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ロイ『民主主義の後に生き残るものは』(3)

3.資本主義――ある幽霊の話

(1)墓穴を掘る資本主義
本書第3章は,マルクスの言葉で始め,マルクスの言葉で締め括っている。

▼“資本主義は,とマルクスは言っていた,「まさに巨大な生産と交換の手段をひねりだす,それはまるで自分の呪文で呼び出した闇世界の力をもはや統制できなくなった魔術師のようなものである」。”(46頁)

▼“マルクスは言っていた,「ブルジョアが生み出すのは何よりもまず自らの墓掘人である。その没落とプロレタリアの勝利は避けられない」。”(87頁)

資本主義はすべてを商品化する。自然も人間も文化も商品化し消費し尽くし,ついには自ら墓穴を掘る。ロイは,その資本主義の末期症状を,卓抜な比喩と事例を縦横に駆使し,容赦なく剔出していく。

(2)富の独占とメディア支配
人口12億人のインドでは,現在,上位100人がGDPの1/4を独占している。中産階級は3億人というから,9億人が下層・貧困層ということになる。

このごく少数の富裕層が支配するのがRIL,タタ,ジンダル,ヴェダーンタ,ミッタル,インフォシス,エッサールといった巨大企業であり,これらは商工業から報道,教育,福祉,医療まで,ありとあらゆる事業を傘下に収め活動している。

“たとえば夕夕だが、この企業は80カ国で100以上の会社を経営している。彼らはインドでもっとも古くもっとも大きなエネルギー会社として、鉱山、ガス田、鉄鋼業、電話とケーブルテレビとブロードバンドのネットワークを所有し、それにいくつかの場所では町全体を支配している。車やトラックの生産、タージ・ホテルチェーンとジャガー、ランドローバー、大宇、それにテトリー紅茶会社を所有、さらには出版社と本屋網とヨウ素塩の有名ブランド、化粧品の大会社ラクメの持ち主でもある。その広告標語が「我々なしであなたは生きていけない」となってもおかしくない。”(47頁)

これら巨大企業は,山や川や森あるいは土地といった,本来なら共有物かそこに住む人々のものを安価で払い下げさせ私有化により,住民を追い出し,巨利を得ている。そして,それに抵抗する者は,たとえば「マオイスト」とされ,「インドにおける最大の安全保障への脅威」として,あらゆる手段をもって徹底的に弾圧される。

“つい先ごろソニ・ソリという、バスタールで学校教員をしているアディヴァシの女性が警察につかまって拷問を受けた。石ころを膣に入れられ、毛沢東主義者たちの伝令であることを「自白」させられたという。世論が沸騰したので、彼女はコルカタの病院に送られて手当てを受け、そこでいくつも石ころが体の中から出てきたのだ。最近あった最高裁の聴聞会で、活動家たちがこの石ころをビニール袋に入れて提示した。その努力の結果がどうなったかというと、ソニ・ソリは投獄されたまま、他方で彼女の尋問を指揮したアンキット・ガルグという警察署長は、独立記念日に大統領から勇敢な警察官に与えられるメダルを授与されたのである。”(52-53頁)

どうしてこのような理不尽なことが許されるのか? その理由の一つが,大企業によるメディアの買収,あるいはメディア自身による多角企業経営である。メディアは,独立を放棄し,大企業の宣伝機関,世論操作機関となってしまった。

(3)企業の文化・社会事業
大企業は,ありとあらゆる文化・社会事業を行い,世論を操作している。ヴェダーンタの映画コンテスト,エッサールの「考えるフェスト」,タタ・スティールの文学フェスタなど。

“だが私たちのなかで最初の石を投げる罪人はだれなのか? 私ではない、なぜなら私も出版社からもらう印税で暮らしているからだ。私たちみながタタ・スカイを見て、タタ・フォトンでネットサーフィンをし、タタ・タクシーに乗って、タタ・ホテルに泊まり、タタのカップで夕夕紅茶を飲み、タタ・スチールでできたスプーンでかきまわす。タタ書店でタタ・ブックスの本を買う。「夕夕の塩を食べている」。我々は包囲されているのである。”(59頁)

(4)資本主義の手先としての財団
資本主義は,世論操作の巧妙な方法として,財団を使う。カーネギー財団,ロックフェラー財団,フォード財団など。たとえば国連,CIA,CFR(外交問題評議会),ニューヨーク近代美術館などは,ロックフェラー財団の援助を受けたか,現に受けている。

“膨大な資金とほぼ無制限の権限を持ちながら、税金を支払う必要のない法人が、会計説明責任もなくまったく不透明なままでいられる――経済的な富を政治的、社会的、文化的な資本に拡張し、お金を権力に変えるのにこれ以上うまい方法があるだろうか? 高利貸が自らの利益のごく一部を使って世界を支配するのに、これほど優れた方法があるか?”(63頁)

耳が痛い話しだ。日本でも,これは「企業」設立とはいえないが,例の「日本財団」が様々な文化・社会活動を活発に繰り広げている。特に最近では,平和研究・平和構築関係への浸透がめざましい。

