「使える英語」とカタカナ英語:リスキリングのリスク(3)
3.社会的弱者を襲うカタカナ語・ローマ字略語洪水
ところが,現実には,教育におけるオーラル実用英語偏重教育は,その勢いを増すばかりだ。が,いかに笛吹けど,内田も指摘するように,学生らの英語力は落ちるばかりだ。
そこで,私が忖度するに,政官財の有力者らが取ることになった策が,カタカナ語・ローマ字略語での代用。彼らは,自分たちはペラペラ,スラスラ完全マスターしていると自画自賛の英語を,下々のためにカタカナ語やローマ字略語で表現してやることにより,「これくらいならお前らにも分かるだろう」と親切めかして一方的に押し付けてきているのだ。
政官財有力者らのカタカナ語・ローマ字略語多用は,社会的弱者支配のための便利ではあるが,お手軽にして稚拙な道具となっている,と見ざるをえないであろう。
以下,参考までに,ごくごく一部のみを列挙(岸田首相については,上記参照)。
①『コンサイスカタカナ語辞典』2020。約58,500語収録
②『行政カタカナ用語集』2008。「分かったようで分からない」カタカナ用語1500語収録
③厚生省「カタカナ語使用の適正化について」1997 [列挙されているカタカナ語とローマ字略語] ニーズ,コンセプト,リスク,プロジェクトチーム,ワーキンググループ,フォローアップ,スキーム,アカウンタビリティー,ビジョン,コーディネート,カンファレンス,フリーアクセス,メディカルチェック,ライフサポートアドバイザー,リターナブル,ホスピタルフィー,ドクターズフィー,モデル事業,ドナー,レシピエント,ケアプラン,ケアマネジメント,ケアマネージャー,スクラップアンドビルド,バイオセーフティー,プライマリ・ケア,バリアフリー,ノーマライゼーション,ホームヘルパー,デイサービス,ショートステイ,ケアハウス,新ゴールドプラン,サテライト型デイサービス,マニフェスト,プルーデントマン・ルール,ADL,食品GLP
④デジタル庁HP(2023) [使用されているカタカナ語とローマ字略語の一部]プレスルーム,トピック,マイナンバー,マイナンバーカード,データダッシュボード,サイトポリシー,プライバシーポリシー,ウェブアクセシビリティ,コピーライトポリシー,データダッシュボード,パンデミック,VRSチーム,オープンデータセット,変換コンバータ,日英デジタルパートナーシップ,オンラインイベント,SPYxFAMILY,セキュリティ,QRコード,ダウンロードページ,イメージ,チャットポット,カテゴリ,e-Tax,オンラインバンキング,コールセンター,簡単ステップ,ワンストップサービス,GビズID,ガバメントソリューションサービス,サービスデザイン
これはヒドイ。行政関係用語集ですら,2008年時点で,「分かったようで分からない」カタカナ用語を1500語も収録している。植民地英語より惨めではないか!
日本語は,造語能力に長けた言語だから,たいていの外国語は日本語への移し換えが可能だ。内田も力説するように,そうすることによってこそ,日本語・日本文化は,より豊かになっていくにちがいない。
いまこそ明治の先達に学ぶべき秋だ。
【参照1】
1 内田樹「AI時代の英語教育について」2019,『サル化する世界』2020所収
2 内田樹「日本の外国文学が亡びるとき」2008
3 内田樹「イノベーションは、共同体のアーカイブから浮かび上がってくる:複雑化の教育論」,インタビュー2022/05/18
4 内田樹,英文和訳関係ツイート,2016/03/16
5 柳父 章『翻訳語成立事情』岩波新書,1982
6 谷川昌幸「書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』」1 2 3 4 5 6 7 8
7 谷川昌幸「愛国者必読: 施光恒『英語化は愚民化』」
8 谷川昌幸「安倍首相の国連演説とカタカナ英語の綾」

