングは,まず第一に,制度と人を区別せよ,といっている。これは常識であり,もし区別しないなら,ヒトラーを生み出した民主制は悪ということになってしまう。王制についても,ある国王が悪政を行っても,だからといって直ちに王制そのものが悪となるわけではない。王制と専制は峻別されなければならないということである。

ここでガルトゥングは,ネパールの王制復古を積極的に唱えているわけではないが,自国ノルウェーが王国であることもあり,立憲君主制には彼は好意的であるとみてよいであろう。

3.連邦制と国家統一
連邦制については,ガルトゥングは強く支持しているが,その根拠は,説明(ネパリタイムズ記事)の限りでは不明確だ。

ガルトゥングによれば,連邦制は,権力や資源を豊かなところから貧しいところに移転させるが,これが直ちに国家分裂をもたらすわけではない。各州は,資源自治権や言語教育決定権などを保有しつつも,「国家」や「国民」の一部として行動する。州は地理的区分だが,どの州も他州の権利を侵害できず,したがってその意味では,一つの国の部分として行動せざるをえない。だから,分裂とはならない。

このガルトゥングの連邦制擁護論は,記事が正確だとすれば,論拠薄弱であり,説得力がない。彼自身のこのインタビューにおける他の主張とも整合性がない。西洋諸国には,多民族途上国の連邦制への思い入れがあるのではないだろうか?

4.自由より食糧
これはインタビュータイトル(If you want peace, abolish hunger)となっている議論である。この部分を見ても,ガルトゥングが想像以上に保守的な考えをもっていることがよくわかる。

たとえば,ネパール暫定憲法は最高裁解釈では同性婚を認めているが,ガルトゥングによれば,そうした権利は西洋諸国では重要となっているが,ネパールではまだ最優先課題の一つであるわけではない。「ネパール人にとっては,日々の食事への権利の方がもっと重要であろう。一言でいえば,ネパール憲法は,もっと守備範囲を限定した憲法であるべきだ。」

このガルトゥングの忠告は,わからないわけではない。メシもまともに食えないのに,同性婚のような,最先端の権利をあれもこれもと追いかけ回してどうなる,憲法は身の丈相応の簡素なものにせよ,という忠告である。

それはそうだ。私もそう思うし,幾度もその趣旨の発言をしてきた。途上国では,自由権,社会権,参政権のいずれも満足には保障されていない。一気に,それらすべてを実現することは到底不可能なので,当然,優先順位をつけざるをえない。もしそうだとすると,同性婚などのような最先端の権利よりも,国家としていま努力を傾注すべきは飢餓救済などの基本的権利の保障だ,という議論は十分になりたつ。これは合理的,現実的な判断だ。

しかし,その一方,これは一種の途上国差別であり,無意識の優越感の現れといってもよいであろう。「まともにメシも食えず学校へも行けないのにケイタイをほしがってどうする」といった,上から目線の「おごり」である。

食糧にも事欠き,電気・水道・道路も普及していない途上国に行って,最先端の法・政治制度や最新の工業製品を宣伝して回るのはいかがなものかと思うが,その一方,現地の人々がそうした最先端・最新の制度や製品を求めることについては,それは彼ら自身の選択であり,見守るよりほかはあるまい。日本人だって,幕末維新の頃は,ずいぶん分不相応な新制度・新製品に飛びついていた。自戒したい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/10/14 at 15:06

カテゴリー: 国王, 憲法

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仏教の政治的利用:ガルトゥング批判

谷川昌幸(C)

このところネパールでは,仏教の政治的利用が目に余る。私も仏教徒であり,仏教は偉大な宗教の一つだと思うが,だからといってそれを政治目的で利用することは許されない。たとえば,このHPを見よ。

81106peacem1

81106peacem3

81106peacem2

これは,平和復興省(Ministry of Peace and Reconstruction)のホームページの一部だ。れっきとした国家機関が,仏陀をあちこちに掲げ,平和を訴えている。ヒンドゥー教もイスラム教も道教も出てこない。 「仏陀の国に平和を,流血なき国を」「ネパールとネパール人の皆の誓い,平和」 

これまでヒンドゥー教王政により仏教が差別され,冷遇されてきたことは事実だ。仏教徒の村で,ヒンドゥー教徒優遇への激しい怒りをよく聞いたことがある。しかし,だからといって,仕返しに,仏教を政治目的で利用してよいということにはならない。

この愚行にお墨付きを与えている――そう誤解されるような議論をしている――のは,平和学の権威ガルトゥング氏だ。手元にある著作をぱらぱら見ても,こんな記述が至るところにある。

    米国   アフガニスタン

D(2分法) キリスト教原理主義 イスラム原理主義

M(価値2元論) キリスト教以外は悪 アラーの教え以外は悪

A(最終戦争) タリバン,アルカイダの壊滅 米国への徹底的なテロ攻撃
                       (『平和を創る発想術』p.23)