私もかつてアスペン協会の行事に参加したことがある。いかにもお金がありそうな雰囲気で,貧乏人の私には居心地が悪く,1,2回出席しただけで,以後まったく参加していない。

(5)グラミン銀行批判
財団は,NGOにも注目し,貧困からさえも収奪し始めた。米国では,クレジット・ユニオンを支援し,労働者に過剰貸し付け,彼らを底なしの借金地獄に落とした。

そしてグラミン銀行。私も,この事業については,本当に大丈夫かと,いぶかしく感じていた。そもそも貧しくて借金もできない下層階層の人々に,連帯保証――相互監視――を条件に金を貸し付け,事業を始めさせる。周りは資本主義社会である。なかにはうまくいく人もいるであろうが,常識から考えて,大半は素人であり失敗するにちがいない。貧乏人が借金を背負い,返済できなくなったら,どうするのか?

“それから何年もたってから、この考え[クレジット・ユニオン]はバングラデシュの貧しい田舎へと流れつき、ムハマド・ユヌスとグラミン銀行が少額のクレジットを飢えた貧しい農民たちに与えることで壊滅的な結果をもたらす。インド亜大陸の貧しい人びとは、それまでも常に地元の村の高利貸バニヤの無慈悲な支配下で借金を負わされてきた。しかし少額貸付はそれさえも企業化してしまったのだ。インドにおける少額貸付会社は何百という自殺――アンドラ・プラデシュ州では2010年だけで200人が自殺した――の原因となっている。近ごろ日刊全国紙に掲載された18歳の女性の遺書には、自分の学費であった最後の150ルピーを少額貸付会社の執拗な従業員に手渡すことを強要されたとある。そこにはこう書かれている、「一生懸命働いてお金を稼ぐこと。借金をしてはいけない」。貧しさを使って儲けることもできれば、ノーベル賞をもらうこともできるのだ。”(68頁)

これは厳しい。ユヌスのグラミン銀行や他の善意の小規模金融事業に対し,これほど容赦ない批判がこれまであっただろうか? ロイの面目躍如といったところである。

(6)買収されるNGO
このように,資本主義が私有化,市場化を進め,政府支出を削減させればさせるほど,救貧や教育,福祉,医療など,本来なら政府の担うべき公的活動がNGOやNPOに委ねられることになる。

“すべてを私有化すること,それはすべてをNGOに任せることと同義である。仕事も食べ物もなくなれば,NGOが雇用の重要な提供主とならざるをえない。たとえその内実がわかってはいても。”(74頁)

“膨大な資金で守られながらこれらのNGOは世界を闊歩し、革命家の卵をサラリーマン活動家に変え、芸術家や知識人や映像作家に金を与えることで彼ら彼女らを激しい闘争の場面からやさしく遠ざけ、多文化主義やジェンダーやコミュニティの発展といった、アイデンティティ・ポリティクスと人権に包まれた言説のなかへと導き入れていくのだ。”(75頁)

“1980年代末、つまりインド市場が世界に開かれた時点までに、インドのリベラルなフェミニスト運動は過度にNGO化されてしまった。・・・・さまざまな財団が資金の提供を通じて、どんな「政治的」活動が適当かの範囲を決めることに成功してきた。いまやNGOの会計報告によって、何が女性の「課題」であり何がそうでないかが決められているのである。”(77頁)

(7)キング牧師もネルソン・マンデラも
資本主義は,キング牧師やネルソン・マンデラの偉業さえも巧妙に買収し取り込んでしまう。

ロイによれば,「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが行ったのは,資本主義と帝国主義と人種主義とベトナム戦争を結びつけて一緒に批判するという,いわば禁じ手だった」。そこで,フォード自動車,GM,モービル,P&G,USスチール,モンサントなどが出資し,「非暴力による社会変革のためのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア・センター」を設立した。そのプログラムの中には,「アメリカ合州国国防総省,軍隊の牧師理事会ほかと密に協力する」プログラムもあるという(80-81頁)。

ネルソン・マンデラについても,ロックフェラー財団などが介入し,結局,ワシントン・コンセンサスを受け入れさせた。(ワシントン・コンセンサス=新古典派経済学の理論を共通の基盤として、米政府やIMF、世界銀行などの国際機関が発展途上国へ勧告する政策の総称[知恵蔵])

“ANC[アフリカ民族会議]の目的からは社会主義が消え,称賛された南アフリカの偉大なる「平和な政権交代」には,土地改革も補償要求も鉱山の国有化も含まれてはいなかったのだ。その代わりに導入されたのが私有化と構造調整である。マンデラは南アフリカで市民に与えられる最高の栄誉「喜望峰勲章」を古き友人にして支持者であったスハルト将軍,つまりインドネシアで共産主義者を殺戮した者に与えた。今日南アフリカでは,かつての急進派や労働組合の幹部たちがベンツを乗り回して国を支配している”(81-82頁)