【参照2】(2023/03/15)
杉田聡氏は,「略語は英語の頭文字語よりローマ字書き日本語で──JPCZはNKKSに」(論座2023/03/15)と提唱されているが,ローマ字書き日本語の略語の方が何倍も判りにくいことは明白。
谷川昌幸(C)
「使える英語」とカタカナ英語:リスキリングのリスク(2)
2.知的成熟のための外国語学習:内田樹
この問題につき,真正面から取り組み,ズバリ答えているのが,内田樹「AI時代の英語教育について」(『サル化する世界』2020所収)。以下,内田の所説に依拠しつつ,外国語学習の在り方について,私なりに要点をまとめてみる。
(1)自文化成熟のための外国語学習
内田によれば,英語などの外国語を学ぶ本来の目的は,われわれが「母語の枠組み[母語の檻]を抜け出して,未知のもの,新しいものを習得してゆく」ことにより,成熟を実現することにある。
しかし,その一方,決して忘れてならないのが,「本当に創造的なもの,本当に『ここにしかないもの』は,母語のアーカイブから汲み出すしかない」(235)ということ。だから,われわれは「母語を共にする死者たち」からもまた,深く学ばなければならない(237)。
こうすることによってはじめて,われわれは,外国語に一方的に飲み込まれてしまうことなく,自分たちの母語の中に本当に新しい語や概念を生みだし,ほかならぬ自分たち自身の文化を発展させていくことが出来るのである。
(2)「使える英語」教育による英語力低下
ところが,今の日本の政官財界では,実社会ですぐ「役に立ち使える」実用英語の教育が最重視されている。たとえば,
▼文科省「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」平成15年3月31日
目標:高卒=英語で日常的なコミュニケーションができる
大卒=仕事で英語が使える
入試:リスニングテスト
授業:英語による英語授業
この文科省計画にもみられるように,いまや英語学習はもっぱら受験・就職のためであり,また社会に出てからは国内外でのメガコンペティションに勝ち抜くための単なる手段とされてしまっている。
こうした状況では,当然ながら学校での英語学習意欲は相対的な競争手段として以上には高まるはずもなく,その結果,「大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきた」(191)。これは,内田だけでなく,他の大学関係者も少なからず認めている歴然たる事実である。なんたる皮肉か!
(3)植民地的オーラル・コミュニケーション偏重教育
「使える英語教育」はまた植民地的オーラル偏重でもあり,これによりとりわけ読解力が低下した。
実用英語偏重教育では,英語といっても「オーラルだけが重視されて,読む力,特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です」(220-21)。
植民地では,「宗主国民の命令を聴いて,それを理解できればそれで十分」。読解力を身につけ,古典などを読み,宗主国民以上の教養を身につけられたら困る(221)。
しかも,オーラル・コミュニケーションの場では,「100%ネイティヴが勝つ」(221)。そんな発音,そんな言い方はしないといって「話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる」(221)。
今の日本が,まさにそれ。「今の日本の英語教育がオーラルに偏って,英語の古典,哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは,『アメリカという宗主国』の知的アドバンテージを恒久化するためです」(222)。
「文法を教えるな,古典を読ませるな,・・・・。それよりビジネスにすぐ使えるオーラルを教えろ,法律文書や契約文書が読める読解力以上のものは要らない。そう言い立てる。それが植民地言語政策そのものだということ,自分たちの知的劣位性を固定化することだということに気が付いていない」(224)。
これは何とも厳しいが,真っ向から反論できるほどの余地は,どこにもあるまい。ノンネイティヴは,オーラルでは,ネイティブ児童にすら負けるのだ。
(4)AI自動翻訳と英語教育
オーラル実用英語を教育目標とすることは,より直接的には,AI自動翻訳の革命的進歩により現実に無意味となりつつある。
たしかに,自動翻訳の進歩は,私自身,日々驚かされている。今では,主語を省いても,倒置しても,かなりの精度で文意を解釈し,英語はむろんのこと,他の多くの言語にも,瞬時に翻訳してくれる。少し補えば,「実用」としては十分だ。
それでは,と内田は問いかける――「自動翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害を除去してくれるということになったら,一体何のために外国語を学ぶのか?」(184)。
そして,こう答える――「どんなものであれ,外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」から,と(184)。
(5)創造的なものは母語から
日本には,古来,外来の諸概念を最大限翻訳し取り入れてきた伝統がある。近代欧米の重要な諸概念も,カタカナ語ではなく,「自然」「社会」「個人」「権利」「哲学」などと漢訳して日本語の中に取り入れた。こうして欧米に取り込まれることなく,「日本は短期間に近代化を成し遂げることができた」(227)。(参照: 柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書1982)
それだけではない。新語,新概念というものは,もともと「個人の思い付きではなくて,母語の深いアーカイブの底から浮かび上がってきたもの」にほかならない(229)。だから,われわれは母語を深く学び,「現代日本語の檻」から抜け出したうえで,「本当に創造的なもの」を「母語のアーカイブから汲み出すしかない」のである(235)。
「母語の檻」から出るには,「一つは外国語を学ぶこと,一つは母語を共にする死者たちへの回路を見つけること」(237)。
以上の内田の英語教育論が,政官財大合唱のオーラル実用英語教育に対する原理的にして効果的な批判となっていることに,もはや疑問の余地はあるまい。

