ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

老老介護,事始め(2):「生物的余生」の悲哀

高齢の母の在宅介護を始めてすぐ痛切に感じられたのは,人間の「生物的余生」の悲哀である。あまりにも哀れで悲しく,直視にたえない。なぜ,こんな悲惨な余分の生が人間にはあるのか? 

1.現代の宿命としての認知症
物わかりの良い認知症専門家は,それは素人の偏見・誤解だ,認知症患者にもそれぞれの意思や幸福があり,それらを最大限尊重し生活させてやるのが家族の義務だと説教される。それはそうかもしれないが,そんなことができるなら,家族は悩み苦しみはしない。

むろん,認知症にも多種多様なものがあるのだろうし,発症や進行を防止したり遅らせたりできる場合もあるであろう。あるいは,発症・進行しても,それを受け入れ日常生活がそれなりに継続できるような家族や地域社会もありうるだろう。しかしながら,そうした可能性ないし希望を認めたうえでもなお,発症・進行を止められない場合が多数あると思われるし,また認知障害者を受容できる家族や地域社会も現実には多くはない。数世代同居ないし近住の大家族も,緊密な共同体的近隣社会――村的社会――も,もはやない。あるいは,共同体的見守り介護を行政に期待しても,財政的にも人材的にもそれは困難で,当面,多くは期待できそうにない。

もしこれが今の現実なら,少子高齢化社会に生きる私たちは,たとえ専門知識がなくても,痴呆や認知障害を家族の問題として,いや自分自身の問題として考え,覚悟しておかなければならない。

私にも生物学や医学の知識はないが,自分自身を納得させるための論点整理として,以下,母介護をしていて素人なりに思うことを書き留めておきたい。

2.生物的余生50年
植物や動物など生物は,子孫繁殖のために生命・身体を与えられている。生殖こそが生きる目的であり,その天命を全うすれば,自然界の生物は死んでいく。生殖終了後の余生は,無くはないが,長くはない。

人間も,近代化以前は,他の動物と同様,一般に「生物的余生」は短かった。人間の生殖可能年齢はせいぜい40代まで,それ以降は,生物的には無用で無意味。だから長らく人間も50代に入ると寿命が尽きる場合が多かった。俗にいう「人生50年」は,そのころの人々には生活の実感であったに違いない。まさしく天寿を全うし死んでいく。

ところが,近代化とともに栄養・衛生など生活環境が改善され,医学も発達し,人間は生殖可能年齢を過ぎても,なかなか死ななくなった。いまや「人生100年」,生物としての想定生存年数の2倍も長生きするようになったのだ。

しかしながら,人間も50歳を過ぎると耐用年数を超えた身体諸器官が次々と機能低下し,そのままでは生存が難しくなり始める。そこで人間は,栄養補給や服薬や機能回復手術などによって,ときには機能不全となった自分の器官を他人の中古器官や新品の人造器官と取り換えることによって,それを克服し,死を先へ先へと先延ばししてきた。「人生100年」は,その成果である。生物的余生50年!

3.高機能身体と機能不全脳
ところが,困ったことに,いまもって脳だけは,取り換えはおろか,修繕さえままならない。脳が耐用年数を過ぎ故障し始めると,多少の手当てはできるものの,他の器官のような大きな治療効果は期待できない。多くの場合,自然の成り行きに任せざるを得ない。

この脳は,人間にとって,人格形成の場であり精神活動の中枢である。人間は,その時々のバラバラの体験を脳で関係づけ経験化して記憶(保存)し,それに基づき自己の意思を形成し,それを実行に移す。コンピュータ(電脳)でいえば,CPU(中央演算装置)のようなもの。

その脳が耐用年数を過ぎ,あちこち故障し機能不全に陥り始めると,記憶の喪失や混乱が始まるのは避けがたい。その結果,一般常識(社会的記憶・規範)からすれば「異常」な,様々な逸脱行動が始まり,拡大・激化していく。

近代化以前だと,脳がこのような経年機能不全に陥っても,身体の方の耐用年数も大差なかったので,大きな社会問題とはならなかった。人間の生殖可能年齢以降の「生物的余生」は,あっても,一般には短かった。脳寿命は身体寿命――これが「人生50年」の現実であった。

ところが,いまや「人生100年」。脳機能不全の下での「生物的余生」は長く,いやでもその過ごし方を考えざるをえなくなった。しかも,栄養や衛生や医学の向上発達により,脳以外の諸器官の機能は高いまま長期間維持されていく。

脳も,他の器官と同様,一部または全部を中古または新品の脳と,いや一層のこと超高性能CPUと取り換えてしまえば,問題は解決するのだが,倫理という人間的な,あまりにも人間的な“こだわり”のため,当面,それは実現しそうにない。

4.認知症と生命倫理
高機能身体を機能不全脳で操縦し生きていく。さぞかし難しく,もどかしく,苦しく,つらいことであろう。介護者にとっても,高機能身体を暴走させ自他に危害を及ぼさせないように見守ることは,筆舌に尽くしがたい忍耐と献身が求められる苦行である。いずれも哀れで悲しく見るに堪えないというと,認知症専門家には叱られるだろうが,介護を始めたばかりの素人には,その思いはどうしても禁じ得ない。

これは,天命に背き自然を征服してきた人間への,現代における一種の天罰ではないだろうか? 人は何のために人を生かし続けるのか? 自明? そうでもあるまい。生命倫理にかかわる危険きわまりない問いだが,もはや見て見ぬふりをし,避けて通ることはできないであろう。技術的には無限の生存ですら可能とされそうな現代だからこそ。(*1)

*1 「治る認知症を見逃さないために早期の診察は必要である。しかし,それ以外の認知症の治療効果に過度の期待はしない方がよかろう。認知症にならないようにするにはどうすればよいか。あれがよい,これがよいと言われているが,残念ながら,その効果はあまり期待できない。確実にいえる予防法は,過激ではあるが,認知症になる前に死ぬことである。長寿は美徳ということがあまりに強調されてきた。認知症になって生きながらえて,本人も周りも楽しいだろうか? 認知症の最大のリスクファクター(危険因子)は加齢である。今こそ,単純な長寿よりも,『ピンピンころり』をどう成し遂げるかを真剣に考えるべきであろう。」(丸山敬[埼玉医大教授]『これだけは知っておきたい認知症』ウェッジ選書,2014,160頁,強調引用者)

【紹介】三好春樹・多賀洋子『認知症介護が楽になる本』講談社2014
ハウツー本のようなタイトルだが,内容は優れた介護ドキュメンタリ。著者・多賀さんの夫は,京都大学教授だったが,退職後,認知症が進行,73歳で亡くなった。著者は感情過多にも解釈過多にも走ることなく,事実に即して経過を描こうとされている。読みやすく,教えられることも多い。
 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/02/20 @ 16:43

カテゴリー: 社会, 人権

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