インドでは,やはりフォード財団などの介入により,ダリット運動は「ダリット資本主義」に向かっている。

“「ダリット株式会社、カースト制度打破ビジネスに準備完了」というのが、昨年12月の『インディアン・エクスプレス』紙の見出しだ。そこにはダリット・インド商工会議所の指導者の次のような発言が引用されている。「ダリットの集会に首相に来てもらうのは我々にとってむずかしいことではない。しかしながらダリットの企業家たちにとっての大望は、タタやゴドレジと昼食やお茶を共にして一緒に写真に収まることだ。実際に彼らが来たことの証拠となるからである」。・・・・これではいまだに100万人が頭に人糞を乗せて運び、肉体を酷使して他人のおこぼれを頂戴しているダリットたちの現状を救うことにはならないだろう。」(82-83頁)

(8)グローバル資本主義の終焉
しかし,それにもかかわらず,ロイは資本主義にはもはや未来はない,と断言する。いくら弾圧されても資本主義への抵抗は執拗に続いている。マルクスが言うように,資本主義は「自分の呪文で呼び出した闇世界の力をもはや統制できなくなった」のであり,自ら墓穴を掘っているのである。

“そう,おそらく私たちが夜を取りもどす時が来ているのだ。”(89頁)

この最後の結びの言葉は,意味深だ。資本主義への勝利は,「夜」の回復なのか? ロイにとって,そして私たちにとって,その「夜」とはいったいどのようなものなのだろうか? 

資本主義システムの外に暮らす人々は,所有せざる人々であり,いわば森に住む「自然の人々」である。森では夜は夜である。資本主義の否定は,夜を昼のようにすることの否定であり,森に戻ることである。ロイの議論は,ルソーの「自然に帰れ」に一脈通ずるところがあるように思われる。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/18 at 20:10

ロイ『民主主義のあとに生き残るものは』(2)

2.「民主主義のあとに生き残るものは――2011年3月13日に予定されていた東京講演」

(1)

この予定講演において,ロイは,「民主主義と自由市場はいまや一つの搾取する有機体に統合され」(10頁)てしまったと述べ,資本主義の走狗となった民主主義を徹底的に批判している。

ロイによれば,人間は,現在だけを生きる動物でもなければ,未来を見通す預言者[神]でもない。「そのことが人間を,獣でも預言者でもないという,不可思議な中間の生き物にしている。」(11頁) 人間は,預言者たり得なくても,ある程度の「長期的な視野」は必要としているのである。

ところが,近代の民主主義は,「私たちの最大の愚かさ,つまり近視眼を反映している」(10-11頁)。「民主主義は,・・・・私たちの希望や祈りにすぐに応えてくれる聖なる解答,個人の自由を守り,私たちのきりのない夢を養ってくれるもの」であり,したがって今日の民主主義政府には人間にとって不可欠の「長期的な視野」は期待できないのである(10頁)。

かくて,近視眼の民主主義は,人びとの刹那的な物質的富への欲望のため地球を荒らし,「文明」を発展させてきた。「現在,『文明』が自らの経済を動かそうとする方法は資本主義であり,近代の強力で『文明化された』社会が自らの社会および政治を運営する方法が民主主義である。この二つこそは,近代の人間社会が究極の願望としてきたものと言えるだろう。」(11頁)

(2)

これをインドについて見るならば,近代の民主主義は,たしかに「封建主義とカースト制度の重荷で腐りつつある旧弊な社会」をかき混ぜ,古来の不平等のいくつかを破壊した。しかし,その結果生みだされたのは,「濃縮クリームの薄い層」と「たくさんの水」であった(26頁)。「クリーム層」は有産階級であり,彼らが形成するのが富裕な「インド市場」。「おおくの水」は,搾取され,見捨てられる周縁の人びと。

これが、インドの民主化であった。インド政府は,IMF,世界銀行,アジア開発銀行などの支援を受け,民主主義のための改革,つまり「構造調整」を進めた。水資源,電気,通信,医療,住宅,教育,交通といった基本インフラの市場開放,私有化が推進され,その結果,おおくの人びとが土地や資源を奪われ,絶望的な貧困へと追いやられていった。

たとえば,鉄1トンあたり,企業は政府に60セントを払って採掘権を取得し,110ドルの利益を得る。この利益の一部により,企業は票,政府高官,判事,新聞,テレビ,NGO、支援機関などを買収し,開発へのさらなる「民主主義的」支援を得るのである。

(3)

インドの民主主義にとって,進歩=改革=開発に抵抗する住民は,いまや民主主義の敵である。とくに武力闘争を続けるマオイストは「国内治安への脅威」であり,政府は治安部隊,警察,特殊部隊などを動員し,容赦ない掃討作戦を繰り広げている。アメリカは民主主義のためにイラク,アフガンなどで戦争し,インド政府は民主主義のために自国住民と戦争をしている。

かくして民主主義はいまや「空虚となり」,「意味を失ってしまった」。民主主義を支える諸機関は,住民にとって「危険なものに変化してしまった」(10頁)。もしそうだとするなら,その「民主主義のあとに生き残るもの」はいったい何なのか?