【追補】慶応大学経済学部入試の英語で,日本語本文を読み英語で答える問題が出された。日本語本文は高度で,それが読解できることが大前提。英語以前に日本語能力が試されている。西岡壱誠「慶大、常識覆す『英語試験で出題文が日本語』の衝撃」東洋経済ONLINE,2023/02/25
谷川昌幸(c)
「使える英語」とカタカナ英語:リスキリングのリスク(1)
1.岸田首相「リスキング」答弁,炎上
岸田首相が1月27日の参院本会議で,「この[産休・育休]間にリスキリングによって一定のスキルを見つけたり学位を取ったりする方々を支援する」と答弁した。たちまち,巷では非難ごうごう,大炎上!
私も,この答弁をテレビニュースで聞いて,「まさか!」と,ビックリ仰天した。リ(re繰り返し)キリング(killing殺すこと)による一定のスキル(skill技能)の習得を支援するとは,いったい全体どういうことだ。軍事費倍増の前に,殺人の繰り返しよる殺人技能の開発を図るということか!?
まさかと思って新聞でよくよく確かめると,「re」と「killing」の間に,ちっぽけな無声子音「s」が入っていた。たった1字だけ!
しかも,日本人にとって,「リ(re)」と「キル(kill)」は比較的自然に聞き取り発音できるが,その間に「s」が入り「リsキリング」となると,日本語になじまず,聞き取りも発音も難しい。まったく日本語らしくない! 日本人の私が,「s」を聞き損ね,「リキリング(繰り返し殺すこと)」と聞き取ったのは,きわめて自然な,当然至極のことなのである。
それでは,岸田首相は,日本国民の代表たる議員の,そのまた代表として,国権の最高機関たる議会において,なぜ主権者たる国民の多くにとって聞き取りづらく,たとえ聞き取っても外来語辞書を引かねば意味がよくわからないような,珍奇なカタカナ英語を使ったのか? 演説内容以前に,日本国の首相としては,失格ではないか?
不可解に思い,改めて岸田首相の国会演説(2022/10/03)そのものを読んでみた。すると,驚いたことに,耳慣れないカタカナ英語やローマ字略語が,おびただしく使用されていた。たとえばーー
インバウンド,イベント,メリット,スキル,リスキリング,サイクル,パッケージ,フリーランス,イノベーション,スタートアップ,GX ,DX,エコシステム,グリーン・トランスフォーメーション,ロードマップ,カーボンプライシング,トランジッション・ファイナンス,アジア・ゼロエミッション,Digi田(デジでん),NFT,Beyond5G・・・・
なんとも凄まじい演説。とりわけ「Digi田(デジでん)」には,目が点! いったいこれは何語で,その意味は何なのか? 興味と暇のある方は,内閣官房デジタル田園都市国家構想実現会議事務局HPをご覧いただきたい。
こうしたカタカナ英語やローマ字略語の乱用は,むろん岸田首相に限られたことではない。他の政財官有力者たちも,競ってカタカナ英語やローマ字略語を使用している。一体全体,日本人が日本人を相手にしているにもかかわらず,なぜなのか?
直接聞き質したわけではないが,おそらくそれは,富国強兵には世界共通語たる英語が不可欠だが,下々にはペラペラ英語は今は無理なので当面はカタカナ英語とローマ字略語で下準備をする,といったことを彼らが多かれ少なかれ考えているからに違いない。
彼らは,英語は「世界共通語」だ,だから世界で戦うには「使える」実用英語をマスター(習得)しなければならない,と信じて疑わないらしい。
が,しかし,本当にそうだろうか? 実用英語やカタカナ英語あるいはローマ字略語の普及で日本経済は再活性化し,社会は発展,文化も高まるであろうか?