「仏教は,個人の心や『集団的無意識』についてばかりでなく,あらゆる生命について説き明かしている深遠な心理学です。そこでは,どんな『超越者』の意思にも従う必要がありません。こうした『超越者』というものは,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の場合に明らかなように,それらを生み出した側の人間の特性をどうしても帯びているものです。/仏教は,その非暴力への強い主張,自然界を利己的に利用してはならないとする態度,巧妙な詭弁など全く含まない慈悲の精神など,世界的なエートスを生み出すための豊富な素材を備えており,しかもこれらはすべて,深い混迷にある今日の世界が切実に必要としているものです。」(池田大作/ヨハン・ガルトゥング『平和への選択』pp.229-230)

もちろんガルトゥング氏は,池田大作氏との対談においてですら(対談の政治的意味は別として),宗教の政治的利用を厳に戒めている。

「政治権力者が仏教を私物化して,宗教上の事柄に支配力を発揮し始め,それに仏教が従うとき,仏教はあまりにもたやすく六つの短所に陥ってしまいます。・・・・国教としての仏教,といった考え方そのものがすでに“名辞矛盾”に陥っています。」(同上,pp.198-199)

ガルトゥング氏自身は用心深く仏教の政治的利用を戒めているものの,氏のユダヤ教,キリスト教,イスラム教批判は強烈であり,読者の多くは,平和のためには仏教思想が必要だと受け取り,仏陀を掲げて政治活動をすることになる。

ネパールを見よ。いまや政府機関,NGOなど,いたるところで仏教が政治的に利用されている。平和復興省がその典型だ。ヒンドゥー教は平和の宗教ではなかったのか? キリストは絶対平和を訴えたのではなかったのか? イスラム教は他民族への寛容の宗教ではなかったのか? このような仏教の政治的利用が,平和に貢献するはずがない。

追加(2008.11.12)

ネットを見ていたら,不思議な抗議声明が出ていた。これはいったいどう解釈してよいのか? ガルトゥング氏自身が,池田大作氏との対談者として,批判するなり抗議声明を出すなりすべきではないだろうか?

-----以下転載-----

ガルトゥング発言の曲解引用への謝罪および名誉回復の請求
(2004/02/16)

神崎武法 公明党代表

浜四津敏子 公明党代表代行

 2004年1月23日、貴党の浜四津敏子代表代行は参議院において党を代表し、小泉首相 の 施政方針演説についての質問を行いました。その代表質問において、浜四津氏はガル トゥング博士の言葉を文脈を無視した形で引用を行ったと私たちは確信します。した がって 浜四津氏、および公明党に引用部分を撤回し、ガルトゥング博士に公式に謝罪を行う ことを求めます。

 浜四津氏の代表質問においては以下の発言が含まれています。

 このたびの自衛隊派遣の目的は、平和憲法に合致した人道復興支援であり、戦争や戦 闘を目的とするものでないことは論を待ちません。

 行動する平和学者として世界的に著名なガルトゥング博士は次のように言っていま す。「頭は徹して現実主義であれ、胸には理想主義の炎を燃やし続けよ」と。わが党 は、これからも「行動する平和の党」として、胸には平和・人道・人権の時代をつく る理想を燃やしつつ、すべての課題に徹して現場に立ち、現場の目線から現実の解決 策に挑戦してまいる決意です。

 ここで二点、注意を促さなければならない点があります。まず、第一にガルトゥング 博士は一貫してアメリカのイラク侵略および日本のイラクへの自衛隊派遣に反対で あったということです。したがって、アメリカ政府および日本政府の現在行っている 戦争行為を正当化する目的のための演説に用いるのはまったく妥当性を欠きます。第 二に、浜四津氏が引用した部分に続きガルトゥング博士は「現実に目を閉ざしても、 何の役にも立ちません。同様に、現実主義を超えて、理想主義を人間的に展開してい くことができない人達は、人類の進歩には貢献しないものです。」と前の発言を敷衍 しています。ガルトゥング氏の発言の全体を引用してみると、アメリカの対イラク政策をその初期の段階より支持してきた公明党は「現実主義を超える」ことに失敗し、 「人類の発展に 貢献する」ことに失敗したことは明白です。また、現在の公明党の アメリカ追随の外交政策が立党精神からかけ離れてしまっていることを深く憂慮しま す。

 この代表質問は国会という公の場での発言であるため、浜四津氏の発言は歴史に残る ことになります。ガルトゥング博士が現在および将来にわたって誤解を受ける可能性 を排除するため、私たちは上記のガルトゥング博士の引用部分を議事録より公式に削 除するとともに、貴党および浜四津氏が公式にガルトゥング博士に対し謝罪文を送 り、それを機関紙に掲載することを要求します。また、ガルトゥング氏に現在のイラ ク紛争に関する同博士の立場を公式に表明する場を機関紙上に提供する事を要求しま す。

敬具

                         行動する平和憲法のネットワーク
                           World Citizens Renouncing War

http://wcrw.org/html/galtung-quote.html

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Written by Tanigawa

2008/11/06 at 11:22