(4)

ロイによれば,「それは資本主義と帝国主義の覇権に協力した場所や人びとからではなく,それに抵抗したところから生まれてくる」(40-41頁)。

インドには,「消費の夢によってまだ完全には植民地化されていない人たちがいる。・・・・インドには,1億人ものアディヴァシ[森の先住民]の人たちがいまだに生存している」(41頁)。

「資本主義がそのただなかに非資本主義社会を認めざるをえなくなる日、資本主義が自らの支配には限度があると認める日、資本主義が自分の原料の供給には限りがあると認識する日、その日こそ変化の起きる日だ。もし世界になんらかの希望があるとすれば、それは気候変動を議論する会議の部屋でも高層ビルの建ち並ぶ都会にもない。希望が息づいているのは、地表の近く、自分たちを守るのが森や山や川であることを知っているからこそ、その森や山や川を守るために日ごとに戦いに出かける人びとと連帯して組む腕のなかである。」(41-42頁)

かつてジョン・ボールは,「アダムが耕しイブが紡ぐとき,いったい誰が領主であり紳士だったのか?」と問いかけた。ロイの市場民主主義批判は,ジョン・ボールの夢に連なるものである。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/04 at 20:59

ロイ『民主主義のあとに生き残るものは』(1)

密かに追っかけをしているアルンダティ・ロイの訳本が出版された。

『民主主義のあとに生き残るものは』本橋哲也(訳),岩波書店
  1.帝国の心臓に新しい想像力を――ウォール街占拠運動支援演説
  2.民主主義のあとに生き残るものは――2011年3月13日に予定されていた東京講演
  3.資本主義――ある幽霊の話
  4.自由――カシミールの人びとが欲する唯一のもの
  5.インタビュー 運動,世界,言語――2011年3月11日の翌日,東京にて

1.ロイの批判とユーモア

(1)

ロイは,つねに,最も周縁化されている人びとの側に立ち,権力や多数派による理不尽な抑圧や搾取を告発し,正義を回復するため勇敢に闘っている。舌鋒はカミソリのごとく鋭く,ひとたび告発されようものなら,だれしも怖れ恥じ入らずにはいられない。

ロイの魅力は,なんといっても,その批判・告発が,明晰かつ華麗な文体によりテンポよく展開されていること。しかも,絶妙のユーモアと比喩がここかしこに織り込まれている。天性のセンスといってよい。

ロイが,あれだけ手厳しく体制や権力や多数派を非難攻撃しても,いまのところ幸いにも――インドの宿痾たる――直接暴力による仕返しを受けていないのは,批判がユーモアに包まれ,陰湿とならないからであろう。ガンディーと同じく,ロイは本質的にネアカであり,ユーモアにあふれている。

(2)

ロイは,その比類なきユーモアにより,神の特別の選びさえも受けているように思われる。2011年3月,ロイは国際文化会館から講演に招かれ,初めて日本を訪れた。来日の翌日,3月11日の午後,ロイが宿泊先の東京文化会館にいたとき,東日本大地震が発生,ロイは本震と余震,そしてそれに伴う大混乱を身をもって体験した。予定されていた講演はキャンセルされ,数日後(日時不明),ロイは帰国した。

本書の「2.民主主義のあとに生き残るものは――2011年3月13日に予定されていた東京講演」は,タイトルにあるように,東京講演の予定原稿。「5.インタビュー 運動,世界,言語――2011年3月11日の翌日,東京にて」は,大地震の翌日,岩波書店で行われたインタビューの記録である。

このロイの初来日と東日本大震災・福島原発事故発生は,もちろん偶然の一致であろう。しかしながら,ロイのような鋭敏な感性を持つ著述家の来日と未曾有の大震災の発生を単なる偶然といって済ますことは,感情的,心情的にはどうしてもできないところがある。やはり,ロイは,歴史の転機となるかもしれないこの大事件の証人になるため,神により選ばれ,日本に送られたのではないか。そう思われてならない。

残念ながら,日程の都合か何かで,震災後すぐにロイは帰国してしまったようだが,「このインタビューが行われた状況を私は一生忘れることはないだろう」と自ら述べているように,この震災体験がロイにとって衝撃的なものであったことは確かである。

ロイが,神の選びにより自ら体験することになった,東日本大震災(および福島原発事故)の歴史的意味を吟味し,われわれの前にそれを示してくれることを期待している。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/03 at 17:05

カテゴリー: インド, 文化, , 民主主義

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ガンディー劇場型抵抗の限界:A.ロイ

1.ガンディー主義批判インタビュー
アルンダティ・ロイが「自由言論討論集会」(2012年1月)のためのインタビューを受け,インタビュアーのManav Bushanの問いにかなり突っ込んだ答えをしている。言論については,いかなる理由にせよ,権力的言論規制には反対である。そして,自由な言論空間を奪われ,観衆を期待できないような状況,つまり劇場なき孤立状況では,攻撃から自分を守るためには暴力の使用も避けられない場合がある,というのである。

ここでロイが批判するのは,ガンディー主義者の非暴力的抵抗である。ロイによれば,ガンディー主義の非暴力的抵抗は,劇場型抵抗であり,もし孤立させられ観衆を完全に奪われてしまうなら,それは全く無力だという。

これは,ロイが繰り返し述べてきた持論だが,ここでの具体的な事例に基づくガンディー主義批判は極めて論理的であり,誰しも見て見ぬふり,聞いて聞かないふりをすることは出来ないだろう。