【参照】「リスキリング」の言い直し,「学び直し」(追加2023/03/19)
・「産休・育休中のリスキリング(学び直し)」毎日新聞,2023/01/30
・「育休中に学び直し」朝日新聞素粒子,2023/03/18
・「育休中の「学び直し」を勧めるトンチンカン」Globe,2023/02/09
谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(15): カトマンズ盆地の本屋さん
カトマンズ盆地には,新旧様々な文化・文明が混在していて,興味深かった。そうしたものの一つが,新たな情報・知識や教育への予想外の関心の高さ。
訪ネ前に読んだガイドブックでは,1980年代頃のネパールの識字率は20%程度であったので,ネパールには本屋さんや学校など,あまりないに違いないと思い込んでいた。(識字率の定義は広狭様々。1980年代ネパールでは,おそらく「自分の名前の読み書き可能以上」であったのだろう。とすれば,実質的な読書可能人口は識字率よりも低いことになる。)
ところが,1985年春,カトマンズに着き,街に出てみると,あちこちに新聞・雑誌・暦などを並べた露店やスタンドがあるばかりか,学校や官庁の近くには教科書や専門書を相当数揃えた本屋さんさえ,いくつか見られた。
もちろん,カトマンズ盆地は観光地であったので,旅行者向けの店が多いのは当然だが,そうした店であっても,絵ハガキやガイドブックだけでなく,多かれ少なかれカタそうな本や教科書も置いているところが少なくなかった。
置いているということは,それなりに売れるということ。正直,これにはいささか驚き,また感心もした。むろん,観光ガイドをパラパラ見ただけで来てしまったのだから,当然といえばそれまでのこと,ではあったのだが・・・・。
*下記写真は1990年代以降のもの。撮影年は多少前後するかもしれません。









谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(14): バクタプルはトロリーバスで
バクタプルへは1985年,トロリーバスで行った。乗車は,たしかマイティガル付近。幸い車内には入れたが,例の如くオンボロ,ギュウギュウ詰め。降りたのは,バクタプル旧市街の小川の向かい側で,たぶんスルヤビナヤク。
トロリーバスを降りると,一面の菜の花畑の向こうに,バクタプルの小じんまりしたレンガ造りの街が一望できた。まるで,おとぎの国。
トロリーバスは,古都そのもののバクタプルはいうまでもなく,まだ古都の面影を色濃く残していたカトマンズにも,よく似合う乗り物であった。
が,残念なことに,中国援助で1975年に導入されたトロリーバスは,適切な維持管理が出来ず,2009年に全廃されてしまった。




もともとカトマンズ盆地は,それほど広くないうえに,歴史的に貴重な文化財や街並みが多く残されており,人びとの移動手段としてはトロリーバスや路面電車の方が適していた。
ところが,盆地の古都・京都が,地形も文化も考慮せず,市街に張り巡らされていた路面電車を全廃してしまったように(私鉄・京福電鉄だけが短区間とはいえ健気に孤高の孤塁を守っている),ネパールもトロリーバスを廃止,道路を新設・拡張し,車社会へと驀進することになった。その結果,盆地はバイクや車であふれかえり,排気ガスがよどむと,氷雪の霊峰ヒマラヤは霞み,街の散策にはマスクさえ必要になってきた。
このような車社会化のカトマンズや京都と対照的なのが,欧州の古都。多くが,路面電車やトロリーバスを,必要な改良・改革は大胆に取り入れつつも,なお運行し続けている。その結果,無機質な「近現代的」車道の拡張・新設は抑制できるので,欧州の古都の多くは今なお伝統的雰囲気を保ち,より文化的にして人間的である。(参照:欧州/ウィーン)