インタビュー記事は要約とのことだが,要点は正確に記録されているように思われる。

2.劇場なきところでの実力抵抗の正当性:ロイ・インタビューより
「英国植民地時代,先住民は植民地権力により[チャッティスガルの森の中に]囲い込まれていた。独立後は,インド憲法により植民地時代の法律の継承が認められ,先住民の土地は森林省の管轄となった。だから,憲法の認めたこの法が,先住民の生活を犯罪としているのだ。

しかも今日では,先住民は普通の犯罪人からテロリストの地位にまで引き上げられた。もし森から出てこなければ,もしそこにタネでも播けば,もしその村に住み続けるなら,お前らはマオイストのテロリストであり,見つけ次第,射殺されてもよいのだ。

こうして,村は千人の治安部隊に包囲され,火を放たれ,女は強姦され,人々は虐殺されていく。そして,もしこれに抵抗でもしようものなら,テロと呼ばれ,暴力と呼ばれるのだ。

チャッティスガルの森には,すでに20万人の治安部隊がいる。インドは,いまや超大国だと誇っている。そのインドの政府が,今度は,世界でもっとも貧しい人々に対し,陸軍と空軍を差し向けようと計画している。これは,まさしく戦争なのだ。

ガンディー主義的抵抗は,都市では有効だろう。私は決してそれに反対はしない。しかし,ガンディー翁自身が示したように,それは観衆を必要とする。それは中流階級,共感してくれる中流階級を必要とするのだ。もし観衆がいなければ,バティ鉱山かどこかで人々がいくらハンガーストライキをやろうが,誰も気づかない。誰も気にしない。メディアが必要だ。中流階級が必要だ。そう,観衆が必要なのだ。」

3.逃げられない問い
ガンディーには,たしかにいつでも観衆がいた。アフリカでもインドでも。それは,ガンディーがそのたぐいまれな才能と魅力と努力で引きつけたものではあるが,しかし時代がガンディーに味方していたことも事実だ。

これに対し,ロイは,現代インドではメディアも権力に巧妙に統制され,先住民は外界から遮断され,虐殺されていると訴える。非暴力的抵抗を有効化する観衆がおよそ期待できないのだ。

ロイはリアリストとして,そのようなときどうするか,とガンディー主義者に問いかける。これは重い問いだ。逃げてはいけないし,逃げられもしない。難しい問題だ。

* Interview with Arundhati Roy, Revolutionary Journalists Needed, Revolution in South Asia, February 12, 2012
■ロイについての関連記事は,右欄検索窓に「Roy」または「ロイ」を入力し検索。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/02/14 at 21:50

カテゴリー: インド, マオイスト, 平和

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Arundhati Roy, Broken Republic

[1]

アルンダティ・ロイの新刊『壊れた国家』を買った。既発表3評論をまとめたもの。
  ・Mr. Chidambaram’s War (Oct.2009)
  ・Walking with the Comrade (Mar.2010)
  ・Trickledown Revolution (Sep.2010)

このうち「同志と歩む」は,発表直後に読み,すでに紹介した。文章中心の取材レポートだったが,この本では,ロイ自身とSanjay Kakによる写真が多数挿入された。いずれも優れた報道写真で,現場の緊迫した状況がさらにリアルに感じ取られるようになっている。

[2]

それにしても,ロイの筆力は凄い。序文(Feb. 2011)は、こう始まる。

大臣は,インドのため人々は村を離れ都市に移るべきだ,という。彼はハーバード卒。スピードを求める。そして,数も。5億人移住のすばらしいビジネスモデルになる,と彼は考えている。

この書き出しだけで,村を追い出された無数の人々の悲惨な運命がありありと思い浮ぶ。

政府・大企業による村民追い出し→都市スラム流入→都市浄化によるスラム流入民追放→帰村(ダム底,鉱山開発,ゲリラ戦争)→都市スラム流入・・・・

ロイは続ける。

大臣は,都市移住民の大半は犯罪者であり,「近代都市では受け入れがたい行動をした」と語った。中流階級は,彼の率直さ,スペードをスペードと呼んだその勇気を讃えた。大臣は,・・・・法と秩序のため警察署を増設する,と語った。・・・・

よい武器を持ち,よい制服を身につけ,よく訓練された新しい警官隊が街をパトロールする。・・・・いたるところにカメラが設置され,すべてが記録されるようになった。・・・・

まだまだ続く。わずか4頁の序文だが。簡潔な文章で,鮮やかなレトリックを駆使し,激しい怒りと告発が繰り出される。

[3]

日本でも,すぐに翻訳され,ベストセラーになるにちがいない。陰湿な検閲がなければ,日本企業も加担しているインド高度成長の裏面が,暴露される。

【参照】
2010/04/23 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(8)
2010/04/22 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(7)
2010/04/21 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(6)
2010/04/19 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(5)
2010/04/18 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(4)
2010/04/16 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(3)
2010/04/14 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(2)
2010/04/11 アルンダティ・ロイのインド・マオイスト取材報告(1)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/02 at 12:21