カトマンズ,京都などの古都が,街の非人間化をもたらすバイクや車を規制し,路面電車・トロリーバスなど,より人間的にして文化的な乗り物の導入へと向かうことを願っている。
【参照】(2023/02/25追加)
「このままの形で維持していくことは非常に難しい…. そんな厳しい路線をJRから引き継ぎ、黒字化させた例がある。富山市の富山港線だ。地元主体でLRT化し、利用者数を1.5倍超にまで伸ばした。….改革を主導した森雅志・前富山市長に聞いた。」河合達郎「廃止に向かうローカル線を黒字転換」JBpress,2023.2.25
【参照2】(2023/02/27追加)
Sushila Budathoki, Why is the air in Bhaktapur so bad? Brick kilns, heavy highway traffic and prevailing winds make air quality the dirtiest in Kathmandu Valley, Nepali Times, February 24, 2023
【参照3】(2023/03/07追加) Trolleybus on the Kathmandu-Bhaktapur road
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(13): しがみつき乗車の懐かしさ
ポカラなど,遠くへは乗合バスで行った。これはこれで,また忘れがたい強烈な体験であった。
1985年春,ポカラ行き長距離バスは,スンダラのダルハラ塔横から,早朝に出ていた。チケットは前日にあらかじめ買い,当日は,かなり早めにバス乗場に行った。
ところが,乗場にはすでに多くの客が来ていて,バスが来ると一斉に駆け寄り,われ先にと乗り込み,あっという間に車内はギュウギュウ詰めの超満員となってしまった。あれあれ・・・・,と呆然となって眺めていると,あぶれた客が次々とバスの屋根に登り始めた。これを見て,私も「まぁ,仕方ない」と観念し,バスの屋根によじ登って,荷物止めパイプにしがみつき,ポカラに向かうことにした。
このような屋根に乗客を乗せたバスは,旅行ガイドで見て知っていたし,訪ネ後は実物を直に何台も見ていた。が,見るのと実際に乗るのとは大ちがい。走り出したとたん,いまにも振り落とされそうで恐ろしく,ふるえ上がってしまった。

これでは,とてもポカラまで持ちそうにない,と途中下車も覚悟したが,タンコットあたりから客が次々と下車していき,峠に差し掛かる前には,どうにか車内に入ることが出来た。
やれやれこれで一安心とホッとしたが,それもつかの間,つづら折りの険しい山道から谷底が見え始めると,そこには何台か車が落下し,ひっくり返ったままになっていた。あぁ~,車内に入れても安心というわけにはいかないなぁ・・・・と,また心配になってきた。
それでも,夕方前には何とか無事にポカラに着き,そこで一泊,翌朝,「ダンプス~ガンドルン」トレッキングに出かけることになった。

ポカラからダンプス登り口までは,乗合小型車の便が出ていた。早朝,ポカラの北外れの広場で待っていると,ジープがやってきた。すると,ここでも客が,どっとなだれ込み,すし詰め状態。が,このジープ,乗客の重さに耐えかねたのか,あっけなくパンク。仕方なく,エンジン故障修理したての別のジープに乗り換えたが,ここでも私は車内に入れず,今度は前ドア下のステップに足を置き,外から窓枠に手でしがみつき,出発することになった。
ダンプス登り口への道は川沿いのガタガタ,クネクネ悪路。谷底に振り落とされないよう必死でジープにしがみついていたが,橋のないところで川を横切るときは,ハネ水でびしょぬれになってしまった。こうして難行苦行,1時間ほどでダンプス登り口の小さな集落にたどり着いた。