カテゴリー: インド, マオイスト,

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ロイ「壊れた国家」出版

アルンダティ・ロイが「壊れた国家(Broken Republic)」を出版した。

ロイは50歳。自他共に認めるマオイスト・シンパであり,現代インドでもっとも危険で,もっとも面白い作家である。インド政府のカシミール弾圧を非難し,カシミール住民の自決権を擁護する。大企業の地方住民搾取に対しては,地方住民や彼らを支援するマオイストの実力闘争をやむを得ざる抵抗として弁護する。「銃を持つガンディー」と揶揄されるゆえんである。

体制派にとってロイは許しがたいインド国家の敵である。デリー警察は,ロイに反国家煽動罪(sedition)の容疑をかけ,捜査をしている。体制派民衆は,ロイの家に石を投げつけるなど,嫌がらせをしている。

5月20日の「壊れた国家」出版記念講演会(ニューデリー)でも,体制派が会場に入り込み,カシミール自決反対を叫び,パンフレットを投げつけるなど,45分にわたって講演会を妨害した。

これに対し,ロイは,「彼らにはお金を払ってやってもらったのよ」と軽くいなし,聴衆をどっと沸かせた。なぜこれが受けるかというと,インド政府が,ごろつきに金を払って御用自警団をつくらせ,搾取される地方住民や彼らを支援するマオイストを攻撃させているからである。「金を払ってやらせた」といえば,ぴんと来る。辛らつな皮肉だ。ロイは,話もうまい。

新刊の「壊れた国家」には,先に紹介した「同志と共に歩む」と,マオイスト関係の他の2編が収められているという。日本ではまだ発売されていないが,さっそく予約注文してしまった。いまや私は,ロイの追っかけなのだ。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/06/07 at 21:03

カテゴリー: インド, マオイスト, 文化,

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Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(2)

2.安全圏から非暴力を説くなかれ
人を殺さざるをえないギリギリの状況にない者,あるいはその状況を想像すらできない者に,殺人の悪を語る資格はない。同じく,自らは暴力の矢面に立たず,安全圏にいる者に,暴力の悪を説き,非暴力を唱える資格はない。ゲルニカとロイとの迫真の議論はこう展開する。

「ロイ: 私自身に武器を取る決意がなければ,暴力を説くのは不道徳でしょう。同様に,攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのも不道徳です。

ゲルニカ: かつて,あなたはこう書いています。『絶滅の危機には反撃の権利がある,と人々は信じている。いかなる手段によっても。』これに対し,お定まりの非難がなされてきました。そら,ご覧,ロイは暴力を説いているよ,と。

ロイ:私は,こう問いかけたい。もしあなたがチャティスガルの深い森の奥に住む「先住民(adhivasi)」であり,その村が800人の中央予備警察隊に包囲され,次々と家を焼かれ,女性を強姦され始めたとしたら,そのとき,人々はどうすると思いますか? ハンガーストライキをするのか? それはできない。人々はすでに飢え,餓死しつつあるから。商品ボイコットをするか? できない。なぜなら,人々には商品を買うお金がないから。たとえ,それでももし人々があえて断食やダルナ(dharna)をするとしても,いったい誰がそれを見てくれるのか? 誰が関心を示してくれるのか? だから,私にはこう考えるしかないのです――私自身が武器を取る決意がなければ,他の誰かに向かって暴力を説くことは不道徳である,と。そして同じく,自ら攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのは不道徳である,と。」

これは,すさまじい議論である。世のほとんどの非暴力主義は,安全圏の中からのお説教にすぎないということになろう。

3.立ち上がれ,非暴力のために
しかし,ロイは暴力は不可避と考えているわけではない。もしわれわれが不正義に苦しめられている人々に目を向け,共に闘うために立ち上がるなら,彼らは暴力に訴える必要はなくなる。

「ロイ: 先住民(adhivasi)の強制移住や窮乏化に対する闘いを誰も支援しないのであれば,彼らにガンディー主義を期待することはできないということ,これは事実です。しかしながら,森の外にいる人々,メディアが関心を示す裕福な中流階級の人々が,その抵抗運動を支援することはできます。もし彼らが支援に立ち上がっておれば,森の中の人々もおそらく武器を取る必要はなかったでしょう。もし森の外の人々が支援に立ち上がらないのであれば,戦いの犠牲者のことを考えよといった道徳を説いてみても,あまり意味はありません。」

4.哀れみを請う犠牲者たるなかれ
ロイが一貫して唱えているのは,イエーリングのいう「権利のための闘争」である。哀れみを請うのではなく,自ら権利を闘いとれ,とロイは訴える。

「特権階級の人々をいらだたせているのは,私が単なる犠牲者ではないこと,私が単なる犠牲者の振りをしないことです。彼らは哀れな犠牲者を愛し,犠牲者救済を愛しています。私の著作は貧しい人々への援助のお願いでもなければ,哀れみ深い慈善のお願いでもありません。NGOや慈善活動や援助基金を求めているのではありません。そんなものは,金持ちが自分のエゴをくすぐり,端金で自分の良心を満足させるためのものにすぎません。」