このように,ネパールでの乗車体験は,四半世紀以上も前のことながら,いまでもよく覚えている。それだけ強烈な体験だったからだろう。
しかしながら,たしかに強烈ではあったが,全くの未体験というわけでもなかった。むしろ逆に,「あぁ,あれと同じようなことなんだなぁ」と,昔を懐かしく思い出しさえもした。
わが村近辺でも,1960年頃までは未舗装クネクネ・ガタガタ悪路が多く,超満員の客を乗せたバスがヨタヨタ走っていることも珍しくはなかった。ときには,車内に入りきれず,入口ドアを開けたまま,ステップに乗り,手すりにしがみついている客もいた。
また大阪でも,バスや列車に客がわれ先にと,なだれ込むのが常態だった。整列乗車など夢のまた夢。1980年ころ,イギリスに行き,どこでもバスや列車にきちんと整列乗車しているのを見て,「これが異文化なのだなぁ」と驚き,いたく感心したことを覚えている。
ネパールでの乗車口無秩序突進,屋根上乗車,車体しがみつき乗車――いずれも強烈な体験ではあったが,少なくとも私としては,西洋式整列乗車に覚えたような異質・異文化感はなく,むしろ逆に「あぁ,たしかにそんなことをしてきたなぁ」といった,懐かしさを覚えさせてくれるような体験であった。
【追補】(2023/02/12)
人間集団の行動様式は,文化であって不変のように思えるが,ときとして短期的に大きく変わることがあるのかもしれない。たとえば,ネパールの乗車マナー。
ネパール大震災(2015)の翌年,久しぶりにカトマンズに行き,バスで郊外と行き来して驚いた。乗車マナーが一変,老人,女性,身障者などの優先乗車・着席が行われており,日本よりもむしろ徹底していると思われるほどであった。
他の路線も同様か,また,その後も継続・徹底されているのかは,最近,訪ネしていないので分からない。もし乗車マナーが変化・定着しているのなら,文化的にも興味深い。
谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(12): オートテンポからサファテンポへ
ネパールのオートテンポには,その「好い加減さ」に加え,もう一つ,驚かされたことがある。騒音と排気ガスである。
オートテンポは,2~3人乗りタクシーも数人~十数人乗り小型バスもディーゼル・エンジン。混合燃料2サイクル・エンジンも見たような気がするが,未確認。いずれにせよ,これらのエンジンは,ともに騒音と排気ガスがひどい。バタバタ,モクモク・・・・。盆地だから,天候によっては,ひどい排気ガス汚染に悩まされることになる。


これに怒りオートテンポ禁止,電動「サファ(清浄)テンポ」の導入を訴え始めたのが,内外の環境保護派。車の電動化(EV化)はまだ試行段階,欧米でも先行きはほとんど見通せなかった。そこで,例の如く,彼らが目論んだのが,ネパールをEV化モデル国とし,世界にアピールすること。
正確な時系列は確認していないが,無排気ガスで清浄な電動サファテンポは,早くも1993年にはカトマンズで走り始め,数年後には政府の税優遇,電力料金割引など手厚い支援を受け,国内生産も始められた。1998年には110台ほどが運用される一方,オートテンポは翌1999年には禁止されることになった。
ところが,現実には,サファテンポは高コスト。電池はアメリカからの輸入で,2年と持たない。また,それに加え,坂の多いカトマンズではパワー不足。そのため政府の方針もぐらつき,オートテンポを,比較的低公害のガソリン車やLPG(プロパン)車に切り替えることになってしまった。
そのため,旧式オートテンポも最新サファテンポも,低コスト,高性能の日本車に取って代わられた。小型タクシーではマルチスズキ(インド製),小型・中型バスではトヨタ・ハイエースなど,盆地は日本車に瞬く間に席巻されてしまった。
ネパールのEV化は失敗,とその頃,私も見ていた。しかし,電話において,有線を飛び越え,一気に無線スマホ化することに成功したように,また街灯をソーラー蓄電池式LED灯に一気に転換したように,いまネパールは,捲土重来,小型タクシーから大型バスまで,再びEV化に向かって大きく前進し始めた。車においても,一足飛びの前進が,ネパールでーー日本ではなくーー起こるのではないだろうか。期待しつつ注目している。
ローテクの人間臭いオートテンポからハイテクの超先進的EVへーーいかにもネパールらしいアクロバティックな一足飛びの大飛躍。4半世紀前のセピア化した写真を眺めていると,ついそんな感慨に打たれることになる。



【参照1】ネパールEV史に詳しいのは:
・Sushila Maharjan,”Electric Vehicle Technology in Kathmandu, Nepal:Look at its Development,” 2002

【参照2】サファテンポの近年の状況については:
・Atul Bhattarai, When Kathmandu Was “Shangri-La for Electric Vehicles,” 2019
・Benjie de la Pena, Hello, Safa Tempo!, 2021
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(11): ちょっと遠出はオートテンポで
1980年代後半~90年代前半頃のカトマンズ滞在では,オートテンポ(オートリキシャ)とバスも印象深く記憶に残っている。(テンポ[テンプ]=3輪車)
オートテンポは,インド製のエンジン付小型3輪車。2,3人乗りタクシーとして使用され,街中を流していたり,盛り場で客待ちをしているのは,多くがこれであった。私も,少し遠出するときや荷物の多いとき,あるいは2,3人で移動するときは,たいていこのオートテンポを利用した。
オートテンポには何種類かあったのだろうが,私が乗ったのは,たいてい構造がきわめてシンプルな,人力3輪リキシャにエンジンと料金メーターをつけただけ,といった感じの車であった。
このオートテンポは料金メーター付だが,乗車前には,たいてい料金交渉をした。リキシャと同じ。ときにはメーターで行ってくれたが,そうした車の中には異常に速くメーターが上がるように思えるものがあり,ハラハラ,ドキドキ,心配で途中下車してしまったこともあった。


オートテンポは,よく故障もした。が,そこはよくしたもので,運転手は,たいてい故障個所を素早く見つけ,自分で手際よく修理し,何事もなかったかのように車を出した。
たしかに,車の構造は極めて簡単。そして修理も,そんなことでよいのかと心配になるほど,いいかげん。とにかく「いま動くようになれば,それでよい」といった感じの,その場しのぎの応急修理。
当初,そんな「いいかげんな場当たり主義」ではダメだ,と憤慨していたが,しばらくすると,「いいかげん」は「好い加減」であり,このやり方,ひいては生き方の方がよいのではないか,と思われるようになった。そして,私自身も,かつては同じようなことをしていたことを思い出した。
以前は,原動機付自転車には14歳から乗れたので,私も中学3年の頃から乗り始めた。オートテンポ以上に構造は簡単ちゃちだったので,よく故障したが,その都度,自分であれこれ工夫して直し,乗っていた。
悪ガキ仲間で秘境・丹後半島に出掛けたときも,山あり谷ありの未舗装悪路で幾度か故障したが,何とか直さねば遭難してしまうので,あれこれ工夫し,ともかくも走るようにして帰り着いたことがあった。
が,これは,思い起こして懐かしい,というだけの話ではなかった。高度成長が始まると,世を挙げて最大限あらゆることを細分化・専門分化し,効率を上げ,利潤を追求していくことになったが,これはとりもなおさず,人間を分解し,バラバラに解体することを意味した。ほんらい統合的総体としてあるはずの人間の分解であり,人間としての幸福の解体・喪失であった。
カトマンズでオートテンポをその都度自分でやりくり修理して走らせていた運転手は,原付自転車をあれこれ自分で工夫して直し乗り回していたかつての私自身と同種の,「好い加減」な生き方をしていたのだ。
このことに気づき,私はいたく感動,ネパール式の方が幸せになれるのではと思い,それへと方向転換しようとしてきたが,これは時流に逆らうことで難しく,今もって望み通りには実現していない。残念。

谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(10): 盆地内近距離は徒歩・自転車・リキシャで
カトマンズ盆地内の移動には,1980年代後半~90年代初めの頃は,近くはたいてい徒歩か自転車かリキシャ(人力3輪車),中距離はオート・テンポ[テンプ](エンジン駆動3輪車),そして遠くは乗合バスを利用していた。貧乏旅行のため,タクシーはほとんど利用せず。
当時,車やバイクはまだ少なく,環状道路(リングロード)内,あるいは時にはキルティプルであっても,徒歩や自転車の方が,道々,あれこれ見物できて楽しかった。

自転車は,その頃の常宿,ディリバザール入口の「ペンション・バサナ」で借りた。インド製(ヒーロー自転車?)なのか,いかにもゴツくて武骨,乗り心地は良くなかったが,徒歩よりはるかに速く,便利であった。
が,なぜか自転車は,農産物,雑貨などの物資運搬・行商用を除けば,日本ほど多くは見かけなかったと記憶している。自転車は先に行商用イメージが強くなってしまったので,中流・上流の人びとにとっては,特権的ステータス・シンボルとして所有したり利用したりする魅力がなくなってしまっていたからかもしれない。