インドには,たしかに慈善があふれている。企業は競って社会貢献事業を宣伝している。しかし,ロイは,そんなものは偽善であり,自己満足にすぎない,と一蹴してしまう。過激派ロイの面目躍如といったところだ。

5.公的なものが私的に,私的なものが公的に
ロイは,このようなラディカルな立場をとってきたため,「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまったという。

「私は,たいへん不安定な,しかし,静かでないこともない生活を送っています。が,ときどき,皮膚が,つまり私と,私の住む世界とを区別する或るものが,無いのではないかと感じることがあります。この皮膚の欠如は危険です。私の生活のあらゆるところに,それはトラブルを招いています。それは公的なものを私的に,私的なものを公的にします。それはときどき大きな心的負担をもたらします――私だけでなく,私の近くにいる人々にとっても。」

文学的な表現だが,これは,マオイスト・シンパと激しく攻撃され,またカシミール自決支持発言で反国家扇動罪で告発されるなど,まさしく「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまった,ロイの偽らざる心境であろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/02/24 at 16:12

Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(1)

「銃をもつガンディー」――あまりにも挑発的で神をも恐れぬ不遜な言葉だ。2009年12月、オバマ大統領がノーベル平和賞受賞演説でこれに近いことを述べた。彼は誠実で偉大な大統領ではあるが、アフガンなど世界各地で無防備な人民を多数殺しているアメリカの大統領であり、この呼称の域にはまだはるかに及ばない。
 (参照)ガンジーを虚仮にしたオバマ大統領 広島・長崎「平和宣言」批判 オバマ大統領の新軍国主義と朝日の海自派遣扇動 オバマ核廃絶発言と長崎の平和運動 オバマ大統領と国益と南アジア オバマ大統領の新軍国主義と朝日の海自派遣扇動 無節操なオバマあやかりイベント

「銃をもつガンディー」――あるいは、ひょっとしてこの呼称で呼ばれてもよいかもしれないと思わせるギリギリの域にいるのが、われらがアルンダティ・ロイだ。鋭利な言葉を縦横無尽に駆使して不正義と果敢に戦う作家、インド体制派にとってもっとも危険な知識人。そのロイが、『ゲルニカ』のインタビューにおいて、ガンディーを尊敬するにもかかわらず、なぜ銃を取らざるをえないか、このギリギリの問いに真正面から向き合い、誠実に答えようとしている。
 ■Arundhati Roy, “The Un-Victim,” Guernica, Feb. 2011

1.愚劣な質問
『ゲルニカ』のインタビュアー(Amitava Kumar)は、まず多くのインタビューを受けてきたロイに対し、愚劣な質問(stupid questions)と思ったのはどのような質問か、と問いかける。

「ロイ: かつて私はチャーリーローズ・ショー(Charlie Rose Show)に招かれ出演したことがある。彼はこう質問した。『アルンダティ・ロイさん、インドは核兵器を持つべきだと考えますか?』 そこで私はこう答えた。『インドは核兵器を持つべきだとは思いません。イスラエルも核兵器を持つべきだとは思いません。アメリカも核兵器を持つべきだとは思いません。』 『いいえ、そうではなく、インドは核兵器を持つべきだと思いますか、と質問したのです。』 私は全く同じように答えた。4回ほども・・・・。ところが、それは全く放送されなかった!」

あらかじめ想定していた回答を引き出すための質問、これはたしかに愚劣だ。次に、前後関係を棚上げにし、想定した回答を引き出そうとする質問。

「ロイ: 『マオイストは学校を破壊し、子供たちを殺している。こんなことが許されますか? 子供たちを殺すのは正しいことですか?』」

マオイストだろうが誰だろうが、子供を殺すのが悪であることは自明だ。その自明なことを答えさせることによって、質問者は、子供を殺すことは悪→子供を殺すマオイストは悪→ロイのマオイスト支持は誤り、という三段論法でロイをやりこめようとしているのだ。

これも愚劣な質問だ。人殺しは悪か、と問われたら、誰だって「人殺しは悪だ」と答えるに決まっている。しかし、現実にわれわれが直面する真の問題は、状況により人を殺さざるをえないときがあるのではないのか、という問いである。これなら本物の質問だ。ところが、腹に一物ある質問者は、状況も前後関係も棚上げして人を殺すのは悪かと質問し、悪だと答えさせ、それをもって人を殺さざるをえなかった人々を一方的に断罪しようとするのである。これも愚劣な質問である。

「ロイ: 愚劣な質問に答えるのは難しい。とてもとても難しい。愚劣は特有の方法で人を打ち負かす。とくに時間がなく、時間が貴重なときは。」

たしかに、そうだ。愚劣な質問は、本物の問題に対峙する勇敢な人々の誠意を踏みにじるものである。

(C)谷川昌幸

Written by Tanigawa

2011/02/23 at 08:18

ロイは無実だ,HRW / A.セン

敬愛するロイが,Binayak Senらとともに,終身刑もあり得る反国家扇動罪の容疑を掛けられ,投獄の危機にある。心配だ。

国際社会も,インド政府・社会の不寛容に対し警鐘を鳴らし始めた。Prokerala News(Jan 7)によれば,HRW(Human Right Watch)のM.G. Ganguly南アジア代表が,「平和的抗議を黙らせるため反国家扇動罪を使うのは抑圧的政府の証拠だ」と批判した。「人権侵害に対し平和的に抗議することは,言論の自由の核心にある。決して,反国家扇動ではない。」その通り,彼のいうことは正しい。