人力3輪リキシャは,荷物があったり疲れたとき,利用した。当初は,乗る前の運賃交渉が面倒だったが,だいたいの相場が分かってくると,交渉それ自体が異文化体験であり,興味深く,楽しめた。
が,リキシャはなんせ人力,上り坂ではペダルがいかにも重そう。見るからに羽振りのよい―たいてい体格もよい―地元利用客のように「金は払った」と座席でふんぞり返っている勇気はなく,坂になると,降りて歩くか,ときには上まで押し上げるのを手伝ったりもした。典型的な小心者,日本人!


日本でも,地方では,自転車や人力2輪車・3輪車(リヤカー)での人や物資の移動・輸送・行商が,1960年頃までは,ごく普通に行われていた。私の村でも,たいていの家の人が,それらで未舗装の峠を越え数キロ先の町と行き来していた。行商,通学・通勤,そして遊興のため。
1980年代後半のネパールでは,首都カトマンズ盆地であっても,1世代前の日本の農山村に近い雰囲気が,まだ随所で体感できた。懐かしかった。
谷川昌幸(C)
たそがれ告げる頚椎症
頚椎症(けいついしょう)は,人生の黄昏(たそがれ)に最もふさわしい病気の一つだと,日々,身をもって実感させられている。
頚椎症(cervical spondylosis)とは,首(頸椎)の部分の骨が変形し,そこを通る神経を圧迫,これにより手足の痺れや肩こりなどがおこり,進行すると筋力低下,器官障害などで日常生活が困難になる病気。典型的な老化・老衰現象を引き起こす病気といってもよいだろう。

私の場合,この頚椎症の前兆と思われる異変は,昨年早々には現れていた。といっても,当初は,そんな病気とは全く疑ってみさえもしなかった。
すでに75歳をすぎ,光栄にも「後期高齢者」になっていたが,年齢の割に元気で,暑さ寒さもものとせず年中,毎日のようにテニスをやっていた。
ところが,昨年初めころ,それ以前は「軽すぎる」と感じていたラケットが重く感じられるようになった。あれ,変だなぁ,と思いはしたが,老化による自然な筋力低下だと考え,軽いラケットに買い替え,それを使ってテニスを続けていた。ところが,しばらくすると,その軽いラケットですら,重くて十分には使いこなせなくなってしまった。
そして,昨年の夏になると,明らかな異変が現れ始めた。右の腕が痺れ,力が入らず,肩は深部から異常に凝るようになった。元来,楽天家の私だが,さすがにこれは変だと思ったので,近くの整形外科で診てもらった。
私が症状を少し説明すると,医師は「あぁ,頚椎症だな」と即断した。それでも念のためにレントゲンを撮ってくれたので,それを見ると,たしかに首の頸椎部分が変形していた。立派な頚椎症なのだ!
が,頚椎症とわかっても,老化が原因なので,どうしようもない。用心しつつテニスを続けていたが,腕に力が入らず,肩からブラブラ垂れ下がっているような感じになってきたので,昨年11月,ついにテニスは断念した。残念無念!
そして今度は,足。この正月明け,駅から20分ほど歩いたときのこと,いつもと歩く感覚が微妙に異なることに気づいた。地面に足を着け自然に歩いている感じがしない。ふらつくわけではないが,どことなく足取りが頼りない。文字通り「地に足がつかない」感じ。
あぁ,そうか,「足が萎える」とは,このことか! こうして,徐々にヨロヨロ,ヨタヨタ,いずれ杖が必要になり,そして結局は歩けなくなるのだな。老化,老衰とは,そういうことなのだ!
頚椎症は,こうして私に,人生の黄昏の秋(とき)が来たことを,はっきりと告知してくれた。実に冷厳!
が,それでも他の深刻な病気やケガに比べるなら,頚椎症は,人にやさしい。一つ一つ,徐々に,身体能力を削減していくので,覚悟し,可能な限り天命を知り順応する努力ができる。
晩秋に木の葉が散りゆくのを見て,来るべき冬に備えるように!

谷川昌幸(C)
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