同じく翌日のProkerala News(Jan 8)によれば,今度はノーベル経済学賞受賞者アマルティア・センが,マオイスト・シンパ嫌疑でビナヤク・センに終身刑を科そうとするのは「正当化し得ない訴追である」と批判し,A.ロイについても,「[カシミールに関する]ロイ発言は愛国心を傷つけたと非難された。しかし,愛国心しか表現してはならないといった義務はどこにもない」と弁護した。

またTimes of India(Jan 9)によれば,A.センは,ビナヤク・センに対する終身刑判決(チャッチスガル裁判所)を批判し,こうも述べている――

「反国家的扇動は暴力による国家転覆扇動を意味する。ビナヤクがそのようなことをしたとは聞いていない。・・・・いや逆に,彼は暴力は悪であると書いている。それは,反国家的扇動に対する根底からの道徳的批判である。・・・・
 経済的成長は極めて重要だが,決して目的それ自体ではない。それは物質的な事柄であって,人間的な事柄ではない。私自身を含め,ビナヤクらは,国家の発展は人々の生活を見て判断されるべきだと信じている。」

さすがA.セン,問題の本質を鋭く突いている。

ところで,このロイやビナヤクに対する反国家扇動罪,国家反逆罪(treason)での告発そのものは,インド政治の未成熟を物語るが,それはそれとして,わがネパールと比較すると,議論のレベルの高さ,鋭さ,つまり「面白さ」には圧倒されざるをえない。ネパールがインド水準に達するのは,いつのことだろうか? いまのところ,小国ネパールは大国インドには,議論においても到底及ばない。残念ながら。

本題に戻ると,ロイやビナヤクの反国家扇動罪事件の今後の展開は予断を許さないが,HRWやアムネスティー,あるいはA.センやチョムスキーといった著名な機関や知識人が彼らの弁護に回り始めており,いかなインド国家・社会といえども,これは無視できないであろう。ロイやビナヤクの嫌疑が晴れることを願っている。

■Binayak Sen(1950-)。医者(小児科,公衆衛生学)として国内外で活動。「市民的自由人民協会」副会長。ポールハリソン賞(2004),RR・ケイタン金賞(2007)。チャッティスガル刑務所投獄中の2008年,世界保健協会から世界の保健・人権への貢献を認められ表彰される。チャッティスガル裁判所で2010年12月24日,マオイストとの関係を持ち反国家扇動活動をしたとして終身刑を言い渡される。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/01/10 at 12:08

カテゴリー: インド, マオイスト, 民主主義, 人権

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ネルーを訴えよ,ロイの反撃

アルンダティ・ロイは,セミナー”Azadi–the Only Way”(Delhi, 21 Oct 2010)において,「カシミールがインドの本来的部分であったことは一度もない」「カシミールはインドからのazaadi(自由)が必要だ」と語ったため,反インド扇動罪(sedition)容疑で訴えられている。この発言は人々の間の敵意を煽っているというのだ。

ロイ発言の詳細な内容は,後日紹介するとして,ロイの魅力は何といっても,そのあふれるばかりの機知とユーモアだ。セミナーで発言を求められたとき,聴衆に向かってロイはこう話し始めた。

ロイ: 皆さん,靴を投げたい人は,いますぐ投げて下さいネ・・・・・
会場から: 私たちはもっと上品だよ・・・・・等々
ロイ: あぁ,それなら結構,安心しました。お上品も時によりけれどもですけれどもネ。え~と,それでは・・・・・

「靴投げ」は,もちろん侵略地イラクの記者会見で靴を投げつけられたブッシュ元大統領を皮肉ったもので,これによりロイはこれからの話がインド体制派の「靴投げ」を招きかねない「過激な」ものになることを予告したのだ。うまい。

また,このAzadiスピーチが予想通り体制派からの「靴投げ」を招き,デリー裁判所がFIR受理を命令すると,ロイは「ネルーもまた訴えるべきだ」(Outlook India, 28 Nov)を発表し,ロイとまったく同じことを,より過激な表現で繰り返し明言したネルーの言葉を抜粋し,反撃した。

ネルーの発言
「争いのある領土や州の帰属は人々の意思により決定されるべきであり,われらはこの立場を堅持する。」(31 Oct 1947)
「カシミールのことはそこの人々が決定すべきだ,とわれわれは宣言した。」(2 Nov 1947)
「カシミール帰属は,住民投票で決定されるべきだ,と私は繰り返し表明してきた。」(21 Nov 1947)
他に同趣旨の発言11例を引用。

攻撃に対して攻撃者側に反撃させる。実にうまい。まめだ。こんな魅力的な「過激派」を敵に回して闘うのは,体制派には大変だろう。インド進出(侵出)に躍起の日本企業が,再びロイの厳しい批判の俎上にのせられるのも時間の問題である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2010/12/08 at 11:09

カテゴリー: インド, 民族

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